聖書のみことば
2019年1月
  1月6日 1月13日 1月20日 1月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月20日主日礼拝音声

 葬りの準備
2019年1月第3主日礼拝 1月20日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第26章6〜13節

<6節>さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、<7節>一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。<8節>弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。<9節>高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」<10節>イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。<11節>貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。<12節>この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。<13節>はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 ただいま、マタイによる福音書第26章の6節から13節までをご一緒にお聞きしました。最後の13節に「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と語られています。「はっきり言っておく」と主イエスが前置きをして、「この女性のしたことは世界中のどこででも宣べ伝えられる」とおっしゃった通りに、世界中の教会では繰り返し、この女性のしたことが伝えられています。この朝、私たちの教会でも、聖書からこの言葉を聞いています。
 弟子たちは、この時、主イエスのおっしゃったことを理解できたでしょうか。あるいは、私たちはどうでしょうか。主イエスがここでおっしゃったことの意味をどう受け取るでしょうか。どうして、この女性のしたことが記念として世界中に語り伝えられることになるのでしょうか。それ以前に、そもそもこの女性の行ったこととは、一体何だったのでしょうか。今日はここに語られていることを聞き取っていきたいのです。

 今日の箇所の始まりは6節7節です。「さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた」。主イエスは「ベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられた」と言われています。ベタニアはエルサレムから東に3キロほど離れたところ、オリブ山の麓にある村です。主イエスは捕らえられる直前、最後の週には、ベタニアとオリブ山を拠点として過ごされました。そのベタニアで「重い皮膚病の人シモンの家におられた」と言われています。シモンの罹っていた「重い皮膚病」というのは、1世紀当時には、神から罰を受けた人が罹る病気だと想う人が多くいて、この病気に罹っている人は、ユダヤ人の共同体の中で交わりから追放され阻害されることが多々ありました。けれども、主イエスはそういう病気の人とも分け隔てなく交際し、出入りしておられたと言われています。主イエスは平素から、重い皮膚病の人を始め、徴税人や遊女たち、その他事情があってユダヤ人が守るべき戒律を守れない人たち、羊飼いや罪人と呼ばれていた人たちとも交わっておられましたが、十字架に架かる直前までそのように、いつも通りに過ごしておられたことが分かります。
 そして、この日、主イエスの頭に香油を注いだ女性が現れました。この女性がシモンとどういう間柄だったかはよく分かりません。詳しいことは分かりませんが、とにかく、この日この女性は食事をしておられる主イエスの頭に香油を注ぎました。それは極めて高価な香油であったと語られています。
 この日起こった出来事というのは非常に単純で、このことだけです。極めて高価な香油と言われていますから、恐らくそれは非常に良い香りだったでしょう。食事の席に着いておられる主イエスの頭に、その香油は注がれました。深い敬愛の思いを持って、この女性はそうしたのだと思われます。
 ところで、この女性の行いを巡って、ちょっとした騒動になったと言われています。この福音書を著したマタイは十二弟子ですから、恐らくこの席にいて、直接見聞きしたことを書いているのです。当時の習わしとして、食事に招いたホストである主人が、客人の頭に香油を注ぐということは行われていたようです。客人の香りを良くして皆で気持ちよく食事をする、もてなしとして香油を注いだのです。けれども、ここで問題になったのは、この日女性が主イエスに注いだその香油が「極めて高価だった」ということです。最高品質で、それこそ滅多にお目にかかれないような、王族や貴族でないと用いないような破格の香油を注いだようです。そして、そういう香油だったということが弟子たちを刺激したようです。8節9節に「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに』」とあります。弟子たちには、この日のこの女性の行動が理解できませんでした。自分たちの先生である主イエスに丁寧に接するということに反対するつもりはありません。けれども「物事には程度があるだろう」と弟子たちは思っています。客人である主イエスへの敬愛の思いを込めて香油を注ぐことは良いけれど、しかし、たかが一度の食事に使うにしては常軌を逸した高価な香油を使っている、そのことに弟子たちは憤慨しているのです。そして、そのように香油を使うのであれば、もっと別の使い道があるだろう。売れば高く売れるだろうから、それで貧しい人たちを助けることができるではないか。弟子たちはそう思いました。
 こういう弟子たちの考え方については、私たちも頷けるのではないでしょうか。私たちの持っているお金には限りがあり、使えば無くなってしまいますから、限られたお金をどう振り分けて使うか、私たちは始終そのことに頭を悩ませながら使っています。弟子たちも同じです。いつも、どのようにお金を使おうかと頭を悩ませていればこそ、この日一人の女性が惜しげもなくあまりに高価な香油を使い果たしてしまったということに納得できなかったのです。もしかして私たちもこの弟子たちの一人であって、その場に同席していたならば、これは何と勿体無いことをするのかと思うのではないでしょうか。

 さて、このような中で、主イエスはどう思われたのかということが、私たちの聞くべき中心的なことです。こういうお金の使い方について、主イエスはどうおっしゃったでしょうか。それは弟子たちの予想外のことでした。いかにも贅沢に思えるこの女性のお金の使い方について、主イエスは咎めることなく、むしろ喜んで受けてくださいます。10節「イエスはこれを知って言われた。『なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ』」。恐らく弟子たちは、主イエスの口からこんな言葉が飛び出すとは、予想もしていなかったと思います。普段から贅沢を好んでいたのであればともかく、主イエスの生涯は、およそ贅沢とは無縁な生涯です。飼い葉桶に生まれた方、そして成人して弟子たちを連れて旅をするようになってからも、泊めてくれる家がある時にはその家の客人となりましたが、泊めてくれる家がない時には野宿をすることも始終でした。そういう生活が当たり前でしたから、主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には帰る巣がある。しかし人の子には枕するところもない」と弟子たちに教えておられました。このベタニアのシモンのように食事を提供してくれる人に招かれた時には、感謝してその家に入りご馳走になるけれども、そうでなければ何日か食事抜きで過ごされることもありました。
 少し前に聞きました、マタイによる福音書25章34節から36節に書かれている言葉は、ある程度主イエスの生活を下敷きに語られている言葉です。「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』」。この言葉は、主イエスがただ思いつきでおっしゃっているのではありません。主イエスご自身が大変質素で、困難と言ってもよいとくらいの生活をしておられたことが下敷きになっていて、このような言葉が出てくるのです。主イエスは大変貧しく、乏しさの中を歩まれた方です。
 ですから、弟子たちはこの日、主イエスに女性が香油を注いだことについて、「これはやり過ぎだ」とおっしゃるに違いないと予想していたと思います。ところが、あにはからんや、この女性の無駄遣いを咎めることをなさらず、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」とおっしゃって、却ってこの女性の肩を持つようなことをおっしゃいました。どうしてでしょうか。主イエスもやはり贅沢をなさりたかったのか、そうではありません。
 主イエスは終わりの日に、天上の天使をすべて従え栄光に包まれてこの地上を訪れてくださいます。ですから、その気になれば、主イエスは天使たちに命じて、この世のものとも思えない芳しい香油を取り寄せることもお出来になるのですから、この地上で最良の贅沢を味あわせてくれたこの女性の肩を持たれたということではありません。主イエスは、この女性が真心から行動して、主イエスに対して良い行いをしたのだと、この女性のあり方を認めておられるのです。そして、主イエスに対して真心を込めた行いをするということが、貧しい人たちへの施しと同列に並ぶようなものではないとおっしゃいました。主イエスはここで、主イエスを愛して主イエスに真心を込めて献げものをするということの方が、貧しい人を支えることより大事だとおっしゃっているわけではないことを注意して聞き取りたいと思います。貧しい人たちと一緒に生きる、貧しい人たちを支えて生きるということは、弟子たちにとって常になすべき大事なことでした。けれども、目の前におられる主イエスに香油を注いで感謝を表すというのは、今この時にしかできないことなのです。どうしてでしょうか。まもなく主イエスは捕らえられ、十字架に架かってこの女性の前から居なくなるからです。この女性も弟子たちも知りませんが、主イエスはこのことをご存知です。この女性にとって主イエスに香油を注げるチャンスは、今しかないのです。この日が最後のチャンス、ですから、この時に精一杯感謝と敬愛の念を表すのは良いことだと、主イエスはおっしゃっているのです。この時を捕らえて精一杯、自分でできる良いことをしているのだから、「この人を困らせてはいけない」と、11節 12節に「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」と言われました。

 貧しさや乏しさにある人たちを配慮して、その貧しさや乏しさゆえに惨めにならないように、皆で生きていくように配慮すること、これはいつも覚えるべき大切なことです。教会の交わりの中でも同じです。そのようにお互い同士を配慮し合いながら交わりに生きることがどんなに大事なことであっても、それは実は、主イエスに感謝を表し礼拝を捧げることに変わることにはならないのです。この女性は主イエスの頭に最高級品の香油を注ぎました。最高級品の香油というのは、ただ香りが良いというだけではなく、防腐作用を持っていたようです。ですからこの香油は、一般の人の手に届いて何とか使うことができたとしたら、それは、一生のうちの一番最後、愛する人が亡くなった時にその人を香油で清め、亡骸が少しでも腐敗しないために用いる、それが用い方でした。ですから、主イエスは、この香油が用いられたのは、わたしの葬りの準備なのだとおっしゃいました。亡骸が腐敗しないように香油を注ぐ、この日の香油注ぎが、そういう葬りの備えだったとおっしゃるのです。
 主イエスは、ご自身の十字架の時が間もなく近づいていていると分かっておられるので、こうおっしゃるのですが、女性の方は、自分のしていることが「葬りの備え」だという気持ちはなかったと思います。この女性にしてみれば、目の前におられる主イエスが本当に自分にとって大切な値高い方だったので、主イエスには相応しいことだと思って、自分の精一杯の献身の気持ちを表すつもりで行ったことでした。そしてそれは、主イエスの側からすると、これから十字架に架けられ血を流して死ぬけれども、それは過越祭の最中、安息日に入る直前のことで十分な葬りの準備もできないままお墓に葬られてしまう、そういう状況の中では、本来は香油は亡骸に塗るものですが、その時間は無いので、その女性の香油注ぎが前もっての支度なのだと、言ってくださったのです。

 ですからここで起こっていることは、弟子たちも女性も知らなかったことですが、これから十字架の死を遂げていかれる主イエスに対して、無常の価値を表す、つまり最初の礼拝をしているような、そういうことが起こっているのです。ですから主イエスは、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言われました。十字架にかかる主イエスを礼拝する、その一番最初の礼拝が、ここで起こっているのです。世界中の教会が今日、十字架に架かった主イエスを日曜日ごとに礼拝します。真心からの礼拝をしますが、その一番最初に立っているのが、実はこの女性なのです。キリスト者は礼拝を捧げながら、いつも御言葉に教えられ、神に自分が愛されているのだから、自分を愛するように隣人を愛しなさいという教えを聞かされます。主イエスがそのように教えてくださいました。私たちはそのことを大事なこととして聞かされ、そのように生きたいと願いますが、しかし「隣人を愛する愛の業、敬虔な行い」というものは、主イエスを愛し感謝し礼拝することの代わりになるものではありません。あるいは、私たちの愛の方が先立って、主イエスを愛するので礼拝しているということでもないのです。神がまず私たちを愛して、その神の愛を知らせるために主イエスが十字架に架かってくださった、私たちはこのことを知らされて、そして私たち自身も本当に感謝して礼拝を捧げ、また神のものとして生きるという生活が始まっていくのです。
 私たちは、十字架を通して示された神の愛に育まれ養われて初めて、隣人への愛へと向かっていくように少しずつ変えられていきます。もしキリストの愛に育まれるのでなければ、私たちがもともと持っている自分の愛などは、まことに貧弱なものにすぎません。私たちが日曜日に、教会に集まって礼拝するのは、主イエスが週の初めの日の朝早く、復活なさったからです。私たちは毎週教会に集まって、週の初めの日に、甦りの主イエスに集められ、ここで心から感謝して神に礼拝を捧げ、そして各々のあ歩みへと遣わされていきます。その意味で、一週間の間に与えられているこの礼拝の日というのは、特別な時なのです。私たちはここから送り出されていって、それぞれ愛の業を行っていきていきます。けれども、愛の業を行っているから礼拝しなくても良いのかというと、そうはならないのです。どうしてかというと、礼拝から離れてしまえば、私たちの愛は途端にしぼんでしまうからです。そして、その礼拝の一番先頭にいるのが、香油を主イエスに注ぎかけた女性なのです。
 この人自身は、自分がそんなに重大なことをしたとは気づいてなかったかもしれません。この人のこの日の経験は、自分として十分な準備をして高価な香油を主イエスに注いだ、そこまでは良かったのですが、思いもよらないことに弟子たちからそれを責められてしまい、理解されずに悲しい思いをしたという経験だったかもしれません。けれども、主イエスが「この人はわたしに良いことをしてくれたのだから、困らせないように」と言ってかばって下さったので嬉しかったという、その程度の経験だったかもしれません。しかしまさにここで、この女性が主イエスの頭に香油を注ぐというやり方で表した真心からの礼拝というのが、間違いなくこの世界にとって、深刻な嘆きと偽りに満ちているこの世界の中で本当に光となるような出来事だったのです。マタイによる福音書はそのことを、この出来事の文脈という形で表しています。
 今日の記事の直前には、祭司長たちと長老たちが、主イエスをどんな悪どい手を使ってでも捕らえて殺してしまおうと相談しているという場面が記されていました。来週聞くことになりますが、今日の記事の次には、イスカリオテのユダが主イエスを裏切って、銀貨30枚で主イエスの身柄を引き渡す約束をして、いつ引き渡そうかと虎視眈々と狙っている、そういう記事です。今日の記事の前では、偽りや謀を用いて主イエスを陥れ、命を取ろうとする密談が交わされ、今日の後の記事では、そういう企てに乗せられたユダが実際に主イエスを裏切る裏切りに手を染め始めているのです。この世の悪事や偽り、謀が前後を覆っている、この文脈は深刻で暗い文脈です。ところが今日の記事は、そういう中にあって一つのオアシスのような記事です。
 私たちの礼拝の先頭にいるこの女性は、本当に暗い、この世の偽りや陰謀が渦巻いている中にあって、しかし真心から主イエスを見上げている、そういう人としてここに立っています。それは本当にホッとする明るいことなのですが、考えてみますと、私たちの礼拝もそのようなところがあるのではないでしょうか。
私たちは今日は教会に集まっていますが、毎日毎日日曜日が続くわけではなく、月曜日から土曜日までそれぞれの場所で様々な経験をして過ごします。様々な思いを抱いて生活するのです。その中では決して良いことばかりがあるわけではないでしょう。失敗したと思うことや不本意に思うこと、残念だったり悲しかったりする経験も多くあるでしょう。あるいは、すぐにはどうすることもできない困難な事情も抱えて困ったと思いながら過ごすこともあるのです。
けれども、そういう私たちの生活の中に、日曜日という日がやって来るのです。礼拝へと集められて、主イエスの前に立ち礼拝するときに、私たちは、日頃自分が抱えている自分の心の重荷や悩みや嘆きを全て下ろして、神の前に自分の犯してしまった失敗や過ちも全部を言い表しながら、実は、それが全て主イエスの十字架によって精算されて、「あなたはもう一度、ここから新しく生きて良いのだ」と聞かされて、私たちは生きていくのではないでしょうか。もし日曜日が私たちの生活の中に無かったらどうなるでしょうか。私たちは暗い重い気持ちであっという間に一生を過ごしていかなければならないでしょう。しかし私たちには、7日間生きると7日目には日曜日がやって来るのです。本当は日曜日が初めの日で、ここから新しく生きて良いと言われて始めるのですが、私たちの生活実感で言うと、自分が辛く重く思える人生の中に日曜日がやってきて、もう一度ここから生きて良いと言われて歩み出すのです。まさしく暗闇に閉ざされているようなこの世の生活の中に、明るく暖かな光が灯されて、その光に照らされながら、私たちはホットさせられて、それぞれの命を生きていくのではないでしょうか。

 主イエス・キリストの十字架の御業が、その光の中心にあって、私たちはそのことに感謝して、ここから、自分が感謝を表す者として生きていくのだという新始まりを備えられるのです。そういう主イエスの福音が述べ伝えられるところでは、世界中のどこででも、この女性の行いが記念として覚えられていきます。これは、この女性の真心が褒め称えられているのではありません。この女性は彼女なりに精一杯の思いを注ぎだして主イエスに向かっていますが、しかし、いくらこの女性が精一杯の思いを注ぎだしても、それを見た弟子たちは最初、そのことが分からなかったと語られています。私たちが、自分なりに精一杯、神に向かう、それで気が済むかというと、それだけでは気は済まないのです。それは、私たちの精一杯の思いには翳りがあるからです。「あなたのやり方、生き方は、もう少し違う方法もあったはずだ」と言われれば、私たちはすぐに腹立ちますが、しかしそれはまた、事実であるかもしれません。もちろん、一面の事実です。「香油を高く売って貧しい人に施し、皆で分け合って皆が楽になる方法もあったのではないか」と言われれば、それはその通りだと言わざるを得ません。
 けれども、私たちがどこで救われるのかというと、それは、自分の判断が正しいからではありません。主イエスがご自身の十字架に私たちの真心を結びつけてくださるからです。この女性が、もしこの日、もう少し安い香油で精一杯の思いを表したとしたら、主イエスは安物だとおっしゃるでしょうか。おっしゃるはずはありません。「この人は、わたしの葬りを懸命に準備してくれている」と、やはり言ってくださるに違いありません。
 私たちは、自分は一生懸命主イエスに向かっていますが、その一生懸命さによって救われるのではないのです。主イエスが、ご自身の十字架に私たちの生活を結びつけてくださって「この人は、わたしの十字架に関わる人だ」とおっしゃってくださるから、そうであればこそ、私たちは本当に救われるのです。この女性の行いは、主イエスの十字架に結ばれて、十字架の血によって清められることで、本当に清らかな真心からの献身の行いとして世界中で覚えられるようになったのです。私たちも、日々の生活を抱えて、様々な乏しさや嘆きや痛みを抱えながら生活していますが、しかしその中から、今このわたしに与えられている全力をもって主イエスに感謝を表す、それを赦されているのです。そういう信仰の歩みが、その一つ一つが、やがて教会の営みとなっていきます。そしてそれは、多くの人に覚えられて、慰めと勇気を与えるに違いありません。私たちもそのようにして、たくさんの信仰の先輩たちから、慰めや勇気を与えられてここまでを歩んできたようなところがあるのではないでしょうか。

 私たちが信仰の先輩から教えられ、歩んでいるのだとすれば、私たちの歩みもまた、主イエスの十字架に結ばれて清められ、御業のうちに覚えられる一つ一つの営みになっていくに違いないのです。私たちは、そのように主イエスに結ばれて、ここから新しくされていく、そのことを覚えながら、精一杯ここから歩んでいきたいと願うのです。
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