聖書のみことば
2024年4月
  4月7日 4月14日 4月21日 4月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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4月14日主日礼拝音声

 人間をとる漁師
2024年4月第2主日礼拝 4月14日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第5章1〜11節

<1節>イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。<2節>イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。<3節>そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。<4節>話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。<5節>シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。<6節>そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。<7節>そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。<8節>これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。<9節>とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。<10節>シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」<11節>そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 ただ今、ルカによる福音書5章1節から11節までを、ご一緒にお聞きしました。1節に「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」とあります。
 主イエスが人々を教えて、「神の恵みの御支配、神の国の福音」を告げ知らせたのは、安息日の会堂に限ったことではなかったようです。週の普通の日にもお語りになり、それはゲネサレト湖(ガリラヤ湖)の畔においてもそうであったと述べられています。これは今日風に言えば、主イエスは日曜日の礼拝堂の中にだけおられるのではなくて、私たちが一週間の生活をしている時にも、すぐその傍らにいてくださり、「神さまが今日もあなたと共におられる」と御言を語りかけてくださっているということでしょう。そして、そういう主イエスをめがけて、大勢の群衆が押し寄せたと述べられています。
 主イエスを求めて大勢の人々が集まってきたことは、今日の箇所で初めて述べられている話ではありません。先週間お聞きした4章42節でも、群衆が主イエスを捜し回って御側近くに押し寄せ、自分たちの許から離れないでいただきたいと願っていました。またその前の4章40節でも、色々な病気や苦しみ悩みを抱えている人々が主イエスの許に案内され連れて来られていたことが記されていました。主イエスはカファルナウムの人たちから大いに歓迎され、頼られていたのですが、しかし今日の箇所はそれらの出来事とはやや違いがあったような語り方になっています。どこが違うのかと言いますと、「神の言葉を聞こうとして、群衆が集まって来た」と言われている点が、微妙に違っているのです。今までのところでは、主イエスが病んでいる人たちや困難を抱えている人たちの役に立ってくださり、癒しの業を行ってくださる、そのことを目指して大勢の群衆が集まって来ていました。でも今日の箇所では、神の言葉を慕い求めて多くの人々がやって来たと言われているのです。
 「神の言葉を聞こうとして集まって来る」というのは、確かに自分が癒やされたいとか、誰かが癒やされる様子を眺めたいとかいうのとは違いがあるように感じられます。でも、ある教者はこの箇所を説教して、「自分が癒やされたいとか抱えている問題の解決を与えられたいとか願ってやって来る人々も、結局のところ、神の言葉を聞くというところに向かって行くことになる。何故なら、神は御言によって新しいものをお造りになられるからだ。癒しの出来事も、神さまの御言が語られ、聞かれ、そしてそれが受け止められる中で生じる。その点をルカは大変注意深く語っているのだ」と説明しています。そう説明されますと、私たちにも思い当たる節があると思います。確かに私たちも、礼拝の中で慰められたり勇気づけられたり、あるいは今直面している問題について新たな気づきや視点が与えられて、礼拝に来た時と帰りの道で気持ちがすっかり変えられ、肩の荷が軽くされたように感じる時がありますが、そこで一体何が起こっているのかと考えますと、聖書の御言の説き明かしを聞き、賛美する中で、神の御言が私たちに語りかけられていることに気がついて、それで慰めや勇気が与えられるということが多くあるのです。その意味では、癒しや慰めを必要とする人々が、究極的には神の言葉を求めてやって来るのだという説明には頷けるものがあると思います。

 主イエスの許を訪れる人々はそんなふうだったのですが、ではその一方で、主イエスはこの日、そういう人々の姿に何を御覧になっていたのでしょうか。御言を求めてやって来る群衆が大勢だったことに気を良くして目を細め、その様子を御覧になっていたのでしょうか。どうもそうではなかったようです。この日、主イエスの視線の先には、二そうの漁船とその傍らで網を洗っている漁師たちの姿がありました。2節に「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた」とあります。
 岸に引き上げられた2そうの舟、その傍で漁師たちが網を洗っているという様子は、当時は、特段変わったものではなく、この場所で毎日見かけられる、ごく普通の風景だったかもしれません。しかし主イエスは、注意深く観察なさいます。この日、特に漁師たちが疲れを覚え、がっかりしている様子を御覧になっておられました。その理由は、前の晩に懸命に網を降ろしたけれども、何も漁獲が得られなかったためです。5節にそのことが語られています。主イエスはこの日、私たち人間生活の現実にある「徒労」を御覧になっておられました。舟の傍らで漁師たちが肩を落とし、うなだれながら、それでも次の漁のために網を洗い、繕い、乾かし、そして網を畳む様子を見ておられたのです。主イエスは漁師たちの疲れと無力感を御存知でした。そして、そうであればこそ、わざわざシモン・ペトロに声を掛け、湖に舟を漕ぎ出してくれるようにとお頼みになりました。舟に乗せてもらった時、主イエスは、この日ここから何が起こるかをすべて御存知だったのです。
 主イエスは、舟の中から聖書の言葉の説き明かしをお語りになって、岸辺の群衆に向かって「神の国が来ている。神さまが今、あなたと共にいてくださる」と教えられました。舟に乗っていたペトロはその言葉に熱心に聞き入っていたのでしょうか。そうかも知れませんが、そうではなかったかも知れません。「神さまの慈しみが、今、あなたの上に置かれている。あなたは神のものとされて憶えられている。あなたは実り豊かな人生を生きるのだ」と、主イエスが御言を説き明かされても、ペトロは、実際には前の晩、何も獲物がなかったのですから、無力感や徒労感の方が強く感じられていて、主イエスの言葉など上の空で聞いていたかもしれません。もちろん主イエスも、そのことを御承知の上で語っておられます。ペトロや他の漁師たちが無力感と徒労感に強く捕らえられていることを、主イエスは御存知なのです。

 主イエスは、ひとしきり聖書を説き明かされ話が終わった時、思いがけないことをペトロにお求めになりました。今ここから沖にこぎ出して網を降ろし漁をするようにお求めになったのです。4節に「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた」とあります。この時点で、ペトロの中には、当然ですが迷惑だという思いが兆したことでしょう。前の晩、一睡もせず努力したのに成果がありませんでした。本当なら網を洗って畳んだ後、すぐ家に帰ってふて寝したかったところでしょう。しかし、頼まれたので舟を出しました。舟を漕ぎ出したこと自体が、既にペトロが主イエスに好意的に振る舞っている一つの事実です。ところがその上に、網まで降ろすように求められました。それは日中の時間ですから、魚からすれば、舟も網も見えますから、普通の漁師であれば、日中には漁はしません。もしここで何も獲物がないならば、もう一度すべてを最初から、網を洗い、繕い、畳むことになります。おそらくは「またか」という不機嫌な思いがぺトロに兆したに違いないのですが、一方で、姑の熱病を癒してもらった恩義もあり、主イエスの言葉を断われないという気持ちにもなりました。
 そこでシモン・ペトロは、5節のように答えて、網を降ろしました。5節6節に「シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」とあります。細かなことですが、「漁師たちが網を降ろした」と言われていますので、舟に乗っていた漁師は一人ではなかったことになります。この時点でセべダイの子ヤコブとヨハネはまだ岸にいますので、舟の中にいたのは、名前は出て来ませんが、ペトロの弟のアンデレだったのでしょう。
 網が破れそうな程の大漁でしたので、ペトロはもう1そうの舟の漁師たちにも加勢してくれるように頼み、2そうの舟で網を引き上げ、それぞれに魚を満載して戻ったのでした。これ程の大漁は、これまでの漁師人生の中で一度もなかった程のことだったに違いありません。

 ペトロはこの経験から、自分が主イエスの言葉を聞いていた時に、それを聞き流し、真剣には受け止めていなかったことに気づきます。それでペトロは、主イエスの足もとにひれ伏して、自分の罪を告白しました。8節に「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った」とあります。ペトロがここで言っている「罪」は、何かの観念や漠然としたものではありません。人間は皆罪人であるというようなことではありません。もっと、ずっとはっきりとしています。すなわち、主イエスの言葉を本当には心の底から信じていなかったという具体的なあり方を思いながら、「わたしは罪深い者なのです」と言い表しました。
 この時のペトロの気持ちを考えてみたのです。今までペトロ自身はそんなつもりではなかったのですけれども、実際には、主イエスのことを軽く考えていました。「神について話しておられる」とは思っていても、まさか自分に対して神の言葉を語りかけておられるとは思わなかったのでした。そのことに気づき、自分は何と罪深いかと思ったのです。
 ところがこの時のペトロの思いは、「どうか罪深いわたしをお救いください」という方向には向かわずに、「主よ、わたしから離れてください」と言っています。この点を覚えたいのです。もしかすると、この言葉はとても大切なことを私たちに教えてくれているかも知れません。本当に清らかな方の御前に立つと、私たちは喜んだり賛美したり救いを願ったりするよりも、まず先に、畏れを憶える、逃げ出したくなるようなのです。
 これは今日の箇所のペトロに限りません。たとえば、旧約の預言者イザヤが、エルサレム神殿で神を幻の仰ぎ見た時、イザヤは喜びませんでした。「災いだ。わたしは滅ぼされる」と言ったことが旧約聖書イザヤ書6章5節に語られています。「わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た』」とあります。この時イザヤが見たのは、清らかな神の姿全体ではありません。その衣の裾の方しか見ていないのです。そうであるのにイザヤは、神の御前に立ったと思った時に、滅ぼされると感じています。私たち人間は、本当に清らかで正しい方にいきなり出会わされると、自分の存在が決して確かではなく、不完全で仮そめの者でしかないことを思わされて、滅びを感じざるを得ないようなところがあるのです。
 ですからこの日、ペトロも、「神がここにおられる」という福音が語られていたことに気づいた時に、救いを願うのではなくて、畏れを憶え、自分と絶縁してくださるように主イエスに願ったのでした。
 仮に、主イエスがこの時、ペトロの願いをそのまま受け容れ、絶縁なさったならば、どうなっていたでしょうか。おそらくここから先ペトロは、空気の抜けた風船のような人生を過ごす他なかったのではないでしょうか。自分が本当に清らかな方と出会ってしまったという経験は、決定的な経験であって、忘れようとしても忘れられるものではありません。そのことを思い返す度に、「わたしは清くない。本当は神の怒りに遭って、滅ぶしかない者だ」という思いに捕らわれてしまうことになるでしょう。すると、そこから後は何を行っても楽しくも嬉しくもなく、「なんと惨めな者か」と、ただ命が尽きるのを待つだけの人生を歩むようなことになってしまいます。

 しかし主イエスは、そんなペトロを御覧になって、憐れみをかけてくださり、改めて祝福の下に置いてくださいます。主イエスは、罪に気がついて自分が罪人だと自覚したペトロを突き放す代わりに、深い憐れみと慈しみの下に置いてくださるのです。それが10節の主の言葉です。「シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる』」。主イエスはペトロたち4人の漁師を、いっそう近くに引き寄せ、主イエス御自身の御業に仕える漁師とすると言ってくださいます。
 主の弟子となることは、今までの人生をすべて捨てて、いわば出家するようなこととは違います。キリスト者は皆、それぞれの人生を与えられて生活してゆく、そのところで、主のものとしての務めを与えられ生きるのです。主イエスの弟子となっても、ペトロたちは、尚、漁師であり続けます。教師は教師として、物を造る人は物づくりの専門家として、また主婦は群れの交わり全体を支える主婦として、また父は父、母は母、子は子として、主イエスが支えてくださる新しい生活の中で、共に用いられ、生かされるようにされるのです。

 ある人が今日の箇所を説明して、大変興味深いことを述べています。「この日、ペトロは主イエスによって人間をとる漁師にされたのだけれども、そのように変えられるために、まずはペトロ自身が主イエスの釣り針にかかり釣り上げられなくてはならなかったのである」と言っています。キリストにすっかり捕らえられることで、その人には新しい生活が始まるのだと告げられています。ペトロたちは決して、漁師として腕が悪く、稼げないので廃業して、別の仕事として宗教家になった訳ではありません。そうではなくて、漁師として働いて来た、そこで主イエスと出会わされ、主イエスの御言に従って網を降ろす時程、豊かな漁獲が与えられることを、まず自分自身が知らされ、そしてそのことを周りの人たちに伝えて主の福音を告げ知らせ、御言に仕える者にされていったのです。

 主イエスが御覧になっていたのは、ペトロたちの徒労でした。私たちの地上の生活には、時に、願った成果が生まれず、骨折り損のくたびれ儲けばかりが続いてしまうように感じられる場合があるかも知れません。自分の思いや予想通りにはゆかず、苦しい思いをして無力感を憶え、深い疲労を感じる時があるかも知れません。しかしそれでも、そういう私たちの日々の現実を主イエスが御覧になっているのです。
 私たちに語りかけてくださる主イエスの福音は、そういう私たちが尚、神の御前に憶えられていて、「あなたは神さまに選ばれ、清い者として生きるように招かれている。そういう者として、あなたは網を降ろしてみなさい」と教えてくださるのです。ペトロが網を打って漁師としての豊かな収穫を与えられたように、私たちもそれぞれに、今日、自分にできることを数えそれを行って生きることで、豊かなものが与えられ支えられ、しかもそれが神の御業に用いられていくことを憶えたいのです。
 神はこの世界が滅ぶようにと導いているのではありません。この世界が命と喜びに満ちて、神が私たちを生かしてくださっている本当に素敵な場所であることを喜び、賛美しながら生きる生活へと、すべてを持ち運ぼうとしてくださっています。そしてその中に、キリスト者一人ひとりの生活も用いられていくのです。

 今日の箇所には、最初の弟子たちの招きの出来事が語られています。これは私たちが教会の群れに招かれキリスト者とされていることの原点と言ってもよい出来事です。そしてそこには、罪を憶えた罪人を決して突き放すのではなく、御側近くに招き寄せ、共に生きようとおっしゃってくださる主イエスの招きがありました。優れた人や若くて力がある人たちを選別して、そういう人たちを招くのではなく、「主の慈しみと憐れみの中を生きるように」という招きがここにはあります。私たちは、そういう主イエスの招きに共々に召されているのです。
 「今日、あなたの網を降ろしてみなさい。あなたの漁をしなさい」と主イエスが呼びかけてくださいます。そしてそのように呼びかけてくださる時には、主イエスは既に豊かな収穫を用意して、「あなたの働きは豊かに用いられる」と約束してくださっています。この主イエスの呼びかけに応えて生きる生活が信仰生活ではないでしょうか。
 主イエスが「今日を生きるように」と言ってくださる御言に慰められ、力をいただいて、銘々自分に与えられている生活をここから心を込めて歩む、幸いな者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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