聖書のみことば
2013年7月
  7月7日 7月14日 7月21日 7月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 感謝の祈り
7月第3主日礼拝 2013年7月21日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者) 
聖書/マルコによる福音書 第8章1~10節

8章<1節>そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。<2節>「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。<3節>空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」<4節>弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」<5節>イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。<6節>そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。<7節>また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。<8節>人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。<9節>およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。<10節>それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。

 今日の箇所は、主イエスが4,000人に食べ物を与えられた話です。既に6章30〜44節で5,000人に食べ物を与えられたことが記されておりますので、再びここで、この話をすることは難しいことでもあります。また、こんなことが本当にあったのかという学問的な問いもあるのです。
 けれども、ここに6章とは違うものとして記されているのですから、私どもはここに記されている独自性に聴かなければなりません。

 ここでは、時間や場所は特定されておりません。そこで人は色々と知恵をもって先走りして考え、6章はユダヤ人に向けて、8章は異邦人であるギリシャ人に向けて書かれたのだという解釈があるのです。対比してみますと、6章ではパンは5つで残ったパン屑の籠は12個、8章ではパンは7つで籠は7個です。この解釈によれば、6章のパン5つは「モーセ五書(旧約聖書)」であり、8章のパン7つは「70人訳ギリシャ語聖書(異邦人のために翻訳された聖書)」です。12つの籠は言うまでもなくイスラエル12部族であり、7つの籠は、新約に入り初代教会の職制(使徒の他に7人の執事が置かれた)を表すとしています。それゆえに、この8章は異邦人キリスト者に対するメッセージと捕らえるのですが、しかし、そのように特定できるわけではありません。私としては、この節を退けるわけではありませんが、それがここに聴くべき中心のメッセージと取らない方が良いと考えます。

 1節「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた」と記されております。ここでの設定は「群衆には何も食べる物がなかった」ということです。それは、人々の「飢え乾き、困窮、欠乏」を表しているのです。では、その困窮とは何かということですが、ここで6章と大きく違っていることは何かと言いますと、群衆の飢え乾きに対して、6章では主イエスは受け身で弟子たちの方から働きかけていますが、8章では主イエスの方から働きかけておられるということです。

 2節に、主イエスが「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」と言ってくださいます。ここでは主イエスが主導権を持っておられて、群衆に対する心遣いをなしていてくださるのです。群衆の思いを先取って酌み、自ら行動してくださるのです。「三日」とは、欠乏の著しさを強調する言葉です。
 ここで「かわいそうだ」と、主イエスが言ってくださることは有り難いことです。今の社会では、人が他者に対して「かわいそう」と言えば、上から目線の物言いだと非難されますが、しかし、主イエスは上から目線でそう言われるのではありません。主イエスは神の子として、神なる方です。罪なる人を憐れに思い、上なる方であるのに自ら低くなって下り、人と同じ者となってくださいました。
 罪なる私どもは、他者と自分を比べて、同等か下であっても、何とか上になろうとします。決して自分から低くなることはできません。
 けれども、本当に力ある方は、低くなれる方、仕える者になれる方です。主イエスは上から目線で群衆を憐れまれたのではなく、真実に上なる方として群衆の飢え乾きを憐れに思ってくださったのです。

 他者と同じ思いに立つということは、とても辛いことです。人が人の重荷を担うことは辛いことです。相手の重荷を知れば知るほどに、それは重く、担いきれずに共倒れてしまうのです。人は他者の重荷、痛みを担えません。担おうとすれば、自らが病んでしまうのです。同じ者でしかないのに担い合おうとすることは、本当の救い、本当の慰めにはなりません。
 私どもは知らなければなりません。他者を理解しなければならない、痛みを担わなければならないと思うことは、実は傲慢なことです。時として自分自身の思いでさえ担えないということがある私どもなのですから、他者の痛みを担うことはできないのです。

 そのような私どもを、主イエスは憐れんでくださいます。神なる方が憐れんでくださるのですから、私どもは救われるのです。
 他者の気持ちを理解するということは、とても辛いことであるということを、私どもは知らなければなりません。他者の気持ちを受け止め担うには、力が要るのです。それは、自分を超えた支えが自分自身にあってこそ、可能なことです。真のキリスト者であれば、自らの思いが神に担われているというところで、他者の思いを担うことができるのでしょう。
 ですからここで、主イエスの「かわいそうだ」という言葉を、単なる上から目線の言葉と捕らえてはなりません。高き方、神なる方が、低きにまで至ってくださっての恵み深い言葉であることを覚えなければならないのです。

 ここで、群衆は本当に「かわいそう」なのかどうかと思います。「三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」と主は言われましたが、空腹で帰りたければ、帰れば良かったことでしょう。けれども、人々はそこに居たかったから居たのです。
 愛する人、慕う人と一緒に居たい、居たくて居るのであれば、それは幸いなことではないでしょうか。群衆は、主イエスの側に居たくてそこに3日も居たのです。心満たされていなければ、3日も食べずに居るわけはないのです。
 主イエスが人々に強制して、そこに拘束していたわけではないのですから、3日も食べずにいても、その空腹以上に人々は満たされていたということです。
 そのような状況があった上で、そのような人々に対して、主イエスは「かわいそうだ」と言ってくださいました。主イエスなくしては満たされない、主イエスなくしては飢え乾く心があるということを知って、主は言ってくださるのです。
 自ら主のもとを去ろうとしない人々の心の飢え乾きを、主イエスは見出してくださっております。人々の空腹は、単なる空腹ではないのです。

 そして、3節に主イエスは「空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」と、「人々に食べさせる」と言ってくださっております。これは単に空腹を満たすことを目的としてのことなのでしょうか。そうではありません。私どもは、主イエスが群衆を「恵みをもって去らせようとしてくださっている」と聴くべきです。
 主イエスは、3日も側に居続けた人々を「帰さなければならない」と思ってくださっております。そこで、帰すに当たって、なお恵みで満たしてから帰そうとしてくださっているのです。それが群衆に対する主イエスの配慮です。
 人々が帰るに当たって、既に満たされた心と共に、肉体の空腹までも満たすことによって、身も心も平安を保って帰れるようにしてくださるのです。
 普通であれば、「3日も一緒にいたのだから、もう帰りなさい」と言って、帰しても良いでしょう。けれども、主はなお人々を満たそうとしてくださるのです。

 しかし、この主の言葉に対して弟子たちは、4節「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と答えます。弟子たちは、どこまでも物わかりが悪いのです。6章で既に経験しているわけですから、そう考えれば、「主よ、あなたにならお出来になります。何をするべきかお示しください。従います」と言えた筈なのです。けれども、弟子たちはどこまでも無理解です。
 ここで知るべきことは何でしょうか。主イエスの弟子とされるということは、私どもの理解に依らないということです。ただ主イエスの御心によって、私どもは主の弟子とされるのです。マルコによる福音書は、繰り返し繰り返し、弟子たちの無理解を語ります。そして私どもは、そのような弟子たちの無理解を通して、弟子には人々の思いを理解できないけれども、本当に人が何を必要としているかを知っているのは、ただ主イエスのみであることを知るのです。

 主イエスは、人の思いを知る方、人の心の飢え乾きを知る方として、人々と共にあって下さる方です。ですから、人は、主イエスと共にあるとき、幸いなのです。自らの深い飢え乾きすら自分で分からない、そういう私どもと共に、主はいてくださいます。神が、主が共にあってくださるところに幸いがあるのです。
 ですから、今日のこの礼拝、主の日の礼拝は、幸いなのです。主の日の礼拝に、復活の主イエス・キリストが臨んでくださっているからです。主は永遠の命を与えてくださる方として、私どもの取り去ることのできない飢え乾きの全てをご存知の方として、臨んでくださっているのです。主の弟子たちに臨んでくださった主は、今ここに、この礼拝に臨んでくださっております。ですから、この礼拝こそが、私どもにとっての幸いであることを覚えたいと思います。

 そして、主は、何も分からない、理解しない弟子たちを用いてくださいます。
 5節「パンは幾つあるか」と尋ねてくださり、6節「そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った」と記されております。
 4,000人もの人が地面に座るということは大変なことです。静かに座ることはできないのではないでしょうか。しかし、群衆は主の言われるままに座ります。人は主の御言葉をいただいて、従うところで、平安を得るのです。主の御言葉には力があります。主の御言葉により、人々に静けさが与えられるのです。

 主は「感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった」とあります。6章とは違っております。6章では「讃美の祈り」ですが、8章では「感謝の祈り」なのです。7節以降は、6章と合わせるかのように、魚を出され、讃美の祈りがなされます。
 けれども、この6節の「感謝の祈り」に関しては、コリントの信徒への手紙一11章23、24節「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」という、聖餐制定と同じ順序、言葉なのです。ですからここは、後の教会がこの言葉を「感謝の祈り」とし、主イエスが困窮の中にある人々を主の聖餐の恵みへと招き導いてくださっていることを示しているのです。主イエスは、飢え乾く者を満たしてくださる主であることを示しております。

 人の飢え乾きを知っていてくださる方、主ご自身が、ご自身の血潮をもって罪を贖うという形で、人を救ってくださいました。言い表すことのできない人の罪まで贖って下さる方は、十字架と復活の主イエス・キリスト以外にないことが、ここに示されていることです。

 人は、裏切るしかない者です。しかし、神は決して裏切ることはありません。神以外に、真実に信頼できる方はいないのです。
 地上が全てであれば、人に希望はありません。地上が全てということは、死をもって終わるしかなく、人は絶望に生きるしかないのです。
 主を信じる以外に、主にあって身も心も満たされることはありません。その恵みの豊かさが、7つの籠に示されていることです。

 9節「およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた」と記されております。恵みに恵みを加えて、主イエスは人々を家路へと送り出してくださっております。

 10節「それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた」とありますが、ダルマヌタの地方とはどこなのかは分かりません。けれども、主が訪ねてくださる場所、そこに救いの恵みが満ち溢れるのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

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