聖書のみことば
2017年8月
  8月6日 8月13日 8月20日 8月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

8月27日主日礼拝音声

 立ち帰れ
2017年8月第4主日礼拝 2017年8月27日 
 
小島章弘牧師 

聖書/エレミヤ署 第25章1節〜14節、マルコによる福音書 第1章14~15節

エレミヤ書 第25章1節 ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、ユダの民すべてについてエレミヤに臨んだ言葉。その年はバビロンの王ネブカドレツァルの第一年に当たっていた。<2節>預言者エレミヤは、ユダの民とエルサレムの住民すべてに次のように語った。<3節>「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から今日に至るまで二十三年の間、主の言葉はわたしに臨み、わたしは倦むことなく語り聞かせたのに、お前たちは従わなかった。<4節>主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、お前たちは耳を傾けず、従わなかった。<5節>彼らは言った。『立ち帰って、悪の道と悪事を捨てよ。そうすれば、主がお前たちと先祖に与えられた地に、とこしえからとこしえまで住むことができる。<6節>他の神々に従って行くな。彼らに仕え、ひれ伏してはならない。お前たちの手が造った物でわたしを怒らせるならば、わたしはお前たちに災いをくだす。<7節>しかし、お前たちはわたしに従わなかった、と主は言われる。お前たちは自分の手で造った物をもって、わたしを怒らせ、災いを招いた。』<8節>それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聞き従わなかったので、<9節>見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる。<10節>わたしは、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、挽き臼の音、ともし火の光を絶えさせる。<11節>この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。<12節>七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる。そして、そこをとこしえに荒れ地とする。< 13節>わたしは、この地についてわたしが語った言葉、エレミヤがこれらすべての国々について預言し、この巻物に記されていることを、すべて実現させる。<14節>彼らもまた、多くの国々と強大な王たちに仕えるようになる。わたしは、彼らの行いとその手の業に応じて彼らに報いる。」
マルコによる福音書 第1章<14節>ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、<15節>「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 エレミヤ書から御言葉を聞きました。エレミヤは、今読んでいただいた25章5節で、「立ち帰りなさい」と呼び掛けています。この呼びかけは、エレミヤ書で早い時期から、たびたび出ています。3章6節に最初に出ています。そのあとも何回か出てきます。この言葉は、旧約聖書では120回以上出てきますが、エレミヤ書には、比較的多く15回以上出てきています(エレミヤ書3、4章には集中して出ています。3章6節、7節、10節、12節、14節、22節、4章1節)。
 しかし、これは訳し方によるので、同じ個所を口語訳聖書では、「帰れ」とか、「捨てなさい」となっています。また私訳では、関根正雄先生は「悔い改めなさい」となっていますので、意味としては「悔い改めなさい」ということと理解して良いのではないかと思います。エレミヤは、若干20歳で万国の預言者として召命を受け、神の言葉をたゆまず語り続けてきました。それは、神様が「主は手を伸して、…わたしの口に触れ、私の言葉を授ける」と言ってくださったので、エレミヤは時に涙を流し、手を変え品を変えて、非難、誹謗、迫害に耐えながら語り続けることが出来たのです。 
 エレミヤは、はじめから偶像礼拝の空しさについて、巧みな話術を使って諭しています。10章5節を読みます。偶像を「きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず、歩けないので運ばれていく。そのようなものを恐れるな。彼らは、災いを下すことも、幸いをもたらすことも出来ない」と。この25章になって23年が経っているとありますので、その歩みは困難を極めていたと思います。中でもユダの人々が、偶像礼拝に陥っていることには手を焼いていたことは明らかです。
 人は、偶像を生み出す名人だといわれます。自分の欲望や願望を実現するために、見えるもの見えないものを偶像化してしまうのです。エレミヤ書25章6~7節にも偶像に依存することを警告する言葉が書かれています。「他の神々に従っていくな。彼らに仕え、ひれ伏してはならない。お前たちの手が造ったものでわたしを怒らせるならば、お前たちに災いを下す。しかしお前たちはわたしに従わなかった、と主は言われる。お前たちは自分の手で造ったものをもって、わたしを怒らせ、災いを招いた」。ですから5節に「立ち帰って、悪の道と悪事を捨てよ。そうすれば、主がお前たちの先祖に与えられた地にとこしえまで住むことが出来る」と語りかけています。
 「立ち帰る、悔い改め」は、「住むことが出来る」と語呂合わせになっているといわれています(ヘブル語)。ヨヤキム王の第4年はBC605/4ですが、バビロンの皇太子ネブカドネツァルが、エジプトの軍隊を撃破し、シリヤ、パレスチナ一帯を支配するようになった年に当たります。
 これは当時の世界史では新時代の幕開けでした。つまり、ユダにとっては北からの威嚇にさらされることになるからです。これは、エレミヤの預言が現実のものになったことでありました。エレミヤが神からの召命を受けたとき、神様から何が見えるかと問われた時、「煮えたぎる鍋」が見えますと答えました。エレミヤ書1章13節に次のように書かれています。「主の言葉が再び私に臨んで言われた。何が見えるか。わたしは答えた。煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらに傾いています。主はわたしに言われた。北から災いが襲いかかる、この地に住むすべてのものに」。エレミヤの見た幻が実現したことになります。ここまで23年の年月がかかっています。神様のなさることは、長い年月が経って分かるものです。これまで語れども聞かれなかった預言がようやく、ここにきて実現することになったのです。
  北からの敵の侵攻ということが起こったことは予定でありました(エレミヤ25章3節)。 エレミヤは、ユダがなんとか災いから逃れるように願っていたのですが、神様はユダが神様に不従順であったがゆえに、神様は実行されたのです。5~7節に預言者エレミヤは民衆に呼びかけます。「立ち帰って、悪の道と悪事を捨てよ」と。ヘブル語では、「立ち帰る」ということは「悔い改める」ということです。それなのにユダの人々は、エレミヤの語る言葉に聞きませんでした。ただの言葉として右から左に通り抜けていたのです。このエレミヤの預言は、特別の祝祭日になされたものと思われます。北からの敵、バビロンのネブカドネツァルによって神の出来事が起こることを告げています。平和な日々は、一瞬で破壊されるのです。祝いの声も聞かれず、家庭の団欒も、日常の臼の音も、灯の光も消え、廃墟となる。ただ、死の沈黙が支配する。バビロンの奴隷となってしまうことを告げています。70年という、人の一生ほどが続くと。エレミヤは、ただ漫然と見ているのではありません。悔い改めの道を選ぶなら赦しの道に導かれることを望んでいます。神様にある希望を持ち続けることを願っています。あくまでも神にある希望を見ています。にもかかわらず、ユダの民にはエレミヤの言葉が届かないのです。エレミヤは、止むを得ず25章8~9節で、神の裁きを語ります。「それゆえ万軍の主はこういわれる。お前たちが私の言葉に聞き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドネツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽される、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃墟となる」と。しかし、この現実、全くの廃墟となる、その破局においてすら神の憐れみは残り続けるのです。裁きの徹底的な破局の時にも神の恵みは生き続け、救いが貫かれていくことは、イースターのメッセージで聞きました。
 死という決定的な事態の中にあっても、そこに神の救い、希望が失われていないということです。それは13節の言葉に聞くことが出来ます。「わたしは、この地について私が語った言葉、エレミヤがこれらすべての国々について預言し、この巻物に記されていることをすべて実現させる」(25章13~14節)。主に立ち帰るなら、悔い改めるなら、先祖たちに与えられた地に再び住むことが出来るようにしてくださるという希望が与えられる。エレミヤは、民を励まし、立ち帰れと叫ぶのです。
 それは、イエス・キリストの宣教の言葉として語られました。エレミヤからおよそ400年の時を経て、イエス・キリストの到来によって確実なものにされたのです。
 イエスさまが、宣教を始められた時に、その第一声が、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。これは4つのフレーズからなっています。聖書全体の要約といっても良いでしょう。それは希望のメッセージです。 
 時(カイロス)が満ちた。神の時が現実のものとなるということです。神が私(私たちと)とかかわりを持つ時が来たということです。神の国が近づいた。だから悔い改めて福音を信じること。悔い改める恵みは、神様からの永遠の祝福です。悔い改めの福音こそ希望の言葉です。もう一度聞きましょう。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
 神の時が来た。わたしたちの時間とは違います。「神の時=カイロス」が、私どもの時の中に突入したということです。それは、神の国が近づいた。ある英語訳聖書では「手の届くところに来た」との訳になっています。「at hand」 まだ、手にしていないが、手の届く近さにあるということです。「悔いる」ということは、よく間違えて、反省することとされることがありますが、そうではなく、自分がどっかりと座り込んで神を追い出して自分中心・自分第一に生きる、自分が主人公のようにふるまっている生き方から、神のご支配に委ねて生きるということです。御言葉によって生きることへと変換することです。偶像礼拝も同じです。自分の手で造ったものを拝むことですから、自分を拝んでいることになります。イエスさまが到来することによって、神様が支配されることを受け入れることです。悔い改めも神さまが導いてくださることによって与えられるのです。
  ヨブ記42章6節に「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」とあります。自分の理屈で、自分が勝って生きるのではなく、神さまを中心に生きることが、まさに「自分を退けて、神に委ねること」、それが「悔い改め」ということになります。そこで始めて福音を知ることになります。イエスさまが私のために十字架にかかってくださり、復活され、罪が贖われたことに気づかされるのです。エレミヤが立ち帰ることを中心に預言し続けたことが、イエス・キリストによって、実現し、終わりの日に永遠の命が約束される恵みの中を生きることが与えられるのです。 
 前の教会の信徒の方が、「牧師はたった一つのことを、毎週毎週、手を変え品を変えて語るのですね」と言われました。そうなのです。たったひとつ、福音(十字架と復活)を伝えることが教会共同体です。そこで生かされ、一つになるのです。そこにいつも立ち帰り続けていきたいと願います。

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