聖書のみことば
2021年9月
  9月5日 9月12日 9月19日 9月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

9月26日主日礼拝音声

 再び会堂にて
2021年9月第4主日礼拝 9月26日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第3章1〜6節

<1節>イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。<2節>人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。<3節>イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。<4節>そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。<5節>そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。<6節>ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 ただいま、マルコによる福音書3章1節から6節までをご一緒にお聞きしました。1節に「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた」とあります。「また会堂に」と言われていますので、主イエスがこの会堂に入られたのは初めてではなかったのだろうと想像できます。
 この会堂がどこの町の会堂だったのか、それはよく分かりません。前のところ、1章21節には「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた」とあります。このカファルナウムの会堂での出来事が、主イエスが権威を持っておられる方として人々を教えられた、最初の記事です。この記事の印象が大変強いので、今日の説教題を「再び会堂にて」と付けた時には、当然、今日の出来事の舞台となった会堂もカファルナウムの会堂だろうと勝手に思い込んでいました。ところが、再度最初から読み返してみますと、1章39節に「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」と記されていることに気づきました。ここに「ガリラヤ中の」と言われていますから、一つや二つではなく、多くの村や町の会堂にお入りになったと思われます。そしてそこで主イエスがなさったことは、「宣教し、悪霊を追い出す」ということでした。そしてそれは、カファルナウムの会堂でなさったことと同じことでした。
 カファルナウムの会堂での記事は、一つの物語としてドラマチックな語り方になっていますが、主イエスがそこでなさったことは「教える」つまり「宣教」であり、その教えを聞いた人たちは主イエスを権威あるお方として、その言葉に大変驚いたのでした。しかし中には主イエスの語られる言葉に激しく反発して、その言葉と自分との間に何の関わりがあるか、何の関わりもないと言い張る人がいました。主イエスは、そのように反発する人から、神に敵対して反発する汚れた霊だけを追い出されました。主イエスの言葉に反発する人を立ち去らせて群れから締め出したというのではなく、その人自身は群れの中に留め、神の御支配に逆らおうとする汚れた霊だけを、その人の中から追い出されたのでした。それがカファルナウムの会堂で起こった出来事でした。
 他方、ガリラヤ中の諸会堂で主イエスがなさったことも、一つ一つが具体的に記されているわけではありませんが、「宣教し、悪霊を追い出された」と記されていますので、主イエスはどこの村、どこの町に行かれても、安息日になると会堂にお入りになり、そこで権威をお持ちのお方として「今、あなたがたのもとに神の恵みの支配が訪れて来ている。だからあなたがたは、人生の生き方の向きを自分中心から悔い改め、神の御言葉に聞き従って生きるように改めなさい。神があなたを慈しみ、あなたの人生を良いものとして支えてくださることを信じて、御言葉を聞いて生きるようになりなさい」と、神の招きと保護と導きを告げ知らせてくださいました。
 そしてそこで語られる福音に反発して、どこまでも自分自身を振りかざして神から離れて自分だけで生きようとする人に対しては、離れていくままにするのではなく、その人の中に潜んでいる、神に逆らわせようとする悪霊だけを追い出し、その人自身は群れの中に留まれるようにと計らってくださいました。

 そのようにして、主イエスが幾つもの会堂で働いてこられた末に、今日の出来事に至るのです。ですから、「イエスはまた会堂にお入りになった」というのは、カファルナウムの会堂とは限りません。場所が大事なのではなく、主イエスがそれまで会堂でなさってこられたこと、「宣教し、悪霊を追い出された」その御業のために、今日の箇所の出来事もあることを伝えようとして、「また会堂にお入りになった」と言われているのです。
 そして、今日の箇所と続く3章12節までの記事はいずれも、カファルナウムの会堂以外で主イエスが宣教し働いて来られたことの一つの区切りとなっていく箇所です。主イエスがガリラヤの諸会堂で教えてこられた結果として、今日語られる出来事が起こっています。すなわち、「主イエスが会堂にお入りになる。そこに片手の萎えた人がいる」、そうすると人々は、「主イエスは一体この人をどうなさるのだろうか」と固唾を呑んで見つめるということになるのでした。2節に「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」とあります。
 人々が主イエスのなさることに注目していたと語られていますが、ここには不思議な緊張感が漂っています。主イエスが会堂に入られると、既に片手の萎えた人は会堂のどこか隅に座っていたでしょう。そのことを知っていた人々は、「主イエスであればこの人を癒すのではないか」と予測して注目しています。けれどもそれは何故だったかというと、「イエスを訴えようと思っていたから」と語られています。一体何を訴えるのでしょうか。主イエスが安息日に癒しの業をなされば、「それは安息日に禁止されている労働である。明らかな律法違反だ」と訴えようとして、その現場を見届けようとして主イエスと片手の萎えた人に注目していました。6節に、この人たちはファリサイ派の人たちだったと記されています。

 しかしこのことは、考えてみますと不思議なことです。ファリサイ派の人たちは、今まで主イエスがお語りになってきたこと、なさったことから考えて、「今日この礼拝の場には手の不自由な人が出席している。あのイエスならきっとこの人を癒やそうとするだろう」と予想して様子を窺っています。そこに悪意があることは明らかですが、しかしそれだけではなく、この人たちは「主イエスが神の権威を持っておられ、その権威によって不思議な仕方で心身の病気を癒すことができる」ことを認めてしまっているということになります。
 けれども、もしこの人たちが主イエスには不思議な力があると認めるのであれば、必然的に「その力はどこに由来するのか」という問いが起こらざるを得ません。そしてそれは、「主イエスは神の独り子であり、神の権威を持っておられるお方である」という結論に向かっていくことになるはずです。
 ところがファリサイ派の人たちは、一切、その結論に思いを向けることはありません。ただ、主イエスが癒しをするかどうかだけを見張っています。どうしてでしょうか。それは、この人たちの中にある、主イエスに対する反感が非常に大きかったからに他なりません。
 この場面は、安息日の会堂です。礼拝を守る場所です。「この世界を神さまが全てお造りになり、その中に私たち一人一人を生まれさせてくださり、神さまが私たちの命を喜んでくださっている。私たちが今ここに生かされていることを喜んでくださっている方がおられる」ことを覚えて、その神の喜びに共に与る、それが安息日の礼拝です。
 ですから、礼拝を捧げる時には、私たち人間は、たとえどんなことがあったとしても、決して自分が自分の主人なのではなく、「命の源、本当の主人である方がわたしの上におられる」ということを行いをもって表します。そしてそれによって私たち人間は、自分が造られた存在であるという感覚を取り戻し、神の保護のもとに生かされているのだということを思い起こすことができるのであり、それが安息日の礼拝の時なのです。
 ところがこの日、この会堂の雰囲気は、そのようになってはいませんでした。「神さまが私たちに命を与えてくださっているのだから、感謝し讃美しよう」と、神に思いを向けるのではなく、主イエスに反感を持ち刺々しい思いを持って礼拝の場に参加している人たちがいるために、この会堂は緊張した空気に包まれていました。

 けれども、主イエスというお方は、黙っていても人間が心の内に何を思い図るかということを見抜かれる方です。この日の礼拝に刺々しく暗い思いを持っている人がいたとしても、その思いを見抜いて上手にその場を切り抜けていくことがおできになるのです。
 そもそもここで、主イエスが癒しをなさるかどうかと人々が関心を寄せている当人は、「片手の萎えた人」と言われています。当然生活に不便はあったでしょう。けれども、たとえ片手が動かないとしても、それが命に関わるほどの一大事かというと、そんなことはありません。ですから、安息日である今日、その場でその人を癒さなくても良いでしょう。この礼拝の場では何もせず、明日になってから癒すことも、主イエスはおできになったはずです。そして、そういう方法を主イエスが取られたのであれば、暗い思いを抱えて見張っている人たちの悪巧みは空振りすることになります。そうであれば良かったのにと、思います。
 けれども、そのような人間的な私たちの思いは見事に外れていきます。3節4節に「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか』彼らは黙っていた」とあります。
 主イエスはこの日、ファリサイ派の人たちの意図を見抜いて、何とそれに対して正面から挑戦をなさるのでした。会堂の中で会衆の陰に隠れるようにしていた病人を真ん中に立たせた上で、その場にいた会衆全員に問われました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」、こういう問いかけをもって、主イエスは、この場にいた人たちに挑戦なさっています。「あなたは一体、どう考えるのか。あなたは、安息日にどういう行動を取るべきだと思うか。善いことをするのか、悪いことをするのか。命を救うことが相応しいか。命を腐らせて殺してしまうことが相応しいか」。
 ファリサイ派の人たちは、この問いに答えることができませんでした。どうしてかというと、ファリサイ派の人たちにとって安息日は、一切仕事をしてはいけない日だからです。仕事をしないということによって神に対する真剣さ、敬虔さを表すのだと、ファリサイ派の人たちは普通にそう思っていました。ファリサイ派の人たちは、神の御心に無関心だったのでしょうか。いえ、むしろ人間的な思いからしますと、ファリサイ派の人たちは非常に真剣です。彼らは考えます。「何が神の御心か、それは私たち人間には知り尽くすことはできない。人間には分からないことがある。だから、神から命じられていることには黙って従う他ない。神の御言葉、神のご命令については、『なぜ、神はそうお命じになるのか』と問うてはならない。私たち人間は、神のご命令に従っていればよい。安息日は休むのだと言われているのだから、何もしてはならない。神の御心は分からないのだから、恐れをもってそれに従うことが正しいあり方である」、これが非常に真面目な、敬虔なファリサイ派の人たちの考え方でした。

 ところが主イエスは、当時の敬虔な人たち、ファリサイ派の人たちとは全く違う考え方をなさいます。主イエスは、彼らが神に対して正しく敬虔だと思っているあり方が、むしろ神を冒涜しているとさえ思っておられるのです。
 ファリサイ派の人たちは、「神の深い御心が分からなくても、とにかく従う」のですが、主イエスは神の御心をご存知です。そして主イエスにとっては、「なぜ安息日が定められたのか。安息日は何のための日なのか」が明らかにされなければならないのです。主イエスは「神が慈しみと愛に溢れた父なるお方である」ということをご存知です。ですから主イエスは、「人々は、安息日は何のための日かを知らされ、知らされた上で、神の喜びに与らなければならない」とお考えなのです。
 主イエスが知っておられる神は、ただ不安と恐れだけを持って従っていればよいというだけのお方ではありません。「ご自身の慈しみのもとに私たち一人一人を招いてくださるお方。私たちを包んでくださって、ご自身の愛を知らせて、私たちを慰め力づけて、私たちが心から感謝し喜んで生きることができるようにしてくださるお方」、それが主イエスがご存知である神です。
 そして「神の愛を知らされた人は、喜び、力を与えられて神を賛美し、また隣人に伝えるようになっていく」のであり、父なる神がそう願っておられることを、主イエスはご存知です。そしてそのことを、まさに安息日に知るようにと、片手の萎えた人を癒されました。

 主イエスは陰に隠れていた人を真ん中に立たせて、人々の面前で「手を伸ばしなさい」と言われました。この呼びかけも、普通ならあり得ない呼びかけです。この人は手が萎えているのですから、手を伸ばせるはずはありません。ところが、主イエスが「手を伸ばしなさい」とおっしゃると、この人は不自由だったはずの手を伸ばし、動かすことができるようになりました。このことを通し主イエスは、安息日の主である神は決して冷たい鉄の掟を私たちに強いるようなお方ではなく、一人一人を慈しみ、「安息日こそ、真に命の喜びに与る日なのだ」と知らせてくださるお方だということを現されました。
  私たちは、「神の慈しみがわたしの上に注がれている。どんな事情のもとに置かれていたとしても、わたしは神の深い愛のもとに置かれている」ことを、安息日にこそ知るようにと招かれています。

 ところが、そのような主イエスのなさりようは、ファリサイ派の人たちの目にはどう映るのかというと、安息日には何もしてはならないという律法を破っているのだから、主イエスは神を冒涜し、神に逆らう者だとしか映らないのです。
 主イエスを捕らえようとして身構えていた人たちは、当初の計画からすると空振りに終わっています。主イエスの様子を窺っていた人たちは、主イエスはここで何らかの癒しの業を行うに違いないと思っていました。ところが実際に主イエスがなさったことは、ただ「手を伸ばしなさい」とおっしゃっただけでした。例えば主イエスがご自身の手を伸ばして、萎えた手を取ってさするとか、引っ張るとかの行為をしたのであれば、「癒しの業を行った」と言えますが、主イエスはただ「手を伸ばしなさい」とおっしゃっただけで、それに応じて片手の萎えた人が、主イエスを信じて手を伸ばすことができたのでした。
 ですから、そこで主イエスが律法違反をしている現場を抑えようとしていた人たちは、結局何の証拠も掴むことはできませんでした。それでこの人たちはカンカンに怒って会堂から出て行き、どうすれば主イエスを殺すことができるか、相談を始めました。主イエスを訴える証拠は掴めませんでしたが、明らかにこの癒しには主イエスが関わっているのだから、決して許せなかったのでした。マルコによる福音書では、この箇所が「主イエスを殺す相談」の最初の場面です。

 そして、この「主イエスを殺す相談」はやがて、十字架へと向かっていくことになります。それは主イエスが、律法学者のようにただ神を恐れて御言葉をおうむ返しに伝えているのではなく、神の御心をご存知の方として、権威ある方として安息日に行動し、神の慈しみと愛を分からせようとなさったことの直接の反応として、「主イエスを亡き者としようとする計画」が進んでいくことになるのです。

 主イエスは、会堂で皆に「安息日に許されていることは何か」と問われました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。ファリサイ派の人たちは、この言葉を聞きながら、安息日がまだ続いている最中に怒って出て行き、主イエスを殺そうとする相談を始めました。その場で主イエスを殺すということではありませんでしたが、しかし彼らは「安息日にすることは何か」との問いに、「わたしは安息日に人の死を願う」と答えていることになりました。

 私たちは礼拝に集められる度に、「神の慈しみが私たちの上に注がれている。私たちは神の恵みと愛のもとに置かれている」ということを繰り返し聴かされます。もしかすると、「教会ではいつも同じことを聴かされる。それは分かりきったことだ」と思う方がいるかもしれません。けれども、私たちは何度も何度も同じことを聴かされたとしても、「そのことを本当に信じて生きるのか」ということと、ただ知っているということは同じではないのです。

 私たちは、「神の慈しみのもとに置かれていることを、この週も信じて生きて良い。そして信じる者として、わたしは、人生を誤魔化しながら生きるのではなく、与えられている自分自身の命をそのまま生きて良いのだ」ということを、礼拝ごとに知らされていきます。主イエスは権威あるお方として、「私たちの上に、神の慈しみと愛が今、注がれている。あなたは悔い改めて神のものとして生きるようになりなさい」と招いてくださっています。
 私たちがそのことに反発を覚え自分から離れようとする、そのような時にも、主イエスは何とかして私たちを神の恵みのもとで生きる者となるように、働いてくださっています。

 この礼拝から私たちは、「この週も神が顧みてくださり、神が保護してくださる」ことを信じて、新しい歩みへと送り出されたいと願います。

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