聖書のみことば
2019年8月
  8月4日 8月11日 8月18日 8月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月4日主日礼拝音声

 ガマリエルの憂鬱
2019年8月第1主日礼拝 8月4日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/使徒言行録 第5章17節〜42節

5章<17節>そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、<18節>使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。<19節>ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、<20節>「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。<21節>これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。<22節>下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。<23節>「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」<24節>この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。<25節>そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。<26節>そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。<27節>彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。<28節>「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」<29節>ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。<30節>わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。<31節>神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。<32節>わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」<33節>これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。<34節>ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、<35節>それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。<36節>以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。<37節>その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。<38節>そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、<39節>神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、<40節>使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。<41節>それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、<42節>毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

 ただいま、使徒言行録5章17節から42節までをご一緒にお聞きしました。
 ここにガマリエルという人物が登場します。「十字架に架けられた主イエスが神によって甦らされ救い主として立てられている。私たちはその事実を宣べ伝える証人である」と使徒たちが率直に力強く語った時、サドカイ派を中心とする人々の妬みと怒りを買ってしまい、最高法院に引き立てられ、形の上では合法的に殺されそうになります。ガマリエルはそこに登場します。彼は真面目で賢く信心深い人でした。34節に「ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人」と紹介されています。ガマリエルは、使徒パウロがまだサウロと名乗ってファリサイ派だった時のサウロの先生であったことでも知られていますが、このガマリエルが懐の深い高潔な人物だったということは、今日の箇所で、召集された最高法院での発言からもよく分かります。最高法院での裁判の中で、使徒たちがはっきりと「主イエスこそ救い主、メシアである」と発言しますと、その場にいた議員の多くが激しく怒り使徒たちを殺そうと考える、その場面で、ガマリエルは、いきり立つ同僚たちを諌めているのです。

 議員の多くが怒りに駆り立てられ前後も弁えずに使徒たちを殺そうと思っている、そのただ中にあって、ガマリエルは立ち上がり、今自分たちにできる事柄の限界を弁え、きちんとした手続きをとるようにと忠告します。ガマリエルはいかにもファリサイ派の教師らしく、少しでも聖書に照らして過ちを犯すようなことがあってはならない、念には念を入れて行動するようにと警告します。ガマリエルは言いました。「今、使徒たちを怒りに任せて取り扱ったとしても、よもや神さまに逆らうことにはならないと思うけれど、しかしそれでもなお、ここは大事を取った方が良い。暫くは軽はずみなことをするのではなく、辛抱して事の成り行きを見守るのが良い。もし、ここで起こっていることが人間から出たことなら、前例があるように、一時的に人々に印象を与えてもそれはやがて廃れていくに違いない」、38節39節で「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」と言いました。この理に適ったガマリエルの言葉を聞いて、一時いきり立った最高法院は、無謀な企てを実行に移すことを控えました。そして、使徒たちは、間近に迫っていた死を免れることになりました。
 この時以来、ガマリエルは、ユダヤ人以外の人たちからも「道理を弁えた寛容な精神の持ち主」として尊敬されるようになるのです。確かにここには、短絡的な激情にかられて行動するのではなく、冷静に寛容に事を行った跡が見られます。

 けれども、ここで問題になっていたのは何だったでしょうか。使徒たちがここで率直に弁明したことによって問われたことは何か。それは、「ユダヤ人たちが木に架けたことによって死に、三日目に復活した主イエスを救い主として告白するのか、それとも拒否するのか」、その白黒をはっきりさせることです。最高法院に引き立てられたペトロを始めとする使徒たちは、はっきり証言しました。29節以下に「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます』」とあります。ペトロは「あなたがたも神の民の一員なら、即刻、今ここで、あの方を『救い主メシア』と告白して拝まなくてはならない。まさしく機が熟している」と言っています。しかし、そうであるのにガマリエルは、「決断してはならない」と言いました。
 ガマリエルは、使徒たちの率直な言葉を聞いて本当はどう応じるべきだったのでしょうか。寛容に振舞って見せるということではなく、彼自身が、木に架けられたお方を受け入れるのか、拒否するのかをはっきりさせる決断を求められていたのではないでしょうか。ところがガマリエルは、宗教的に中立の立場を取り続けました。使徒たちの証言を聞いても、あれかこれかと言って、彼は決断しませんでした。この箇所から教えられることがあります。人間は時に、誠に賢く寛容で中庸の道を進み、懐深く、慎み深くあっても、自分としては信心深いとしても、そういうあり方のまま、誠に穏やかに、時には微笑みさえ浮かべながら、ただお一人の救い主である主イエス・キリストの傍をすり抜けてしまうことがあるのです。
 そして、このことはとても重大であり深刻なことです。というのも、この日ガマリエルがどっちつかずの態度を取った相手がどなただったかということです。このガマリエルのことを考え始めますと、今日の箇所は、単なる物語の域を超えてきます。私たちが聖書物語をただお話として聞くということを超えて、私たちはもはや、物語の傍観者ではいられなくなるのです。思いがけないことですが、今日の箇所は、私たちを聖書の中に引き込み、この最高法院の場に連れてくる、そういう箇所です。

 使徒ペトロは語りました。「あなたがたが木につけて殺した主イエスを、神さまは復活させられた。神さまはイスラエルの罪を赦すために、この方を救い主としてご自身の右の座へと上げておられる。私たちはそのことの証人である。聖霊もそのことを証ししている」。こういう聖書の言葉を聞かされながら、私たちは、自分が問われています。「あなたにとって、主イエスとは一体どなたなのか」。私たちにとって主イエスとはどういうお方でしょうか。このことについては、大雑把に言いますと、3つほどのタイプがあると考えられています。
 まず一つ目は、そもそもイエス・キリストは存在しなかったと考えるタイプです。人間の理性で考えるならば、そもそも死んだ人が生き返るはずはないのだから、使徒たちが言っているように「あなたがたが十字架に架けて殺したイエスを神さまが復活させられて、導き手、救い主としている」などということはあり得ないと考えます。「イエスがキリストで救い主だというのは、ただ弟子たちが荒唐無稽な作り話を信じてしまっただけだ。イエスという人が十字架で殺されたけれど、どこかで生きていてほしいと願っている人たちがキリストについての神話を作り出し、それがまことしやかに広がり、ついには文字として聖書の中に取り上げられるようになったに過ぎない。だからこの聖書の話は事実ではない」と考えるのです。このように考える人たちは、聖書を信仰の書物だとは認めません。主イエスへの懐かしい記憶、人間の作り出した文芸作品として、聖書のどの部分が事実でどの部分が創作かなどを大真面目に議論したりします。そして、そのように考える人は、主イエスは救い主だと信じるキリスト者を、迷信に囚われた哀れな人たちだと考えますから、時間をかけてでも啓蒙してキリスト者の過ちを正そうとしてくれたりするのです。
 二番目の考え方は、イエスという人は確かに存在したけれど、それは宗教的な天才として存在したという考えです。理性的に考える人たちの中にも、主イエスをそう捉える人たちはいて、彼らは主イエスに対して最高の褒め言葉を与えます。「イエスは高潔な人間の生きるべき道を教えている。そういう点で誠に立派である。ブッダとかソクラテスとか、歴史の中にそういう人は何人かいて、彼ら同様イエスも私たち人間が生きていく上で大変重要なことを教えてくれる優れた宗教的指導者である。私たちはイエスの教えに学び、その教えを暮らしの中で応用していかなければならない」と考えます。
 このように、第一、第二の考え方があるのと並んで、もう一つの考え方があります。それは「ナザレのイエスという方は、真実に神さまの許から来られた神の独り子、御子であるお方である。このお方は、神さまから与えられた特別な務めのために、この世においでになった。この方は十字架にお架かりになり、その苦しみと死を通して、私たち人間全てが神抜きで平気で生きてしまう罪をご自分の側に引き受けてくださった。十字架上で苦しみ死ぬことを通して、私たちの人間の罪を十字架によって滅ぼし清算してくださった。そして、その後で死から復活して、私たち人間に、決して滅びることのない永遠の命があることを約束してくださっている。まさにこの方こそ『わたしは道であり、真理であり、命である』とおっしゃることのできる唯一の方であって、他の誰によっても救いは得られない。私たちが救われるべき名は、天下にこのお方の名前以外には与えられていないと言われるようなお方なのだ」と受け止めます。これが、教会が主イエス・キリストというお方について受け止めてきている受け止め方です。
 「わたしは道であり、真理であり、命である」と、主イエス自身が弟子たちに教えられたように、主イエスが歩まれた人生そのものが真理です。しかも、ただ一つの真理です。そして、そのことを信じればこそ、使徒たちも、その後に続く教会も、普通であれば尊ばれるはずの寛容ということの限界に突き当たるのです。「十字架に架かり復活されたお方、主イエス・キリストというお方が私たちと神を結ぶただ一つの道である」、この主イエスに直面してしまうならば、私たちは、何に対してもただ寛容ということではいられなくなるのです。主イエス・キリストこそが唯一の救い主だからです。「主イエスはキリスト、救い主である」という信仰の言葉が人間の口から語られ宣言される、そこでは、聞かされたことを私たちが「本当です」と言って受け止めるのか、それとも否定してしまうのか、そのどちらしかなくなるのです。そして、そのことがこの日、最高法院の場で使徒たちによって突きつけられた問いです。この箇所を聞く人は誰もが、この言葉に突き当たらなければならなくなります。
 使徒たちは、「主イエスはキリスト、救い主である」という点については、曖昧にすることはできません。1ミリも譲ることはできない。使徒たちは、これまで主イエスに従って経験して来たこと、主イエスが自分たちのために十字架に架かり、死なれ、しかし三日目に復活なさったこと、弟子たちに新しい命を与えると言ってくださったこと、これらのことについて譲ることはできないので、寛容でいられません。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言いました。
 使徒たちは、すべての人を愛すればこそ、寛容ではいられないのです。もしここで使徒たちがガマリエルのように寛容になってしまったら、どうなるでしょうか。こちらの考え方も良いがあちらも良いと、どっちつかずの態度を取ってしまうと、それこそ、神がすべての人間のために差し出してくださった十字架と復活の出来事が起こっているのに、これ以外のことでも良いと言ってしまえば、すべての人のための救いを蹴飛ばしてしまうことになるのです。言うなれば、神から与えられている本当に大きな贈り物を、人目につかないように土の中に入れて隠してしまうようなものです。

 そういうわけですから、使徒たちはここで、どんな理由があれ、自分たちがどんなに憎まれ殺されるという危険があったとしても譲ることができません。キリスト教信仰に生きる人は皆、その点では同じだろうと思います。キリスト者は、十字架に架かり復活した主イエスこそが救い主なのだという点について、どうでもよいという態度ではいられない。「これは、私たちのために神さまが行ってくださったこと。私たちが信じなければならないことである」ということを、私たちは自分で受け止めなければならないし、できるなら多くの人にこのことを知ってほしいと願わずにはいられないのです。
 ガマリエルは宗教的に寛容ですが、キリスト教信仰に生きる人は、宗教的には不寛容であると言えます。しかしキリスト教的不寛容というのは、ある一つのことは決してしません。力で有無を言わせず信仰を強いるということはしません。キリスト者にとって唯一の武器は言葉です。また、魂の剣とも言われますが、祈りです。苦しむことです。今日の箇所でも、使徒たちはそういう経験をしています。42節に「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行った」とあります。使徒たちは力を行使するのではなく、むしろ不正な取り扱いをされることを耐え忍び喜びとしました。非暴力がキリスト者の武器であり、キリスト教的不寛容の姿です。私たちはどんな仕打ちを受けても、「主イエスは救い主である」という事実を曲げるわけにはいきません。けれども、だからと言って、主イエスを否定する人を力づくで滅ぼそうともしません。

 そうなると、キリスト者はいつも理不尽な扱いを受けることになるし、この世で高ぶっている人たちを改めさせることはできないではないかと考える方もいるかもしれませんけれども、使徒たちはそんなことを少しも心配していないようです。41節以降に「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」とあります。使徒たちは相変わらず、「主イエスは救い主である」と語っていました。鞭を受け傷を負ってもという状況の中で、使徒たちが耐え忍んだというのであれば分かりますが、喜んでいたということは、人間的には理解できないかもしれません。主イエスを宣べ伝えるために本当に苦労し辛い思いをするけれども、しかし使徒たちは喜んで、再び「主イエスは救い主である」と公然と宣べ伝えました。
 そして実は、この単純さは、とても強いのです。ガマリエルは、こういう使徒たちの単純さを諌めることができません。「主イエスは救い主である」と宣べ伝えられていることについて、肯定も否定もしません。実はガマリエルは大変寛容そうに見えながら、使徒たちの教えについてまるっきり無関心で中立です。ガマリエルは、「自分には関わりがない」という仕方で、使徒たちの言葉に対する自分の態度を決めています。ですから、関心を持たないという仕方で、受け入れていないのです。ガマリエルはキリストに対してはっきりした態度を取りません。ガマリエルにとって、主イエスというお方は、ただ一人の真理を示すお方だということではないのです。ですからガマリエルは、他に真理だと言われるものにも良い顔ができるのです。「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」と、評論家のようなことを言っています。

 ガマリエルの言葉は最高法院を動かし、人々を落ち着かせました。ガマリエルの言葉は一見尤もらしく聞こえます。確かに、人間から出たもので、一時的に繁栄してもすぐに廃れてしまうものはあります。そのような宗教も団体も、世の中にはたくさんあります。
 一方で、教会は圧迫された時がありましたが、ガマリエルの時代から今日に至るまで、ずっと続いています。いかにもガマリエルの言葉は本当のことのようですが、しかし、よく考えますと、ガマリエルの言っていることは、半分しか当たっていません。この世では、神から出たものではないのに長続きするとか栄えているように見えるものは、あるのではないでしょうか。長く続いていることを以って、それは真理だという保証になるわけはありません。「人間が罪を犯して神から離れてしまう」こと、それは長く続いています。「私たち人間が地上の生活を終えて死ぬ」こと、これも長く続いています。逆に、神がどこかに伝道しようとして伝道所を開いたけれど、続かないということもあります。そう考えますと、ガマリエルの言っていることはどうなるでしょうか。神から出たものなら長続きする、人間から出たものなら廃れる、それは本当かどうか分からないのです。

 私たちは、こういう事柄を考える時にはどうしたら良いのでしょうか。恐らくそれを「十字架と復活の光のもとに置いて考える」ということが大事だと思います。主イエスが唯一の真理なるお方だからです。主イエスはご自身の十字架を指して言われます。「もし、一粒の麦が死ななかったら、多くの実を結ぶことはできない」。復活の真理はまさしくそれに当たります。私たちが自分一人だけで、自分の信仰を誇ってずっと無限に長く生きたとしても、私たちの信仰は自分一人で止まってしまうかもしれません。けれども、私たちが死すべき者として信仰を持って終わりまで生きていく、その人生の終わりを見るときに、実は、「人間は死ななければならない破れを持っているけれど、しかし、この信仰に生きて良いのだ」ということに気づかされる人は出てくるのです。キリストの教会は、そのようにして今日まで広がって来たのです。
 主イエスご自身がそうです。主イエスはご自分を「真理だ」とおっしゃりながらも、若くして亡くなられました。神から遣わされた方、主イエスは、この地上で長らえて、ご自身の大きな教団とか教会をお作りになったわけではありません。若干33歳で、人間的な栄華を輝かすこともなく、犯罪人として惨めな仕方で処刑されていきます。そして、そうであるがゆえに、ガマリエルは遂に、このお方が救い主であると真剣に信じようとしないのです。「以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた」とガマリエルは言っています。ガマリエルは内心、「ナザレのイエスという人も、多くの弟子を作り、一時的には支持を得ていたようだけれど、しかし、十字架で死んで終わった人だ」と思っているのです。

 けれども、ここにいる私たちは、ガマリエルのことを裁くことができるでしょうか。私たちにとっての本当の問題は、ガマリエルがどっちつかずの態度を取っているということではないように思います。ガマリエルがどうかということではなく、他ならない私たち自身が、ペトロを始めとする使徒たちが語っている事柄について、どうこれを受け止めて生きるのかということが問われるのだと思います。「神様は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。救い主として、主イエスは高く立てられています。あなたは死すべき破れを持った人間ですけれども、しかし今、主イエスの救いを信じて、主イエスのものとして生きていくことができるのです。そしてそれは、この地上の間のことだけではなく、地上の生活を終え死を迎えるときにも、なお真実としてそこにあります」と、使徒たちは公然と最高法院で語りました。私たちにとって本当に大切なことは、この使徒たちの言葉を自分は受け取るのかどうかということだろうと思います。
 私たち自身の中に、今日、ガマリエルのようなどっちつかずの精神があるのではないか、そう振り返ってみることが大事ではないでしょうか。この使徒言行録の記事を聞くとき、私たちは、自分の中にガマリエルのような躊躇いが多くあることに気づかされることもあるのではないでしょうか。

 「ナザレのイエスこそ救い主である」という、神が差し出してくださっている真理を私たちが受け取らないのであれば、それは残念なことだと言わざるを得ません。神は、ガマリエルに対しても、主イエス・キリストと出会うように、出会いの場を設けてくださっています。最高法院の場で「あのイエスこそがあなたの導き手であり救い主なのだ」と、使徒たちの口を通して聞かせてくださっています。
 そして今、私たちにも聞かせてくださっています。私たちは、この礼拝の中で、「主イエス・キリストというお方がおられ、その方こそ真実にどんなときにも、あなたがたに伴ってくださり、あなたの命を支え持ち運んでくださる救い主だ」と聞かされています。
 神がそのように私たちを、永遠の命に生きる者へと導こうとなさっていることを覚えたいと思います。

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