聖書のみことば
2013年9月
9月1日 9月8日 9月15日 9月22日 9月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 神のことを思う
9月第1主日礼拝 2013年9月1日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第8章31~38節

8章<31節>それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。<32節>しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。<33節>イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」<34節>それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。<35節>自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。<36節>人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。<37節>自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。<38節>神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 27節から、主イエスは弟子たちに、人々がご自分のことを何と言っているかと問われました。弟子たちは「ヨハネ、エリヤ、預言者」と答え、そこで更に主は「では、あなたたちはどう思うか」と問い、弟子たちを代表してペトロが「あなたはメシアです」と答えたのでした。主イエスは、問うことをもって、弟子たちを「メシア告白」へと導かれました。
 その「メシア告白」を受けて、31節に「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」と、主が弟子たちに「教え始められた」ことが記されております。

 このことは面白いと思います。主は問い、弟子たちはメシア告白へと導かれたのですから、私どもの感覚では、答えが正解であれば、それで終わりです。けれどもここで、主イエスは、正しい答え「メシア告白」がなされた上で「教え始められる」のです。正解である「メシア告白」が目標到達点なのではなく、そこから主の教えが始まっているのです。
 それは、「メシア」と言った場合に、そのメシアが「いかなるメシアか」ということが説き明かされなければ、真実のメシアを知り得ないからです。
 このことは、私どもの信仰にとっても同じことです。私どもも「主イエスをメシアと信じる」と告白して洗礼を受けますが、では「メシアとはいかなる方か」を十分に理解し問われたら答えられるのかと言えば、そうではありません。内容を理解して告白するのではない。十分理解しているから、主の弟子なのではないのです。しかしそうであっても、主の弟子としての恵み、救いの約束が与えられ、そして告白へと導いてくださった主イエスの方から「教えて」くださるのですから、感謝の他ありません。

 ここで「主イエスご自身」が弟子たちに教えてくださっていることを覚えたいと思います。主イエスは「生ける御言葉そのものなる方」です。ですから、私どももまた、この礼拝において、祈りにおいて、教会の交わりにおいて、生ける神の子主イエスの御言葉に与っているのです。御言葉を中心とした交わりの中で、私どもは「救い主なる主イエスとは、いかなるメシアであられるのか」ということを教えられているのです。
 私どもは教えられなければなりません。メシア告白を与えられるだけでは駄目なのです。日々の祈りを、礼拝を、主にある交わりを与えられていることを感謝したいと思います。
 ここで弟子たちは、現実には、主イエスを政治的なメシアだと思っておりました。ゆえに、教えられる必要があったのです。

 31節に、メシアは「苦しみを受け、排斥され、殺され、復活する」とあります。このようなメシア像を、教会以外で教えることはありません。「苦難、十字架、復活」は人の理解によって知り得るものではなく、教会で御言葉によって教えられること以外に獲得できない理解です。

 またここで注目すべき言葉があります。それは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け…」と、主がご自身を「人の子」と言っておられることです。弟子たちは主イエスを「メシア」と告白したのに、主はご自身を「メシア」と言わずに「人の子」と言い表しておられる、これはとても象徴的なことです。
 主イエスは、ご自身を「神の子」と言い表されました。「人の子」とは、通常、人を表します。ですからここで、主イエスは、ご自身がメシア(神の子)であることを前提として、敢えてご自身を「人の子」と言われるのです。ここに、新しい「メシア理解」が示されております。主イエスはご自身を「神の子メシアである前提で、人である」と言っておられるのです。ご自身を「人」として言い表しておられる、それは、神の子でありながら「人となった」という主の自己理解です。「人となった者としてメシアである」ということです。
 本来、「人の子」という言葉はメシアに使われる言葉ではありませんから、ここで主が敢えて「人の子」と言われるのは、「メシア(神の子)でありながら、人の子とまでなった者」という自己理解であり、ここで「人の子」は、新しいメシア称号として用いられていることを覚えたいと思います。

 主イエスは。弟子たちが主イエスを政治的なメシアと誤解しないように、ご自身を「人の子」と言い表し、教えてくださいます。「人とまでなってくださった救い主」として、「必ず多くの苦しみを受け、ユダヤの指導者たちから排斥され殺される」と示されます。まさしく、人の理解を超えたメシアであることを示しておられるのです。単に政治的なメシアなのではなく、もっと根本的な救い、全世界を、すべての人を救うメシアであることが示されているのです。

 このことは、神の秘儀、秘め事ですから、人の理解で知り得るものではありません。ただ「聖霊によって」知るのです。神の奥義に属する内容です。「メシアの『人の子』称号と、十字架と復活」は、まさしく神と人との一体化の出来事であることを覚えたいと思います。「神が人となる」、これは神の秘儀です。この神の秘儀によって救われるということは、私どもは、その神の神秘の中で、神にある敬虔の中で救われているということを覚えたいと思います。私どもの敬虔さということではありません。敬虔さは神の中にこそある、その神の敬虔の中に、私どもは置かれているのです。

 ここに「苦難、排斥、十字架の死、復活」と語られるとき、それは「必ず」と言われております。「必然」を意味しているのです。「必然」とは何でしょうか。たまたま苦難を受けた、たまたま排斥され、たまたま十字架で死んだ…ということではないのです。「必然」とは、そこに「意図」があることです。「神のご意思」に基づいて起こる「苦難、排斥、十字架の死、復活」であるということです。
 私どもが「信仰に生きる」ということは、神のご意思の内に生きることです。たまたま生きているということではない。「神の救いのご計画のうちに生きる」、それが「信仰に生きる」ということです。
 例えば、神無しの宗教というのは、必然を認めませんから、そこに何の意思も無く何に対しても意味がなく、たまたまそこに生き塵に返ると考えますが、キリスト教信仰は、長い歴史の中で、偶然も必然であるという信仰に立つようになりました。どうしてでしょうか。一つには、偶然は必然を内に秘めているということがあります。偶然を装って起こったことが必然になることがあるのです。またもう一つには、ビッグバーンなどの進化論では、人は自分の存在を説明できないということです。ですから説明のつかない偶然を重ねる他なく、偶然も重なれば必然となるのです。

 けれどもここで、主イエスは「必ず」と言われます。それは、神の意思に基づいていること、「神の意思に基づく苦難・十字架・復活」であるということです。それが「十字架における人の罪の贖い、復活によって与えられる永遠の命の約束」であり、神が「救うというご意思」を持ってくださったゆえの「私どもの救い」なのです。私どもの救いは、神のご意思のもとにあることを感謝したいと思います。

 主イエスの苦難、神の意思に基づく多くの苦しみとは、何を意味するのでしょうか。なぜ苦難があり、主が負わなければならないのか。それは、この世が神を神とせず、自分を神とするからです。人々が神のご意思を受け入れない、ゆえに、主イエスは苦しまざるを得ないのです。「受け入れられない」という苦しみを、主は受けておられます。無理解という人の罪のゆえの苦しみなのです。
 それはしかし同時に、主イエスがこの世の苦しむ者たちと一つの者となってくださったということでもあります。苦しむ者と一体となって、その苦しみを受け止めてくださるのです。
 人の苦しみのただ中に主イエスは立ち、受け止め、慰め、その苦しみの淵から神へと至らせてくださいます。

 続けて、この世の権威が主イエスを排斥することが言われております。人は、権威あるところには服さなければなりません。神の権威に、人は服さなければならないのです。この世の権威者たる長老、祭司長、律法学者たちは、神の権威を前にして、人を公平に正しく扱ったかどうかが問われます。けれども、この世の権威は人を公正・公平に扱うことはできません。それは神の権威に背くことです。
 正しい振りをしても偽善に過ぎない、そのような人の深い罪のために、主は十字架におかかりになりました。人の罪の裁きが、主イエスになされたのです。十字架によって、主が人の罪を裁かれてくださったことにより、私どもは救われました。この神の奥義は、聖霊を伴って教えられなければ理解できることではありません。

 そして、十字架に死に、主は3日目に復活されました。主の復活によって、神との完全な和解がなされて、永遠の命への道が開かれました。 十字架と復活の出来事こそが、神のご計画として、神のご意思に基づいて、主イエスがなしてくださった救いの出来事です。

 「主イエスこそメシアである」ということは、主イエスが、私どもの苦しみを負い、罪を贖い、罪を終わりとしてくださり、神との尽きない交わり「永遠の命」を与えてくださったということです。このことを、主は御言葉によって弟子たちに、私どもに教えてくださっているのです。

 私どもが洗礼を受けることは、救いの保証が与えられているということです。そして、罪の贖い、永遠の命の約束を思い起こすときとして、礼拝において「聖餐に与る」のです。

主イエスが「弟子たちに教え始められた」ということは、この時点からはっきりと、十字架と復活の恵みが示されるということです。そして、この救いの恵みは、主イエスの御言葉によって、今を生きる私どもにも示されていることを感謝をもって覚えたいと思います。
 今日は予定していた箇所までお話しすることはできませんでしたので、次回にと思います。

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