聖書のみことば
2021年9月
  9月5日 9月12日 9月19日 9月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月4日主日礼拝音声

 安息日の主
2021年9月第2主日礼拝 9月12日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第2章23〜28節

2章<23節>ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。<24節>ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。<25節>イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。<26節>アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」<27節>そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。<28節>だから、人の子は安息日の主でもある。

 ただいまマルコによる福音書2章23節から28節までをご一緒にお聞きしました。23節24節に「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った」とあります。主イエスと弟子たちがファリサイ派の人々から咎められています。一体何があったのでしょうか。何をしたのがまずかったのでしょうか。咎める人々は、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言っています。どうやら弟子たちは、「安息日に、してはならないことをした」と言われているようです。それはいったい何でしょうか。麦畑の通りすがりに、他人の畑から麦の穂を勝手に摘んで食べてしまったことでしょうか。

 今日の私たちの感覚からしますと、「他人の麦畑に勝手に手を伸ばし、その穂を摘んで食べる」ということは、やってはならないことです。他人の農作物を勝手に取って食べたなら、今日では窃盗の罪に当たります。弟子たちはその点を咎められたのでしょうか。そうではありません。「他人の畑の麦を摘んで食べる」ということについて、主イエスが生きておられた頃のユダヤは、今日よりもはるかに寛容なところがありました。「手で摘んで食べる」ぐらいのことは大目に見られました。それは、旧約聖書の申命記23章26節に「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とあるからです。
 主イエスの一行もそうでしたが、古い時代のユダヤには何らかの事情で土地と収入を失ってすっかり食いつめてしまう、そんな厳しい状況に追いやられる人々が普通に見られました。例えば、ルツ記に登場する女性たち、ナオミやルツもそうでした。ナオミは夫や息子たちとともに外国であるモアブの地に行って暮らしていましたが、その外国生活の中で、夫と二人の息子たちを相次いで亡くしてしまいます。それでナオミは、亡くなった息子の嫁であったルツを伴って故郷ベツレヘムに帰ってくるのですが、しかし生まれ故郷とは言え、もはやベツレヘムにナオミ名義の土地や仕事はなく、若い嫁のルツが春の麦刈りの季節に畑で働く男たちの後をついて行って、落穂拾いをしました。ユダヤでは、畑の中で落穂を拾ったり、鎌を使わずに手で摘んで食べたりすることは、貧しい同胞が飢え死にしないようにするために認められていたことでした。

 主イエスの場合はもちろん、ルツとは事情が違います。けれども、主イエスもまた、家も土地も持たずにお過ごしでした。したがって、誰かが主イエスの一行を招き入れて食事や宿を提供してくれる場合にはその好意に与りましたが、しかし常に食べ物や宿があったわけではなく、宿がなければ野宿をし、食べ物がなければ何日間か食べずにお過ごしになるということも、主イエスの生活には普通にありました。
 主イエスは怠け者だったのでしょうか。仕事もせず毎日ブラブラしていたので、家も土地も持つことができなかったのでしょうか。そうではありません。主イエスは町々や村々に福音を宣べ伝えて、神の救いを必要とする人々を探して毎日歩き回っておられました。家を出て毎日歩き回らなければなりませんから、主イエスは家も土地も持ちませんでした。主イエスはご自身の安定した生活よりも、神の働きに仕えるために、敢えて不安定な生活を選び取っておられたのです。

 この日、弟子たちが麦畑の穂に手を伸ばしたのは、戯れではありません。この時確かに、弟子たちは飢えていました。今日の箇所と同じことを伝えるマタイによる福音書の平行記事には、12章1節に「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた」とあります。おそらく何日間か食べ物にほとんどありつけない生活が続いた、その末に、弟子たちは飢えをしのぐために通りすがりの麦畑の穂に手を伸ばしたのでした。するとファリサイ派の人々からその行いを咎められました。
 先ほど言いましたように、「飢えた人が他人の麦畑の麦を摘んで食べること」は許されていました。麦を食べたこと自体は咎められることではありません。では一体何を咎められたのでしょうか。「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と、咎める人は言っています。問題は「安息日に麦の穂を摘んだ」という点でしょうが、安息日には食べ物を口にしてはならないということはありません。安息日でも水を飲み、食べることは許されています。ですから弟子たちは、「安息日であるにもかかわらず、麦の穂を摘んだ」、すなわち「収穫作業を行った」ということを咎められ、責められているのです。
 けれども、これは明らかに言いがかりです。もしこの時、弟子たちが他人の畑に入って鎌を振るって木を切り倒し、束にでもしていたのであれば、それは確かに収穫作業を行っているということになります。しかし「麦の穂を摘んで食べる」というのは、収穫作業というような労働ではありません。穂を摘まなければ麦は食べられませんから、当然、食べるためには穂を摘まざるを得ないのです。一体誰が、食事の際に箸を手に持ってお皿の上の食品を取り口に運ぶことを「労働した」と言うでしょうか。穂を摘んで食べるというのは、飢えをしのごうとする食事の中の一連の動作であるに過ぎません。ですから、今日のところで主イエスと弟子たちを咎めている言葉は言いがかりなのです。

 主イエスは、非難する人々にお答えになりました。旧約聖書の偉大な王であるダビデが、先の王サウルから命を狙われて逃亡する際に、やむを得ずノブの町にあった聖所に立ち寄って、祭司のためのパンを分けてもらった時の話を引用しながら、25節26節「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」と言われました。
 ここで主イエスが引き合いに出しておられる出来事は、サムエル記上21章1節から7節に記されています。そこを読みますと、登場する大祭司は「ノブの祭司アヒメレク」です。今日の箇所に出てくる「アビアタル」という名前の祭司は、実はアヒメレクの息子ですから、サムエル記とマルコによる福音書では記述が少し食い違っています。けれどもこれは、もともと主イエスがアヒメレクとおっしゃったのに、マルコが間違って記録したためにこうなったのだろうと言われています。けれども、大祭司の名前が食い違っていることに大きな意味があるわけではありません。主イエスはここで、ダビデ王の話として伝えられていることを引用しながら「本当に緊急な時、空腹な者には食物が与えられる。それは正しいことなのだ」ということを教えられました。なぜなら、安息日というのは、ただ労働を禁止するという規則のためにある日ではなくて、実際に生きている人間たちのために神が定めてくださった日だからです。

 主イエスはそのことを、力を込めて更にはっきりと言われました。27節「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。主イエスは、「安息日が人間にとってどんな日であるのか」をはっきりと教えようとなさいます。安息日はファリサイ派の人々にとっては、ただ労働を休むだけの日でした。十戒の中に「安息日を心にとめ、これを聖別せよ」と教えられています。これをファリサイ派の人たちは、「どんなにわずかの仕事も行ってはならない。それは労働になる」と考えて、決して仕事をしないように、それこそ箸の上げ下ろしにさえ注意して咎めるという具合でした。「安息日には何もしない」ことを徹底すれば、自分たちの神への熱心さを表せると思っていました。
 ところが主イエスは、ファリサイ派の人々とは違う考え方をなさいます。主イエスは、「安息日は、神がご自身のお造りになったこの世界と、そこに生かされている人間たち一人一人の命を『これでよい』とおっしゃって喜んでくださる、その喜びに、造られた人間たちも共に与る日である」とお考えでした。この世界をお造りになり、この世界の中に私たち一人一人を造ってくださり生きるようにしてくださっている神は、慈しみに満ちた方であり慈愛の父である方なのです。
 神は天地創造の第7の日、すなわちそれは、世界に最初に訪れた安息日ということになりますが、その安息日にご自身の仕事を離れて安息なさり、その安息をもってご自身の仕事を完成なさいました。創世記2章2節に「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」とあります。
 ファリサイ派の人々は思い違いをしています。彼らは、「神は6日間でこの世界を全てお造りになり完成されたけれど、なおあと1日残った。それで、仕事を休まれた。神が休んでおられるのだから人間も休むべきだ」と考えています。けれども、実はこの第7の日に、神はただ休んで何もなさらなかったのではありません。第7の日に安息される、そのことによって、神の天地創造の仕事は初めて完成されるのです。もしファリサイ派が考えた通りであるならば、2章2節の言葉は「第六の日に、神は御自分の仕事を完成し、第七の日に、仕事を離れて休んだ」と記されたことでしょう。ところが神は、一見何もしておられないように見える第7の日に、安息をもって、創造の御業を完成しておられるのです。

 安息日というのは、私たちにとっては日曜日の礼拝の時と言ってよいだろうと思います。礼拝の時、私たちはただ、日頃の仕事を休んで教会に集まるのではありません。礼拝において私たちは皆で一つにされ、「神さまが私たち一人一人の命を喜んでくださっている。私たち一人一人の存在を深く御心に留めて愛し、祝福しておられる」、その神の喜びに与るのです。神が今生きている人間一人一人とこの世界を心から喜んで祝福してくださっている、その神の喜びに与って、私たちもここでそのお祝いに加わるのです。

 私たちの礼拝では、招きの言葉から礼拝が始まります。そして聖書が朗読されて説き明かされ、そこで感謝の祈りが捧げられ、讃美歌が繰り返し歌われます。私たちはそういう仕方で、神が私たちの命を本当に喜んでくださっている、その喜びに皆で与るのです。神は礼拝の時と場所を備えてくださり、私たちをここに招いてくださいます。礼拝を通して、「どんなに神さまが私たち一人一人を真剣に考えていてくださるか、私たちの命を喜んでいてくださるか」を知らせてくださるのです。
 御言葉の説き明かしを通して、私たちはまるで全身にシャワーを浴びる時のように、神の慈しみに与ります。そして、神が送ってくださった聖霊の働きによって清められ、「もう一度ここから、神さまに愛されている者、神さまがこの世界に置いてくださっている者として歩み出して良い」ことを知らされるのです。
 「主イエス・キリストの十字架と復活の御業を通して、神さまが独り子さえ惜しまないほどに私たちを深く真剣に愛してくださっている。そして私たちをご自身のものなのだとおっしゃってくださっている」、そのことを知る時に、私たちの側には感謝の思いが生まれ、その思いを祈り、賛美を捧げるということが起こってくるようになります。
 主イエスが私たちにもたらしてくださった安息日は、そういう喜びに溢れた日です。ですから主イエスは、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われました。

 仮にファリサイ派の理屈に従うならば、主イエスの弟子たちはこの日、ひもじさを我慢して一日を過ごさなければならないことになります。もともと申命記には、「隣人の麦畑に入って、手でなら穂を摘んで食べてもよい。そうやって飢えをしのいでよい」と言われているのに、安息日だから食べてはだめだと禁止してしまう、それは、本当に飢えてひもじい思いをしたことがない人、本当の飢えを知らない人の理屈でしかありません。私たちは普段、毎日のように食事を摂り体を養って生きています。安息日には空腹にならないかといえば、そんなことはありません。安息日であっても空腹になります。まして何日間か食べ物にありつけず飢えを覚えている人に、「今日は安息日だから、あと一日我慢せよ」と言うことは、その人の苦しみを知らない人の言い草です。形の上では、やせ我慢して食べずに過ごすことになるかもしれませんが、しかしそれは決して神の慈しみと喜びに与って生きる人間の姿にはなりません。

 神は私たち一人一人の辛さや悲しみをご存知であり、そういう状況から救い出し導き出して、ご自身の慈しみのもとにおいてくださいます。礼拝を通して私たちは、「神が私たち一人一人を喜び、深く愛してくださり、『あなたは今、ここで生きてよいのだ』とおっしゃってくださる」、その神の慈しみに触れ、感謝して身をもって喜ぶ者となるように召されているのです。
 安息日は決して、やせ我慢をしながら自分の敬虔さを誇るというような日ではありません。神が私たちを支えてくださり、喜んでいてくださる、その喜びに与って感謝し、神のなさりようを賛美する日です。そういう安息日の訪れを、この日主イエスは私たちに知らせてくださいました。

 私たちの安息日の土台となり、そしてまた、安息を喜び感謝する教会の群れの頭となって私たちの礼拝を導いてくださる主イエスに、心からの感謝を捧げ、賛美を捧げて、ここから再び歩み出す幸いな者とされたいと願います。
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