聖書のみことば
2020年3月
  3月1日 3月8日 3月15日 3月22日 3月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月29日主日礼拝音声

 朽ち果てない
2020年3月第5主日礼拝 3月29日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第13章26〜37節

13章<26節>兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。<27節>エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。<28節>そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。<29節>こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。<30節>しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。<31節>このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。<32節>わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。<33節>つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。<34節>また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、『わたしは、ダビデに約束した 聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』と言っておられます。<35節>ですから、ほかの個所にも、『あなたは、あなたの聖なる者を 朽ち果てるままにしてはおかれない』と言われています。<36節>ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。<37節>しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。

 ただいま、使徒言行録13章26節から37節までをご一緒にお聞きしました。ピシディア州のアンティオキアに建てられていたユダヤ人の会堂で、そこに居合わせた人たちにパウロが語った説教の中の一部です。パウロが会堂で人々に主イエスのことを宣べ伝えたときに、話を聞いた人たちは大変強い印象を受けました。そして、先の42節を見ますと、人々が次の安息日にも今日と同じ話を聞かせてほしいと願ったと言われています。
 同じ話と言っても、それは一言一句同じということではなく、この日パウロがアンティオキアの会堂の人々に宣べ伝えたのと同じ事柄について、「来週も聞かせてほしい」と願ったということだろうと思います。
 ユダヤ教の会堂に集まっていた人たちにパウロが語ったこと、それは、この会堂の人たちにとってはこれまで何度も聞いてきた聖書の言葉でした。けれども、何度も聞いてよく知っていると思っていた聖書の言葉が、パウロによって説き明かされると、今まで思っていたことと全然違う言葉、違う事柄を語っているようだと思えたのです。それで会堂の人たちは大変驚いて、これまで聖書についてよく分かっていると思っていたことは違っているようだと気づいて、また来週も聞きたいと願いました。
 けれども、どうして彼らはそう感じたのでしょうか。彼らがこの日パウロから聞かされた説教はどのような内容だったのでしょうか。そのことを私たちも聞き取りたいと思います。

 先週は、神がアブラハムに与えてくださった祝福の約束を、人間の不信実なあり方にもかかわらず、神は忠実に真実に持ち運んでくださっているということが語られていました。今日の箇所はその続きで、「神の真実な約束が主イエスというお方によって実現された」ということ、そして「主イエスのことが旧約聖書において予め預言されていたことだった」と、パウロが語っているところです。
 まず26節に「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました」とあります。日本語ですと言葉の順序が入れ替わってしまっていますが、26節でパウロが一番最初に述べていることは、「わたしたちに、この救いの言葉が送られています」ということです。「わたしたちに送られている救いの言葉」とは、もう少し丁寧に言うと「主イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた、神の御業」のことであり、そして「神の御業を告げ知らせる言葉」ということになると思います。
 しかしここで、「わたしたち」と言われているのは一体誰のことでしょうか。パウロは会堂に集まっていたユダヤ教を信じるユダヤ人たちに対して、キリスト者である自分たちを「わたしたち」と線引きしているのでしょうか。どうもそうではないようです。ここでパウロが「わたしたち」と語っているとき、そこで念頭に覚えられているのは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、キリスト者であろうとユダヤ教徒であろうと、今実際にパウロの言葉に耳を傾けている人、その場にいてパウロの言葉を聞くことができている全員を指して「わたしたち」と言っているようです。
 そのことは、27節を読むと少しずつ分かってきます。27節28節に「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました」とあります。「わたしたちは救いの言葉を送られ聞かされている。けれども同じ言葉が語りかけられたにも拘らず、エルサレムに住む人々や指導者たちはそれに耳を貸そうとしなかった。主イエスを救い主と認めず、主イエスについて旧約聖書に語られている預言の言葉を理解することがなく、主イエスをただ一方的に罪に定めて葬り去ってしまった」と言っています。26節に語られている「わたしたち」は、27節で「御言葉を聞きそびれてしまった人たち」に対比されています。
 パウロはこう語りながら、とても残念な思いを抱いています。パウロからすれば、エルサレムの指導者たちも願わくば主イエスの言葉に耳を傾けて欲しかったのです。もしエルサレム人々、指導者たちが主イエスの語る言葉に素直に耳を傾け、そしてこの方こそが救い主なのだと気づいていたら、随分と様子が違っていただろうとパウロは思っています。パウロはもともとエルサレムに暮らしており、教会に連なる人たちに激しい迫害を行う側にいる人でした。ですからエルサレムに住む人々や指導者たちというのは、パウロにとって知らない人ではなく、よく見知った人たちでした。昔は親しく交際していた人もいたことでしょう。ですからそれだけに、彼らが「主イエスは救い主である」ということについて無理解なことを残念に思っていたのです。
 エルサレムの特に指導者たちは、主イエスが無実だと本当は承知していながら、しかしその上で主イエスを罪に定め、処刑を、時の総督であるピラトに願い出ました。どうしてそんなことをしてしまったのか。それは、彼らが主イエスを救い主と認めず、旧約聖書の予言の言葉も理解できなかったためだとパウロは言っています。もし彼らが主イエスを信じ、旧約聖書を「主を証しする言葉だ」と考えて読んだなら、旧約聖書の中に「主イエスこそ救い主だ」と指し示す言葉があったに違いありません。ところが彼らは主イエスを認めず、ピラトに処刑を願い求め、実際に十字架にかけて殺してしまいました。

 エルサレムの人たちが十字架にかけて殺してしまった主イエスは本当の救い主であり、しかも、神が地上を生きる人間たちをご自身に結び付けようとして、神の方から送ってくださった救い主だったのですから、もしそのことが受け入れられたなら、主イエスは行く先々で好ましいお方として人々から喜ばれ歓迎されたに違いありません。わたしたち人間が、地上で様々な不安や困難を抱え、寄る辺ない者として生きていかなければならない、見通しがきかず恐れを抱きながら人生を歩んでいかなければならない、そこにもし神が、「わたしはあなたと一緒にいる。神があなたのことを見守ってくださっているのだから、あなたは大丈夫だよ」と言ってくださる救い主を送ってくださり、救い主が自分のところにも来てくださったのだということを理解することができたなら、きっとそれを知った人は喜ぶに違いありません。そしてその方を歓迎するはずです。
 ところが、実際にはそうはなりませんでした。主イエスは救い主と認められませんでした。そして無実の罪で十字架にかけられお亡くなりになりました。救い主を送り、人間をご自分に結び付けようとして神が計画してくださった御業は、人間の側の無理解と頑なさによって一旦頓挫してしまった、そんなところがあります。主イエスの十字架の出来事は、神からわたしたちに差し出された、人間を保護し人間を支えようとして差し出された神の御手を、人間の側がこの上なく乱暴な仕方で振り払い、それどころか敵意を剥き出しにして、槍で切りつけ剣で切り落としてしまうような出来事でした。何とかして人間を助け導こうとなさる神の愛のご計画は、神が救おうとなさっている当の人間の頑なさによって、人間自身のあり様によって、全てが台無しになってしまったと思える出来事となり、それが十字架でした。
 神がせっかくお遣わしになった救い主を十字架につけてしまったということによって、もし神がお怒りになり、わたしたち人間を滅びるに任せるということになさったなら、そのことについて私たちの側は、不平不満を言えるような立場ではありません。神との交わりが正しくされていないとすれば、それは人間の側に責任があるからです。十字架をご覧になって、神が私たちに背を向けられるようなことが万が一にもあったとすれば、その責任は私たちの側にあるのです。神が差し出してくださった御手を握ろうとしないで、冷淡にあしらい振り払ってしまったからです。

 ところで、実際の神はどうなさったでしょうか。人間の心ない仕打ち、十字架の出来事が起こりましたが、それに対して神は、敵意をもって敵意に報いようとはなさらず、まるで人間が思いつかないような仕方をお取りになりました。非常に明瞭に30節に「しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」と述べられています。
 そしてパウロはさらに続けて、31節32節で「このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています」と語りました。主イエスのご復活については、主イエスに付き従ってきた弟子たちが何度も何度も甦られた主イエスとお会いして確かめていることだから間違いないことだけれど、しかしそれだけではなく、自分たちも「先祖に与えられた約束」つまり「旧約聖書の言葉」ということですが、聖書の言葉を注意深く聞いて、そこに主イエスが確かに復活なさっているという福音を確かめることができると、パウロは言っています。
 ここでパウロは、旧約聖書の中にも主イエスの復活を預言する言葉があると言って、一つ二つの箇所を示しています。詩編2編を示して、33節で「つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです」と語っています。パウロがここで引用しているのは、詩編2編7節の言葉です。
 「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ」という言葉は、主イエスのご復活のことを思いつつパウロが語っていますが、パウロのこの言葉を聞いたアンティオキアの教会の人たちは、この言葉だけではなく、7節より前の言葉を思い出すことができました。実は、使徒言行録の前の箇所に、7節より前の言葉が引用されていました。使徒言行録4章25節26節に「あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』」とあります。ここに語られている二重鉤括弧の中の言葉は、詩編2編1節2節の引用です。
 詩編2編はどういう歌かと言いますと、地上を治めてきた王者がその生涯を終え亡くなったところで、跡目争いが勃発した状況の中で歌われています。今まで国をしっかり治めていた王が亡くなると、それまで王のもとで押さえつけられ、形の上では従順に従ってきた各地の豪族や王たちが一斉に鎌首をもたげ、王国に反逆するようになる、そういう場面が語られています。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう」、逆らっている人たちは、「恐れていた王はもういない。今こそ気ままに歩んで良いはずだ」と言って、王国の権威に逆らうということです。
 ところが、そのように反乱や謀反が起こっているときに、真の王である神はそこに新しい王をお立てになり、その王に向かって「あなたはわたしの子、本当の王なのだから、恐れることはない」とおっしゃるのです。それが、今日のところでパウロが引用している「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ」という言葉です。

 もともとの詩編2編は、イスラエルの王朝が転覆しそうになっている危機に際して、神が本当の王を「この者こそ正当な王だ」と言ってお立てになってくださっているという歌です。ですから、それまでアンティオキアの会堂の人たちは、昔のことを歌っていると思ったに違いありません。ところがパウロは、「詩編2編は主イエスのことを預言している言葉でもある」と説明するのです。詩編2編の中で、各地で鎌首をもたげて正当な王に逆らう勢力は、エルサレムの指導者であったり、総督ピラトであったり、主イエスを十字架に追いやっていく人々です。この世において権力を持っている、この世界は自分たちの思いのままに操れるし、自分の思いを実現するのだと思っている人たちです。そういう人たちが主イエスを十字架へと追いやり殺してしまいました。一見したところでは、正当な王に対するクーデターが成功して、その後は地上のバラバラの支配者が自分の思い思いに勝手なことをして生きていける、そういう世界が訪れたかに見えた、それが主イエスの十字架でした。
 ところが神は、そういう反乱分子が思っても見なかったようなところに正当な後継者をお立てになります。神の御心に適った王をお立てになり「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ」とおっしゃってくださった、主イエスの復活とはまさにそういう出来事だったのだと、パウロは証言しています。
 ですから、詩編2編は昔のことを思い出して過去のことを歌っているのではなく、「まさに今、復活した主イエスがここにおられる。私たちの王として共に歩んでくださる、そういうお方が立てられている」ことを表す言葉です。さらに言えば、そういう救いの言葉が、アンティオキアの教会で「今、わたしの言葉に耳を傾けているあなたたち」、あるいはパウロ自身も含めて「わたしたち」に与えられている言葉であると、パウロは語りました。
 アンティオキアの教会の人たちは、そのことを聞かされて非常に驚きました。聖書の言葉は昔の言葉だと思っていたのに、そうではなくて、「今日の、私たちの生活に関わっている。今、私たちの上におられる王を表す言葉なのだ」と知らされ、そう思ったので、ぜひ来週も聞きたいと願い始めたのです。

 このことは、思えば、今日この場所に集っている私たちにしても同じことではないかと思います。私たちは毎週毎週聖書を開き、礼拝の中で聖書の御言葉に出会います。聖書に書いてある言葉は、いずれも古くから書かれている言葉です。新約聖書の一番最後の方に書かれたものでも、今から1900年くらい前には既に文字になっていました。そういう言葉を私たちは聞いています。
 ところが、私たちは礼拝の中で、聖書の言葉を古くからある古典として聞いているのではありません。いつでも「今日のわたしたち」に神が語りかけてくださり、この言葉の中で出会ってくださる、「神の御言葉」として聞いています。どうしてそうなるのでしょうか。それは、「聖書の中に証しされた主イエス・キリストというお方が復活なさり、生きておられる方として私たちに今日も出会ってくださる」からなのです。私たちそれぞれの生活に今日も主イエスが伴って、「あなたと一緒に歩いてあげよう」とおっしゃって、私たちを支えてくださる。そのことがあるからこそ、私たちは、古い聖書の言葉が「今日このわたしに聞かされている、今日の言葉」として聞こえてくるようになるのです。

 私たちが聖書をいつも新しい言葉として聞くことができる秘密は、主イエスのご復活にあります。主イエスが私たちと共に歩んでくださる。私たちの生活に見通しが利かず不安や恐れに囚われそうになるときにも「大丈夫。わたしはあなたと共にいる。あなたは決して神から切り離された者ではない。あなたは今日この生活の中で、神に愛されている者として生きているのだよ」と、私たちに繰り返し繰り返し語ってくださる。神の言葉として聖書の言葉は、いつまでも古びることなく、朽ち果てることがないのです。

 アンティオキアの教会の人たちが強く心を動かされた出来事の中から、私たちは「聖書の中には主イエスが語られている。甦られた主イエスが私たちとも共に歩んでくださって、絶えず私たちに勇気と力と慰めとをもたらし続けてくださるのだ」ということを確認したいと思います。そして、主イエスに確かに伴われている者として、今日ここからの歩みへと遣わされていきたいと願います。

 世の中は様々な不安があり、気持ちが重いことが多いかもしれませんが、しかし、そのような時代というのは、今だけではありません。ヨーロッパでは中世にペストが流行り本当に多くの人たちが亡くなりましたし、あるいは戦争によって、いつ命を失うかわからないという状況もありました。しかし、そういうすべての時代を貫いて、主イエスはそこに生きている人たちと共に歩んでくださるのです。「わたしはあなたと共にいる。どんなことがあっても、あなたは神の愛から引き離されてはいないのだ」、このことを主イエスが身をもって伝えてくださりながら、共に歩んでくださいます。

 私たちも、主イエスに伴われている教会の枝枝とされていることを本当に感謝したいと思います。そして、主イエスが与えてくださる一日一日の生活を、心を込めて歩む者とされたいと願います。

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