聖書のみことば
2020年3月
  3月1日 3月8日 3月15日 3月22日 3月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月5日主日礼拝音声

 聖霊の導きに委ねられ
2020年3月第1主日礼拝 3月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第13章4〜12節

<4節>聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、<5節>サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。<6節>島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。<7節>この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。<8節>魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。<9節>パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、<10節>言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。<11節>今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。<12節>総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。

 ただいま、使徒言行録13章4節から12節までをご一緒にお聞きしました。4節5節に「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた」とあります。先にアンティオキアの教会で礼拝が捧げられていたときに聖霊が働いて、バルナバとサウロを世界伝道の働きに送り出すと決まったのでした。アンティオキア教会の人が断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させました。送り出された二人は、まずアンティオキア付近のセレウキアに下り、そこからキプロス島に向かいます。この二人に加えてバルナバの従兄弟であるヨハネ(マルコと呼ばれることもある)も一緒でした。人間的に言えば、これは大変無謀な企てだったと言えるかもしれません。
 しばしば、「この世に出て行く」と勇ましく言われることがあります。その場合、大抵は、世の中に出て行ってその人が何をするのかということは、おおよそ見当のついていることが多いものです。ところが、この三人について言えば、これから何をするのかという点についてまるで見当がついていません。バルナバとサウロは「ともかく、この世に遣わされるのだ」と分かっていても、どこで、誰に、十字架と復活の主イエスを宣べ伝えれば良いのか、まるで見当がついていません。主イエスの福音を告げ知らせようとしても、一体誰が彼らの言葉に耳を傾けてくれるのか、彼らには当てがありませんでした。

 けれども、バルナバとサウロは、そういうことでは何も悩んでいないようです。二人には、主イエスが生きて自分たちと共にいてくださるということ、そして主イエスが今から自分たちが行おうとしていることを望んでくださっている、それが分かっていました。そういう意味で二人は神ゆえの天真爛漫さ、あるいは神ゆえの愚かさ、そういうところがありました。神が自分たちをお遣わしになっている。そうであれば何が起こるかは分からないけれど、神がすべてのことを配慮してくださるに違いないのだから、神にすべてをお委ねしよう。そう決めて二人は海に乗り出しています。行く先の世界はどのようであるか、出会う人たちはどんな人か、どこにどんな危険が潜んでいるのか、何も分かっていません。
 普通では、そのように何も分からないのに平然と乗り出して行くのは、愚か者のすることだと言って非難されます。親切な人であれば思い留まらせようとするかもしれません。

 しかし二人は、ある一つのことをよく知り、わきまえていました。それはほんの一瞬であっても、主イエス・キリストが共にいてくださるという信頼に歩む代わりに自分自身の判断や人の判断、人間的な思いを先立たせてしまうならば、この企ては水の泡になると知っていました。主イエス・キリストが自分たちを遣わしておられる。遣わされて行く世界は、全て、このお方の御支配のもとにある。すべての民が主のもとに生かされているのだから、それで十分ではないか。バルナバもサウロもそう考えています。
 ある人が、自分が暮らしている国の代表として、全権大使として他国に派遣されて行くような場合には、その人は恐らく胸を張って出発するだろうと思います。バルナバとサウロ、ヨハネの三人は、まさしく天と地の一切を治めておられる方の全権大使として出発して行くのです。そうであれば、そこに何の恐れがあるでしょうか。躊躇いがあるでしょうか。このようにして、キリスト教伝道の発端が開かれていったのだと聖書は語っています。神が働きかけ、ペンテコステの出来事を起こし、エルサレムから始まった静かなこの世の革命の業が、こういう仕方で諸々の国民の間に入って行きます。

 バルナバとサウロはキプロス島に渡りました。この島は交易で栄えていました。サラミスとパフォスを中心にしてユダヤ人も大勢暮らしていました。そしてこの島を治めていたのは、ローマから派遣されて来た地方総督で、セルギウス・パウルスという人物でした。このセルギウス・パウルスに神の御言葉が語られ、バルナバとサウロを通して、この人に永遠の救いがもたらされようとしています。それは大変不思議な仕方で生じます。そもそも、バルナバやサウロのように、昨日今日この島にやって来た者が、この島を治める最も地位の高い人に会えるということ自体が、普通では考えられないことです。しかし、神がそのように取り計らってくださいました。
 この島に上陸し、ユダヤ人の会堂で神の言葉を宣べ伝えていた二人に、ある日、総督セルギウス・パウルスから招きの使いが送られて来ました。バルナバとサウロは、この機会を捕らえて、自分たちの務めについて語りました。大変不思議なことですが、そのようにして主イエスの福音は、総督の耳に直接届けられました。ところが、まさにそこで非常に厄介な抵抗に二人は直面することになったということが、今日の箇所に語られていることです。

 総督セルギウス・パウルスのごく近いところに、バルイエスという魔術師がいたことが語られています。バルイエスとは、「イエスの息子」という意味です。御述では「エリマ」と名前が変わっていて、「魔術師」という意味です。ですからこの人は、「イエスの子」とも名乗り「魔術師」とも名乗り、しかし本当の名は明かしていません。
 当時、上流階級の教養ある家庭では、家庭教師として家付の賢者を召し抱えていました。バルイエスは、総督セルギウス・パウルスお抱えの賢者で、その影響力は大きなものでした。バルイエスは彼特有の感で、新たにやって来たバルナバとサウロは、ただならぬ者たちだと気づきました。もしかすると、この二人のために自分の立場や地位が危うくなるかもしれない、そう考えました。闇の力と繋がって動く者たちが、圧倒的な光の勢力に対して敏感に反応するように、バルイエスは、バルナバとサウロに抵抗しようとしました。キプロス島に渡って来るまではバルナバが代表をしていたようですが、バルイエスとの対決を境に、今度はサウロが前面に出て来るようになります。聖霊に励まされながら、サウロはこの得体のしれない魔術師と対決し、「イエスの子」と名乗っているバルイエスを「お前は悪魔の子だ」と決めつけて行きます。「あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか」と、バルイエスを激しく攻め立てました。するとバルイエスは、自分が偽り者だったことが明らかになってしまうかのように、目が見えなくなってしまいました。11節に「『今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。』するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した」とあります。
 サウロが「お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」と言った途端に、その通りになりました。どのくらいの期間かはわかりませんが「時が来るまで」ですから、永久に見えなかったわけではなかったようです。しかしこのように非常にはっきりした形でサウロたちの語る宣教に神が関わられるということを、セルギウス・パウルスは目の前で見ることになり、そしてサウロが語る福音を信じました。12節に「総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」とあります。

 今日の箇所の筋道を追いかけて行きますと、聖霊がバルナバとサウロを遣わして働きかけようとした相手、最初の人はセルギウス・パウルスだったのではないかと思われます。聖霊が初めからセルギウス・パウルスをターゲットにしています。ここに述べられていることを考えてみたいと思います。
 まず4節からですが、聖霊がバルナバとサウロを送り出し、セレウキアからキプロス島に上陸させ、さらに島の中心のパフォスの町まで導きました。人間的には全く何の当てもない旅路ですが、二人は何も恐れることなくやって来ました。そしてここで彼らは「サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた」とあるように、「神の言葉を告げ知らせ」ました。諸会堂とありますから、いくつもの会堂があったのでしょう。二人は次から次へ会堂に入り、主イエスの十字架と復活の出来事を宣べ伝えたのだろうと思います。
 二人が行なったことは、既に知られている旧約聖書を注釈するというようなことではありませんでした。聖書の言葉について語ったのではなく、「神の言葉を告げ知らせた」と言われています。神が主イエス・キリストを通してこの地上になさってくださったことを語り、そして、「今まさにここに、十字架と復活の主イエスが自分たちを通しておいでになっておられる。自分たちは主の全権大使として伝えているのだ」という思いを持って、彼らはユダヤ人の会堂で語りました。ですからこれは、バルナバとサウロが聖書によく精通していて知識が豊富だったから教えたということではありません。学問的に教えたのではなく、まさに聖霊が働いてこの出来事が起こっているということを彼らは伝えました。

 ところで、セルギウス・パウルスは、彼らが会堂で語っていることに興味を持ちました。バルナバとサウロの話を聞きたいと思い、彼らを招きました。7節に「この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした」とあります。ここでもセルギウス・パウルスが望んだことは「神の言葉を聞こうとした」ということです。聖書について議論したいと思ったのではなく、神の言葉に直接触れることを望みました。つまり二人を通して、神の御前に立って神の御言葉を聞き、それによって生きたいと願いました。なぜセルギウス・パウルスがそのような思いになったのか、大変不思議な感じがします。
 セルギウス・パウルスがこういう思いを持つきっかけになったのには、バルイエスの存在があったかもしれません。バルイエスは「イエスの子」と自称していたくらいですから、主イエスについての何事かを聞きかじり、ある種の知識を持っていたようです。主イエスについての知識がどのようにしてキプロス島にもたらされたのかを考えてみますと、ステファノの殉教をきっかけにして起こった大迫害が起こり、エルサレム教会から追い出され逃げて行く、その中の一部のグループがフェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったことが11章に記されていました。フェニキア、キプロス、アンティオキアは道のりを表していますが、フェニキアから船でキプロスへ、そしてもう一度船を乗り換え大都会アンティオキアへ行き、そこに住み着いた人たちがアンティオキア教会を作りました。バルナバとサウロは、逆にアンティオキアからキプロスに来ていますが、アンティオキアに向かって行った人たちはキプロス島にはほんの短い期間だけ居てすぐに立ち去ったようですから、あまり詳しい話をする時間はなかったようです。しかしバルイエスは、まさに逃げて行く途中のキリスト者の話を所々聞いて、断片的に主イエスの知識を仕入れ、自分なりの主イエスの教えを作り上げ、それを吹聴して賢い者のように装っていました。

 セルギウス・パウルスはバルイエスと交際していましたが、「賢明な人物である」と語られています。「賢明な」と訳されている言葉は、別に訳すと「聞いて悟る、理解する」と訳せる言葉です。例えばマルコによる福音書4章12節に「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」とありますが、「聞くには聞くが、理解できず」とある「理解」という言葉が「賢明な」と同じ言葉です。つまりセルギウス・パウルスが賢明だということはどういうことなのか、「福音を聞いて、それを理解することができる」人物だったと言われているのです。バルイエスはそうではありません。バルイエスは聞きかじった言葉で自分を賢明な人物だと見せるアクセサリーのように主イエスの言葉を使いました。バルイエスがそのようなあり方をしていたので、実は、バルナバとサウロがやって来たときに、バルイエスは自分の化けの皮が剥がれてしまうことを恐れました。バルイエスはイエスの子と名乗っていますが、彼は自分のことしか考えていないのです。自分がアクセサリーのように纏っている主イエスが、神の御心によって十字架に向かっていかれたのとは、まるで逆の方向に向かっています。自分を大きく見せるため、自分が深い知恵を持っているように見せるための装いでしかありません。
 けれどもセルギウス・パウルスは違います。福音を聞いたらそれを受け取ろうとして、喜んでサウロたちの言葉に耳を傾け、それを受け止めて生活しようと願う。セルギウス・パウルスがそう願ったので、バルイエスは、バルナバとサウロの言葉から総督を切り離してしまおうとしました。それに対してサウロは猛然と挑み、バルイエスの正体を明るみに出しました。バルイエスは本当の賢者ではない。パウロに正体を喝破されて、バルイエスは惨めな状態に陥ってしまいます。
 ここでバルイエスと対決しているサウロについて、9節で「パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて言った」と言われています。ここでまた「聖霊」という言葉が出て来ます。バルイエスを叱り付けるときに、聖霊に満たされた結果、こう言ったのだと言われています。バルイエスが語っていたのは本当の主イエスの姿ではなかったので退けられて行く出来事を、セルギウス・パウルスは目の当たりにして、御言葉がどれほどに力があるかを知って驚き、自ら信仰者の仲間に加わっていきました。
 ですから、私たちがここで聞かされていることは、聖霊によって送り出され、旅に出たバルナバとサウロが、記念すべき最初の信仰者を与えられるときに、終始聖霊が二人を動かしていたということです。そして聖霊が働いた出来事としてまさに神の言葉が語られ、それをセルギウス・パウルスは信じ、神の言葉として受け入れ理解する、そのようにしてキリスト者が与えられて来たのです。

 同じ福音の言葉を聞いても、ある人はその言葉を信じて受け入れるけれど、別のある人は自分のアクセサリーみたいに情報だけ持っていって、本当には受け入れることができないかもしれません。セルギウス・パウルスは信じた。けれどもバルイエスは手を引いてもらわなくてはならない姿になったと言われています。けれども、このバルイエスにも「時が与えられる」と語っているパウロの言葉を心に留めたいと思います。
 私たちは、同じ礼拝を捧げ、皆で同じ聖書の言葉に耳を傾け、同じ説き明かしの言葉を聞きます。皆が本当に喜べるならば良いのですが、ある人は喜んでも、ある人には難しかった、分からなかった、心に響かなかったと思う時があるかもしれません。つまずく人も出るかもしれません。私たちはそのことに心を痛めますが、しかし神が、そこにきっと時を備えてくださることを信じるようにと招かれているのです。サウロが「時が来るまで」と言っている言葉を心に留めたいと思います。たとえすべての人が喜ぶことができなくても、少なくともその言葉を聞いて理解し信じ信仰者としての生活を始める人もいるのですから、この礼拝に一人でも多くの人が招かれ、神の御言葉を皆で聞けるように、祈りを持って仕える者とされたいと願います。

 私たちにはすべてを理解することはできませんが、神がきっと時を与えてくださり、私たちが本当に喜んで「神さまの言葉によってわたしは生きることができる」と思わせてくださり、御言葉によって与えられた日々の生活を送る時が与えられることを信じて、希望を持って礼拝を捧げながら、なお歩む者とされたいと願います。

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