聖書のみことば
2018年12月
  12月2日 12月9日 12月16日 12月23日 12月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月30日主日礼拝音声

  賜物を感謝して
2018年歳晩礼拝 12月30日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第25章14〜30節

25章<14節>「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。<15節>それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、<16節>五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。<17節>同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。<18節>しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。<19節>さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。<20節>まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』<21節>主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』<22節>次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』<23節>主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』<24節>ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、<25節>恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』<26節>主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。<27節>それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。<28節>さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。<29節>だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。<30節>この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

 ただ今、マタイによる福音書25章14節から30節までをご一緒にお聞きしました。「タラントンのたとえ」と言われたりする箇所ですが、ここには3人の僕が登場します。3人は各自の能力に応じて主人から多額のお金を預けられています。14節15節に「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた」とあります。
 主人が3人の僕に預けたもの、それは自分の財産だと言われています。遠いところに旅行できるような主人が自分の財産を預けたのですから、その額は少ないはずはありません。「5タラントン、2タラントン、1タラントン」は、私たちにはピンと来ませんが、「1タラントン」は聖書の度量衡を見ますと、「6000ドラクメ」とあります。「ドラクメ」は当時の成人が働いて貰う一日分のお給料です。ですから、6000ドラクメは6000日分のお給料に値し、それが1タラントンです。6000日分のお給料を考えますと、1年365日のうち、一週間に一日とその他祝日に休み、大雑把に1年に300日働いたとして、20年分のお給料です。ですから、「1タラントン」預けられた人は20年分、「2タラントン」の人は40年分、「5タラントン」の人は100年分のお給料を一度に預けられたことになります。

 このように多額のお金が預けられたわけですが、では、これは何を例えているのでしょうか。14節は「天の国はまた次のようにたとえられる」と始まっています。ですから、お金の話を引き合いに出して主イエスが語ろうとしておられるのは、「天の国」のことです。「天の国は、一人一人に神から預けられるもの、与えられるものだ」ということです。
 「天の国」と言われてもピンと来ないかもしれませんが、「天の国」とは、「神さまが私たちを支え、持ち運び、神の御支配のうちに私たちを憩わせてくださる」ということを言っています。「天の国、神の国」という時、英語の聖書では、「国」は「country」ではなく「kingdom」と書かれています。「kingdom」は、日本語に訳せば「王国」です。国に元首がいて、元首が国を守り支配している国です。ですから「天の国」は「天の王国」で、そこで考えられていることは、王国を支配している神がおられる国、それが「天の国」です。神の支配の下にある生活が語られているのです。
 私たちは、日常生活において、日曜日に礼拝に来た時には「神さまが私たちの上におられる」と意識するかもしれませんが、家で過ごしている時にはあまり意識していないかもしれません。けれども神は、私たちの日常生活の上にもおられるのです。そういう神の国(神の御支配)は、私たちに本当に豊かなものを与えてくれているのだということを、主イエスは教えようとしておられるのです。
 クリスマス前から繰り返し語っていますが、クリスマスは、「2018年前に主イエスが生まれた」と後ろを振り返って懐かしむ時ではありません。それ以上に代々のキリスト者たちが大事に覚えてきたことは、「2018年前に生まれ、十字架に死に、復活された主イエスが、必ずもう一度、主イエスを信じる弟子たちのところに来てくださる」ということです。主イエスはルカによる福音書や使徒言行録で「わたしは、あなたがたを決して孤児にはしない。やがてあなたがたのもとを訪れるよ」という約束を与え、今、天におられるのです。
 キリスト者は、やがて主イエスが再び訪れてくださり、この世界も、私たちの人生も完成してくださると教えられています。いずれの日、神の国の支配の下に受け止めてくださる、そういう将来が約束されている、それが新約聖書の中で最も大きな約束として、私たちに語りかけられているのです。私たちは、様々に思うようにならないことや難しいこと困ったことを抱えながら、それでも生きているのですが、聖書には、私たちがただ苦しみながら死んでいくのではなく、私たちがどのように生きたとしても、この地上の歩みを終えた先に、必ず神が私たちを迎えてくださる、そして全てを完成してくださる、その完成の時に向かって生かされているのだという約束が示されています。
 そして、その完成の時の私たちがどれほど豊かであるか、その前渡しのように「タラントン」がそれぞれに与えられているのだと、主イエスは教えておられるのです。ですからこの譬えは、「人の人生はただ忙しく苦しく過ごして滅んでいくだけのものではない。神が必ずこのわたしを受け止め、完成してくださる」と知らされながら、その人がどう生きたのかということが言い表されているのです。「あなたは、わたしが命を与えた、かけがえのない者として、いつも守りながら持ち運ぶ。そしてやがては完成するよ」という神の言葉を信じながら、「わたしはどう完成するのだろうか」と楽しみにしながら、キリスト者は生きるのです。

 そういう意味で、タラントンは手付金のようなもので、私たちにタラントンが与えられているということは、終わりの日、きっと神の国に迎え入れていただけるという約束がそこにあるのです。ですから、私たちにとってタラントンは、自分の人生の豊かさと言えます。20年分、40年分、100年分の賃金とは、どれほどの額かと思います。一日の賃金を1万円と考えれば、6000日分は6000万円です。ブラック企業で働いたとして、一日5000円しか貰えなかったとしても、20年分きちんと貰えたならば3000万円になります。これだけの金額を一度に手にしたと考えれば、私たちが何か一つの事業を興そうとするには十分な金額ではないでしょうか。「私たちの人生には、自分が何かをすることができるようなものを与えられているのだよ」ということが「5タラントン、2タラントン、1タラントン」という金額です。実際、「5タラントン、2タラントン」を貰った人は大変喜んで、自分に与えられている豊かなものを用いて、活かして、商いをして更に豊かになったと語られています。
 私たちの持っている賜物は、皆違っています。「5タラントン」は良いと思うかもしれませんが、しかし「1タラントン」でも決して遜色があるわけではありません。競争するようにと言われているのではありません。「あなたは豊かに与えられているのだから、それで自分なりの人生を生きていけるのだよ」と言われているのです。私たちは、皆、姿形も違います。それぞれに「もっとこうであったら…」と思うかもしれませんが、神は「誰一人として、何も与えられていない人はいない」と言われます。「豊かなものを与えられて、この人生を本当に豊かなものとして歩んでいくことができるようにと、神が私たちそれぞれの命を与えてくださっている。与えられているものを用いて、私たち自身が喜び、また周りの人たちとも共に生きて、喜び・愛という建設的なものをこの世界に作り出してくことができるように生かされている」のです。それで、「5タラントン、2タラントン」の人は、与えられた命を更に豊かにしました。

 実は、この譬えの中心に置かれていることは、成功した人の話ではありません。「1タラントン」の僕の話が中心になっています。「1タラントン」の僕は、最初どうしたかというと、他の2人と同じように「出かけて」行きました。ですから、町の人たちは、1タラントンの人も5タラントン2二タラントンの人と同じように見たのではないかと思います。16節に「五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をした」とあり、2タラントンの人もそうでした。けれども18節に「しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた」とあるように、1タラントンの人も出て行きましたが、その先が違っています。5タラントン、2タラントンの人は、たくさんの豊かさを委ねられていることを感謝し、用いて、更に豊かさを増やして行きましたが、1タラントンの人は出て行ったものの自分の豊かさを用いようとしませんでした。

 では、なぜ用いようとしなかったのか、それはこの譬え話の重要なポイントだと思います。なぜ用いようとしなかったのか、僕自身が語っています。24節25節に「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です』」とあります。この僕は、せっかく豊かなものを与えてくださった主人に対して、どういうわけか、大きく深い不信感を持っています。「蒔かない所から刈り取る」ような主人であれば、もし1タラントンを損なうようなことがあれば返済を迫られる、そういう主人だと知っているので、熱心に用いるのではなく、穴を掘って埋めておいたのです。なぜそう思ったかというと、周りの人には5タラントン、2タラントンも与えられているのに、自分には1タラントンしか与えられていないと思ったからです。けれども、こう思うことはやはり問題なのではないでしょうか。
 確かに他の人は自分より豊かな才能を持っているように思うかもしれません。けれどもそれは、他の人の話です。自分は本当に何も与えられていないのでしょうか。あの人やこの人と同じではないかもしれません。けれども、わたしにはわたしなりのものが与えられています。私たちはしばしば、この1タラントンの僕のような考え方をしてしまうかもしれません。他を見て、自分が豊かなものを与えられていることが見えなくなるのです。このように1タラントンの僕は、自分に与えられているものが見えないのですから、仮に10タラントンを主人から預かったとしても、豊かに与えられたと思うでしょうか。そうは思わないでしょう。
 神がわたしをどのように配慮し覚えて、持ち運んでくださっているのか、ということに思いが至らないのです。この僕は、自分が欲しいと思っているものが有るか無いかと考えています。他の人を見て、あの人この人にあるものが自分には無いと考え、願っているものが無いと自分には何も無いと思ってしまうのです。けれども、それは違います。1タラントン与えられている者は、本当に自分が与えられているものを用いて生きようとするならば、十分に持っていたのに、残念なことに与えられているものに目を向けることができませんでした。

 もう一度考えるべきことは、この話が天の国の話であると教えられていることです。天の国の豊かさというものは、私たち一人ひとりに、皆に与えられていると、主イエスは教えておられます。私たちは、タラントンと聞くと、自分の能力や才能や人間関係など、地上の事柄を考えてしまいますが、私たちに例外なく与えられている豊かなものは「神との関わり」なのです。「神さまの保護、神さまのご支配とは、こういうものだよ。一人一人、現れ方は違うけれども、この地上を生き、それどころか地上を終わった時には完成されて『あなたは良く生きた』と言っていただける、そういう約束が与えられているのだよ。それは本当に豊かなものなのだよ。だから神さまとの関わりの中を生きなさい」と、主イエスは教えてくださっているのです。
 ところが私たちは、そういう神の温かい眼差し、配慮が私たちの上に注がれていることに心を向けようとしません。自分の人生の良し悪しをどこで測るかというと、大方の場合、自己実現できているかどうか、自分の予想通りの人生でなければ想定外だったとがっかりするのです。
 この一年を振り返った時に、私たちは、この一年が良い年だったか悪い年だったかをどこで測るでしょうか。起こった事柄の良し悪しで決めるということがあるかもしれません。ところが主イエスは、全く違う角度から、私たちのこの一年、あるいは一日、私たちの人生のすべてに光を当てられるのです。
 主イエスが決定的な事柄として私たちにおっしゃることは、今日一日でも一年でもありません。実は、主イエスが再び私たちを訪れてくださる終わりの時がある、「その時には、あなたがたは神さまの前に完成されたものとなる」、その約束を主イエスは深く御心に留めておられるのです。そういうお方として、「あなたがたが完成される時、その時こそが決定的な時だよ」と教えてくださっています。途中でどんなことがあったとしても、辛い時があったとしても、最後に完成されて神さまの前に立ち、「あなたは良く生きた」と言っていただけるのであれば、私たちは最後には「これで良かった」と満足できるようになるのです。その終わりの時に向かって私たちは生かされているのですから、終わりの日の完成を知っている者として、「どんなに豊かなものが待っているかを表すように、今与えられているものを用いて、今を生きて行きなさい」、と教えられているのです。

 そしてこのことは、今地上を生きている私たちだけの問題ではありません。一番最後の完成の時というのは、既に地上の生活を終えてしまった人たちにも与えられるものです。主イエスはすべての人を神のもとに迎えようとして、そのためにこの地上に来てくださいました。私たちの地上の生活の終わりがどんなに残念な姿であったとしても、もしかして早い終わりだったとしても、その人その人の生活として、神は「あなたは良く生きた」と言って受け止めてくださるのであり、その時に向かって、今、私たちは生かされているのです。

 私たちが今、この地上で与えられている豊かさは、終わりの時の莫大な豊かさが与えられる約束の手付金のように預けられているものです。私たちは手付金の額だけを見て、自分が豊かだとか貧しいと考えがちですが、私たちは終わりの日の本当の豊かさに向かって今を歩んでいるのですから、5タラントン、2タラントンの僕は、そのことに気づいていたので、失敗を恐れず、終わりの日を目指して精一杯、与えられたものを活かして生きたのです。
 5タラントンで商売をしたからと言って、必ず儲かると決まっているわけではありません。商売とはそういうものです。どのように用いれば良いだろうかと試行錯誤して、豊かさを増していった先に富は生まれてくるのです。一番最後には神が受け止めてくださるという約束があるから、それを信じ、そこに向かって精一杯努力して生きていこうとするのです。
 たとえ今は1タラントンしかなくても、神がそれを「あなたに委ねる」とおっしゃってくださった限りは、私たちは今日、その1タラントンを持って精一杯生きることができるのです。そして「わたしは確かに神さまの御心に留めていただいている。持ち運ばれている」という確信に立って生きることができる。そして、そう思って実際に生きていくならば、その人は本当に豊かなものを与えられて生きていくことになるのです。自分の持っているものは1タラントンかもしれません。けれども、「これこそが最後に神さまがわたしを受け止めてくださることのしるしなのだ」と思って生きるならば、持っているものは限りあるものかもしれませんが、そういう自分の限界を超えて、神に支えられて永遠の中に生かされていると気づくことができるに違いありません。

 5タラントン、2タラントンの僕は、主人が帰って来た時、喜んで清算して報告しています。その時に、この2人に向かって、主人は同じことを言いました。21節23節「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」とあります。この2人は、自分に与えられているタラントンを一生懸命用いる中で、「神さまがわたしと共にいてくださる」としみじみと思えるようになりました。それで、「多くのものを管理させよう」と言われたのは、「神が永遠の富を与えてくださっているから、その中であなたは生きて良いのだよ」と言ってくださっているということなのです。
 もし、1タラントンの僕が精一杯生きて、手にするお金が1タラントンだったとしても、神は「おまえは良く生きた」と言ってくださるでしょう。あるいはそれどころか、1タラントン精一杯用いて生きたけれど、この地上ではそれを全て失ってしまったとしても、それでも神は「良く生きた」と言ってくださるのではないでしょうか。
 私たちは、最後には、神さまが支ええてくださっている中で生きることが許されています。ただそれは、文化的な最低限度の生活を保障するという意味の支えではありません。神は「その人がその人らしく生きること。それで良い」と支えてくださるのです。

 このように考えて来て、最後に疑問に残ることがあります。この僕たちは豊かなものを用いて商売していますが、商売をして儲けたと言われている「商売」とは、現実問題として何を指しているのでしょうか。私たちは人生を神から与えられています。では、私たちは皆、何かの商売をしなければならないのでしょうか。
 主イエスはここで、もう一度弟子たちのところを訪れてくださるという約束を持って、弟子たちに向き合っておられます。主イエスはもう一度訪れてくださって、私たちがどう生きたのか、与えられている人生を精一杯生きたのかどうかを問題にする「裁き主」としておいでになりますが、同時にまた主イエスは、私たちが本当に朗らかに神に信頼して生きてはいられない、天使のような存在ではないことをご存知ですから、それで主イエスは、私たちのために十字架にお架かりくださったのです。そうであれば、私たちが本当に神から豊かなものを与えられていながら、しかしそれを豊かに用いるという点で問題を抱えている存在であることを、よくご存知なのです。ですからこそ、十字架の御業を行なってくださったのです。
 私たちは、主イエスが十字架によって私たちの罪、過ち、神に対して信頼しきれない、そういうあり方を、ご自身の十字架で負い、私たちの代わりに苦しんでくださったのだから、そのことは清算されたのだと信じるべきです。そして私たちは、主イエスによって赦された者として、今与えられている人生をもう一度ここから歩んでいくこと、それが私たちが生きて行くべき人生だろうと思います。
 私たちは往往にして、自分が過去にどのようにして神に従えたか従えなかったか、信仰の薄い者、弱い者ですと言ってしまいがちですが、そういうことではありません。主イエスは、そういう私たちの弱さをご存知で、だからこそ私たちのために十字架に架かってくださっているのですから、私たちはそれを信じて、今からどう生きて行くのかということが問われているのです。「自分自身を持て余してしまう」、そういう今日の自分がいるかもしれません。もっと若い時にそのことに気づいて始められればよかったとか、あるいは、若者は若者で共に生きるパートナーを見つけられずに孤独な気持ちになるかもしれません。あるいは愛する家族と過ごす中で、愛する者が先に召されしまう時には、残されて生きる人生は抜け殻のようだと思うかもしれません。けれども、そういう私たちすべての者と一緒に生き、「それでもあなたは豊かなのだよ」ということを知らせるために、主イエスは十字架に架かってくださったのですし、そのためにお生まれくださったのです。

 先週の日曜日、私たちが「救い主の誕生」と言ってお祝いした方は、どういう救いを私たちに与えてくださるのか。私たちがどんなに大変な人生を送っていようとも、どんなに辛かろうと、どんなに孤独を感じていたとしても、「そこに共にいてくださるお方」として歩んでくださるために、この地上に来てくださったのです。人間の目から見れば、低く、辛く大変だと思う生活を辿りながら、主イエスご自身はいつも神に信頼して、神の御心に従って生きるのだとおっしゃって、十字架の上まで歩んでくださいました。私たちは、その主イエスを見上げる時に、「ああ、わたしは、今はこんな生活だけれど、ここから神さまを見上げて、神さまのものとされて生きて行くことができるのだ」と聞かされて生きて行くことができるのです。
 そして、そのように生きてこそ、私たちは、一日一日、自分の人生の中に、「神のものとされているという恵みを蓄えていく」ことになるのではないでしょうか。私たちが毎日商売をして生きるというのは、私たちが生きているこの人生の中に、神さまが確かにわたしを覚えてくださり、支えてくださっている、そういう富が確かにわたしには与えられているということです。そして叶うならば、そのようにして与えられている富を隣の人と分かち合って、伝えて生きて行くことができたならば、心から喜んでその日を生きることができたと思う豊かさを、私たちの人生の中に蓄えていくのではないでしょうか。

 そういうキリスト者の生活は、もしかすると、周囲の人たちから見ると、変わりばえのない普通の生活に見えるかもしれませんが、しかし私たちは、毎日毎日、自分の人生を生きて行く中で、本当に豊かなものに与って、蓄えていくのです。そしてそういう一生を生きたならば、そういう蓄えとなるのです。「あなたに与えられたあなたなりの人生を生きた。だから、あなたが生きただけの蓄えがここにある。それで良いのだ」と、そう言ってくださるお方が神なのだと、主イエスは教えてくださっているのです。
 そのようにせっかく与えられている人生を、自分の思い通りではない、つまらない人生だと言って生きて終わってしまったら、それはいかにも残念なことだと教えられているのです。

 私たちは、今日は、一年の一番最後の日曜日を歳晩礼拝として過ごしていますが、この一年の歩みの上に神がいつも共にいてくださり、その時その時に私たちを支えてくださったことを、感謝を持って思い返したいと思います。一年分の豊かさを神は私たちに備えてくださって、私たちは今日ここで神に感謝し、神を賛美する民に加えられています。私たちは、また新しい年も神が持ち運んでくださるという希望を持って、終わりの時までこの人生を神が確かに持ち運んでくださるのだと信じて歩んでいく、そういう希望が与えられています。
 来るべき年がどのようになるか、私たちには分かりませんが、神がそこにも私たちに一日一日の豊かさを備えてくださり、自分自身として生きる生活が与えられることを信じ、希望を持ってここから新しい年へと歩み出したいと願います。

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