聖書のみことば
2019年6月
  6月2日 6月9日 6月16日 6月23日 6月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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6月23日主日礼拝音声

 救われる人々
2019年6月第4主日礼拝 6月23日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/使徒言行録 第2章43〜47節

2章<43節>すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。<44節>信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、<45節>財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。<46節>そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、<47節>神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

 ただいま、使徒言行録2章43節から47節までをご一緒にお聞きしました。43節に「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」とあります。「すべての人」と始まりますが、これはペンテコステの日にペトロたちが語った説教の言葉に心を動かされ、洗礼を受け教会の群れに加わった人たちを表しています。
 洗礼という出来事は、単なる儀式ではありません。人間が神の方へ向きを変えて歩み出す改心のしるしでもありません。そのような決心のしるしとしての洗礼であれば、教会に先立って洗礼者ヨハネが宣べ伝えていました。ヨハネは正義を行い、貧しい人々や弱い人たちに配慮を持って生活するようにと勧めました。そして、神抜きで罪の生活をしていることを公に悔いる気持ちを言い表し、罪と決別して新しく生きる決心をした人に洗礼を授けて回っていました。けれども、キリスト者の洗礼は、ヨハネが授けた洗礼とは同じではありません。キリスト者の洗礼はヨハネの洗礼とは違っています。このことについて主イエスは、かつて弟子たちに教えられました。使徒言行録1章5節に「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」とあります。「聖霊による洗礼」とは一体何のことなのでしょうか。何か不可思議な力が働いて、私たちに新しい能力が備わるのでしょうか。

 先週の礼拝で聞きましたが、聖霊が降ったとき、ペトロたちは新しい言葉を与えられました。外国語を話せるようになったということではなく、「他の舌」つまり、「別の言葉で語り出した」と原文にはあります。ペトロたちは、聖霊が降る前も、主イエスを自分たちの先生として尊敬し、主イエスに深く信頼し希望を寄せていました。しかしそれでも、主イエスが十字架にかかり復活なさったということを、公に話すことはできませんでした。聖霊が降ったとき、初めて、ペトロたちは大勢のユダヤ人たちの前で「あなたがたが十字架につけて殺したイエスこそ、神さまが与えてくださった救い主、メシアであり、真の主であるお方だ」と語ることができるようになりました。ペトロたちは聖霊を受けたことで、それまで語ることのなかった新しい言葉を与えられました。聖霊に励まされるようにして、公然と、主イエスの十字架と復活の意味について語り始めた時に、それを聞いた人たちは、その言葉に大いに驚きました。「心を刺された」と言ってもよいでしょう。
 「せっかく神が自分たちのために救い主を送ってくださった。ところが、その救い主であるお方を、あろうことか、自分たちの代表者である人たちが十字架につけて殺してしまった。神が私たちに手を差し伸べてくださったのに、私たちの側がそれを払いのけるようなことをしてしまった」とペトロから聞かされた人たちは、「それならば、今、私はどうしたらよいのか」とペトロに尋ね、それに対してペトロは答えています。2章38節に「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』」とあります。ペトロもまた人々に、真剣に罪と過ちを悔い改めるようにと勧めます。「過ちから離れる」という悔い改めは、洗礼者ヨハネが人々に勧めていたことと同じことです。しかし、「主イエスの名によって洗礼を受けなさい」とペトロが勧めた時に、主イエスの名によって施される洗礼には、ヨハネの勧めた悔い改めの洗礼以上のことがありました。それは、「主イエスの十字架による罪の赦し」と「聖霊を受ける」という2つのことです。

 「聖霊を受ける」とどうなるのでしょうか。そこでペトロたちが経験したことは、新しい言葉が与えられるということでした。時折、「自分は洗礼を受けたけれど、受ける前と受けた後で、別段何か変わるわけではない」とおっしゃる方がいます。実感としてそうなのだろうと思います。けれども、「本当にそうなのか」と自らを振り返ってみることができると思います。ペトロは「主イエスの名によって洗礼を受け、十字架によって罪を赦された者になりなさい。そうすれば賜物として聖霊を受ける」と言いました。聖霊は賜物ですから、神からの贈り物として与えられるとペトロは約束しました。洗礼を受けたけれど何も変わらないということは、神が約束を違えているということでしょうか。それとも、ペトロが口から出任せを言っているのでしょうか。神は私たちが想像する以上に、真に気前の良い方です。神は、ご自身が「この人に洗礼を授けよう」と思われる時に、その人には前もって聖霊を与えてくださるということも有り得るのです。これから先に聞く使徒言行録10章にも、カイサリアの町に住んでいたイタリア人の百人隊長コルネリウスという人が出てきますが、この人が家族や友人を呼び集め、ペトロを招いて主イエスの話を聞きたいと願った時に、コルネリウスも家族や友人も、洗礼を受けるよりも先に、ペトロの説教を聞いている間に聖霊を受けて神を賛美し始めます。10章44節です。その様子を見てペトロは、「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、バプテスマを受けるのを誰が妨げることができるだろうか」と言って洗礼を授けています。
 ペトロが聖霊に突き動かされて「主イエスの十字架と復活の福音」をそのまま真っ直ぐに語る時、同じく聖霊に動かされた人が、そこで耳にした御言葉に応答して「それでは自分はどうすべきか」と考えて、身を以て神を讃えるという仕方で、洗礼を受けるよりも先に聖霊が降るということが有り得るのだと思います。
 聖霊は、洗礼を受けた人にだけ働くと決まっているのではありません。聖霊は神の御心のままに働いて、私たち人間に信仰を与え、神との交わりをもたらしてくださいます。ですから、洗礼の前後で何も変わらないと感じる方は、洗礼式のその刹那に何かが起こると考えているのかもしれません。私たちは、洗礼の前後に聖霊の働きによって変えられるということは確かにあります。けれどもそれは、洗礼式の刹那に劇的に変わるということではありません。前後に段々と変えられていくということもあるのです。「洗礼を受けたけれど何の変化もなく自分は本当に救われているのだろうか」と不安に思われる方は、「主イエスは自分のことをどう思っておられるだろうか」ということに心を向けて考えてみることが相応しいでしょう。コリントの信徒への手紙一12章3節に「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とあります。ペトロほか12人の弟子たちが、ペンテコステの朝に公然と人々の前で「十字架と復活のイエスさまこそ、真に主であり救い主です」と語ったのは、聖霊の働きの結果なのです。

 そして、それを聞いた人たちが「心に恐れを覚えた」ということも聖霊の働きです。その日その時、皆が感じた恐れというのは、ペトロの言葉を通して、「実際に神が力ある業をわたしの上になさっておられる」と感じたために起こった恐れだからです。ペンテコステの朝にペトロの説教を聞いた人たちは、ただ単にペトロの話が上手で感心したということではありません。話の上手下手ではなく、またただの人間の言葉だと思ったのでもなく、「まさに今、神がペトロを通して、人間の言葉を通してわたしに語りかけておられる」と気づいたからこそ、信じた人々は恐れを覚えたのです。神がわたしに語っておられる言葉だと気づき、自分が神の言葉に触れていると知って恐れました。「自分は決して神に触れていただけるような清らかな者ではない。しばしば神抜きで生きてしまうし、神の御心など思いもせず、自分の思いが実現することばかり考えながら生きている。そうであるのに、そんなわたしに神が御言葉を語り触れようとしてくださっている」、そのことに気づいて戦慄したのです。清らかでないものに本当に清らかなものが触れてくる、その時に感じる恐れを、ペンテコステの日に洗礼を受けた人たちは皆覚えました。
 43節には「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」とあるように、「多くの不思議な業としるし」とは、「神の出来事が確かにここに行われている。神の御言葉が御言葉として聞かれ、緩やかであっても確かに自分たちが変えられていく。神の御心を感謝し賛美し、心から満たされる者に変えられていく」、そういう不思議な業としるしを目の当たりに経験することで恐れが生じているのです。文字通りの意味で、これは有り難いことだからです。
 主イエス・キリストというお方を通して、神が私たちに触れてくださっている。主イエスの十字架と甦りの御業を通して、「あなたには永遠の命があるのだ。信じて生きなさい」と教えてくださるのです。私たちの知っている命は決して永遠ではなく、誰の命も、地上ではやがて過ぎ去っていくものです。けれども、そのような命を生きる私たちが、神によって永遠に覚えられ、天の命の書に一人一人の名を記されている。そしてたとえどんなことがあるとしても、永遠なる神が私たちを匿い、支え、持ち運んでくださるのです。主イエスはご自身の十字架と復活によって、そのような神がおられることを私たちに知らせてくださいました。ですから、かつて主イエスは弟子たちに「わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない」と教えられました。もちろん、そう教えられたからといって、私たちが肉体の死を経験しないわけではありません。必ずこの地上の命に区切りをつける時がやってきます。しかし、私たちの肉体の死は、決して終わりの時、滅びの時ではないのです。キリスト者にとって死の時というのは、地上の生活を終えて、命の源、創り主である神に自分自身をもう一度お委ねする時です。それぞれに懸命に自分なりに地上の人生を生き、そしてその末に、私たちがどんな人生を歩んだとしても、最後に、神の御手に自分自身をお委ねできる、それが聖霊の働きによってキリストに結ばれている者の特権です。

 主イエスが十字架上で「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言って安らかに息を引き取られたように、私たちもまた、十字架を見上げ、主に励まされ慰められながら懸命に生きる、その末に、神に信頼して安らかに地上の命を閉じることが許されているのです。神が本当に力あるお方として私たちを捕らえてくださる。たとえどんな人生を生きるとしても、神が「あなたはわたしのものだ」とはっきり示してくださいますから、キリスト者は世の思い煩いから自由になることができます。
 最初のキリスト者たちもそうでした。44節45節に、自分の身は自分で守らなければならないという思い煩いから解き放たれた人たちの、本当に驚かされるような生活態度が記されています。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあります。
 初代教会のキリスト者たちが財産も持ち物も一切を共有にし、互いに助け合いながら生活した、そういうあり方をヒューマニズムの極致とみなす人も世の中にはいます。そういうあり方を原始共産制と呼んで大いに賞賛し、人間生活の理想像だとほめちぎる人もいないではありません。けれども、この点を私たちはよくよく注意して、聖書を読まなければならいと思います。初代教会の人たちは、何も、自分たちが理想的な社会を築こうとしてこうしていたというわけではありません。そうではなくて、聖霊の働きによって「十字架と復活の主イエスが本当にわたしの側近くに、どんな時にも共にいてくださる」と確信したために、世の思い煩いから自由になって、こういうあり方ができただけです。ですから、これは信仰の奇跡というべき事柄です。決して、キリスト者はこうならなければならないと定められているわけでも、求められているわけでもありません。
 こういうあり方は、初代教会にだけ起こっているのではなく、今日の私たちのうちにも起こっていることではないかと思います。普段は約しい生活をしているけれど、何かの折には驚くほど多額の献げ物をして周囲が驚く、そういう信仰生活をしている人はいるものです。そういう人たちは、そういう自分のあり方が理想的だと思って、見習うようにと押し付けたりすることなく、ごく素朴に「主が共に歩んでくださる。有難いことだ。主イエスがわたしの生活の全てである」と思い、喜んで教会に献げているのであり、そのような信仰者の姿は今日でも見ることができるのです。

 46節には、そんな初代教会の人たちのあり方が記されています。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」とあります。神殿で礼拝し、家ごとに集まってパンを裂き、暖かな食卓と賛美がある、それが初めの教会の根幹を成していたと言われています。
 「神殿に参り」とありますが、神殿でキリスト者が集まっていた場所は、エルサレム神殿の中のソロモンの回廊と呼ばれる場所でした。エルサレム神殿自体は、場所によって男の人だけ、ユダヤ人だけなどと区切られていましたが、ソロモンの回廊はどんな人でも入ってくることができる場所でした。キリスト者は出身が様々でしたから、そこにしか集まれなかったとも言えますが、しかしそこ集まり、全員が一つの群れだということを確認していました。44節にも「信者たちは皆一つになって」と、47節にも「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」とあります。今日聞いている箇所に、「一つ」という言葉が何度も繰り返し出てくるのは偶然ではありません。教会にとっては、全体が一つであるということが最初から当然のことでした。どれだけ人数が増えても、また世界中にどれだけたくさんの教会堂が建てられ、様々な場所で礼拝が捧げられるとしても、教会を教会たらしめるのは、ただお一人の主イエス・キリストとの交わりなのです。同じ主イエスとの交わりに支えられ生かされていく、そういう交わりが教会です。ですから、見かけでは、幾つもの小さな教会の群れがあちこちに建てられているようであっても、教会は本当は一つです。キリスト者たちはそのことを弁え、最初からそれを大事に思って心を一つに神殿に出向き、全体が一つだということを確認していました。

 信仰というのは、自分の心の思いではありません。自分が神とどう向き合っているか、それが信仰だと思っている方がおられるかもしれませんが、そうではありません。私たちの信仰は、最初から主イエスとの交わりを与えられ、主イエスを頭とする一つの群れに抱かれている、その中にわたしも置かれて生活している、そういう信仰です。

 教会全体が神殿に集まっていたのですが、その一方で、ここでは家ごとに集まってパンを裂いて共に食卓を囲む交わりも大事にされていたと言われています。この時代にはまだ聖餐式とは呼ばれていませんでしたが、主イエスが十字架に磔にされる前の晩に弟子たちを招いて過越の食事を共にして、「わたしの記念として、このように食事を摂りなさい」と命じてくださったことを、弟子たちはパン裂きごとに覚えたことでしょう。また主イエスとの食事ということでは、もっと前にガリラヤにいた頃、主イエスが山の上で4,000人、5,000人の人たちにパンを分け与えてくださり主イエスに養っていただき満腹な気分を味わった、初代教会の人たちは、そのように主イエスとの交わりがここにあるということを、家ごとのパン裂きの交わりを通して覚えました。それが今日の教会の聖餐式、愛餐会、また私たちの教会の交わりコーナーにも繋がっていくような教会の暖かな交わりの源流になっているのです。

 教会の交わりにはいつも、喜びと真心に支えられた共通の食事がありました。それは人間同士お互いが清らかで無垢で天使のようだったのでそうなったのではありません。この食事は、人間同士がお互いに仲良くするためだけの食事ではなく、いつも主イエスがその食卓の中央におられる、そういう食事でした。キリスト者一人一人は、共にいてくださる主イエスに養われて、教会の交わりに生きる喜びを知らされながら、段々とキリスト者らしく変えられて行きました。
 そして、暖かく変えられていくあり方は、教会の中だけの暖かさには止まらなかったのだと言われています。一人一人のキリスト者は、主イエスに養われる教会の交わりの暖かさに支えられながら、それをこの世界の中でも愛を行なっていくというふうに変えられて行きました。ですから、一番最後のこととして「民衆全体から好意を寄せられた」と記されています。47節に「神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とあります。この言葉は、最初の教会が自分たちだけが居心地よさを追求する内向きな交わりではなかったことを表しています。誰が入って来ても喜んで迎えますし、主イエスの愛に支えられて、この世にあって正義と愛に仕える者と、一人一人がされて行きました。
 こういう記事を聞きますと、考えさせられるのではないでしょうか。私たちの教会は果たして外に向かって開かれているのでしょうか。もしかすると、そういう点では大変素っ気なく社会から孤立してはいないでしょうか。教会で、私たちはお互い同士は仲良くするけれど、私たちはそれだけではなく、教会の交わりに支えられ養われながら、社会に対しても開かれた教会を作るようにと、最初から召されているのではないでしょうか。自分たちだけで肩を寄せ合う、時には内輪でさえ声を掛け合うことをためらう、そんなところがありはしないでしょうか。
 最初の教会は、キリストとの交わりに抱かれ支えられお互いが親密になっていくことと、外に向かって開かれ遣わされていくことの両方が、分かち難く一つであったことを、今日の箇所は伝えています。
 主イエスが私たちを招いて教会の暖かな交わりの中に置いてくださるのは、私たちが一人一人がこの社会の中で真実に生きた者となるように立ち上がらせてくださるためです。私たちが教会に来るのは、交わりだけを目的とするのではなく、ここからそれぞれの生活に遣わされていくために招かれ、主にある暖かな交わりを共にする、そういう群とされていることを覚えたいと思います。
 主イエスは、ここにおられるだけではなく、教会の外の社会に向かっても仕えてくださいます。その主イエスに仕える僕として、御言葉に慰められ、強められながら、与えられている一人一人の務めに向かっていく者とされたいと願います。

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