聖書のみことば
2018年3月
  3月4日 3月11日 3月18日 3月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

3月4日主日礼拝音声

 天の父の御心
2018年3月第1主日礼拝 3月4日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第18章10〜14節

18章<10節>「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。<11節>人の子は、失われたものを救うために来た。<12節>あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。<13節>はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。<14節>そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 ただ今、マタイによる福音書18章10節から14節までをご一緒にお聞きしました。最後の14節に「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」とあります。この言葉は、真に力強い御言葉です。「あなたがたの天の父は、どんな小さな者でも、一人も滅びることを望まない」と、はっきりおっしゃってくださっているからです。

 私たちは日頃、自分が神を信じ信仰を持って生きていけるということは、自分自身の思いの強さや、神に対する熱心さによるものではなく、神の方が私たちを選び、捕らえてくださっているからだということを、頭では分かっているつもりでいます。神と私たちの結びつきは、私たちの側の思いの強さや情熱によるのではありません。もし神と私たちの結びつきが、人間の心による結びつきであるのならば、どなたであっても例外なく「神との結びつというものは、大変覚束ない弱々しいものだ」と言わざるを得ないだろうと思います。どうしてでしょうか。私たちの心というのは、一時も定まらない、まるで風がいつも吹く方向を変えているように、私たちの心もいつもくるくると向きを変えているようなところがあるからです。
 キリスト者でない人は、神との結びつきについて、「神を信じている。だから神に結びつくのだ」と考える人が多いかもしれません。けれども、もし私たちが自分の心で神に結びつくのだというのであれば、その裏返しの状態についても、極めて真剣に考えなければならないと思います。裏返しとはどういうことか。私たちは、神を信じないとまでは言わないとしても「神を忘れて過ごしている」ということは始終あることです。神を忘れている時、私たちは自分の心が神に向かっていると言えるでしょうか。言えないはずです。では、神を忘れていても、無意識にでも神と繋がっているということがあるでしょうか。神を忘れ神に対して無意識になっているという状態は、例えて言えば、神と繋いでいる手を、私たちの方から放しているような状態だと思います。考えてみますと、私たちは生活の中で「神を忘れている」ということが本当に多いのですが、それでも神から離れてしまって切れてしまわないのはなぜでしょうか。無意識のうちにも私たちが固く神を握りしめているからでも、神との絆が強いからでもありません。そうではなく、「神の方が、私たちと結んでいる手を放さない」からなのです。そして、そのことを14節の言葉が殊の外、明瞭に言い表しているのです。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。神は、私たちが神から離れて滅んでしまうことを決してお望みではないのです。

 今日のこの言葉は、99匹と1匹の羊の譬え話の結びの言葉として語られています。この譬え話は大変有名です。教会に長く来ている方であれば、一度は聞いたことのある話でしょう。けれども実は、本当に有名で広く知られ、私たちが心に残っていると思っている譬え話は、このマタイによる福音書ではなく、ルカによる福音書15章の初めに出てくる譬え話の方です。そして、ちょっと聞いただけでは、どちらも同じことが語られているように聞こえます。どちらも100匹の羊がいて1匹が迷い出ます。それで、羊の持ち主が99匹を残して1匹の羊を探しに行くのですから、話の筋書きは同じです。
 けれども比べて読んで見ますと、この二つは微妙に強調点が違っています。ルカによる福音書では、話の強調点は明らかに、「見失っていた羊を見つけ出した、羊の持ち主の喜び」に焦点が当たっています。ルカによる福音書15章4節から7節には、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」とあります。ルカによる福音書の譬え話では、話の結びは明らかに「天の喜び」ということに向かっています。「天で輝くような喜びが起こる」、それは「見失われていた1匹の羊が見つかる」というところで起こる。そのことがこの譬え話の非常に強い印象を作り出すのです。ですから私たちは、この譬え話を大変好ましいものとして記憶するのです。自分がたとえ見失われた1匹になるとしても、きっと主イエスが捜し出してくださって、そして見つけていただいた時には、羊である自分だけではなく天においても大きな喜びがあって、その喜びに包まれるのだと聞いて、好ましく思うのです。
 一方、マタイによる福音書では、13節に「はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」と、羊の持ち主が羊を見つけて喜んだと書いてありますが、しかしここでは「天の喜び」「天使たちの喜び」とは、どこにも出てきません。大きな喜びについては語られませんが、その代わりに語られているのが、繰り返し聞いています14節の言葉です。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。ここに語られているのは、神の強い決意です。たとえどんなに小さな羊、小さな者であっても、神はご自身が導いておられる群れに属している羊であれば、「どんな一人も決して滅ぼさない」という強い決心を持っておられることが語られています。羊の持ち主が何としても羊を見つけ出そうとする、その理由は、その羊が、この羊飼いの群れに属しているからです。どんなに小さな羊でも、小さな者でも、神は、「この人は間違いなく、わたしの群れの一員なのだ」と言ってくださる。だから捜してくださるのであり、見つけ出したら、本当のその1匹を喜ぶのだと言われているのです。

 実はキリスト教界では、マタイによる福音書と全く対照的な話というものも伝えられています。それは、今私たちが持っている福音書には出てこない話です。翻訳もされていますが、「トマスによる福音書」という書物があります。これは新約聖書の中にはありません。キリスト教界の中で早い時期に書かれたものではあるのですが、新約聖書が全体として伝えようとしていることとは明らかに違った内容を語っていると判断されて、聖書から退けられていった書物です。そういう書物のことを新約聖書の外にあるという意味で「外典」と呼んだりするのですが、外典であるトマスによる福音書の中にも、99匹と1匹の羊の譬え話が出てくるのです。トマスによる福音書では、「100匹の羊の持ち主がいた。ところが、その群れの中で、最も大きくて良い羊が行方不明になってしまった。羊の主人は99匹を後に残したまま、その1匹の羊を懸命に捜して、すっかりくたびれ果てたけれども、とうとう見つけ出した。そして『お前はやっぱり、他の99匹に優って値打ちのある者だ』と言って喜んだ」という話です。この一つの話を聞いただけでも、どうしてトマスによる福音書が新約聖書に入れられなかったのかということは、非常にはっきりと分かります。明らかに新約聖書が教えていることとは違うことを教えています。
 トマス福音書では、捜される一匹の羊は、もはや小さな羊なのではありません。大きく肥えていて、群れのどの羊よりも大事にしたい、そういう一匹です。もし売れば一番高い値段が付きそうな羊、そういう羊がいなくなったから、持ち主は懸命に探したのだという話になっています。これは、マタイによる福音書の「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」ということとはまるで逆ですから、新約聖書から退けられたことは頷けます。けれども、こういう文書がキリスト教界の歴史の中に生まれているということから判ることもあります。それは、最初のキリスト者たち、当然主イエスの12弟子もいたのですが、彼らにとって、この羊の譬え話は非常に理解しにくい話だったということが判るのです。
 ある意味では、トマスによる福音書から聞かされている話と今日のマタイによる福音書から聞かされている話では、どちらの方が分かりやすいかと言えば、トマスによる福音書の話の方がずっと分かりやすいのです。
 「野原で100匹の羊を放牧していたら、1匹の羊が姿を消してしまった」、そこで、マタイやルカでは、主イエスは事も無げに「当然あなたは、捜しに行くでしょう。捜しに行かないはずはないですよね」という口ぶりです。けれども考えてみてください。もし、私たち自身が羊に対して責任を持つ羊飼いだったり、羊の持ち主だったとしたら、果たして私たちは、ここで主イエスが言っておられる羊飼いのように考えるでしょうか。主イエスは「九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」、つまり「探しに行くのが当たり前だ」とおっしゃいますが、そんなことをしてもよいのでしょうか。1匹を探している間、残りの99匹は羊飼いの目が離れた状態になるのです。しかも、ルカでは「野原に残しておいて」ですが、マタイでは「山に残しておいて」と言っています。山ですから、崖などもあるでしょう。そんな場所に99匹を残して行ってよいのかと、普通であれば考えると思います。せっかく1匹が見つかっても、他の2匹が崖から落ちてしまうかもしれないと、羊の群れに責任を持っている羊飼いであれば考えることでしょう。せめて「山に残して」などとは言わずに、「1匹はいなくなってしまって心配だけれど、仕方ない。残った99匹を失わないように、この99匹だけはまず安全な柵の中に入れるように連れ帰って、その上であれば、1匹を捜しに行ってもよい」と考えるのが、私たちの一般的な考え方だろうと思います。「99匹の安全が確保されない限り、1匹の捜索は残念ながら始められない」、一般的に世の中で経済効率、安全性を考えれば、むしろそうなります。そして、そうだからこそ、トマスによる福音書の記者は、主イエスのおっしゃっている意図を誤解してしまったのです。
 ごく普通に考えるならば、99匹と1匹ではどちらが大切でしょうか。99匹が大切だと考えます。けれども、「主イエスが事もなげに『1匹の方が大事だ』とおっしゃっているのは、どうしてだろう」と考えたのです。そして、「それはきっと、この1匹の方が、残りの99匹よりもずっと値打ちが高かったからに違いない。主イエスはそういうことをおっしゃっているのだろう」と思ったのです。けれどもこれは、ごく普通の人間の考え方だろうと思います。

 ところが主イエスは、そういう世の中の考え方と違うことを、敢えておっしゃるのです。値打ちの高いものだから愛するという話ではないのです。値打ちの高いものを愛するのは当たり前だということであれば、そもそも、主イエスが十字架にお架かりになるなどということは、ナンセンスな馬鹿げたことになってしまいます。私たちは「主イエスは、私たちのために十字架に架かってくださったのだ」と、どういうわけか当たり前のように思っていて、救われた私たちにしてみれば、本当に感謝の他ないのです。けれども、神が私たちを神との結びつきの中に入れてくださるために、神の方で払っておられる犠牲とは何でしょうか。それは「主イエスの命」です。「神の独り子であって、神と等しい方であるお方が、私たちの身代わりになってくださった」と聖書は教えているのです。そんなことまでしていただくほど、私たちは値打ちが高いのでしょうか。神の独り子を十字架に架けてまで、救いたい。値打ちのあるものを愛するという普通の考え方であれば、神に背中を向けて離れて行ってしまう人間、あるいは神がせっかく主イエスの十字架によって交わりを回復してくださったのに始終神を忘れて神抜きで生きてしまうような私たちよりも、いつも神を忘れず、どんな時にも神に祈って歩んで行かれた主イエスの方を惜しんで当たり前ではないかと、思わないでしょうか。
 主イエスを十字架に架けてまでして、「この人を、わたしの許に置いておきたい」と神に思っていただけるような人間が、果たしてこの地上にいるのでしょうか。もし「正しい人、値打ちの高い者、見どころのある者」を救おうとするのであれば、そもそも、主イエスの十字架の出来事は、起こる必要がないということになります。他のどのような人間にもまさって、神が主イエスを惜しまれるということがあっても、何の不思議もない話です。
 ところが、「とても釣り合いそうに見えない大きな代償を支払って、神は私たち一人ひとりを救おうとしてくださった、神との交わりの中に生きるように招こうとしてくださった」、それが、聖書が伝えていることです。ですから、トマスによる福音書の伝えていることは、聖書の伝えていることと違うということになるのです。

 私たちはどうして、神との交わりの中に招き入れられたのか。普段、頭では分かっているのです。「自分は決して、値打ちが高いから招かれたのではない。自分はごく小さな弱い人間にすぎないけれど、それでも神は憐れんでくださったのだ」と、頭では分かっているのです。けれども、実はそれだけではありません。私たちは、小さいから招かれたのでもありません。そうではなく、「もともと神の民の一人とされているから」、「神がご自身の群れの羊だと言ってくださるから」、私たちは、主イエスによって捜し求められ、そして群れの中に帰されて、神との交わりに生きる者とされるのです。

 そのことに気づいて、このマタイによる福音書の記事を読んでいますと、ある言葉がとても大きく聞こえてきます。それは、1匹の羊について言われていることですが、この羊は「迷い出た羊である」と言われているのです。12節「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出た…九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」。この羊は、マタイによる福音書の中では「迷った羊」なのです。ルカによる福音書では違って、「見失った羊」とあり、羊がなぜ居なくなったのかについてはあまり重視されていません。「見失った」のですから、羊が迷子になったのかもしれませんが、もしかするとそれは、羊飼いが目を離したせいかもしれないのです。「羊飼いが目を離した隙に居なくなってしまった、だから慌てて捜す」というのが、ルカによる福音書の話です。けれどもマタイによる福音書では、羊は自分から迷い出たと言われています。自分から迷い出てしまうような羊ですから、もしかすると、協調性に問題のある羊かもしれません。他の羊は羊飼いについて行くのに、その羊だけは他の道を行ってしまう。そのために迷子になるのです。あるいは、この羊はもしかしたら、羊飼いに少し大切にしてもらいたいと思い、気を惹こうとして、わざとはぐれてみたのかもしれません。何れにしても、マタイによる福音書に出てくるこの羊は、この羊だけに目を向けるならば、「要注意。問題あり」と羊飼い仲間から言われていてもおかしくないような羊なのです。
 トマスによる福音書では、見失った羊は、他の99匹と比べてとても値打ちの高い羊だったので、見つかって良かったと言って喜んでいるのですが、マタイによる福音書では逆のことを言っています。「この羊は、群れの中でも特に弱い、群れからはぐれてしまうような迷う羊である。けれども、そういう羊を探し回ることに何の躊躇があるのか」と主イエスはおっしゃるのです。全くためらわずに、羊飼いはその羊を捜すのだと、断言してくださいます。そしてそれが、「天の父の御心によることなのだ」ということが、今日私たちが聞いている譬え話の結論なのです。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。「どんなに小さな羊でも、どんなに迷い出しやすい羊でも、そういう者が群れに連れ帰られること。そして、他の羊たちと一緒に羊飼いによって養われながら歩んで行くこと」、それが「神の御心」なのだと語られているのです。

 今日の御言葉は、私たちに語りかけています。「あなたは、なぜ、この教会のメンバーなのか。この群れの一員なのか。なぜあなたはキリスト者なのか」。それは、私たちがこういう羊だからです。他の人たちとの協調性があるから群れの一員なのではありません。そうではなくて、群れから迷い出すという問題を持っているかもしれないけれど、しかし、神が「この羊は、この群れの一頭である」と印をつけてくださっているので、「羊飼いは捜しに行くのだ」とおっしゃってくださっているのです。
 私たちはここまで、自分の決心や情熱によってキリスト者として歩んで来たのではありません。それは分かっているつもりです。そうではなく、主イエスが私たちを尋ね求めてくださり、どこまでも「この羊は、群れの一頭なのだ」と言って捜し求めてくださったからこそ、私たちは招かれているのだということを覚えたいと思います。そして、そうであればこそ、私たちは、「この羊飼いの群れの一頭である」と言い表して、その群れの羊らしく歩む者とされたいと願うのです。
 私たち自身は力弱く、絶えず主の群れからさまよい出してしまいそうなところを持っています。覚束なさを持っていますけれども、しかし、主イエスの方が、そういう私たちを、それでも「群れの一頭だ」と言って捜し出してくださる。ですから私たちも、その群れに抱かれている者として相応しく歩みたいと願うのです。
 私たち側に、主への熱い想いが芽生えてくるから、それによって主に従うというのではありません。もしかすると私たちは、神を忘れないとか、主に従うと言ってみても、やはり神を忘れ、迷い出してしまうようなところを持っているのです。教会生活が長ければそういう癖は治る、とは簡単には言えません。私たちは、もしかすると最後まで、自分らしい自分の癖を持ちながら歩んで行くかもしれません。けれども、そういう一人ひとりが、神によって「これは、わたしのものだ」と印をつけられているということを覚えたいと思うのです。そして、私たちは群れ全体として、そういう羊が集まっている群れとして共に集わされ、羊飼いである主イエスの御言葉に耳を傾けて共に生きる生活を与えられていることを感謝したいと思います。
 私たちは、群れに連なる一人ひとりとして、それぞれ自分に与えられている分に応じて、精一杯に支え歩む者とされたいと願います。

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