聖書のみことば
2013年9月
9月1日 9月8日 9月15日 9月22日 9月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 福音のために
9月第5主日礼拝 2013年9月29日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第8章34節〜9章1節

8章<34節>それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。<35節>自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。<36節>人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。<37節> 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。<38節>神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」9章<1節> また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 この前のところで、主イエスは弟子たちに、ご自身の苦難と死そして復活について教えられましたが、それを聞いたペトロは主をいさめ、そのペトロに対して、主イエスは「サタン、引き下がれ」と厳しく叱られたのでした。

 そして34節「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』と記されております。ここで敢えて「群衆を共に呼び寄せて」と言われております。弟子だけでなく、群衆をも主が招いてくださっているのです。それは、この御言葉を聴く私どもをも、「主に従うこと」へと招いてくださっているということです。

 そして、ただ「従う」ということではなく、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」と言われております。どういうことでしょうか。
 「自分を捨てる」ことを、自分を亡き者とすると考えるならば、人は自分に執着する者ですから、自分を捨てることは難しいことです。
 「自分への執着」と言いましたが、自己執着の裏返しは「自己否定、自暴自棄」であって、執着と否定は表裏一体のことです。人は自分に執着せざるを得ませんから、その自分を否定されたならば、それは自暴自棄ともなり、果ては自分を呪うということになるのです。ですからここで「自分を捨てる」ことが単に自己否定であると読むことは難しいことです。
主イエスが言われるのは、そういうことではありません。人はこの世に属する限り、この世にこだわりを持つのであり、従ってこの世の価値観に支配される、縛られる者である、そのような束縛から自由になれと、主は言っておられるのです。この世の束縛から解き放たれて生きよと言われる。けれども、そんなことができるのでしょうか。それは、根本が変わらなければできないことです。

 根本は、私どもが「どこに属しているか」ということです。この世に属する限りは、この世に属する者として自分に執着せざるを得ません。そうではなくて「神に属する者となる」、そこでこの世の束縛から解き放たれるのです。この世・人の世から、神の世への転換ということです。このことが無ければ、人は自分への執着から解き放たれることはできません。
私どもキリスト者であっても、「我らの国籍は天にある」と言いつつも、この世に生きる限り、この世の束縛の中に生きる者です。そこで「自分を捨てよ」ということは、自分はどうでも良いと考えることなのではありません。自らの所属をはっきりさせるということです。「神に属する者となる」ということが、この世からも、自分自身からも自由になることなのです。

 「この世」の意味するところは何でしょうか。それは「被造物、造られたもの」ということです。つまり「有限性のあるもの」ということです。先が限られている、だから束縛を受けるのです。人は限りある者として生きなければなりません。この世も同じです。「限られた」という不自由の中にいれば、不自由に生きざるを得ないのです。「限定された自己」という前提があって自己執着がある。「天に、神に属する者」であって初めて、「無限の自分」を思うことができる。ですから、「神に属する者」となって、有限性から解き放たれる以外ないのです。
 「神に属する者となる」ということは、「神に依り頼む者となる」以外にありません。神にまったく依り頼むこと、それが「神に属する」ということです。

 次に、「自分の十字架を背負う」とは、どういうことでしょうか。「背負う」とは、ここでは「担う」ということではありません。共観福音書では、ルカによる福音書だけが「担う」と言っております。マルコでは「主イエスが十字架を背負われたように、背負う」という意味です。「担う」というのであれば、自分に与えられた課題を担えと言われていることになりますが、ここではそうではないのです。実際に十字架を背負うということは、犯罪人として処罰を受けることです。つまり、そのように「十字架に付けられる覚悟を持ちなさい」ということなのです。
 「主に従う」というとき、一つは「自分を捨てて、自らの捕われから解き放たれて従いなさい」と言われ、もう一つは「自分の十字架を背負って、死を覚悟して、つまり殉教を覚悟して従いなさい」と言われております。このことは、私どもにはあまりピンと来ないことですが、しかし、初代教会にとって、主イエス・キリストを信じる信仰とは、迫害に遭って殉教することも覚悟しての信仰でした。使徒パウロも迫害の中で投獄されながらも主の福音を宣べ伝えましたし、ペトロも最後は主に倣う者として逆さ磔の死を選んだと伝えられております。常に死を前にした者として主に従えと言われる。「主に従う」とは、それほどに重い出来事であるということです。

 死をも恐れないということが、どうしてあり得るのでしょうか。このことを知るためには「生命(いのち)とは、いかなることか」を知る以外に答えは見出せません。つまり、「生命の源である神に委ねる」だから「死をも恐れない」ということが起こるのです。
 神に属さない者としての地上の生命は有限であり、やがて尽き、滅びます。それゆえに、35節に主イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と言われました。どういうことでしょうか。地上の命は有限ですから、その命が終われば一切の交わりを失います。「交わりに生きる」こと、それが「生」なのであり、交わりを失うこと、それが「死」です。哲学者は言いました、「死に至る病」とは何か。それは「孤独」ということです。エゼキエル書37 章で、神はイスラエルを「枯れた骨」と言われました。神との交わりを失った民は「生ける屍」と言われるのです。
 この世に生きるということは、滅びゆく命に執着するということです。死によって、地上での交わりには必ず別れがやってきます。「命満ちる」ということは、豊かな交わりを持っているということですから、この世に属する限りは死によって交わりを失うわけで、決して満たされることはないのです。主イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」と言われました。つまり、地上の命を確保しようとすれば、それは失われると、主は言われるのです。

 「主に、神に従う者」は、「神との永遠の交わりに与る者」です。今日は逝去者記念式をいたしますが、そこで私どもがすることは何でしょうか。この地上を生き、死んだ方々が、今、天において神との永遠の交わりの中にあることを覚えるということです。満ち満ちた神との交わりにあることを覚えるのです。あの人はこんな人だったと、在りし日のことを偲ぶということだけではない。在りし日、そうであったあの人は、今、天において神との交わりに満たされているのだということを覚える、それが逝去者記念式においてなされることです。
 「自分の十字架を背負って、死を覚悟して」と言われることは、この世の有限な生に執着することばかりを思わず、神との永遠の命、神にある生に心を向けよということであると思います。

 終末の出来事を、聖書は「完成のとき」と語ります。それは「完全な命となる」ということです。地上の命は、完全ではありません。年を取れば取る程に、どんどんと失われていきます。自分自身は衰え、周囲で生きていた人々も死んでいくのです。そのような老いの現実の中で、人は苦しみます。完成などとは到底思えないのです。
 けれども、「主に従う者、キリストにある者」の生は、そうではありません。満たされた生なのです。だからこそ、地上の生に執着する必要はないということです。「神に依り頼み、神との交わりに生きることこそが、満たされた生、それこそが救いである」と、主はここで言ってくださっているのです。
 主に従って迫害を受け命を失っても、その者は主にある者として完成を見ると言われております。

 けれどもそれだけではなく、「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と続きます。「福音のために」と、マルコによる福音書は語ります。「主に従う」ことによる迫害があるだけではなく、「福音のために」つまり「福音宣教のために」迫害を受け命を失う者も救われると、主は言ってくださっております。
 「福音宣教」は、主イエスご自身がなされた業です。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、主は人々に教えられました。主イエスご自身の業を、主イエスから委託された業、福音宣教の業として、私ども教会は為しているのです。主の業を私どもが為す、そこで、主が働いておられます。私どもの福音宣教の業、伝道の業は、主が聖霊として臨み導いてくださることにより為すことが赦されている業であることを覚えたいと思います。
 福音宣教の業をなす者は、主にある者として、神との永遠の交わりに生きる、永遠の命の恵みに与ると言われております。 マルコによる福音書は、「福音宣教は、いのちの業」であるということを示していることを覚えたいと思います。「いのちの業」とは、神の御業に連なる業なのです。神に連なる業こそが何をおいても大切であることが示されているのです。

 36節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われます。「全世界を手に入れても」とは、どういうことでしょうか。それは、今の関心事で言えば、金メダルを獲ることです。自らの道を究めるということです。金メダルを獲ること、そこには感銘や名誉はありますが、しかしそれは、天に通じる道ではありません。地上を超えたものでない限り、地上で究めたこともやはり、死と共に滅びる、失われるに過ぎません。地上を生きる限り、もちろん、道を究めることがあっても良い。あるいは逆に挫折ということもある。しかし、それらのことを超えて、主を信じ神に依り頼む者は、地上で道を究めた者でも手に入れられなかった「勝利」を得ることができるのです。
 神にある生とは、この世を超えた「死に対する勝利」です。たとえ地上でメダルを獲ったとしても、死をもって終わるならば、それは敗北となるのです。けれども、地上で挫折の生を生きたとしても、主にある者は、天において主と共に甦る、死に対する勝利が約束されているのです。それがキリスト者です。道を究めた者が勝者なのではありません。神に至ることこそが、完全な、究極の勝利である、と言われております。

 ですから、神との交わりがないがしろにされるならば、その生は虚しいものなのだということを覚えたいと思います。

 信仰ある生は、命の充実です。けれども覚えたいことがあります。人生を愉しむことは生の充実でしょう。しかし、人生をはかなむことも良いのです。はかなみつつ、悲しみつつ生きても良い。はかなんでいることに捕われなければ良いのです。はかなむ悲しみで終わらない。その先があることによって満たされる生、それが聖書の語ることです。人生を愉しもうと、はかなもうと、主にある生であるならば、その人の命は満たされた命であることを覚えたいと思います。

 そして、そのような「満たされた生」とは、「主イエス・キリストの血潮によって、十字架の贖いがあって初めて与えられる生、救いである」ことを覚えたいと思います。「命の源である神との交わりに生きる」者であること、それは自力によってなることではありません。ご自身の血潮によって罪を贖い、神との和解を成し遂げ、私どもに救いを与えてくださった主イエス・キリストを信じる信仰によるのです。

 その主をくださった神に、まったく依りすがるよりありません。神に委ねる、依りすがる、そこでこそ「神に属する者とされる」ことを、「命の源である神との交わりに生きる者とされる」ことを覚えたいと思います。

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