聖書のみことば
2013年7月
  7月7日 7月14日 7月21日 7月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 しるしを求める人々
7月第4主日礼拝 2013年7月28日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第8章11~21節

8章<11節>ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。<12節>イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」<13節>
そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。<14節>弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。<15節>そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。<16節>弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。<17節>イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。<18節>目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。<19節>わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。<20節>「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、<21節>イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

 11節「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」と記されております。
 ここで聴くべきことは何でしょうか。ファリサイ派の人々が、主イエスを「試そうとした」ということです。この「試す」という言葉は、主イエスが荒野で誘惑を受けられた(マタイによる福音書4章1〜11節)ときの「誘惑」と同じですので、ファリサイ派の人々が「サタンの手先として主イエスを試みている」ということになるのです。

 けれどもここで、ファリサイ派の人々は大変傲慢です。主イエスはメシア(救い主)ですから、神なる方を試すこと自体が傲慢ですが、本来、「試す」のは神であって、人が神を試すものではありません。
 「神が人を試される」、それは、人が神に信頼し従う者であるかどうかを試されるのです。人は人生の様々な場面で、当初には出来たとしても、一つの思いを継続することはなかなかできません。ですから、この「試み、誘惑」というのは、私どもにとって日常的なことなのです。そこで知るべきことは何でしょうか。それは、私どもは「神に信頼しきれない、従い得ない者である」ということです。

 主イエスが荒野で誘惑を受けられたこと、それは私どもの日常そのものが語られている出来事として大切なことです。パンの誘惑、そして御言葉への信頼を試されること、これらに対して、主イエスは「あなたの神である主を試してはならない」と言われ、またこの世の栄華への誘惑をも退けられました。このように、主イエスはこの世の一切の誘惑を退けておられますが、しかし、私どもはこの世の誘惑に負ける者です。自分の力では、この世の誘惑を退けることはできません。だからこそ、力ある主、神にすがるよりないのです。一切の誘惑を退けられた主イエス・キリストにおすがりし、私どもを誘惑から退けさせていただくよりありません。ですから、主の祈りにおいて「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。

 けれどもここで、「すがる」というとき、自分で頑張ってすがって、そして何とか誘惑に勝つということでもありません。「誘惑に勝利されるのは神のみ」であることを知らなければなりません。私どもが勝利するのではない。私どもは、自分の弱さ、惨めさの中で、「神にすがるよりない」ところで神によって勝利を見るのです。ですから、信仰の原点は、自分の弱さ、惨めさを知るゆえに、神の恵みの絶大さを知るということです。
 神に従いきれない、誘惑を退けられない弱い者、不信仰であるがゆえに、私どもには「主の十字架の贖い」が必要です。人が自力で誘惑に勝つのであれば、十字架は必要ないでしょう。私どもに対する神の試みとは、神が敢えて私どもを試みるということではなく、この世のさまざまな誘惑を通して、従いきれない私どもの弱さ、不信仰が示されるということです。

 ここで、ファリサイ派の人々が主イエスを試せると思っていることは傲慢なことです。自分が主体となって、主イエスを判断できると思っているのです。「知らない」ということが愚かなのではありません。「知っているつもり」でいること、それが人の愚かさです。知らなければ聞くことができますが、ファリサイ派の人々は聖書に精通していますから、知っているつもりなのでしょう。また、知らなければ知らないで、開き直るという傲慢もあります。私どもにとって大切なことは、知らないことに「謙虚に聞く」ということです。自分は知り得ない者であるという謙虚な姿勢で聞くならば、そこで語られることが心の内に届いて来るのです。

 試すということの自体の愚かさを、ファリサイ派の人々は知りません。信仰者は試す者ではなく、試される者なのです。けれどもそこで、間違ってはなりません。信仰者にとって、試みに勝利するということが第一なのではありません。信仰者にとっては、神の慈しみが第一なのです。神の慈しみをいただいている、神の慈しみに守られている、ゆえに、誘惑から守られているのだということを知らなければなりません。どれだけ多くの慈しみをいただいているかを知ること、それが恵みなのです。
 ですから、他者を試すことではない。そうではなくて、神より慈しみをいただいている者として、他者を愛おしみ、慈しむこと、それが信仰者にとって第一のことです。

 主イエスは荒野の誘惑を退けられた方ですから、サタンの手先として主を試そうとするファリサイ派の人々の試みを退けられました。
 ファリサイ派の試みとは「天からのしるしを求める」ということでした。ここでの「しるし」とは、「主イエスが神の力を宿す方であることの見える形の保証」です。「しるし」として、主イエスが神の力を宿す方としてなされる業を示すことがありますが、ここでは、「主イエスが神の力を宿す方であるという、神からの保証」という意味です。
 今の社会は、何でも保証を求めますが、それは裏返せばつまり、すべてを疑う社会だということです。こういう社会では証明書が力を持つのです。ここでファリサイ派の人々は、神からの保証、証明を出せと言っております。何と愚かなことでしょう。神からのしるしを、人が判断できると思っている愚かさなのです。それは自らを弁えない、自分がいかなる者かを知らない愚かさ、傲慢さです。

 そして、主イエスに「議論」をしかけますが、主は彼らと議論なさいません。ここで、ファリサイ派の人々の議論とは何でしょうか。それは、自らを正当化する思惑による議論です。自分を絶対化し、相手を受け入れることを前提としていない議論です。ですから、議論しても嚙み合う筈がありません。決して相手を受け入れないのですから、それは相手のことを思っての議論ではなく、自分の益のための議論なのです。
 人は、このような議論をついついしてしまいますが、元々「議論」には定義があります。それは、「ひょっとしたら自分が間違っているかもしれない」という前提に立ち、相手の主張が正しければ「自らの考えを変える」ということです。ですから、本来の議論は、双方が自分の足りなさを知り、新たな認識や方向性を持つことなのです。
 けれども、人は、相手に変われと言うことはできても、自分を変えることはなかなかできません。ですから、そのような議論の結果、現実的な対応として、お互いの違いを知り、妥協するということになるのです。変われない、だから妥協するよりない、それは政治です。信仰は変革です。本当の意味での変革は、信仰にしかないのです。

 このように、人は自力で自分を変えることはできないことを知らなければなりません。ファリサイ派の人々は、議論によって自分を変えようという意図を持っていないのですから、主イエスはその真意を知って、12節「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と言われました。
 ファリサイ派の人々の試みに対する主イエスのこの答えは何でしょうか。この言葉は「宣言」です。「あなたがたには、しるしは与えない」という宣言なのです。そして主は立ち去られました。
 議論によっては、人に救いはありません。議論では、人は神へと至らないのです。神に至らず、妥協し、どこかで自分を保ってやっていくしかないのです。
 主イエスが宣言してくださる、それは、主が力ある方であることが示されることです。

 人にとって必要なことは議論ではなく、つまづきです。人はつまづく者です。しかし、人はつまづいて、砕かれて、そして神にすがる者となるのです。つまづき、自らが砕かれて初めて、神の慈しみを知ることができます。ですから、人にとって、つまづきは必要なことです。つまづいて、すがるところで、神の恵みが絶大であることを知るのです。

 12節に、「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた」と記されております。主は人の愚かさを痛んでくださって、そして宣言をくださる。ファリサイ派の人々のことを、それ程までに主は思っていてくださるのです。主イエスを、神なる方を試みるほどに愚かな者を、救い難い者を、主は憐れみ、痛んでくださっております。
 主に従いきれない、そんな私どものために、主が心を深く痛めてくださる。そこにこそ救いがあります。だからこそ、主は十字架に死に、私どもの罪の贖いとなってくださったのだということを覚えたいと思います。

 「今の時代の者たちには」と言われます。まさしくファリサイ派の人々は、その時代を担った人々でしたが、その者たちに救いはありません。彼らには「しるしを与えない」と、主は言われました。
 けれども、「しるし」が与えられなかったわけではありません。この8章の1 〜10節では、4,000人に食べ物を与え、また6章では5,000人に食べ物を与えるという「しるし」があったのです。けれども、人々はそのしるしを正しく受け入れませんでした。これほどのしるしがあるのに、受け入れなかったのです。ですから、この後、どんなしるしが与えられたとしても、人々が受け入れることはありません。どんなしるしも受け入れない、ゆえに、主は「決してしるしは与えられない」と言われます。それは、しるしが与えられても意味がないということです。

 こう宣言なさって、主イエスはどうされたでしょうか。13節に「彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた」と記されております。これは面白いことです。「そのままにして」とは、そのままに放置して、その状態に捨て置かれたということです。傲慢な人々を、そのままにして立ち去られたということです。神のしるしをしるしとしない人々ですから、彼らは救いから取り残されている状態であることが示されております。

 捨て置かれる人々、彼らに神は必要ありません。神ではなく、自分が第一なのです。そしてそれは、滅びであることを知らなければなりません。
 主は彼らに対して「しるし」をお与えになりませんでした。それは、無駄だからです。そして「しるし」をお与えにならないことによって、ご自身を、奇跡を行う者という人々の勝手な認識から守り、全き一人の人間として、ご自身をお示しになりました。
 主イエスは神の子であり、どのような「しるし」もお与えになることが出来る方ですが、しかし、人々が求めるようなしるしを行われることはありません。

 主イエスは「全き人にして、全き神」ゆえに「人智を超える方」であることを、しるしを行わず一人の人間として立ち去られることを通して、示しておられるのです。

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