聖書のみことば
2019年1月
  1月6日 1月13日 1月20日 1月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月13日主日礼拝音声

 時の主
2019年1月第2主日礼拝 1月13日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第26章1〜5節

<1節>イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。<2節>「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」<3節>そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、<4節>計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。<5節>しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

 ただいま、マタイによる福音書第26章の1節から5節までをご一緒にお聞きしました。1節2節に「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。『あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される』」とあります。「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えた」と始まっています。「これらの言葉」と言われているのは、直接には24章25章に記されていた主イエスの説教を指していますが、しかしここには、そのことだけを指しているのではないような響きがあります。
 マタイによる福音書の中には、主イエスが折々に弟子たちに教えられた教えが主題ごとにまとめられて、5つの少し長い説教という形で記されています。そしてその説教を1つ語り終えるたびに、「イエスはこれらの言葉を語り終えた」という締めくくりの言葉が出てきます。今聞いた1節も、そのように繰り返された5回目の説教の締め括りのように記されていますが、しかし実は、これまでの4回とは少し違っているところがあります。それは「これらの言葉をすべて語り終えた」と言っていることです。「5つの説教すべてを語り終えた」、つまり、主イエスが地上の生涯の中で、言葉をもって弟子たちに伝えようとなさった、その事柄をすべて語り、語り終えられたというニュアンスが込められているのです。
 5つの説教と言いましたが、この5という数字には、ある意味が込められています。旧約の時代には、律法と呼ばれる書物があり、旧約聖書の最初の5つ、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記がそうです。この5つは旧約聖書の中でも特別な書物として重い意味が与えられていました。いずれも出エジプトに関わりがあります。エジプトで奴隷暮らしをしていたイスラエルの民がモーセに導かれて奴隷暮らしから救い出されるのですが、その時にモーセがモリヤの山、シナイ山で神から十戒をいただいた、その時に神から与えられた言葉が纏められて5つの書物になっていると信じられていました。エルサレム神殿ではこの5書をもとに礼拝を捧げていました。ですから、この5書は、イスラエルの救いの歴史を伝えると同時に、救われた人たちの生活憲章、私たちの感覚で言えば憲法のような言葉として重んじられていました。それで、主イエスの5つの説教は、この5つの律法の5に合わせるようにして語られているのです。主イエスの5つの説教は、神の民とされた新しい人たちの生活規範、新しい生き方を教えるような意味合いがある言葉です。主イエスもそのことをはっきり意識しておられるので、最初の説教は、5章から7章に記される山上の説教と言われるものですが、5章17節18節に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」、また20節でも「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言っておられます。つまり主イエスは、5つの説教で語ることは、旧約の律法のように、神の前に正しく生きる、生活することを教える言葉だと言っておられるのです。

 出エジプトの指導者モーセは、民を奴隷暮らしから導き出し、神から与えられた律法の言葉を人々に伝えて亡くなりました。モーセがどこで亡くなったのか、誰も知らないと書いてあります。ですから、モーセが生きていたという印は、お墓が残っているということではなく、モーセを通して律法の書物が与えられ、自分たちが律法に従って生きているという仕方で覚えられています。
 主イエスも5つの説教を通して、神の民として相応しい生活を教えられました。そして、その5つの教えを「すべて語り終えた」ということが、今日の箇所の始まりに言われていることです。
 主イエスは、言葉で知らせることはすべてお語りになりました。その後、地上で主イエスに残されている役割とは何でしょうか。主イエスが地上でなお果さなければいけない務めは何か、それが2節に語られています。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」。主イエスは説教を語り、その上でなそうとしておられることは、主イエスが教えられた通りに神に従順な者としての生活を、ご自身が終わりまで歩むということでした。それは、十字架への道を歩むということです。神が私たちに与えておられる務めは、一人一人皆違います。私たちの人生に与えられている務め、それぞれの人生を通して果たすべき役割も、それぞれにその人らしく、神より与えられています。
 主イエスはモーセと同じように、神の民としてふさわしく生きるための心得を人々に教えられましたが、それだけでは終わりませんでした。神の民として生きるための規範を教えられても、人間はなかなかそれに従って生きることができません。私たちは聖書の言葉を聞き、知り、分かっているつもりでいても、なぜか従えないところをそれぞれ持っているのです。そういう人たちのために、主イエスは「ご自身が身を献げて執り成しの犠牲となる」という務めを与えられていました。そのことを弟子たちに分からせるために「わたしは今から十字架につけられる。けれども、その十字架の死は、あなたがたを執り成すための死であって、わたしの十字架の死によってあなたがたの罪は赦され、あなたがたを滅ぼす天使はあなたがたの前を過ぎ越していく」と教えられました。「二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」とは、そういう意味です。ですから26章の最初の2節は、語るべきことを語り終えられた主イエスが、今から先、地上のご生涯で何をなさるのかを一言で言い表している表題のような言葉です。主イエスはすべてを語り終えられた、その夜には捕らえられ、次の日には十字架に架けられ殺されてしまいますが、それは決して不慮の、予想外の死ということではなく、ご自身が弟子たちに教えられたこと、つまり「神さまに従って生きる生活を送るのだ」と教えておられるのです。主イエスはこの時、これから起ることのすべてをご存知です。目の前にある十字架の死から逃げ出すことなく、自ら進んで十字架に向かい、私たちの身代わりの死を完成しようとしてくださるのです。

 「二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」。「過越祭」というのは、その昔、民がエジプトから逃れる際に、モーセを通して神が教えられた命令を思い起こすようにと定められている祭です。神は言われました。「今晩、わたしは一人の天使をあなたがたに送る。その天使はエジプト中を行き巡って、すべての家の初子(初めて生まれた子供)を打つ。だからあなたがたは家のなかにいるように。そして、あなたたちの初子の身代わりとして子羊を屠って家の門に塗りつけなさい。その晩はその肉を食べなさい。子羊の血を見つけたならば、天使はその家を通り過ぎる。そして初子は救われる」、この出来事を記念して行われるのが過越祭です。主イエスは、十字架にかかってご自身の血を流すということを弟子たちが分かるように、十字架にかかって流されるご自身の血というのは、子羊の血と同じであると教えられました。
 私たちキリスト者は、主イエスが十字架の上で血を流してくださった、その血を振りかけられているので、私たちの滅びを過ぎ越されているようなところがあるのです。洗礼を受けた方は皆、例外なく、主イエスの血を振りかけられています。キリスト者である人は、洗礼によって水を振りかけられていますが、あの水は私たちの死を表しています。頭の上に水が満ち溺れ死んでしまう、そういうイメージです。しかしそれは、私たちの死だけを表しているのではなく、主イエスが死んでくださっている、その死をわたしも死に、そして主イエスが復活しておられる命を、私たちも生きていくのです。キリストの死と復活に与って新しく生き始めるようになるのが、キリスト者の洗礼なのです。ですから、洗礼を受けた人は水をかけられただけではなく、主イエスの死を身に受けている、主イエスの血を私たちの身に振りかけられていると言えるのです。

 私たちは、救いというものは、自分が聖書の事柄を理解していることだと思っているかもしれません。けれども、単に聖書の言葉を聞き、受け止め、理解したというだけでは覚束ないところがあります。私たちの理解には限界があって、いつまでも覚えていることはできないからです。すぐに忘れてしまうのです。救いの確かさというのは、私たちの理解にあるのではなく、確かに私たちの上に洗礼の水が振りかけられ、頭の上で閉じ、わたしは死んでいる。主イエスがわたしのために十字架に繋られた、その死にわたしも与り、今、主イエスが復活されたゆえにわたしも生きている。このことが私たちにとっては何より確かなことなのです。私たちはそのようにして、自分自身に主イエスの血が塗られていることによって初めて安心できるのです。死の天使がこの世界を行き巡って、神に逆らう者、永遠には通用しない者だから滅ぼそうとするときに、「この人にはキリストの血が塗られている」と言って、私たちの前を過ぎ越してくださるので、私たちはどんなことがあっても大丈夫だと希望を持って生きることができるのです。
 弟子たちは、カレンダー上では過越祭が来ること知っていました。しかし、この時点で、自分たちが過ぎ越されなければ滅んでしまう罪人であるということも、わたしのための過越の出来事が間も無く起こるということも理解していませんでした。弟子たちは、主イエスからすべてを教えていただいたのですが、聞いただけで、理解はできませんでした。弟子たちは、主イエスが教えておられたこと、「これから十字架にかかって死に三日目に甦る」とおっしゃっていたことを、実は聞きたくないと思っていました。ですから、耳に蓋をしてなるべく聞かないようにして歩んでいました。弟子たちは、十字架のことも復活のことも全く悟りませんでしたけれども、それでも主イエスはお語りになりました。ですから「すべて語り終えると」と言われているのです。そして正に十字架に向かって歩み出されるのです。
主イエスの十字架は、創作でも神話でもなく、実際に起こった出来事です。そして、主イエスが流された血潮の中で、信じる者を受け止めて、私たちに血を塗り、その血によって、私たちの罪を身代わりに負っているよと言って守ってくださるのです。

 さて、そのように主イエスがお語りになっていた時に、一方では別の会合が持たれていたことが今日の箇所には記されています。こちらの会合は、やがて主イエスを釘付けにして殺してしまう人たちの会合です。3節から5節に「そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、『民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」とあります。この会合では、2つのことが決まったと言われています。一つは「計略を用いてイエスを捕らえ、殺そう」ということ、もう一つは「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」ということでした。
 そして、一つ目の決定の一部は、既に決まっていたことでした。21章45節46節には「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである」とあり、「イエスを捕らえようとした」とありますから、このことは既に既定路線になっていたのです。ですから、26章での会合で決まったことは何かと言うと、主イエスを捕らえるためには「ずるい計略を用いてでも」と、なりふり構わず捕らえようとしたということ、「捕えたら直ちに殺そう」ということでした。ここに「計略」とある言葉は、原文では「人を欺いて、ずるいやり方で」という言葉です。祭司長たちは、正当な、真っ当なやり方では主イエスを捕らえられないと思っていたのです。ですからずるい計略を用いてでもということになったのですが、しかしどうしてこんなことになるのでしょうか。主イエスの脇にはいつも屈強なボディーガードがいて捕まえるのが難しいということなのでしょうか。そんなことはないのです。ゲッセマネの園で主イエスが捕まえられる場面を思い起こしてみれば分かりますが、誰一人主イエスを守ることなどできませんでした。力づくであれば、いとも簡単に主イエスを捕まえることはできたのです。ではなぜ、祭司長たちは計略を用いなければならないと思ったのか、それは、主イエスを捕らえる何の正当性も根拠もないことを彼ら自身が分かっていたからです。主イエスの逮捕は不当逮捕であり言論の弾圧です。祭司長や長老たちが聞きたきないことを主イエスが言っておられるので、無理やり捕らえて口を封じてしまおうというのが、この晩決まったことなのです。

 こういう会議の様子を聞かされながら考えさせられることがあります。私たちはまず、「祭司長や長老たちはけしからん」と思いますが、翻ってみて「では、わたしはどうなのか」ということです。「あなたはどうですか?」と、ここで私たちは問われているのです。もちろん私たちは「主イエスを弾圧したりはしていません。主イエスを捕えて殺そうなどとは思いません」とおっしゃる方は多いことでしょう。けれども、よく考えてみますと「主イエスは、わたしにとって無害な方だ」と、私たちが思っているからかもしれません。主イエスは本当に私たちにとって何の小言も言わず、咎めもしない、そういう方なのでしょうか。主イエスがなぜ、祭司長たちや長老たちから、手段を選ばずとも捕らえようと思われてしまったのか。それは神殿の境内で主イエスがファリサイ派やサドカイ派のあり方、祭司長や長老たちのあり方を手厳しく批判なさったからです。それで、口うるさい主イエスの口を封じてしまおうと考えました。
 もしも主イエスが、私たちの日々の生活に立ち入ってきて、私たちが考えたり行ったりする一つ一つのことについて、「あなたが今やったこと、言ったことはどうなのか。思っていることはどうなのか。それは愛に根ざしたものなのか。信仰を持って、希望を持って生きているあり方なのか」と問うようなことがあれば、その時には、私たちはどう行動するでしょうか。主イエスの言葉に素直に耳を傾け、感謝して従うでしょうか。それとも、主イエスの言葉を煩わしく思って、無視したり聞き流して黙殺したりはしないでしょうか。もしも私たちが自分自身について厳しくないために、その身代わりとして主イエスが十字架に架からなければならなかったとすれば、主イエスを十字架にかけてしまったのは、実は、私たちの仕業だと言えるのではないでしょうか。
 もちろん、私たちは主観的には、主イエスに対して敵意など持っていません。けれども、私たちの日々のあり方、生活の在りようが、主イエスを十字架磔にしてしまったようなところがあるのです。そう考えますと、当然、主イエスに申し訳ない」という思いも生まれるかもしれません。けれども主イエスに申し訳ないからと言って、「こんなわたしのために、十字架に架かったりしないでください」などと私たちは言えるかというと、言えないのです。なぜかというと、そう言った後で、主イエスが十字架にかからなくても良いように私たちが本当に神の前に正しく立ち、いつも神の御心を思い、御心に従う正しい生き方ができるかというと、できないのです。毎日の生活の中で、私たちは、始終神のこと、主イエスのことを忘れて、自分の思いで生きてしまうのです。そういう私たちであれば、放っておけば神の前に通用しない者として滅ぼされざるを得ないのです。
 神は、私たち人間をそのように滅ぼしたくはないので、私たちの身代わりとしてのいけにえとして子羊を屠ってその血を家の門に塗っておくようにとおっしゃったのです。主イエスこそがその子羊になってくださったのです。ですから、私たちの方で、主イエスの十字架が必要かどうかを決められるような立場ではないのです。それを決めるのは、神です。神が、放っておけば神から離れて滅んでしまう私たち人間を深く愛して、憐れんで、いけにえの子羊の血を流そうと決めておられる限りは、私たちがどう言おうとも、主イエスは十字架に向かわざるを得ないのです。神に背を向けて生きている私たちの罪を、神は主イエスの血潮をもって贖い、その血を私たちに塗りつけることで私たちを救おうとしておられるのです。ですから、私たちが主イエスを十字架に架けてしまうということは避けられないことなのです。

 この世の大方の人たちは、自分の人生の良し悪しを測る際には、大概自分の自己実現の物差しを使います。自分の願った通りに生きることができたら、それはささやかでも良い人生で、そう生きることができなかったら良い人生とは言えなかったと、私たちは思います。けれども、仮に私たちが願った通り思った通りに生きることができたとして、私たちが願うこと思うことの中には、邪悪なものは果たして存在しないでしょうか。私たちが願った通り、思った通りに生きることができさえすれば、私たちの人生は麗しく正しく良いことだけが実現していくのでしょうか。そんなことはないだろうと思います。私たちは天使ではないのです。ですから、もし私たちが願った通りの人生を生きることができたとすれば、そのように生きている私たちの人生を、神が厳しい目を向けてご覧になった場合には、そこには、麗しくない、正しくない、良くないことが幾つもあるのです。自分自身の人生を振り返ってみても、「あの時はああするべきではなかったかな」と悔いが残るようなことは、幾つか」思い当たるあることでしょう。
 そうでありながら、しかし、私たちはそれをはっきりと言われることは好みません。牧師の説教として聞いているから素直になれても、「あなたの人生には良くないところがあります」と面と向かって言われれば、きっと怒ることでしょう。私たちは、自分の至らないところ、悪い点については聞きたくないのです。けれども、嫌なことを聞かないで済まそうとすること、それは嫌なことを言わせないように口を封じることと、さほど遠いところにはないのです。私たちは、どんな一人の例外もなく、嫌なことを主イエスから言われなようにしようとした祭司長たちや長老たちと、さほど違わない人生を生きているのです。
 主イエスは、私たち人間が、麗しいことだけでは生きていけないにもかかわらず、それを言われるのも嫌だし、それを言う口を封じてしまおうとする、そういう惨めさの中で人生を初めから終わりまで歩んでしまうということをご存知で、それでは神の前に通用しないということもご存知で、そのために自らが身代わりの子羊になるとおっしゃってくださるのです。そして、「間もなく祝われれようとしている過越の祭りで、わたしは血を流し、生贄の子羊となる」と弟子たちに教えておられるのです。

 一方で、祭司長たちや長老たちは、主イエスの口を封じようと決めて陰謀を企てているにも拘らず、多くの群衆が街にいるこの時期は、時が良くない、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていたとここに記されています。祭りが済んで一眼さえ無くなれば、あとは自分たちの思う通りにできると思っていました。大変不思議なことです。主イエスを実際に磔にしてしまう人たちは、いつ主イエスが磔になるのか、知りませんでした。本当に不思議な成り行きです。捕らえられる側の人が、いつ自分は殺されるか分からないというのが普通です。ところが、ここでは逆です。捕らえる側の人たちは祭りの間はやめておこうと言っていますが、捕らえられる側の主イエスの方が、この過越の祭りの最中にそれは起こるとおっしゃり、実際にその通りになるのです。祭司長たちは銀貨30枚でイスカリオテのユダを買収します。ユダに裏切りの手引きをさせて、上手くいったと自分たちが主イエスを捕らえて十字架に架けるのですが、実は、ユダの裏切りを用いて、主イエスを捕らえ十字架に架けて殺してしまうという出来事は、プランから言えば、祭司長たちのプランではないのです。祭司長たちのプランではなく、主イエスが弟子たちに教えられた通りなのです。主イエスは、過越祭の最中に捕らえられ、十字架につけられて、自らの民に罪からの解放をもたらす贖いの子羊として死んで行かれるのです。主イエスの十字架の出来事はl人間の思惑通りに事が運んだのではなく、神の御心深くに秘められたご計画の通りに事が持ち運ばれていったことを、聖書は告げています。そして、私たちはそういう聖書の御言葉を聞いているのです。

 祭司長や長老たちにしてみれば、自分たちの思惑通りに事が運んだと思っていますが、しかしそこに実現しているプランは神のプランです。神のプランのうちにあって、祭司長たちは自分たちの思いを行なっているのです。そして、大変不思議なことですが、私たちは今日ここで、礼拝の場でそのことを聞いています。今私たちがここで礼拝しているのは、一体誰のプランでしょうか。私たちはそれぞれに、自分で礼拝に行こうとして来ていることと思います。多少くたびれていて迷いがあったとしても、強制されてということではなく、来たことでしょう。けれども実は、ここで私たちが礼拝しているのは、すべて神が備えてくださった中で私たちに起こっている出来事です。そうであるならば、今は新しい年の始まりの時ですが、私たちのここからの一周りの歩みは、神の御手にお委ねして始めるということが正しいあり方ではないかと思います。神に自分自身を委ねるということは、私たちが自発的でなくなるということではありません。自分では何も決せず無責任になるということではない。祭司長や長老たちの策略をさえ用いて、神はご自身の御業をなさっていかれるのです。そして、私たちにも神は同じようになさいます。私たちの決意をも用いて、神は、私たちの上に神ご自身のご計画をなしていかれるのです。

 今日の箇所で、祭司長や長老たちの上に伸ばされている神の御手が、ここにいる私たち一人一人の上にも伸ばされている。そして私たちは、神に持ち運ばれる中でそれぞれの今日の生活を与えられていることを認め、ここから始まっていく一周りの生活を、この年も神の与えてくださる生活として歩めますようにと祈り求めることがふさわしいと思います。

 主イエスは十字架に架かって血を流されました。あの子羊としての血は、私たちにも振りかけられるための血です。私たちは、「主イエスがわたしのために十字架に架かられたことを信じて、その血がわたしにも振りかけられている。洗礼を受けているのだから」と信じることで、神抜きで歩んでしまいがちな罪の弱さも赦されて、清算され新しいものとされて、「あなたはここから生きて良い」と繰り返し聞かされていく中で生活していくのです。私たちは、主イエスに身代わりになっていただかなければならないほどに至らない、頑なな覚束ない者たちですが、そういう私たちも、まさに主イエスの十字架によって罪を清算していただいて、神の保護と導きのもとに、ここからもう一度新しく歩んでいくことができるのです。主イエスの十字架の取り成しと、贖いの御業を覚えながら、心から感謝して、従っていくという献身の思いを持って、それぞれに与えられている生活を精一杯ここから歩む者とされたいと願います。
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