聖書のみことば
2013年7月
  7月7日 7月14日 7月21日 7月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 主の家に帰ろう
7月第2主日礼拝 2013年7月14日 
 
小島章弘牧師 
聖書/詩編 第96編1〜13節、ローマの信徒への手紙 第12章1~2節

詩編 第96編<1節>新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。<2節>主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。<3節>国々に主の栄光を語り伝えよ/諸国の民にその驚くべき御業を。<4節>大いなる主、大いに賛美される主/神々を超えて、最も畏るべき方。<5節>諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ<6節>御前には栄光と輝きがあり/聖所には力と光輝がある。<7節>諸国の民よ、こぞって主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。<8節>御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り<9節>聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。<10節>国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。<11節>天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ/海とそこに満ちるものよ、とどろけ<12節>野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め/森の木々よ、共に喜び歌え<13節>主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き/真実をもって諸国の民を裁かれる。

ローマの信徒への手紙 第12章<1節>こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。<2節>あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

 この詩は、大変スケールの大きい詩であり、聖書の信仰を鮮明に表しています。
 本日は、この詩から御言葉を噛み締めてみたいと考えました。

 10節に、この詩のキーワードがあります。それは、次のように歌っています。「世界は堅く立って動かされることはない」と。しかし、今周りを見回してみて感じることは、堅く立っているどころか、ギクシャクし、がたがたになっている国が多く見られます。いわゆる大国といわれる国々も、今は見る影もなく揺らぎ、大きな問題を抱えて、うめいています。アメリカも、ロシアも、ドイツ、フランス、イギリスも例外ではありません。中国、インドもどこを見ても、堅く立ってる国はありません。

 しかし、この詩篇では、「世界は堅くたって、揺らぐことはない」と言いきっています。
 近代以降、世界は新しいものを求めてきました。過去を捨てて、目新しいものを追い求めてきました。最近では、「今でしょう」と言うフレーズが、話題になっていることは象徴的といえましょう。今を求めて、過去も未来も見ないようにしているのかもしれません。過去を書き換えたり、今風に。未来があまりに暗く、不透明であるがゆえに、考えないようにしている傾向が見られます。今がよければ、今を追い求めていれば、それで日が暮れていくのです。きつい言い方をすれば、死に急いでいるといってもいいでしょう。今を追い求めていることは、極端な言葉でいえば、意味を失ってしまっていることになります。自分が孤立しているということです。帰る場所を失っている状態です。故郷喪失が、わたしたちの現実なのです。

 私の聖書に1枚の絵葉書が挟まっていました。これは50年間聖書が変わるたびにもかかわらず、挟まれてきたものです。英国の画家ワッツの「希望」です。最後の希望は、一本の琴」の弦、それは神の存在を表しています。これは余談でした。
 けれども、詩篇96編は、まさに、そのような私たちに突きつけてくる言葉です。1〜6節、7〜13節の2部で構成されています。それと、この詩篇96編は、93編、97編、98編、99編と共に、「神が王となれれた、主が王となられた」という神が王位に即位するという終末的な詩編に分類されています。
 1〜3節には、「歌え」、「ほめよ」、「宣べ伝えよ」とあり、7〜10節には、「主に帰せよ」、「ひれ伏せ」、「おののけ」とあります。すべて命令形で書かれています。之これはすべて、礼拝する者への呼びかけになっています。その内容について、4〜6節では、「主は天を作られ」たとありますから、「歌え、ほめよ、宣べ伝えよ」と勧められています。10〜13節になりますと、「主こそ王」、「主は諸国を公平に裁かれる」ということで、「主に帰せよ、ひれ伏せ、おののけ」と勧めるのです。

 結局『主は創り主』『主は裁き主』ということになります。「創造された方、裁く方が、聖書の神」なのだということです。つまり、神様は、創られた方であり、今治めている方(支配)であり、天と地とを裁かれる方であることを、この96編ははっきりと示しているということになります。つまり、過去と現在と未来とが、一本に結ばれているわけです。切り離されていないのです。つながっているのです。これが、ばらばらになってしまうと、不安になり、虚しくなってしまうのです。
 先ごろの災害で、多くの方が時間が切り裂かれたことによる不安を抱えておられることは、大きな問題になることです。ある物質が流されたということは、時間が流されたということになります。つまり、仏壇が流されたということは、自分の過去が流されたということになるわけです。そこに苦悩があり、悲しみが大きいのです。自己喪失が起こっているのではないでしょうか。そのことに思いをいたしたいと思います。そのことは生きている意味を失ってしまうことでもあります。 
 若者は未来が太くなり、過去が小さいものになってしまいます。 老人は、未来がやせてしまい、過去がでっかくなるのです。それぞれの年代で時の感覚は異なってきますが、聖書は、過去、現在、未来をどう捉えるのかを教えてくれます。この96編は、その意味で貴重なものということが出来ましょう。

 もうひとつ、この詩には、時間的なものに加えて、空間的なことについて教えています。つまり、1節から13節の間に、宇宙的な表現が多く見られます。 
 まず、1節に、『全地よ、主に向かって歌え』と歌っています(1節、9節) 。それがいろいろな言葉で言い現れています。 日(2節)、国々(3節、10節)、諸国の民(3節、5節、7節,10節、13)、天(5節、11節)、世界(10節、13節)、地(11節、13節)、海(11節)、野(12節)、森の木々(12節)。 これだけの言葉を、この詩に織り交ぜています。
 つまり、神の創られたすべてのものが、礼拝へと招かれ、礼拝しよう、喜ぼうと呼びかけているのです。小さな正義感を振り回してみたり、人種的に差別したり、いろいろな垣根を作って、他のものを入れないようにしている心の狭さを吹き飛ばすようなことを歌い上げています。主は、全地の主であるからです。

 丸山真男が、岩波新書「日本の思想」で、日本人は、蛸壷型(西洋思想はササラ型)だと指摘していますが、自分で塀を立て、垣根を作り、柵を張り巡らせて、その中でふんぞり返っているのです。そこから出てきて、すべてのものと一緒に礼拝すること、喜ぶことを求めているのです。宇宙的な礼拝を捧げようというのです。

 現代人は、この詩人が呼びかけているような『喜び』を失っています。神を喜ぶことが、礼拝なのです。今わたしたちの周辺には、まがい物の喜び、笑いが満ち満ちていないでしょうか。5節に詩人が歌っているように、『諸国の民の神々はすべてむなしい。』(5節)というのは、そのことを言っているのです。GNP至上主義は、虚しいのです。経済至上主義は、虚しいのです。しかし、それを知っているのが、私たちです。神を喜ぶこと、礼拝する者は、真の喜びを知って、礼拝しているのです。

 つまり、終わりの完成のとき、終末の時に起こることが、最も新しいのです。ラテン語では終末のことを、「デ・ノウィッシマ」というそうです。それは、「最も新しいこと」という意味なのです。ですから詩篇96編の詩人は、最も新しいことを歌おうと呼びかけているのです。この詩の最初に『新しい歌を主に向かって歌え』とありますのは、そのような意味を込めているということになります。終末の完成のときは、まさに希望であり、喜びであり、最も新しいことが起こるときなのだということです。キリスト教では、最も新しいものは、最後にあるということをいうのです。

 生物学的な考え方ではありません。キリスト教は、最も新しいものは最後に来るということを知っています。生物学は、誕生から死への歩みを追求します。しかし、キリスト教は、そういう歴史観ではなく、死から生への歩みを説きます。キリストが来られるということで、そこに向かって生きることの信仰、生き方を示します。
 日本基督教団の議長をされた鈴木正久牧師は、『主よ、み国を』という本の前書きに、ご自分が膵臓癌に見舞われ、余命いくばくもないときに、「主の光と慰めと力が、日々新たに私を支えてくださり、死を待つのでなく、『キリストの日』に向かって生きてゆく導きを与えてくださいます」(鈴木正久著作集第4巻p292)。死に向かって生きるのではなく、み国に向かって生きるのだと言われましたが、まさにその生き方が信仰の歩みであり、この詩篇96編の信仰なのです。

 終わりの完成(終末)から今を生きることが聖書の生き方です。なぜ生きているのかよくわからないようなことの中で生きているのが私たちですけれど、神さまが、この世界を完全に支配してくださるとき、イエス・キリストが必ず来られるということが本当の喜びであることを教えられます。だから、『主に帰せよ』、『主に帰せよ』と呼びかけるのです。
 私たちも、主に帰せよと歌いながら、喜べない現実にありますが、にも拘らず、喜ぶ者として生きたいと思います。

 ローマの信徒への手紙第12章1〜2節を読みます。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。あなたがたは、この世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして、自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

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