聖書のみことば
2013年9月
9月1日 9月8日 9月15日 9月22日 9月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 不安に立ち向かう
9月第4主日礼拝 2013年9月22日 
 
小友 聡牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第4章35~41節

4章<35節>その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。<36節>そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。<37節>激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。<38節>しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。<39節>イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。<40節>イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」<41節>弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 今日のこの出来事は、主イエスがガリラヤで神の国の福音を宣べ伝える活動を始められた直後に起こっております。

 主はガリラヤ湖畔で多くの人々に教えられ、夕方になって「『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われ」(35節)ました。主イエスを乗せて舟は向こう岸に向かう、そこで突風が起こり、舟は水浸しになる。そのとき、主イエスはどうしていたかと言いますと「艫の方で枕をして眠っておられ」(38節)ました。弟子たちは恐怖で叫びます。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38節)と言うのです。主イエスは起き上がり、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」(39節)ました。すると、風はやみ、凪ぎになるのです。主は弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(40節)と言われますが、弟子たちはこの経験によって、ただただ恐れおののきます(41節)。

 主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われたので、弟子たちは従いました。舟は「主イエスが乗っていても」突風によって揺れるのです。そして、弟子たちの不安な気持ちは恐怖に変わります。

 「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言葉は、今の私どもの姿を映し出しているのではないでしょうか。ここで、弟子たちの姿が示しているのは「不安」という状態です。「不安」は、今の私どもに共通した思いであると思います。不安を感じない人はいない、クリスチャンであっても、信仰があっても不安を感じているのです。今の現実を象徴することは「不安は消え去らない」ということです。
 今が抱える不安を分析しますと、3.11東日本大震災の影響が尾を引いています。あの日、大津波が町を人々を飲み込みました。大規模な自然災害が、前触れなく私どもの前にやってくることが明らかにされました。生と死は表裏一体と誰もが感じました。加えて、原発の問題によって、放射能汚染の恐怖を拭い去ることはできません。このような現実から、私どもは逃れようがないのです。
 また、これから先に起こる大地震への不安、安倍政権による財政不安、若年失業率の増加や消費税増税、不穏なナショナリズムへの不安…現在の日本の状況を「社会の液状化現象」と評論家は言います。確かだと思っていたことが根底から崩れ去り、そこから何が吹き出すか分からない、それが今の不安なのです。

 では、私どもは、不安を抱えたまま、どう生きたらよいのでしょうか。聖書は私どもに何を教えてくれるのでしょうか。
まず心に留めておくべきことは、「主イエスが乗ってくださる舟も大きく揺れる」ということです。弟子たちは主イエスに従って舟を漕ぎ出しました。主イエスが乗っているから、何事もなく向こう岸に渡れるのかというと、そうではありませんでした。「不安はなくなることはない」ということです。不安を消し去る特効薬はないのです。ですから、私どもは、自分の不安と向き合わなければなりません。

 最も大事なことは、不安と恐怖で叫ぶ弟子たちの傍らに「主イエスがおられる」ということです.風を静められる主イエスがおられるということです。主は突風を静めて、弟子たちを向こう岸へと導いてくださるのです。

 このメッセージの意味を語る、もう一つの聖書の箇所を見てみましょう。それはヨハネによる福音書16章33節です。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と主イエスは言われました。「あなたがたには世で苦難がある」と言うのです。この「苦難」は、ルター訳聖書では「不安」となっています。つまりドイツ語では「不安」と書かれているのであり、ギリシャ語においても「不安」と訳せる言葉です。
 「あなたがたには世で苦難がある」、はっきりと、主イエスは「この世に生きる限り不安がある」と言われました。この世で不安は無くならないのです。主イエスは、私どもが「いつも不安の中にある」ことを知っておられるのです。
 けれども、主イエスは「勇気を出しなさい」と言ってくださいます。「わたしは既に世に勝っている」と言われる。この世を生きる限り、不安は無くならないのです。問題は、不安を無くすことではありません。抱えている不安とどう向き合い、克服していくかということなのです。

 聖書の言葉は、不安から逃げることを教えておりません。「不安を引き受けて、主イエスを信頼して、勇気を出して、前向きに生きる」ことを教えているのです。

 主イエスは、私どもの不安をつぶさにご存知です。そして「わたしが共にいるではないか」と言ってくださるのです。不安と同居しながら、不安に立ち向かっていく。主イエスが共におられるがゆえに、「わたしは既に世に勝っている」との主の御声を聞きながら、前に向かって歩んで行く。それがキリスト者の生き方であり、不安に向き合って生きる者への聖書のメッセージなのです。

 信仰の父アブラハムは、このことの範を示しました。アブラハムは75歳のとき、神の命令に従って、信仰の旅へと出て行きます。それは不安への旅立ちでした。どこへ行くのか、いつまで旅するのか、不安に満たされていました。しかしそのような不安の中で、神と向き合い、神を信じ続けることを学びました。そして、神の約束通り、約束の地に辿り着きます。

 不安に向かって旅立つ、それはまさしく、私どもの信仰生活を表しています。キリスト者として、私どもも「不安に立ち向かって歩む者でありたい」と思うのです。

 教会は、主が乗っていてくださる舟です。さまざまに揺れ動く私どもと共に、主イエスがいてくださる、その主を信じて歩みたいと思います。

 主イエスは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。この主の御声に励まされながら歩んでいきたいと願います。

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