聖書のみことば
2018年12月
  12月2日 12月9日 12月16日 12月23日 12月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

12月9日主日礼拝音声

 遠くから
2018年12月第2主日礼拝 12月9日 
 
小島章弘牧師 
聖書/エレミヤ書 第31章1〜6節、ヨハネによる福音書 第3章16節

エレミヤ書31章<1節>そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。<2節>主はこう言われる。民の中で、剣を免れた者は 荒れ野で恵みを受ける イスラエルが安住の地に向かうときに。<3節>遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ。<4節>おとめイスラエルよ 再び、わたしはあなたを固く建てる。再び、あなたは太鼓をかかえ 楽を奏する人々と共に踊り出る<5節>再び、あなたは サマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人が、植えたその実の初物を味わう。<6節>見張りの者がエフライムの山に立ち/呼ばわる日が来る。「立て、我らはシオンへ上ろう 我らの神、主のもとへ上ろう。」
ヨハネによる福音書3章<16節>神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 エレミヤ書に聞きましょう。エレミヤ書31章はエレミヤ書の最高峰といわれています。そこには8つのメッセージが記されています(2:6、7:14、15:22、23:26、27:30、31:34、35:37、38:40)が、その全部をここでとりあげることは不可能ですので、今日は1~6節に聞きたいと考えております。すでに前回9月に31章31節以下を読んでいますので、順序からすると逆くになりますが、預言の内容からは問題ないと思います。

 さて、ここの箇所は重要です。またとても美しい言葉があります。「涙の預言者」といわれたエレミヤが、人が変わったように明るくなっています。これがエレミヤかと思うような大きな変化が見られます。
 新しいイスラエルとして復興が実現するということですから、「楽を奏する人々と共に太鼓をかかえて踊り出る」、喜びに満たされて踊りまくるということです。よほどうれしいのでしょう。これは31章に2回出てきます。あとは絶望と失意に戻ってしまいます。エレミヤの喜びが聞こえてくるような箇所です。しかし、この後には逮捕があり、水溜に投げ込まれるなど、エレミヤの苦悩は続きます。また、エレミヤの国ユダのエルサレムの陥落が起こります。

 2節に、荒野の旅を思い起こす言葉が出てきます。イスラエルの人たちにとって良くも悪くも荒野の40年の旅は過酷で辛いものでした。生まれた子供が40歳のおばさん、おじさんになっているのですから。中でも紅海でのローマの追手から逃れた者たちは、大きな試練だったのです。ですから「剣から逃れた者は、恵みを得た」と言われるのです。40年の旅では、多くの試練と恵みを得たのです。マンナや肉や水が与えられ、困難の中でも神さまの恵みをたくさん得て、約束の地に到着したのです。これは忘れることができない旅でした。
 3節「遠くから主はわたしに現れた」とあります。「遠くから」という言葉は注意して読まなければなりません(エレミヤ51章50節、詩編139編2節「遠くから私の計らいを悟っておられる」)。これはすでにエレミヤ書23章に出ています。「わたしはただ近くにいる神なのかといわれる。わたしは遠くからの神でないのか。誰が隠れ場に身を隠したならわたしは彼を見つけられないというのかと主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと主は言われる」 。
 私たちは、単純に主は近くにいてくださると思い込んでいるところがあります。確かに、聖書の神は同伴者として証される神を語っています。それは、詩編23編4節で詩人が語っているような神です。「たとえ死の影の谷を行くとも私は災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」と証ししています。しかし、それだけに神を限定していいのか? 近くにいる神なのか? もっと大きな神が、超越した神がおられるのではないか。エレミヤが語るように「遠くからわたしに現れた」と。隠れるところがなくなるということです。神さまは遠くから見ておられる。隠れ場、天も地も満たしておられる。
 さらに続けてエレミヤは語ります。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ」。
エレミヤは、愛という言葉を5回(2:2、8:2、11:15、31:3)使っています。しかもここで「とこしえの」愛を語っています。変わらない愛ということは、永遠ということです。新約聖書ローマの信徒への手紙5章8節に有名な言葉があります。「しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」、究極の愛といえるでしょう。
 キリストが誕生される400年も前に、エレミヤが「とこしえ愛」という言葉を使っていることは、まことに優れた預言者の感性を持っていたと言っていいでしょう。罪人である私たちは、心に闇を抱えています。まことに醜く、愚かで浅はかな考えを持って、誰にも言えない秘密を持ち、密かな欲望を抑えきれず……そんなところで神と出会うことができるのです。自分一人で悩んでいるところ、恥じてうずくまっているところで神さまと出会うことが許されているのです。そのような闇から引き上げてくださるのです。それがまさに神の愛であり、とこしえの愛ということです。

 エレミヤは、なおもイスラエルの復興を印象付けます。それはエレミヤの預言のテーマ「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植える」の後半を語るのです。エレミヤは語ります。「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種をまく日が来る、と主は言われる。かって、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる」(31:27~28)。神は忍耐をもってイスラエルの立て直しを約束するのです。
 「破壊から創造へ、捕囚から解放へ、裁きから救いへ、死から新しい命へ」と神の御業は続きます。神の変わることがない愛は人間に注がれます。

 最後に、ヨハネによる福音書3章15節に聞きます。「神は、そのひとりごをお与えになったほどに、世を愛された。そのひとりごを信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
 一人一人を愛する神。それは救いです。永遠の命を与えてくださるのです。

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