聖書のみことば
2024年4月
  4月7日 4月14日 4月21日 4月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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4月21日主日礼拝音声

 清めの主
2024年4月第3主日礼拝 4月21日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第5章12〜16節

<12節>イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。<13節>イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。<14節>イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」<15節>しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。<16節>だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

 ただ今、ルカによる福音書5章12節から16節までを、ご一緒にお聞きしました。12節に「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と願った」とあります。
 「全身重い皮膚病にかかった人」が、主イエスの前に現れます。この人の病は、今は全身に拡がっているようですが、この病気は初めから全身に現れる訳ではありません。最初は体のどこかに小さな白いシミがついただけのように見えます。ところが時間の経過に伴って、その病変が次第に大きく拡がり、恐ろしい症状に変わってゆきます。この人の場合は、病変が全身に拡がっていたと言われていますので、かなり症状が進行していたものと思われます。
 ただ、この人の苦悩は病気が進んでいただけではありませんでした。よく言われることですが、この病気は、主イエスの生きられた時代には、衛生面ではなくて宗教的な意味で汚れた病気と見做され、この病気を患った人は同胞であるユダヤ人の共同体から締め出されるような目に遭っていたのでした。というのも、元々この病気は外国の病気だったからです。イスラエルには起こる筈のない病気でした。エジプトを脱出して間もなくの、ずっと古くからの神の約束として、そう言い伝えられていました。出エジプト記15章26節に「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」とあります。「重い皮膚病」というのは、ただ皮膚に腫れ物が生じて肉がただれるだけではありません。この病気は、イスラエルの民を去らせようとしなかったファラオに対して神が怒りを発した中に生じた病であり、本来、イスラエルの民には生じる筈のない病でした。ですから、その病に侵されるということは、何かその人自身が神の怒りに触れて裁かれ、見捨てられたことのしるしだったのです。神がその人を捨てられ放り出され、あたかもエジプト人の一人のように扱われた、そう考えられたために、この病に侵されると、イスラエルの共同体から追放されるようなことにもなったのでした。この病気が宗教的な汚れをはらんでいると考えられたのは、そんな理由があったからです。ここに登場する「重い皮膚病にかかった人」というのは、まさにそういう苦難を背負っていました。

 そしてこの病気は、そのように、かかった人を交わりの外に置いてしまうところがあったために、単なる病気を越えて、更に根元的で重大な問題をつきつけるようなところがありました。その重大な問題というのは、「一体、人間とは何者なのか。人間を人間たらしめるものは何であるのか」という問いです。私たちは日頃、当たり前のように自分は人間だと思って暮らしています。しかし、いざこのように問われると考えてしまいます。直立2足歩行をして、道具を扱えるから人間なのでしょうか。大脳が発達して、他の生き物よりも頭脳の面ですぐれているから人間なのでしょうか。様々な芸術を生み出し、文明を築き上げるから人間なのでしょうか。
 そうではなくて、私たちが人間であるのは、言葉をはじめとしたコミュニケーションを持ち互いに交わりを持つところに、その秘密があるのではないでしょうか。病のために交わりの外に置かれなければならなかったこの重い皮膚病の人が、深刻な問題として考えざるを得なかったのはそのことなのです。果たして私たち人間は、自分一人だけで、孤独なあり方をする中で、人間として生きられるのでしょうか。今日の箇所で主イエスの前に現れた人は、まさにそういう問題を抱えていたのです。この人がなかなか治癒せず、それどころか全身に拡がってしまうような深刻な皮膚病に侵され悩んでいたのは、確かに問題の一面ではあります。しかしそれ以上に深刻だったのは、この人がその病のせいで身近な人々との交わりに入れてもらえず、追放され孤独な者となっていたことだったのです。この人は交わりからすっかり引き離されて、あるいは交わりを断ち切られて、自分一人だけで生きる他ない境遇に置かれていました。そしてその点にこそ、彼の最大の悩みと問題があったのです。

 「人間」という言葉は、人の間と書きます。人間とはそもそも、他者との関係の中を生きる社会的な生き物です。互いに人格的な交わりを持って生きる存在なのです。そして、私たち人間が本当に人間らしく生きてゆくためには、実は、2つの方向において交わりを持っていることが大切です。即ち、地上の交わりと天の方向ともつながる交わりです。別な言い方をすれば、地上に兄弟姉妹や隣人を持ち、天上に父なる神を与えられているということです。私たち人間は、このような2つの方向に開かれています。2つの方向にそれぞれ人格的な関わりを与えられてこそ、私たちは初めて人間であることができます。
 世の中には、「地上の交わりだけ、即ち、人間同士の横の関わりさえ持っていれば、人間は人間でいられる」と考える人たちも大勢います。けれども実際には、横の関わりだけでなく、縦のつながり、即ち、神が一人ひとりを確かな者として認め、祝福し支えてくださっていることが、とても大切です。天とのつながりを持たない人は、しばしば自分自身が何者であるかが分からなくなります。その結果、隣人との関係も無責任になったり、卑屈になったり、傍若無人に振る舞ったりするようになります。私たち人間のお互い同士の間柄は、自分が神から愛され、支えられ、生かされ、立たせて頂いているということがはっきりしている時にこそ、その縦の関係において確かにされている間柄を、お互い同士の間でも持ち合うようになってゆくものなのです。
 ところが、私たちのありようはしばしば、この縦の天とのつながりを見失ってしまうようなことがあります。そうすると、縦の間柄が空虚であることが、そのまま横の人間同士の間柄にも表れるようになり、非人間的なありようをするようになってしまうのです。そこに隣人がいてもいないかのように無視したり、わざと隣人のことを悪く考えたり、悪様に言って蔑んだり、実際に言葉や暴力を振るって傷つけたりということが起こり得ます。それは一見、相手を傷つけているようですが、元々の原因は、自己評価が空虚になっているためです。自分が確かに神に憶えられ愛されている、そのことがはっきりしている場合には、目の前にいる相手も神に愛されている者として尊重するということが起こるはずなのです。ところが、自分一人で勝手に生きているだけだと思ってしまうと、目に前にいる人が気に食わないということだけで、平気で軽んじたり蔑んだり傷つけるということが起こるのです。
 そしてそのように、神との間柄も隣人との間柄も断ち切られたような状況に置かれているのが、ここに記されている「重い皮膚病にかかった人」なのです。この人は、実際には生きているのに死んだ者と考えられ、死んだも同然な生き方の中を歩まざるを得なくされています。同胞である人たちから人間扱いされず、神との交わりも断たれています。この人は、天との関係、地上での関係を失った者として、共同体の交わりからも弾き出されているのです。

 事情がそうであっただけに、この人が勇気を出して主イエスの許にやって来たことは驚くべきことであり、また、まことに幸いなことでした。彼は主イエスの許にやって来て、その御前にひれ伏し、そして願ったのでした。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。この人はひれ伏して、「主よ、御心ならば」と言います。「もし、おできになるのなら」と言うのではありません。この人にとっては、主イエスにそれができるかできないかが問題だというのではなくて、「ただ主よ、あなたがわたしに御心を寄せてくださるかどうか、そのことだけが問題です」と言っているのです。「わたしのことを心に留めてくださるのか。関心を寄せてくださるのか。それとも、他の人々と同じようにわたしの前を通り過ぎてゆかれるだけなのか。それが問題です」、この人は主イエスが自分の側に立ってくださるのか、それとも退けてしまわれるのか、ひたすらにそのことを気にしながら主イエスの前にひれ伏すのです。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と訴えます。

 この訴えに対して、主イエスはどのように応じられるのでしょうか。13節に「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った」とあります。主イエスが手を差し伸べてこの人に触れてくださいました。この人に御心を寄せてくださったのです。それだけに、主イエスがここでなさっておられる仕草には、深い意味が込められています。
 主イエスが手を差し伸べて、この人に直に触れてくださったと、この福音書は語ります。この言葉は、一昔前まで、この病気への偏見のために著しく曲げて受け取られる説明がされてきました。それは即ち、この重い皮膚病が皮膚の接触を通して感染するという誤った理解です。今日では、この病気を引き起こす細菌の感染力が非常に弱いことが知られていて、皮膚に触れた程度では決して移らないことが確かめられています。一昔前、それは、わたしが教会学校でこの話を聞いた頃にはということですが、この病気は移る恐ろしい病気なので、主イエスが手を差し伸べてこの人に触れたことは、意を決して触れた英雄的な行いであったかのように教えられていました。皆さんの中にも、もしかすると、そのような古い時代の説明を記憶していらっしゃる方がおられるかもしれません。ですが、この病気は実際には、手で触れても移るようなことはないのです。
 とするならば、主イエスがこの人に手を差し伸べて触れてくださったと、わざわざ福音書が念を入れて語っているのは、主イエスの勇敢さを伝えるのとは別の意図があるに違いありません。他の人がどれ程、偏見に満ちていて、それ故に不安と恐怖を感じ、差別することがあったとしても、主イエスはそうではありません。主イエスは最初から、この病気が手を触れることで移るようなものではないことを御存知でした。そして主イエスがこの人に手を差し伸べ触れてくださったのは、勇気があったからではなくて、この人が神と隣人との交わりを断ち切られ、まったく孤独に生活せざるを得なくなっていたありさまを御自身の側に引き取り、そっくりそのまま引き受けるということを、仕草によって表すためでした。孤独の中、死の支配のもとに生きることしかできずにいた、この人の抱えていた辛い死の現実を、主イエスが御自身の側に引き取り、その死を御自身の身の上に移してくださることを、「手を差し伸べて触れる」という仕草が表しています。

 このように主イエスが触れてくださるということは、この重い皮膚病の人に限ったことではありません。主イエスはこの患者のように、主の助けを必要として、主に助けを願うすべての人間にも同じようにしてくださいます。即ち、手を差し伸べ直に触れてくださり、私たち人間が抱えている死の悩みを御自身の側に引き取り、代わりに御自身の命を私たちにプレゼントしてくださるのです。
 主イエスに触れられると、「たちまち重い皮膚病は去った」と、今日のところに述べられています。これは、主イエスが優れた医者であり、治療が成功したと述べているのではありません。主イエスは、この病気を注意深く眺めて治療しようとしているのではありません。主の眼差しは、この病気の背後にあってこの人を天からも地からも切り離して孤独にさせ、滅びに向かって歩ませようとしている罪と死の勢力に向けられているのです。

 今日の出来事を、ここにいる私たち自身の身に引き寄せて聞くとすれば、どのように言えるのでしょうか。私たちは今、重い皮膚病を患ってはいませんし、神や隣人から引き離され孤独になっているなどと思ってはいないかも知れません。今はまだ、多くの交わりに支えられ、地上の生活を過ごすことが許されています。しかし私たちは、普段あまり意識してはいないとしても、知っていることがあります。今はまだ多くの知人や友人、家族との親しい交わりの中を生きていても、やがて私たちは例外なく、地上の生活の最終局面に向かってゆくことになります。そしてその時には、誰かが一緒にその道を歩いてくれる訳ではありません。途中までは多くの人たちと歩むことがあっても、生涯の終わりには、私たちは、銘々が自分一人きりの道を進むことになります。
 そして、そのようになってゆく時に初めて、私たちは、今日ここで主イエスの前にやってきた患者が抱えている問題を我が事として考えるようにもなるのです。そして私たちは、自分自身の歩んだ人生がどのようなものであったかを、深く思い知らされるようにもなります。自分がいかに自分中心に人生を生きてしまったか、近しい者にも隣人たちにも思いを寄せず、また、神を慕い求めもせずに、ただ自分の思いが実現することを願って歩んでしまったけれど、それは本当に孤独な愚かな歩みでしかなかったということを知るようになります。後悔しても、時間を元に戻すことはできません。深い嘆きと悲しみ、また自責の念を持たざるを得ません。
 ところが、そのように孤独になって、もはや滅びる他ないと思い込んでいる私たちに向かって、手を差し伸べ確かに触れてくださる方がいらっしゃるのです。私たちの死の只中に踏み込んで来られて、「わたしはあなたに触れている。あなたは一人ではない。あなたの死はわたしが引き受ける。あなたはわたしが贈り物とする命を生きるのだ」と語りかけてくださる方がいらっしゃるのです。滅ぶ他ない私たちの死をそっくりそのまま御自身の側に引き取って下さり、代わりに「この命を生きるように」と、今日の命を手渡してくださるのです。

 「主よ、御心でしたら、清くできます」と願った人に対して、主イエスは、「よろしい、清くなれ」とおっしゃいました。主イエスは、この人が死の力の支配から解放されて清められ、生きるようになることを願ってくださいます。そのために、御手を差し伸べて触れてくださいました。まことにささやかな、ほとんど人目につかないような仕草です。大きなことが行われたとは、誰も気づきません。しかし主は確かにこの人に触れて、罪と死の支配と孤独から救い出してくださっています。この人がここから生きる、その人生を与え、始めさせてくださっています。
 思えば、私たちの身の上にも、この人と似たようなことが起こるのではないでしょうか。礼拝を中心とした教会生活の中で、私たちも主イエスに直に触れて頂き、清められ、命を与えられて生活するようにされているのではないでしょうか。私たちが本当に辛い苦しい思いを持って礼拝にやって来て、しかし御言葉に触れて「あなたは生きるのだ」と知らされ、心が軽くされ歩んでいく、そのようなことが私たちの人生には起こっているのではないでしょうか。そういうことが実際に起こればこそ、私たちは何年も何十年も、主の御前に集って来るのです。

 ところで重い皮膚病を癒やされた人は、それで終わりではなく、定められたとおりに祭司の許に行くようにと、主イエスに求められます。この祭司は、この人が最初に病気を発症した時、この病を確かめて「この人は汚れている。交わりから追放するべき人だ」と宣言した、そういう立場の人でもあります。その祭司の許に赴いて、清められた体を見せ、今は清くなっていることを確認してもらわなくてはなりません。これは、単に病気の治癒を確認してもらい、健康であるというお墨付きをもらうだけのことではありません。そうではなくて、このことは、「癒やされ、清められ、生かされている」ことを、この世に対し、不信仰な人々の世界に対し、またとりわけ信仰を与えられている人々の生きている世界に対して証しを立てることなのです。即ち、天からも地からも切り離されて自分一人で孤独に病を負い死ぬしかなかった者に、主イエスが手を差し伸べ触れてくださり、命を与え生きるようにしてくださったことが、見過ごしにされたり、忘れられるようではいけないのです。主イエスが御手を差し伸べ触れてくださるところでは、命と人生を諦め、死ぬ他ないと思っていた人間疎外の状態に終止符が打たれます。もう一度ここから、今、自分を生きることが始まります。そして、そのことが決していい加減に扱われたり、無視されてよいことではないのです。
 この箇所の先で主イエスが教えておられますが、「ともし火が灯されたなら、それを穴の中や升の下に置くのではなくて、人々に光が見えるように燭台の上に置くもの」なのです。今日の記事から聞かされている知らせを、黙ったままにしてはならないのです。それは、私たちすべての者の心に、特に良心に受け止められ刻まれなくてはなりません。私たちは決して自分一人だけで生き、いい加減に死んでゆくのではありません。少なくとも私たちには、どんな状況にあっても、「手を差し伸べ、触れてくださる一人の兄弟」が与えられています。主イエス・キリストというお方が最初の兄弟として、私たちに出会ってくださっています。そして、私たちすべての者が、この方に触れられることによって、天の父も与えられることになるのです。

 そして、この兄弟と天の父が共にいてくださることで、私たちには更に、隣人として生きる多くの兄弟姉妹たちが与えられていることを憶えたいのです。私たちは、滅びるために生活する捨てられた者たちでは断じてありません。父が命と健康を支えて、「今日を生きるように」と私たちに命を手渡していてくださり、主イエスが直に私たちに手を触れてくださり、そのことを知らせてくださっています。
 教会の交わりの中で、ここで生きる中で、私たちもまた、銘々が主によって命を支えられ、御前に健やかな者とされていることを憶え、そういう命を重ねてゆきたいと願うのです。お祈りをお捧げしましょう。

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