聖書のみことば
2019年4月
  4月7日 4月14日 4月19日 4月21日 4月28日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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4月28日主日礼拝音声

 埋葬
2019年4月第4主日礼拝 4月28日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第27章57〜61節

<57節>夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。<58節>この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。<59節>ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、<60節>岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。<61節>マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。

 ただいま、マタイによる福音書第27章の57節から66節までをご一緒にお聞きしました。57節に「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった」。十字架に架かり亡くなられた主イエスをアリマタヤのヨセフが自分の真新しいお墓に納め葬ったということは、4つの福音書が異口同音に語っていることです。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は少しずつ書き方が違っていますが、主イエスの亡骸を葬ったのがアリマタヤのヨセフという人物であったという点では一致しています。アリマタヤのヨセフの名は、主イエスの埋葬の場面では必ず出てきますので、聖書の中でもかなり有名な人物の一人だと言ってよいでしょう。ヨセフは他の箇所では一度も登場しません。主イエスを埋葬した、そのことだけで広く知られているという人物です。

 さて、主イエスの埋葬の出来事を改めて考えますと、これは実に驚くべき出来事だと言うべきではないでしょうか。と言うのも、主イエスが地上を歩んでおられた間、12弟子をはじめ多くの弟子たちと一緒に生活しておられた時には、まさか主イエスが亡くなった時に、亡骸をアリマタヤのヨセフが下げ渡してもらって葬ることになるとは誰も予想していなかったことだからです。主イエスの地上でのご生涯の中で、一番近くで歩んでいたのはアリマタヤのヨセフではなく、直弟子の中でもとりわけペトロ、ヤコブ、ヨハネという人たちであり、12弟子たちです。ですから、万一主イエスを葬らなければならないという事態になったならば、当然、ペトロやヤコブやヨハネが中心になって葬りを行うと、当時の人たちは思っていたに違いありません。
 ところが、実際に主イエスが亡くなった時、また埋葬の時には、主イエスの側近くにいた弟子たちは誰一人見当たらなかったと聖書は告げています。ペトロ、ヨハネ、ヤコブでも12弟子でもなく、代わりにアリマタヤのヨセフが俄かに登場し、心を込めた埋葬をしています。
 主イエスの葬りをアリマタヤのヨセフにすっかり任せてしまったペトロをはじめとする直弟子たちは、冷淡だったのでしょうか。冷淡で恩知らずだったために、この葬りに参加しなかったのでしょうか。多分そうではないと思います。ペトロたちが葬りの場に姿を現さないのは、冷淡だからでも臆病だからでもなく、ここで起こってしまった主イエスの十字架の死の出来事にペトロたちが真に深い痛手を負ってしまったことの表れだろうと思います。
 ペトロも他の直弟子たちも、心の底から主イエスに信頼を寄せ、また主イエスに期待してエルサレムまで従って来ました。彼らは、他の人が何と言おうとも、どう取り沙汰しようとも、「この方は救い主メシアである。そして、この方が生きることを通して、神さまのことが自分たちに鮮明に示される。そういう意味でこの方は神の独り子である」と信じていました。ですからペトロは「あなたはメシア、生ける神の子キリストです」と、主イエスに申し上げたのです。たとえ他の人たちが主イエスについて何を言おうとも、「この方こそが、神さまが生きておられ、自分たちと共に歩んでくださっていることをさやかに示してくださる救い主である」と信じて来たからこそ、直弟子たちは「たとえ一緒に死ななければならなくなるとしても、それでも従って行きます」と心を決めていました。
 ですから、弟子たちが主イエスに対して冷淡だったり臆病だったから逃げてしまい、葬りに参加しなかったということではありません。それ以上に弟子たちを当惑させてしまう出来事が起こってしまった、それが主イエスの十字架の死の出来事です。
 主イエスは十字架にお架かりになりました。二人の強盗の間に磔にされました。まさしく罪人の一人に数えられ、呪われた者として死んで行かれました。旧約聖書の申命記21章23節には「木にかけられた死体は神に呪われた者である」と、はっきり教えられています。主イエスの十字架の死というのはまさしく「神に呪われた人の死に様、死の姿」でした。そして、そのことで弟子たちは本当に激しくつまずいてしまったのです。
 弟子たちの期待、予想は、あまりにも明瞭な仕方で裏切られてしまう、そういうことが起こりました。弟子たちは、「たとえ人々がどう思っていようとも、あの主イエスこそは救い主である。神はきっと主イエスの側に立っていてくださるに違いない。だから自分たちはどんなことがあってもこのお方に従っていく」と思っていたのです。人がどのように誤解し、自分たちの先生である主イエスに酷い仕打ちをしたとしても、それでも神は、「主イエスは正しい方、神さまの御心に適う方である」ということを現してくださるはずだと信じて、最後の最後まで従って来ていたのです。ところが、その主イエスが十字架に架けられる、木にかけられ呪われた死体となる、そういう仕方で亡くなられたのです。

 私たちキリスト者は、時に「十字架の上を見上げる」とか「十字架の主を覚える」という言葉を口にすることがありますが、それはもともと聖書が身近でなく日本の文化に無いので「木にかけられる呪い」というものをあまり切実に感じていないので、口にできる言葉なのかもしれません。私たちにとって、十字架に上げられた主イエスを覚えることで何を考えるかというと、多くは、釘づけられた手傷の痛みとか血潮が流れるという身体的な痛みをまず思うのではないでしょうか。
 けれども十字架には、私たちが身体的に死に追いやられていくという辛さだけではなく「そういう死を迎えなければならない」という意味が込められています。「木にかけられた死体は神に呪われた者である」、もし自分が死ぬ時に木にかけられ神に呪われた者とされるとするならば、恐らくそういう死は避けたいと思うのではないでしょうか。別の死に方をさせてくださいと願うのではないでしょうか。ところが主イエスは、あろうことか、「木にかけられた」という仕方で亡くなったのです。ペトロたち弟子たちにとって、あの十字架の死は、ただ主イエスが亡くなったとか暗殺されたとかいうこと以上の、誠に悪い死を迎えたわけで、そのためにペトロたちは、「これまで主イエスに従って来たことの意味は何だったのか」と疑いを覚えざるを得ませんでした。「『この者は、わたしの厭う呪われた者だ』という死を、神が主イエスにお与えになった」、弟子たちはそのことのあまりの衝撃で、いわば放心状態になってしまい、とてもこの亡骸を葬って差し上げようという気持ちになれなかったのです。
 そういうわけで、今まで目立たないように、主イエスの弟子であることをひた隠してきたアリマタヤのヨセフのような人が、突然に主イエスを葬るということになったのです。

 今日の記事を聞いていますと、ヨセフはヨセフなりに真剣に丁寧に、この葬りに仕えたということが分かります。真っ白な亜麻布を買い揃え、自分が入ろうとして掘っておいた真新しいお墓を主イエスの葬りのために提供したと言われています。
 主イエスが息を引き取られたのは、過越の祭りがある安息日の直前の午後3時です。当時の考え方ですと1日は夕暮れと共に始まりますから、主イエスが亡くなられた時には、安息日までもうほとんど時間が無い状況でした。安息日になれば作業を中断しなければなりませんから、葬りは手際よく大急ぎでしなければなりません。そのために、主イエスの葬りは仰々しいセレモニーや豪華さはなく、誠に簡素な仕方で、亜麻布にくるみ、窪みに横たえたというだけでした。簡素ではありますが、しかし、簡素なりにヨセフの真心がそこに溢れている葬儀でした。
 ただ、この葬りについて、覚えなければならないことがあります。それはヨセフが行った葬りだけではなく、私たちが身近な人を失った時に行う葬儀の時にも同じようなことがあります。葬りの業というのは、どんなに心を込め精一杯に行ったとしても、それで心の底から満足したという気持ちにはなかなかなれないものです。どうしようもなく死の出来事、死の事実がその場を重苦しく支配してしまうのです。そして私たちは、私たちの間から去って行った人が地上にはもう居ないということを覚えて、何とかそれに抵抗しようとして、懸命に召された人に心を向け自分の心の中に留めようと思う。けれども思えば思うほどどうしようもなく、愛する者は遠く離れ去ってしまったという思いを深くする。それが死の出来事だろうと思います。
 本当は死の前に戻りたい。死の出来事を受け入れられず死の現場から立ち去り難い。けれども、私たちはその場にいつまでも留まっているわけにはいかなくなります。どこかでその場から立ち去らなければならなくなるのです。
 アリマタヤのヨセフの葬りもそうでした。ヨセフは自分の出来る限り精一杯丁重に主イエスにお仕えし葬りましたが、しかし亡骸を窪みに横たえたあとは仕方なくその場を立ち去って行きました。59節60節に「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った」とあります。ヨハネがきれいな亜麻布を用意したこと、真新しいお墓に主イエスをお納めしたこと、さらにはお墓の中を獣で荒らされないように大きな石で入り口を塞いだことが述べられた後、ヨセフがそこを立ち去ったと語られています。ヨセフの行いは真心に基づいています。けれども、どんなに真心を込めたとしても、それだけで死を乗り越えることはできないのです。ひとたび死によって断たれてしまった愛する者との縁は、人間の優しさや真心、思いの深さによって結び直すことはできません。残念ですが人間の能力には限界があり、死を超えることはできないのです。
 愛する者との縁を取り戻すのは、人間の力によらない。それは、主イエスがただ信頼し最後まで信頼し通されたお方、死の場においてもすべてを支配しておられるお方に真実に頼るほかありません。主イエスはこのお方の真実に寄り頼んで死の中へと赴いて行かれました。マタイによる福音書が伝えている、主イエスの十字架での最後の言葉は、「エリ、エリ、レマサバクタニ」という言葉です。神から呪われ見捨てられた者として死んでいく、その死を死にながら、しかしそこでも主イエスは神に信頼して、なお、神に呼びかけながら木の上で息を引き取られたのです。
 ただ、主イエスがそれほどに神に信頼を寄せていたということは、ヨセフには分かりません。ヨセフは自分にできる精一杯のことをして墓を立ち去って行きます。彼はそのように主イエスのもとを立ち去って行ったのです。

 ところで聖書には、そのようにアリマタヤのヨセフが立ち去った後に、ほんの一言付け加えるようにして語られていることがあります。61節に「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」とあります。この言葉はとても不思議です。二人のマリア、一人はマグダラのマリア、もう一人は恐らく主イエスの母だろうと言われていますが、この二人はヨセフが墓を立ち去った後もそこに残っていたと語られています。原文では「残った」ではなく、「居た」という字が書いてあります。「そこに居た。なお居続けていた」のです。二人のマリアはお墓に向かって座り、そこに居続けているのです。
 周りの人たちからは、「あの二人は諦めが悪い」と映ったかもしれません。アリマタヤのヨセフも、自分が立ち去る際に「出来る限りのことをしたのだから、あなたたちも疲れないように、早く帰りなさい」と勧めたかもしれません。墓に残り墓に向かっていた二人の女性は、一体何を望んでいたのでしょうか。また彼女たちは何をしていたのでしょうか。「あなたはここで何をしているのですか」と、彼女たちに仮に尋ねたとしても、二人はあまりうまく答えられなかったかもしれません。「何を望んでいるのか」と聞かれても、自分が何を望んでいるのか、的確には思い出せないかもしれません。
 実は、このように「お墓に向かって座り続けていた」二人の女性の姿は、私たちに、ある一つの出来事を思い出させてくれます。まだ主イエスが地上のご生涯を歩んでおられた頃、ベタニア村のラザロの家に立ち寄られたことがありました。ラザロの家には二人の姉がいて、上の姉がマルタ、下の姉はマリアです。マルタは家に来た客人を精一杯もてなそうとし、マリアは主イエスの足元に座ってお話に聞き入っていました。今ここで墓の方に向いて座っている二人のマリアの姿は、ベタニア村のマリアの姿とそっくりではないでしょうか。
 ヨセフは、とにかく夕方までにこの葬りを済ませようと懸命に働いて出来る限りの事をして、そして墓から立ち去って行きました。二人のマリアは、ヨセフが働いていた間、何をしていたでしょうか。ここを読む限り、手伝っていたようには思えません。しかし二人のマリアはこの時、二人にとって最も良いことをしています。ヨセフは自分で何が出来るかを考え出来る限りのことを行って「もう自分の力はこれで一杯だ。残念だけれど、自分にはもうこれ以上手の施しようがない」と思って、主イエスの元から立ち去りました。ところが二人のマリアはなおそこに留まり続けるのです。そして、留まることができたことは、二人にとって誠に幸いなことでした。どうしてでしょうか。
 二人のマリアは、自分でどうしてよいのか分からないけれど、そこに居続けようとしました。主イエス・キリストというお方は、以前、繰り返して「人の子は、敵の手に引き渡される。そして侮辱され鞭打たれ、十字架につけられる。けれども三日目に復活するのだ」と教えておられました。もちろん、墓を目の前にして、二人のマリアが、主イエスが繰り返しおっしゃっていたこのことを思い出しながら希望を持って座っていたとは言えないでしょう。使徒を始めとする男の弟子たちが皆、深く戸惑い傷ついて、お墓にすら来れなかったように、二人のマリアも、墓の前に座ってはいますが、主イエスの出来事に深く傷ついて、やり場のない思いを抱えてここに居たのだろうと思います。
 けれども、二人のマリアは少なくともアリマタヤのヨセフのように理性ですべてを割り切ることが出来ませんでした。ヨセフは、「自分がやるべきことをすべて行う、その後はもうここに居ても仕方ない」と極めて理性的に考え行動し、諦めて立ち去るのです。けれども、二人のマリアはそれでも諦めることが出来ませんでした。墓の方に向いて座って、何かをまだ期待しています。恐らく、何を期待しているのかを聞かれても困ったと思います。「何が起こるのかは分からない。けれども何かが起こってほしい」と思う。そしてそれが何であったのかということは、そのことが起こった時になって初めて分かることなのです。
 それは何か。「主イエスが復活なさる」、その主の甦りの光に照らされて初めて、二人のマリアがお墓に居続けたこと、主イエスに向かって座り続けていたことの意味が明らかになるのです。また同時に、ヨセフが理性を持って主イエスに仕え、理性を持って立ち去って行った、その人間の理性の限界というものも明らかになるのです。

 二人のマリアは、理由をはっきりとは説明できませんが、死の現実がその場を重苦しく支配する中にあって、そこでなお、主イエスに真っ直ぐに向かおうとしていました。まるでこの亡骸が立ち上がって何事かを語り出す時に一言も聞き漏らすまいと、主イエスの足元に座って耳を澄ましている。あのベタニアのマリアのように、この二人のマリアはお墓に向かって座っています。
 この二人のマリアをそのようにさせたものは何か。マリアたちはこの時はっきりとは覚えていなかったかもしれませんが、マリアたちをこうさせているのは、主イエスが繰り返し教えておられた事柄です。「わたしは十字架に死んで、三日目に甦る。死が終わりではないのだ」と聞いていたからこそ、諦めきれずに主イエスの方に向かって座っていたのです。
 実は、二人のマリアがこのようにお墓の前に座って以来、私たちもまた、同じ主イエスの約束を聞かされた者として「死が最後だと思わなくてもよい」、そういう世界の中に生きるようにされているのです。「主イエスの御言葉の方に向いて、主イエスに向かって、ずっとそこに留まっていてよい。あなたは、甦りの主の光に照らされることになる。永遠の命の言葉を聞かされて、そして生きるようになる」、そういう約束の許に私たちも置かれる一人一人とされているのです。

 今現在の私たちは、それぞれの場所で日々自分の生活を営んでいますが、私たちの生活がたとえ見通しが利かず悩みが深く、恐れや嘆きがすぐ傍にあるように思えるとしても、それでも、私たちのために世に来てくださり、私たちのために十字架にかかってくださり、私たちのために甦ってくださっている主イエスが私たちに語りかけておられるのです。「わたしは、甦りであり命である。あなたはわたしを信じて生きてよい。どんなに行き詰まっているように思えても、どんなに絶望的な状況だと理性的に考えれば言わざるを得ないとしても、それでもあなたは、なお、そこに座っていてよい。そこに居てよいのだ。たとえ死が一切の上に重苦しくのしかかっているとしても、あなたはそこでわたしに向かうことができる」と呼びかけてくださっている主イエスが、二人のマリアだけではなく、私たちの前にも居てくださることを、今日もう一度確かなこととして覚えたいのです。

 たとえこの世の現実や死の現実に私たちが組み敷かれる時があったとしても、それでもそこには、主イエスの甦りの朝が訪れる。主イエスは甦って、永遠の命の初穂として、私たちの前に立っていてくださる。聖書が告げているこの言葉を、私たちは確かなこととして、この朝、もう一度、覚えたいと思います。
 葬りの場にあって、なお、お墓に向かって座り続けていた二人のマリアの姿を覚えつつ、語りかけられる御言葉にいつでも耳を澄ますことができるように、神に向かって座り続け、御言葉に聞いて慰められ、勇気を与えられて生きる、そういう生活を歩み続けたいと願います。

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