聖書のみことば
2013年11月
  11月3日 11月10日 11月17日 11月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 主が手を取られる
11月第4主日礼拝 2013年11月24日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第9章25〜32節

9章<25節>イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 <26節>すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。 <27節>しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。<28節>イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。<29節>イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。<30節>一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。<31節>それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。<32節>弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 今日は25節からです。
 前節までで、主イエスが、汚れた霊に取りつかれた子の父親に「このようになったのは、いつごろからか」と問うてくださり、そのことによって、父親が「幼い時からです。わたしどもを憐れんでお助けください」と主に憐れみを乞いながらも、しかし「おできになるなら」と言ってしまったことを、主はお咎めになりました(23節)。
 その主の咎めに対して、父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)と叫んだと記されております。この父親の答えは、主イエスへの「信仰告白」として、実は、私どもの救いに関わっております。
 「信じます。信仰のないわたしをお助けください」、自らの不信仰を自覚した上で「もはや主にすがるしかない」、それが「信仰」であり「救い」です。救いとは、信じる者の救いということではありません。「信じられない者の救い」それが「主イエスの救い」なのです。

 25節「イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった…」と記されております。群衆が走り寄って来たのは、子どもが引きつけを起こしたのを見たからです。そこで、主イエスは「汚れた霊をお叱りに」なりました。
 「汚れた霊」とは「悪霊」と同じです。神の霊は聖霊ですから、それ以外の霊は悪霊なのです。
 日本人は、「悪」はあまり悪いと思わず、「汚れ」は許せない悪さだと思います。例えば子どもの悪戯は男の子などであれば大目に見て許されますが、「汚いこと、汚れ」は許されません。清潔第一です。また、悪魔でさえ小さいと付けば、小悪魔という可愛い存在ともなるのです。このように、日本人の感性では「悪」が「絶対の悪」という感覚ではないことを思いますと、ここで「悪霊」と言うよりも「汚れた霊」と言った方がぴったり来るのかも知れません。
 「神から人を遠ざけるもの」それが「悪霊」ですから、「汚れた霊」もそういう意味で捉えられるならば良いでしょう。けれども、ここでは絶対の悪として「悪霊」と使いたいと思います。

 主イエスは「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」と悪霊に命じられました。ここで知ることがあります。主イエスは既に2つのことを明らかにしておられます。一つは「弟子たちの不信仰」であり、もう一つは「子の病は幼い頃からの病」であるということです。それはつまり、何も弟子だけがこの子を癒せなかったというわけではなかったということです。何をどうしても、この世の力ではこの子を助けることはできない、そういう病だったということです。
 そのような「人の力の及ばないこと」を、ここで主イエスは「言葉をもって」成しておられるのです。人が太刀打ち出来なかった悪霊を、主は言葉で従わせられる。それは、主イエスが力ある偉大な方であることが示される出来事です。大いなる権威を持つ方の御業として、この癒しは成されました。主イエスの力はこの世を凌駕する力です。そして、その主の言葉は、権威あるがゆえに、大いなる言葉なのです。
 主イエスの言葉は「真実」です。ですから「力」を持つ。「真実である」だから「その事は成る」のです。「力ある言葉」とは、言われたことが「実現する言葉」です。人の力などささやかなもので神に比することなどできませんが、しかし、そういう意味では「有言実行の人」は、尊敬される人です。ですから、このことも私どもにとっては大事なことでしょう。

 ここでもう一つ注目すべきことは、「わたしの命令だ」と、「わたし」が強調されていることです。「主イエスの偉大な力」ということが強調されているのです。主の言葉は、この世に類のない言葉であるということです。
 主イエスの言葉の力に圧倒されて、悪霊は子どもから出て行きます。「はい、分かりました」と承諾して出て行くのではありません。出て行きたくはないけれども、意に反して、主イエスに屈服して出て行かざるを得ないのです。それで、26節「霊は叫び声をあげ」たのです。

 「主イエスの権威」ということを、この箇所はどこまでも強調いたします。この後、普通なら「父親は喜び、感謝し讃美した」と続くのではないでしょうか。もちろん讃美したに違いありません。けれども、主への讃美の言葉を一切抜いて、主の大いなる権威ということをどこまでも語っております。もしここで、父親の讃美の声が記されていれば、私どもは、私どものなすべきこととしての神への讃美へと心向けることでしょう。しかしそうではなく、この書はあくまでも「主イエスの権威」へと、私どもの心を向けさせているのです。
 焦点が逸れますが一言付け加えますと、「神に感謝し、そこに喜びがあれば、証しができる」、それが「宣教」です。救われた喜びがあるから、福音を語ることができるのです。福音宣教は、言われたからしなくてはならないこととしてすることではありません。喜びと感謝のあるところで、自ずと福音は語られていきます。もし義務でしようとするならば、相手が聞いてくれるかどうかが語る基準、物差しになりますが、しかし、喜びを語るときには、相手が聞くかどうかはあまり関係ありません。救われた喜びを知る者は、大いに福音を語る者なのです。
 話を戻します。あくまでもここでは「主の権威」が語られております。

 26節「その子は死んだようになったので、多くの者が、『死んでしまった』と言った」とあります。この子どもを支配していた者は悪霊でした。その支配する者が去ってしまえば、その子は原動力を失ってしまうがゆえに「死んだようになった」のです。自分の力で立ったことがないからです。
 自分の拠り所を失うことは、死んだようになるということです。ですから人は、自分の価値観を失うことはできません。
私どもを魅了しているものは何でしょうか。私どもを魅了しているもの、それを失うと、私どもは無力になり、抜け殻のようになるのです。人生の様々な場面で挫折を味わうこともあるでしょう。私どもの拠り所が崩れたときに、挫折が起こり、人は力を失って、立ち上がれないのです。

 ですから、単に悪霊を追放しただけでは駄目です。真実にその人に喜びを与える「新しい力」が与えられなければなりません。失った力に勝った力が必要なのです。
 人は何とか自分の駄目なところを変えようとしますが、それは同時に、自分の喜びを失うことです。「正す」ということに力を費やしてしまってはなりません。正すことに力を使ってしまって、次に新しいことを建設する力を失ってしまうからです。壊すことに力を使いすぎると、新しい形成力を持てないのです。壊してしまって、さらに形成する力を持たないとすれば、それは滅びに繋がってしまいます。

 27節「しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった」と続きます。「主イエスが力をくださる」ということ、それが「立ち上がる」ことです。私どもの砕けたところで私どもに必要なのは、「神の力、主が手を取ってくださること」です。そこでこそ、私どもは喜びを回復し、新しい力を持つことができるのです。

 ここに起こっていることは、「主イエスの力は、死した者を復活させる力である」ということを暗示しつつ、31節「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」という主イエスの言葉に繋がっております。
 主イエスの力は「死からの甦りの力」です。「死した者を立ち上がらせ、新たに生きる者とする力」なのです。
 主イエスは、私ども罪人の罪を担って十字架に死なれました。罪の代価は死です。主の十字架の死によって、私どもは贖われました。私どもの死を、主が代わって既に死んでくださったのです。主の十字架の死は、私ども罪人の死そのものです。ですから、私どもの死は十字架の主の死と結び合わされて、一つのものとなるのです。そのようにして、主に結ばれた者として、私どもはまた、「復活の主」と共に甦る、それが私どもに与えられた希望です。私どもの甦りの根拠は、ただ「十字架と復活の主イエス・キリストにのみ」あるのです。

 主イエスが手を取ってくださり、死んだ者を甦らせるほどの力を与えられて、子どもは立ち上がりました。けれども、ここでも子どもの喜びの声は記されず、28節「イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、『なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか』と尋ねた」と記されております。
 主イエスは家の中に入られました。そこはペトロの家だったかもしれません。主は家の中に入り、弟子たちを群衆から引き離してくださいました。群衆の中で、弟子たちは自らの無力さを味わいました。主はそこから弟子たちを導き出し、主の家に、主との交わりの場に入れてくださっているのです。このことは、私どもの信仰の歩みも同じです。私どもも、この世で一週の日々を歩みます。時に無力さをや疲れを感じつつ歩むのです。そのような私どもを主は導いてくださり、この世から引き離してくださいます。ただ主の導きにより、主との交わりが与えられ、主の力をいただくのです。今ここに私どもが集っているのは、主がこの世から私どもを導き出して、主との交わりに入れてくださっているということです。それが「礼拝」です。
 礼拝に行こうと思ったとすれば、それは主が「行こう」と思わせてくださる力を私どもに与えていてくださったということです。それが、主イエスの力です。私どもは主より新たな力を与えられて、新しい一週を歩み出すのです。

 ここで、なぜ弟子たちは「ひそかに」主に尋ねたのでしょうか。これは意味深長な言葉です。「ひそかに」言う時とは、どういう時でしょうか。どこかに後ろめたさがある時ではないでしょうか。
 では、ここでの弟子たちの後ろめたさとは何か。子どもを癒せなかったという後ろめたさかどうか。もちろんそれもあるでしょう。けれども、それ以上に深いところにある弟子たちの思いではないかと思います。「一体どうしたら、癒すことができたのだろうか」と、暗に答えを求めているのではないかと思うのです。
 もし「主よ、あなた無しには、私たちにはできません」と言えたならば問題はないでしょう。けれども弟子たちは、自分たちにも何かできる方法があったのではないかと思っているのです。そして、自分たちにできる方法は何かを知りたいと求めているのです。それは、最終的に「自分で成したい」のであり、「主に委ねきれていない」ということです。「私たちにできる方法は無かったのでしょうか」と聞きたい思い、どこかで「自分たちでできたら良かったのに」と思っている、そういう人の深い思いを抉り出す言葉、それが「ひそかに」という言葉に示されていることです。神に委ね切れていない、それがひそかな思いの根拠であり、それが後ろめたさなのです。
 弟子たちがすべきことは何であったでしょうか。それは、自分の無力さを言い表すだけではなく、「主よ、あなたが癒してくださいました」と、癒された子と父に代わって、主を賛美することではなかったでしょうか。「あの親子を、あなたは憐れんでくださいました。あなたの大いなる力を、私たちは誉め讃えます」と、それこそが弟子たちのあるべき本当の姿です。

 このような弟子たちに対して、しかし主イエスは叱ることをなさいません。29節「イエスは、『この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ』と言われた」と記されております。主は「祈りによる」と言われます。 「祈り」とは何か。祈りは「自らを神に明け渡す」ことです。考え違いしてはなりません。私どもは、神に願うことが祈りだと思っていないでしょうか。そうではなく、真実な神に対して私どもがなすべきことは、主の大いなる力が私どもにも臨みますようにと、自らを明け渡すことです。
 このことにおいても人の罪深さが示されることがあります。聖書には写本がいくつもあり、ある写本では「祈りと断食によらなければならない」と記されております。それは、祈りだけでは駄目で、自らの行いとして断食も必要であるということです。それは、自分で一生懸命努力するというあり方です。

 祈りとは、一生懸命に祈るということではありません。「神に自らを明け渡す」ということは、そこで「神がこの私に働いてくださっている」ということです。「神が働いてくださる」、だからこそ、そこで初めて「成し得る」ことを知るのです。
 神が働かれるからこそ、救いが起こるのです。自らの信心によって救われるのではありません。「神に依り頼むこと」、それが「神に明け渡す」ことです。

 人はどこかで自らの功績を求めます。弟子たちでさえ、主の圧倒する力を見ていながら、ひそかに自分たちの力を思っています。 けれども、そういう弟子たちに示されることは、「ただ神のみ、成し得る」ということです。神の力が働いてこそ、成るのです。祈りを通して、神へと私ども自身を開くことです。「自らを明け渡し、そこで神が働いてくださることを願う」、それが「祈り」であることを覚えたいと思います。

 このようにして、主イエスの一行はガリラヤを通って行かれます。ここからマルコによる福音書は大きな転換を迎えますが、それは次回にお話ししたいと思います。

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