聖書のみことば
2013年11月
  11月3日 11月10日 11月17日 11月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 信仰なき者の救い
11月第2主日礼拝 2013年11月10日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第9章14〜29節

9章<14節>一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。<15節>群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。<16節>イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、<17節>群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。<18節>霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」<19節>イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」<20節>人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。<21節>イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。<22節>霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」<23節>イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」<24節>その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」<25節>イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」<26節  >すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。<27節>しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。<28節>イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。<29節>イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 前回は、「主イエスの権威」ということを中心に19節前半まで語りましたので、今日はその後からお話をいたします。

 19節で、主イエスは「なんと信仰のない時代なのか」と弟子たちの不信仰を嘆かれ、また「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」と言われました。この後、主は苦難と十字架への道を進まれます。この言葉は、主が地上での活動を終えられ天に帰られる、そのことが前提にあって、残される弟子たちが堅く信仰に立つことを願っての言葉でもあると思います。

 更には「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われます。主は何を我慢されるのでしょうか。それは、弟子たちの無理解を我慢するということです。「我慢しなければならないのか」とは、主イエスが「我慢ができない」ということではありません。そうではなく、主が無理解な弟子たちのために「嘆いてくださっている」ということです。我慢できないから見捨てるということではなく、ひたすらに嘆いてくださる。そこに、弟子たちの幸いがあります。
 主イエスが「理解できない者のために嘆いてくださる」がゆえに、その者は幸いです。なぜならば、主の嘆きにこそ救いがあるからです。主が嘆き、無理解な者を憐れんでくださるからこそ、そこに人の救いの望みがあるのです。その人に信仰を持てる可能性があるから救いの望みがあるということではありません。決して理解できない者である、だからこそ、主は決して見捨てられないのです。
 私どもは悟れる者ではありません。私どもが悟りなく理解できない者だからこそ、主イエスは憐れみ、その罪を十字架によって贖うことによって救いを与えてくださいました。すべては「主の憐れみのうちにある」のだということを覚えたいと思います。
 私どものうちに何らかの希望があるということではありません。主イエスの嘆きこそが、弟子たちの、私どもの希望なのです。

 「その子をわたしのところに連れて来なさい」と、主は命じられました。父親は主イエスと話しておりましたから、人々が子どもを連れて来たのです。
 ここで、「主イエスの命令があって、連れて来られる」ということは重要なことです。主イエスが「神の子として神の権威を持っておられる方である」ということは、前の箇所で聞いたことです。人々は、主イエスが権威ある方であることに驚きました。ですからここで、その主イエスが「権威を持って命じられた」のですから、命令によって連れて来られたこの子どもは、「主イエスの権威なる御言葉のうちにある」ということです。人々の持つ期待や希望のうちにあるということではありません。権威ある方の御言葉に従って連れて来られたのですから、この子は「既に」主の権威のもとにあるのです。
 このことは、とても大切なことです。この子は「既に、主イエスの御手のうちにある、主の御言葉のもとへと移されている」のだということを覚えたいと思います。

 だからこそ、20節「…霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。…」と言われております。悪霊がその子に力を下しております。それは、悪霊が主イエスを見たがゆえに、悪霊はそうせずにはいられなかったのです。神の権威のある方、主イエスを見た、だから恐れおののき混乱し、その混乱ゆえに、子を引きつけさせたのです。悪霊がなぜ、子どもを引きつけさせたのかということを、きちんと踏まえておかなければなりません。それは、悪霊が主の権威を恐れたからこその出来事です。主の権威のしるし、それが子どもを引きつけさせたのです。悪霊が主の権威に圧倒され混乱し、そのことにこの子は巻き込まれてしまっているのです。

 先にもお話ししましたが、この箇所に語られていることは、一つは「神の権威」ということ、そしてもう一つは「信仰なき者」ということです。「信仰なき者」ということについて聴いていきたいと思います。
 主イエスは父親に、21節「このようになったのは、いつごろからか」と聞いてくださっております。ここで間違ってはなりません。主のこの問いは、主がその子の病状について詳しく父親に聞こうとしておられるということではありません。病を癒すためには病状を詳しく知らなければならないと、私どもは思いますが、そうではないのです。主イエスは、既にすべてをご存知です。主は知っておられて、なお聞いてくださいました。それはなぜでしょうか。
 それは、父親の答えによってはっきりといたします。父親は「幼い時からです」と答えました。質問に対する答えであれば、これで十分なはずですが、しかし、父親の答えはそれだけにとどまりませんでした。22節「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と続けて言うのです。

 主イエスが父親に問うてくださった、だから、この父親は心の内にある苦しみをここで吐露できました。主イエスは、父親がその苦しみ、悲しみ、痛みを言い表すことで、主の慰めを得ることのできる糸口を与えてくださったのです。語らせることによって、主イエスはそのすべてを受け止め、慰めを与えてくださるのです。
 火の中に、水の中に子どもが投げ込まれる…、父親ならば、子を助けるために、火の中、水の中に飛び込んだことでしょう。しかし何度助けても、病は癒されない。ただ子と共にあることしかできない。そのような苦しみ、悲しみを、誰に訴えることができたでしょうか。
 しかしここで、主イエスは、その父親の痛み、悲しみを、自ずと語れるようにしてくださいました。父親に対する主イエスの慈しみが、そこにあります。

 人の問いは、問いただす問いですが、主の問いかけは「慈しみをもっての問い」であり、そこに癒しの出来事があるのです。ですからこそ、ここでこの父親は、主イエスに願わざるを得ませんでした。「わたしどもを憐れんでお助けください」とは、主イエスの憐れみが、わが子に対するだけではなく、自分に対する憐れみでもあると、この父親は捉えているのです。

 病は繰り返されるものです。人は病を負うのです。けれども、どんなに病んだとしても、そこに常に変わることのない慰めがあるときに、人は立っていることができます。病を柔軟に受け止めることができるのです。そのような心、病を柔軟に受け入れられる柔らかな心はどこで養われるのでしょうか。それは神の慈しみ、憐れみを知るところにあります。この父親の「憐れんでお助けください」との言葉は切実なものです。それに対する主の慈しみは完全なものですから、癒しも完全です。主の慈しみ、憐れみによって、人は慰めを得るのです。

 しかしここで、この父親は余計なことを言ってしまいました。「おできになるなら」と言ってしまったのです。
 このところまでで、父親は知っておかなければなりませんでした。主イエスが権威ある方であることを目の当たりにしているのですから、感じ取っていなければなりませんでした。言うべき言葉は「どうぞ、憐れんでください」と、主にすがるのみであったはずです。憐れみの主体は主イエスなのですから、「御心ならば」と言ったのであれば、まだ許されたことでしょう。それは、「主はおできになる」ことが前提の言葉だからです。ここで知らなければならないことは、ただ主の憐れみに「すがるのみ」であるということです。
 「すがるのみ」と言うとき思い出されるのは、マルコによる福音書6章で聞いた「シリア・フェニキアの女」です。異邦人であるシリア・フェニキアの女は、無視され、じゃけんにされ、それでも主イエスにすがりました。そしてその信仰を、主が良しとしてくださいました。

 覚えなければなりません。「おできになるなら」と主を試す、主を信じきれない者に対して、主イエスは、23節「『できれば』と言うか」と、それは中途半端な信仰の姿勢であることをはっきりと言われました。そして続けて「信じる者には何でもできる」との言葉を添えてくださっております。だから「信じなさい」と言ってくださるのです。
 父親は、主イエスから「不信仰な者」との宣言を受けました。「あなたは信じない者である」、けれども心配は要らないのです。主の弟子たちもそうでした。
 主は、その者が「不信仰である」ことを明らかにした上で、救いを与えてくださいます。あなたは不信仰だから神の恵みに相応しくない、とは言われない。フェニキアの女は異邦人であるがゆえに、イスラエルの神の恵みに相応しくないと言われたにもかかわらず、なお主にすがりました。

 主イエスは、「あなたは信じられない者、だからそれゆえにこそ、信じなさい」と言ってくださいます。このことは大いなることです。信じられない者が、信じることができるでしょうか。この言葉は、ただ主イエスゆえに言える言葉なのです。
 主の言葉に対して、父親は、24節「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と、すぐに叫んだと記されております。それは、主イエスが「信じなさい」と言ってくださったからこそ言えた、父親の言葉なのです。
 ここで主が示してくださっていることは何でしょうか。「信仰とは、主イエスから、神から与えられる賜物である」ということです。彼が信じたのではありません。彼が信じられたということでもありません。ただ、主イエスが「信じなさい」と言ってくださったからこそ、彼は「信じます」と言い得たのです。
 「信仰」とは「神からの賜物」、そしてそれは「主イエス・キリストによって与えられる救いの恵みそのもの」であることを覚えなければなりません。

 信じること、信仰の主体は、人の側にあるのではありません。キリストにこそある。信じるというとき、「わたしが信じる」と思ってしまいますが、そうではありません。信仰の出来事は、「神がわたしにこうしてくださった」という出来事なのであって、私がこうして信じたという出来事ではないのです。神がわたしに対して「信仰者であれ」と言ってくださるからこそ、信仰者であり得るのです。

 しばしば信仰は、「自分が信じている」という、自分が主体であることのように思い違いをしてしまいます。自分が主体で「信じなければならない」と考えるならば、今ひとつ信じきれないと思えば、信じますと言うことはできません。けれども信仰は、私どもが信じられるかどうか、ということではありません。わたしが信じた、という私の確信ではないのです。もし信仰が自分の確信によるのであれば、何か問題が起これば、その確信は揺らぎ、その信仰は苦しみになり、またつまづきになるのです。

 信仰は、神が主体です。「神が」ということが主語ですから、神が主体の信仰であれば、わたしがどうであったとしても、神が変わらない不変なる方であるがゆえに、その信仰は確かなのです。
 人は確かなものではありません。不確かです。その不確かなわたしが主体の信仰であれば、その信仰は不確かにすぎません。「わたしが」ではなく「神が」という信仰こそが確かなのです。

 父親は「信じます」と言っております。主が「信じなさい」と言ってくださったからこそ、言い得たことです。「信じられない者が、信じることができる」、これこそが、神の憐れみの出来事です。

 信仰とは、「信仰なき者に与えられた神の憐れみ」であります。そしてそれこそが「救い」となるのです。教会の信仰の中心あることは何かと言うと、「罪人の救い」です。「罪人の救い」ということを言い換えるならば、「信仰なき者の救い」です。「罪」とは「信仰の無さ」なのです。ですから、主は「信仰のない時代」と言われましたし、弟子たちは主を信じきることができませんでした。
 そのように「信じきれない者、信仰なき者の救い」、それが「罪人の救い」ということなのです。信じきれない者、罪人に過ぎない者が救われる、それが教会の中心のメッセージです。
 信仰があるから救われるのではありません。信仰なき者のために主イエス・キリストが十字架についてくださり、罪を贖ってくださったからこそ、あり得る救いなのです。人の信仰による救いではありません。ただ「神の憐れみによる救い」こそが「罪人の救い」なのです。

 私どもの信仰が主体となる救いであれば、主イエス・キリストの十字架は無駄でしょう。それは罪の贖いを必要としないからです。しかし、罪の贖いなく救われないとすれば、それはただ主の十字架によってのみ、救いはあるのです。その主の憐れみなくして、私どもは救われません。なぜなら私どものうちに信仰はないからです。信仰なき者だからこそ、神の憐れみ、主の十字架の贖いが必要なのです。ただ「主の十字架によってのみ救われる」のだということを覚えたいと思います。

 信仰なき者の姿、神を必要としないことは、罪を自覚していること以上に罪深いことを知らなければなりません。自分を信仰ある者だと思っている代表的な人々がファリサイ派の人々でした。そのような者としてキリスト者を迫害していたパウロは、主イエスの十字架のゆえに、自らがいかに罪深い者であるかを知り得ました。主の十字架に出会ったからこそ、自分の信仰が罪そのものであることを知ったのです。パウロは自らを罪人の頭と言い、「罪人の頭であるわたしを主が憐れんでくださって、十字架と復活の主が贖い主として臨んでくださって弟子とされ、ただ神の憐れみによってのみ、ここに自分があるのだ」と言い得たのです。

 自らの深い罪を示される、そこでこそ「信仰のないわたしをお助けください」との信仰の告白があります。「信仰のないわたし」、ここにこそ、この父親の真実があります。そしてその真実こそが「信じます」という信仰告白なのです。
 「信仰なき者の救い」、それは「罪人の救い」です。このことこそが、私どもキリスト者の信仰の中心であることを覚えたいと思います。

 25節「イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった」と記されております。子どもが引きつけたのを見て、人々が集まってくるのです。そこで主は汚れた霊に「この子から出て行け」と命じられました。ここに、悪霊をも従わせる主イエスの絶大な力、権威が示されております。
 主の圧倒する力とは何でしょうか。悪霊に対しては、主は命令の言葉を与えられました。
 では、罪人に示される主の権威ある言葉とは何か、圧倒する力とは何かということを、私どもは覚えておかなければなりません。それは、「十字架による憐れみ」です。十字架による憐れみこそが、圧倒する力なのです。神の憐れみと慈しみこそが、圧倒する力なのです。「ああ、こんな罪人を主が憐れんでくださった。この罪人のために主が十字架で尊い血潮を流してくださった」という、絶大であり揺るぎない神の憐れみの出来事が圧倒するがゆえに、人は、自ずとの思いによって従うのです。

 主の十字架の痛み、苦しみ、そこまでして私どもを救ってくださる、その御恩寵こそが神の権威であり、その御恩寵を感じたとき、その圧倒する力によって、心の叫びは喜びになり、人は主に従うことができるのです。
 主イエスは、ご自身の血潮をもってまでして、信仰のない者を、私どもを憐れみ、迫ってくださっていました。その神の御恩寵を感じるとき、私どもは「信じます」と言うことができる、それが「信仰」ということです。

 私どもに示されている主の力は、圧倒する力です。それは十字架の慈しみに他なりません。十字架の慈しみなくして「信じます。アーメン」と言うことはできません。圧倒する神の恵みを知るからこそ、「信じます」と言い得るのだということを覚えたいと思います。
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