聖書のみことば
2018年3月
  3月4日 3月11日 3月18日 3月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

3月11日主日礼拝音声

 インマヌエル
2018年3月第2主日礼拝 3月11日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第18章15〜20節

18章<15節>「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。<16節>聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。<17節>それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。<18節>はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。<19節>また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。<20節>二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 ただ今、マタイによる福音書18章15節から20節までをご一緒にお聞きしました。15節に「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とあります。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と言われています。従って、ここで語られているのは一般論としての罪の話ではなく、具体的な罪です。しかも、どこか遠いところで起こっている話ではなく、罪を犯されてしまった人、つまり被害者に対して語りかけられている言葉です。
 キリスト者である一人ひとりは、その人だけを取り出して考えるならば、失敗も過ちも犯してしまう弱い人間にすぎません。教会の中に生まれる、キリスト者同士、兄弟姉妹の交わりは、そこに集う者たちが天使のように清らかで特別な交わりが保たれるというのではありません。主イエスは、そのことについて極めてはっきりと「兄弟があなたに対して罪を犯すことが有り得る」とおっしゃいます。教会に集うキリスト者同士であっても、お互いに過ちを犯して、そのために本来清潔であるはずの交わりが破れてしまうことがあるということを、主イエスはよく分かっておられて、ここでは、そういう破れが生じる時にどう対処すべきかを教えられるのです。
 その際にとても大事なこととして教えられているのは、「過ちに陥っているその人が、自分の過ちに気づくように導く」ということです。実際に不正なこと不当なことが行われた場合には、概ね、被害を受けた側には「自分が被った辛さや悲しみ、痛みについて、同じだけのものを相手に負わせたい、仕返しをしたい」という感情が頭をもたげてきます。「相手が犯した罪によって、わたしは本当に辛い思いをしたのだから、相手にも同じ思いを味わって欲しい」という復讐の気持ちが、私たちの心の内に湧き上がるのです。そしていつの間にか、復讐したいという思いが満たされることが、不正や不当なことに対処する第一のこと、それどころか唯一のこととさえ思えてしまうのです。私たちがごく普通に抱いている正義の感覚とは、そのようなものだと思います。
 ところが、主イエスはここで、そのような報復感情を先立たせるようなことをお認めになりません。それは、罪、過ちが無かったかのように覆い隠すということではありません。泣き寝入りしなさいということとも違います。そうではなく、「もしそういう目に遭った場合には、あなたは恐れずに相手のところに行きなさい。そして、『あなたがわたしに行なったことは、こういう罪だ』とはっきり言ってあげなさい。そしてその上で和解すること、それが兄弟姉妹の罪に対して、まずあなたがなすべきことだ」とおっしゃいます。

 復讐の感情を先立たせないということは、こういう主イエスの教えを受けて、使徒パウロもローマ教会に宛てて書いた手紙の中で語っています。ローマの信徒への手紙12章19節「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」』と主は言われる」と書いてあります」。
 私たちはつい、自分に対して悪を行う相手には、その悪の重大さを思い知って欲しいと考えがちですが、しかしここには、悪をもって悪に報いないようにと勧められています。どうしてでしょうか。それは多分、私たちには「やり過ぎてしまう」ということがあるからだろうと思います。私たちが抱く処罰感情、復讐の思いが完全に満たされたいところまでしてしまうと、やり過ぎてしまい、今度は相手がそれに対しての報復を求めることになります。そうなると結局、お互い同士の間で際限のない報復合戦となって交わりが完全に壊れてしまいますし、最初には何が問題だったのかも分からなくなってしまう、主イエスはそういう人間の有り様を承知しておられるので、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とおっしゃるのです。
 主イエスが大切に考えられるのは、怒りや報復の感情が満足させられることではなく、「過ちに陥っている人が、その過ちに自ら気づいて立ち返る」ということです。そして、主イエスがそうお考えになるのは、先週聞いた箇所の一番最後に語られていたこととも関係があります。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と、18章14節に語られていました。主イエスは何とかして、どんなに小さな一人も決して、神の真実な恵みからこぼれ落ちないように、そのためであれば、過ちを犯した場合にはそれを正して信仰者本来のあり方に立ち返らせて、清くされている者として相応しい生活を互いに送れるように支え励まそうとなさるのです。そうであるからこそ、相手を処罰するのではなく、相手の過ちを分からせるように忠告しなさいとおっしゃるのです。

 ところで、「過ちを分からせる」、その伝え方ですが、ここでは3つの段階が教えられています。まず最初は、相手と二人きりのところで忠告をするように教えられます。いたずらに騒ぎ立てて事を大きくしない方が良いのです。しかし、そのように二人きりで穏やかに話をして間違いを分からせようとしても、その相手が分かってくれると決まっている訳ではありません。どうか分かってくれるようにと祈りながら辛抱強く話していても、相手は過ちに気づかないということもあります。そういう場合には大変辛い気持ちになるのですが、しかしすぐにそのことを教会全体の前で公にして、相手の過ちを暴露するのではなくて、次の段階では、誰かもう一人か二人、兄弟姉妹を連れて行って、もう一度、その相手との交わりを持って過ちを伝えてあげることが良いのだと言われています。16節「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」。
 「二人または三人の証人の口」などと聞かされますと、私たちはつい、連れて行った人たちが、相手の不正を自分と一緒になって糾弾してくれる証人になるのだと考えがちです。相手と自分とのやり取りに耳を傾けて様子を見守ってくれる、そういう証人になってくれるということもあるかもしれません。けれども、ここに一人か二人と言われているのは、恐らく、そういう理由だけではありません。最初に一人だけで相手の過ちを正す場合には、相手が自分の過ちに気づかない理由は色々と考えられます。もしかすると、相手にとっては、その過ちを正そうとするあなたが、そういうことを教えてくれる人物だとは見えていないのかもしれません。同じ事柄でも、それを聞かせてくれる相手が違うと違って聞こえるということは、私たちの人生経験の中でもあり得ることだと思います。「同じ注意を受けても、最初の人には反発した。ところがそこに他の人が来て、同じことについて忠告してくれた。それを聞いているうちによく分かった。分かってしまうと、なぜ最初の人があんなに言い募っていたのかが分かるようになる」、そういう経験をすることがあります。ですから主イエスは、一人だけで過ちを正すことと教会全体が公に知るということの間に、二人または三人でもう一度話に行くという段階を設けておられるのです。つまり、相手を闇雲に追い詰めないようにするということです。相手が何を言われているのか分からないままに、教会の交わりの中で悪い評判が立ったりしないように、一種の保護の毛布をかけて持ち運ぶような、そういうことをしなさいと、主イエスはおっしゃっているのです。そして、そのように二人または三人で話をしてもなお分からないという場合に、初めて、教会全体にその過ちを明らかにして、群全体でその兄弟あるいは姉妹を覚えるということになるのです。17節に「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。

 「教会に申し出なさい」という言い方は、例えば、教会総会の場に申し出るというような意味ではないと思います。主イエスがおっしゃっているのは、もう少し広い意味、「キリスト者全体」というような意味でおっしゃっていると思います。主イエスの時代にはそもそも、各町に各個教会が建ってはいないのです。少し前の16章には、主イエスがフィリポ・カイサリア辺りを弟子たちと歩いていた時に、人々の評判について弟子たちに尋ねるという場面が出て来ます。一通り、他の人たちがどのように噂しているかを聞いた後で、主イエスは弟子たちにお尋ねになりました。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」。それに答えてペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言いました。その言葉を聞いて主イエスは言われました。16章17節から19節「すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる』」。
 「シモン・バルヨナ」と呼ばれている「バル」は「子供」という意味ですので、「ヨナの子シモン」と呼びかけていますが、「あなたはペトロ」というのは、「ペトロ」は「岩」という意味で、「あなたは岩」とあだ名で呼ばれて、その岩の上に教会を建てるとおっしゃったのです。これは、ペトロをどこかの教会の牧師とか主管者として送り出したということではありません。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と言い表した信仰を土台として、その上に主イエスの教会を建てるのだとおっしゃったのです。
 「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われているように、信仰告白は、ペトロが頭で思いついたのではなく神がペトロに気づかせてくださったのです。ですから、「地上の教会」は、人間の頭でひねり出した上手いやり方や計画によって建っていくのではなく、「主イエスこそがメシア(救い主)であって、生きておられる神の独り子だと信じる信仰の上に建っていく」とおっしゃったのです。
 今日の箇所で、主イエスが「教会に申し出なさい」とおっしゃっている教会は、まさしく、「この岩の上に教会を建てる」とペトロにおっしゃったのと同じ教会です。ですから、どこかの具体的な教会に申し出なさいということではありません。「主イエスを救い主だと信じている教会の信仰の上に申し出なさい」ということです。人間の不正や悪というのは、最後にはどこに持っていくことになるのか。最後には誰が裁き主になるのか。つまりそれは「主イエスご自身」なのだということが、ここに言われていることです。

 そうは言っても、ここに言われていることは具体的な罪の事柄、過ちのことです。ですから、一番最後には主イエスが裁き主だと言って終わる話ではありません。実際には、地上に建てられているどこかの教会に申し立てがされて、それに教会が応対することになります。けれども、その場合に教会が考えなければならないことは、自分たちの群れの中だけの個別なことを扱っているということではないということです。実際に起こっている問題に対してどういう判断をするか、それはもしかするとその教会が判断するかもしれませんが、その場合に教会は、自分たちがこう思うからということではなく、「神が建てておられる全ての教会、公同教会、キリスト者の群れ全体の判断を、自分たちの群れが代表して行っている」のです。
 ですから、そのようにして教会が下した判断は、その教会の中だけで通用するようなものではなく、どこの教会に行ってもそのことが尊重されなければならない性質のものです。そして、それぞれの教会が「この人は異邦人か徴税人と同様」と見なして「群れのメンバーではない」と言った時には、そのことを他の教会にも伝えるということが出て来ます。「教会に申し出なさい」と主イエスがおっしゃったのは、「あなたがたの群れで相談して決めればよい」ということではなくて、「主イエスをメシアと告白する教会の信仰に照らして、全てをはっきりさせなければならない」とおっしゃっているのですから、17節の言葉は大変重い言葉です。
 もし仮に、誰かが明らかに不正なことを行って、それを悔い改めようとせず罪の状態に陥って捕らわれているということが明白な場合には、どういうことが行われるのかといえば、「戒規」ですが、いきなり教会の名によって戒規が適用されることがあるのかというと、そんなことはあり得ません。主イエスがここで教えておられるように、その前には、「何とか過ちに陥っている人が罪の赦しに導かれるように」と、真実な愛に基づいて、信仰者個人の説諭というものが最初にあるはずなのです。忍耐強くそういう話し合いが持たれた後で、しかしどうしても分からないとなると、今度は、何人かの同心の友により、祈りによって、招きが行われます。その後でようやく、教会による判断が行われるようになるのです。
 けれども、そういう手順を踏めば、戒規を好き勝手に行って良いかといえば、そうではありません。もし万が一にも教会が戒規を行うという場合には、各個教会が行うことになりますが、各個教会の判断は公同教会の判断を表すということになりますから、誰かを「異邦人か徴税人と同様に見なす」ということに、教会は常に慎重でなければならないのです。教会全体の信仰から本当に外れるという理由以外で戒規が行われるというようなことはあってはならないことです。もしも、私的な個人的な理由で、あるいは群れの考え方と違うという理由で誰かに戒規が行われる時には、もしかすると教会の群れ全体が、神がご自身の民として連ならせている兄弟姉妹を自分勝手に放り出してしまうということになり兼ねないのです。もしそういうことが行われる時には、逆に、戒規を行った側の教会が責任を問われ報いを受けてしまうこともあり得るのです。ですから、教会では戒規というものは慎重に行われることです。私たちの教会の周りでは、あまり聞いたことがないと思います。
 しかしこのことは、教会が罪のことに対して及び腰になって判断を避けるとか、罪や過ちがあってもそれに目をつぶるということであってはなりません。むしろ、過ちや罪が起こるときには、「私たちに知らされている十字架の主の福音に基づく赦しと悔い改めに導かれるように」と、私たちの赦しへの招きがせっせと持ち運ばれるようでありたいのです。多くの場合、いきなり戒規だということは、実際に自分が相手に赦しを持ち運ぶことが嫌であったり不安であるところから起こることです。相手のところに行って「それは罪だと思う。間違っているよ」と言って、素直にそれを相手が受け入れてくれたならば、それで兄弟姉妹の交わりは回復するのです。ところが、恐くなってそこに行こうとせず、むしろ「わたしはこんなことをされた。これは問題だ」と言い立てるところから、事柄が大きくなってしまうのです。私たちは、人間の罪が起こっていると思うところでは、個人として聞き入れてもらえないのであれば二人か三人の交わりによって、その人がどう生きたら良いのかということを考え、赦しに導くように、「赦しを持ち運ぶ」という務めを、それぞれに与えられているということを覚えなくてはなりません。

 今日の箇所で、主イエスが「罪が起こったときには」と言って一番最初におっしゃったことは何かと言うと、「相手のところに行って、罪が赦されるように導いてあげなさい」ということでした。それが主イエスの基本的な姿勢です。そしてこのことは、ここでだけ言われていることではありません。今日の箇所の前後にも注意を払って、どういう脈絡の中で語られているかを考えたいのです。先程も聞きましたが、この箇所の前には99匹の羊を山に残して1匹の羊を探しに行く羊飼いの話でした。マタイによる福音書の強調しているところは、「羊に価値があるから探し求めるということではなく、どんなに小さく迷いやすい羊であっても、その1匹を真剣に探し求める羊飼いがいる」ということです。ですから、1匹が見つかって嬉しいということではなく、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」という言葉で終わっていました。では、今日の箇所の後ではどうでしょうか。来週聞くところですが、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」ということが教えられています。
 主イエスは何としても「全てのキリスト者を本当の赦しの中を生きる者へと招こう」としておられます。口先だけで許して腹の中では赦さないというような不明瞭な赦しではなく、心の底から、「あなたたちは皆、過ちを犯すけれども、そういうあなたも赦されているし、神から赦されている命を生きているのだ」という恵みを互いに持ち運んで、命を感謝して生きる生活へと招かれている、そのことを伝えようとしてくださっているのです。今日の箇所の前には、「一人も滅びないということが神の御心である」ことが教えられ、後には、「本当に大きな赦しの中に、私たちは置かれている」ということが語られています。そしてそういう中で、私たちの罪の問題が語られています。
 私たちは、残念ながらも人間であるがゆえに、過ち、罪を犯してしまうということが有り得ます。けれども、そういう時に、その罪を言い立て、絶対に赦さないと罪を固定してしまうのではなく、「罪ある者でも、神の赦しの許に生きることができる。主イエスが十字架に架かって私たちの罪を滅ぼしてくださっているのだから、あなたは十字架を見上げて、もう一度新しく生きてよい」と伝えることができるのだと教えられているのです。

 そして、ここで注目すべきことは、このように罪と赦しが語られている箇所の最後に「祈り」が語られていることです。19節20節「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」という言葉は、プロテスタント教会を表す姿だと言われる言葉です。私たちが一人ひとり、神に祈りを捧げ、共に同じ思いになっているところには、主イエスが居てくださる、そこに教会の交わりがある。ですから、キリスト教の信仰は、自分一人だけで聖書を読み悟りを開くというものではありません。交わりの中に置かれて、「心を合わせて神に仕えていけるように、清らかな生活を送れるようにと祈り合う」ところに、私たちの教会生活、信仰生活があるのです。
 私たちは、その一人を取り出してみるならば、本当に弱い者ですから、天使みたいな人は誰もいません。私たちは決して、自分一人だけでキリスト者ですとは言えない弱さを抱えているのです。けれども、そういう私たちが祈りをもって仕え合う中で、助けられ清められて、「この地上で、神の民の一人として歩んで行く」、そういう生活を過ごして行くことができるのです。そして、神がその歩みを喜んでくださって、その恵みから一人もこぼれることがないように、何とかして持ち運ぼうとしてくださっているのです。
 「わたしは本当に弱く不束な者である」と、自分自身としては深く思います。けれども、そういう私たちが、なお、「神の民であり続けられるように」と祈るところでは、神がきっとその祈りを聞いてくださるのだという約束が、ここに語られています。
 ですから、私たちは「祈り」というと、あれやこれやの願い事だと思っていますが、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」という言葉は、この文脈に限って言いますと、誰かが兄弟姉妹の交わりから外れて行ってしまうかもしれないという危機的な状況で捧げられている祈りだということです。誰かが教会の群れから離れて行ってしまうのではないかと不安を持つ時に、そうならないようにと個人で呼びかけるのですが、聞き入れてもらえない時には、もう一人二人を連れて行って呼びかける。それでもだめなら、教会全体でその人を覚えて祈る。私たちはそういう群れとして、この地上に立てられているということを覚えたいと思います。私たちがそのように祈る時に、主イエスもその中に共に居てくださる、そういう生活を送って行くようになるのです。
 私たちは教会に集い、礼拝を共に捧げながら、「主イエスが共にいてくださる」という生活を歩みます。「主イエスが共にいる」ということは、自分の心が主イエスを忘れないからということではありません。そうではなく、教会の群れの中で信仰生活を過ごすことで、「主イエスが共にいて、弱いわたしを支えてくださっている」ことを知るのですから、そういう交わりを与えられていることを本当に感謝したいと思います。そして、主イエスに従って、私たちも、兄弟姉妹を覚えるようでありたいと思います。

 まだ信仰を言い表しておられない方も礼拝に出席されますが、そういう方々も、実は、教会の群れの中に既に覚えられています。教会は、そのような方々も、「主イエスが共に歩んでくださっている生活である」ことに気づくことができるように招く、そういう働きのためにも建てられています。

 私たちは、主イエスが共にいてくださる中で、「皆が神の赦しの許に生かされている。そこで生きて良いのだ」という言葉を聞かされ、聞き取りながら、与えられている一日一日を歩んで行く、そのような者とされたいと願います。
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