聖書のみことば
2017年8月
  8月6日 8月13日 8月20日 8月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月13日主日礼拝音声

 御言の種蒔き
2017年8月第2主日礼拝 2017年8月13日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第13章1節〜23節

13章<1節>その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。<2節>すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。<3節>イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。<4節>蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。<5節>ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。<6節>しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。<7節>ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。<8節>ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。<9節>耳のある者は聞きなさい。」<10節>弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。<11節>イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。<12節>持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。<13節>だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。<14節>イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。<15節>この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』<16節>しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。<17節>はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」<18節>「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。<19節>だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。<20節>石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、<21節>自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。<22節>茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。<23節>良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 ただ今、マタイによる福音書13章1節から23節までをご一緒にお聞きしました。1節2節に「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた」とあります。たくさんの群衆が、あちこちの町や村から続々と、ガリラヤ湖畔におられる主イエスのもとにやって来ました。それはまるで、かつての日、バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けたときの光景さながらでした。集まって来た群衆の数があまりに多く、なおも集まり続けるので、このままでは主イエスがひしめき合う人に押されて湖に落ちてしまいそうなほどでした。そのため、舟を頼んで沖合まで漕ぎ出してもらい、主イエスはそこから、岸辺に立っている群衆に語りかけられます。こういう場面だけをとらえて考えますと、主イエスの宣教活動というのは、大きな反響を持って迎えられ、大成功を収めていたように受け止められるかもしれません。
 旧約聖書の詩編126編1節2節に、「【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と」とあります。主イエスに従っていた弟子たちは、まさにこの詩編に歌われているままのことが、ガリラヤ湖畔で起こっていたと考えたかもしれません。「大勢の群衆がやって来て、主イエスを歓呼の声で迎えている。何もかもが自分たちにとって好ましい形で進んでいる。このままの状態でこの先も続いて行く」と、弟子たちは考えていたかもしれません。

 ところが、弟子たちがこのように有頂天になっている最中、主イエスご自身は一つの譬え話をなさいました。それが今日聞いている「種蒔き」の譬えです。この譬え話を通して、主イエスは、「今という時は、まだ、全てが順調に進んで完成を迎えて行く終わりの時ではない。あなたたちのところに天使がやって来て、豊かな収穫を倉に収めるまでには、まだ時が必要である。今はまだ働きが始まったばかりであり、大切なのはここからである」と、弟子たちを戒められたのでした。
 「種蒔き」の譬えは、馴染みある聖書箇所だと思いますが、しかしここを聞く時には、はっきりと弁えておきたいことがあります。それは、主イエスがこの譬えを「天の国の秘密を告げる譬え」として語っておられるということです。11節で主イエスは、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」、だから譬えで話すのだとおっしゃっておられます。「天の国の秘密」というのは、「主イエスが十字架に架けられてお亡くなりになり、3日目に復活なさる」という出来事を通して、「神が、ご自身に従う民を地上に生まれさせる」ことを指して言われています。
 主イエスのご生涯というのは、十字架の出来事の直後には失敗だったように受け止められました。大勢の群衆から支持を受け、期待され、エルサレムの都に上ったまでは良かったのですが、しかしそこで一人の弟子に裏切られ、主イエスは敵の手に落ちてしまいます。そして、瞬く間に十字架の上に磔にされ、あえなく命を落とされます。その時点では、主イエスのご生涯は失敗だったのだと弟子たちは皆、そう思いました。一粒の麦が地面に落ちてそのまま地中深くに永久に姿を消してしまったように感じられたのです。ところが実際には、人々の目からは失敗だと思われるようなこの出来事を通して、神はご自身の御業を推し進めて行かれました。そして、神の側の完全な勝利へと導いて行かれるのです。地に落ちた麦は、決して虚しく朽ち果てたりはしません。地に落ちた麦が芽生え育って豊かに実をつけるように、地中深くに姿を消した主イエスの御言葉も豊かな実りをもたらすようになります。そういう点を捉えて、主イエスは、今日私たちが聞いている種蒔きの譬えを「天の国の秘密を現すものなのだ」とおっしゃっているのです。

 主イエスが初めてこの譬えを弟子たちに教えられた当時、弟子たちは神のご支配、天の国がそのようにして成り立って行くということを知らずにいました。従って弟子たちは、この譬えの意味を最初のうちは受け止めかねたのです。主イエスが語られるこの譬えは「天の国の秘密を現している」ということが分からなければ、この種蒔きの譬えの意味は分からずじまいになってしまいます。私たちには大変不思議に聞こえますが、13節で主イエスは、「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」と言われました。弟子たち以外には譬えを用いて話すが、それは、彼らには天の国の秘密を知ることが許されていないからだというのです。
 譬えというのは、今日では話の内容を理解しやすくするために、イラストあるいは挿絵のように使われます。ところが、主イエスの時代にはそうではありませんでした。主イエスの譬え話は、話を分かりやすくするということよりも、むしろ一種の謎かけのようなものでした。別の言い方をするならば、奥深い意味を持った諺のようなものでした。ですから、譬え話は、それを聞いただけですぐに分かるようなものではありません。そうではなくて、譬えはその意味が説き明かされなければならない。謎かけであればその秘密を説明してもらわなければ意味が分からないのと同じように、譬え話もその意味を説明されなければ、すぐには語られている内容が理解できないようなものでした。主イエスの譬えもそうです。
 ですから、今日のところで私たちは、譬え話だけを聞いて、軽々しくこの譬え話を分かった気にならない方が良いのです。自分なりに受け取ってしまうと、それによって、主イエスがこの譬えでおっしゃろうとしたことの意味が分からなくなるかもしれません。もちろん、この譬え話を聞いて、それを正しく説き明かされ理解できたならば、主イエスがこの譬えを通して、十字架の死と復活の勝利、そして主イエスが再びこの世を訪れてくださる時の、終わりの日の勝利について語っておられるのだということも理解できるようになります。まさに、天の国の秘密を悟ることができるようになるのです。ですから、ここでこの譬え話の言葉に注意しながら、また主イエスが後から説き明かしてくださっているところにも注目しながら聞いていきたいと思います。

 主イエスはここで、4つの種の話をなさいます。まず最初の種について、4節に「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」とあり、この種の説きあかしは19節に「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である」とあります。つまり「鳥に食べられてしまう種」というのは、悪いものがやって来て、心の中に蒔かれた種が奪い取られた状態だとおっしゃるのです。主イエスはここで、御言葉の種蒔きが行われ、私たちの心の中に御言葉が聞こえてくるところでは、いつでも、一種の戦いが起こっているのだと教えておられます。神の側は私たちの中に御言葉の苗を植え付けようと懸命に種を蒔いてくださるけれども、神と御言葉を聞いている私たちとの間に、どこからか悪いものが忍び込んで来て、蒔かれた種を片っ端から奪い取って取り去ろうとする、そういう戦いが蒔かれた種を巡って行われているのだと、主イエスは言われました。それはまるで、結婚式で行うライスシャワーの時に起こる出来事と似ています。新婚の二人を祝福して皆でお米を蒔く、その先から雀たちが飛んで来て、跡形なく食べ尽くしてしまうのです。
 ですから、聖書を開いてそこに語られている御言葉を聞くというのは、私たちにとっては、綺麗な音楽に耳を傾けるということとは少し違うところがあると思います。ある意味では、危険に身を晒すことになるのです。聖書を開いて御言葉に聞こうとする、そういう人には、悪い者が大変興味を寄せて、御言葉に聞こうとする人の側にやって来て、蒔かれた御言葉を奪い取っていこうとするのです。音楽の場合には大体、私たちの内には聞いた音が入って来ますが、ところが聖書の御言葉の場合には違います。思い当たる方がいらっしゃるかもしれません。私も思い当たることがあります。祈祷会で、聖書を読み始めると何故だか眠くなってしまう、そんな経験がありました。どういうわけか、聖書の言葉というのは眠くなってしまいます。私たちは聖書を、音楽を聴くようには喜んでずっと聞き続けられないようなところがあるのです。まさに、御言葉を聞こうとする時、聞き入ろうとする時に、横合いから邪魔する者が入り込んでくるのです。
 ですから、もしもそんな状態を超えて御言葉が良い土地に落ちて実を結ぶということあるとしたら、そういう種がもし一粒でもあるのならば、それは本当に不思議なことだと言わなくてはならないのです。御言葉が私たちの心に落ちて私たちの中で実を結ぶ、そういうことがあるとすれば、それは一つの奇跡なのです。外から眺めていれば、御言葉の種蒔きは大変のどかに見えるかもしれません。「教会では、礼拝や祈祷会の時に皆が聖書の言葉に耳を傾けている。そこで語られた言葉は、全員に、全て聞き取られて、そして皆聞いた知識をちゃんと持って帰って行くものだ」と、外側から見れば思われるかもしれません。けれども実際には、私たちはそうなりません。礼拝説教であっても祈祷会であっても、聞く人も、あるいは語る人であっても、私たちは聖書の言葉をなかなか心のうちに留めておくことはできません。自分が聞いた言葉、自分が喋った言葉すら、どんどんと忘れていってしまうのです。
 ですから主イエスは、御言葉の種蒔きというものを、のどかな牧歌的な風景ではなく、むしろ戦いの出来事なのだとおっしゃったのです。種を蒔く人たちは、まさしくその種を奪い取られないように守らなくてはなりません。野獣から羊たちを守る羊飼いのように、種を奪い取ろうとする者と戦って、なんとか一粒でも二粒でもその種が聞く人の心にちゃんと落ちるようにと、御言葉を語る人にはそういう戦いがあるということになるのです。

 次に第2番目の種です。5節6節に「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」とあり、この種の説き明かしは、20節21節に「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」とあります。特に21節には「御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人がいる」と教えられています。ですからやはり、御言葉の種が蒔かれるということは、一つの戦いなのです。御言葉の種が蒔かれるばかりに、そこに戦いが生まれるということが起こります。
 今年の夏、私たちの教会に長手陽介神学生が来て夏期伝道を続けてくれています。その実習の中でずっと、テサロニケの信徒への手紙一が連続して説き明かされています。家庭集会に参加なさった方はお聞きになっているのですが、テサロニケの町では、使徒パウロ、シルワノとテモテが訪れて主イエスの福音を宣べ伝えたために大変深刻な対立が生まれてきたのです。主イエスを救い主と信じる人たちが生まれました。しかしそれを受け入れようとせず、むしろ信じた人たちを迫害する人たちが多く現れたのだということが、テサロニケの信徒への手紙、使徒言行録に書かれています。神の御言葉が種蒔かれると、その種蒔きの業を巡って反発する人たちが現れてくるのです。そして、そういう人たちからは心ない言葉が浴びせられ、様々な嫌がらせや、遂には実力行使まで起こりかねない、キリスト者たちはそういう迫害を受けたのです。
 信仰によって御言葉の種が蒔かれる、そして信仰を持って御言葉が聞かれようとする、そこにはきっと戦いが生まれてくるのです。それは文字通り、戦いと言われるに相応しいものです。御言葉に聞き従って生きようと志す人には様々な攻撃が加えられ、御言葉に従おうとする生活の中で、信じて従おうとする人は様々な手傷を負うのです。まさしく、信仰の戦いの中に身を置くことになるのです。
 一方では、御言葉によって、「あなたは辛い思いをしていても、なおわたしは共にいる。わたしの言葉を信じなさい」という主イエスの声が聞こえて来ます。しかしもう一方では、それに反対する声も聞こえてくるのです。絶えず御言葉の種蒔きに勤しむ人の前には、それを止めさせようとする勢力が現れて来ます。御言葉を伝える人だけではありません。御言葉を聞いて、ずっとそれを信じて生きようとする人にも誘惑者や敵対者が現れます。御言葉に聞き従って生活しようという生き方から引き離そうとする力が、この世では働くのです。ですから、私たちが長年教会に通っていて、もしかして長期間そういう戦いが全然起こらない、少しもそういう戦いなど知らないと感じられる場合には、そのことを喜ぶのではなく、むしろ教会は、自分たちに何かまだ足りないことがあるのではないか、宣べ伝えられている御言葉に本当に聞き従っているのだろうか、あるいはそもそも聖書に語られていることを教会が宣べ伝えているのだろうかと、真剣に問わなくてはならないだろうと思います。
 御言葉の種蒔きを信仰を持って行い、それが信仰を持って受け止められる、そして御言葉に従って生きようとすることが正しく行われている最中でも、信じて従おうとする勢力が後退する場合が有り得るのだということを、この2番目の種の譬えは教えています。信仰の種を蒔かれ、信仰に生きようとする人たちの中にも、信仰によってだけ生きようとするのではなく、別の力が働く場合が有り得ると、主イエスは言われます。信仰に生きている人の中にも、信仰にだけ生きるのではないということが有り得るのです。そういう人たちは、全く信仰が無いわけでは有りません。御言葉の種蒔きによって既に信仰の芽が芽吹いている。ところが、御言葉に心を寄せると同時に、何か自分に役立ちそうなこの世の思想に興味を惹かれたり、あるいはこの世からの報いを期待してしまうために、二心の状態になるということが有り得るのです。
 御言葉を蒔かれて、それを良い地に受け止めて伸びて行くのなら良いのですが、そういう人の中に、固い岩のような、御言葉を受け付けない別のものがあると、せっかく蒔かれた御言葉は根を伸ばすことができず、様々な艱難や迫害、戦いに出合うと御言葉の種が枯れていってしまうことが有り得るのです。
 主イエスは、天の国において意味を持つ本当の報いとは、しばしば肉体的な快楽からすると私たちの気に入らないものである場合があると教えられます。マタイによる福音書でも、「真の命に通じる門は何と狭いことか。何と細い道か。そしてそれを見出す人が何と少ないことか」と教えておられます。御言葉の種が蒔かれた時に、それに聞き従って歩もうとする人が本当に少ないと教えておられるのです。ですから、御言葉が蒔かれ、それによって戦いが生まれる時というのは、そこでの脱落の危険を孕んだものでもあるのです。せっかく御言葉が私たちの中に根を張り伸びようとしても、他のものによって私たちの心が奪われ、せっかく芽生えかけた信仰が惜しいところで枯れていってしまう、そういう危険が常にあります。そういう恐れが私たちの中にはあるのだということを考えますと、やはり、蒔かれた種が私たちの中で豊かに実を結ぶということは、本当に不思議なことで、奇跡だと言わざるを得ないのです。

 さて、三番目の種です。7節に「ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった」とあり、説き明かしは22節に「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」とあります。22節には、「世の思い煩い」と「富の誘惑」ということが並んで登場してきます。「世の思い煩い」というのは、自分の生活をどう成り立たせていこうかという煩い、自分がどう生活しようかとあくせくすることですから、「富の誘惑」と並んでいるのは不思議な気がします。「世の思い煩い」と「富の誘惑」というのは、逆のことではないかと思うのです。しかし、よくよく考えますと、本当に貧しくて慎ましやかな生活をしなければならない時には、私たちはもはや、飢えや寒さを怖がったりしている暇がないということも言えると思います。もちろん、貧しいことや乏しいことを喜ぶはずはありませんが、そこから抜け出すことができればそれに越したことはないと思いますが、しかし生活の困窮の中で自分が歩んで行く時には、もはやそこでいたずらに不安がったり怖れたりしている暇がないのです。何とかして生きていかなければならない、そのためには多少辛くても大変でも耐え忍んで先に行こう、そう思って生活して行くのです。ですから「世の思い煩い」というのは、本当に貧しい人たちが抱えていることではなくて、むしろ生じっか財産がある人が、それを失ったらどうしようかと考えることなのです。今あるものを使ってもっと豊かになろうとか、更に贅沢に暮らしたい、そう望む人たちが「世の思い煩い」を経験することになります。そして、一応食べる心配がなくなった時には、今度は自分が世間からどんなふうに認めてもらおうかと、社会的な名誉や義務のことで思い煩ったりするのです。
 そのように、自分がより大きな者になりたいとか、さらに安楽で気ままに過ごせるような立場に就きたいという思い煩いが、私たちの中に芽生えかけた多くの良い芽を窒息させることになります。私たちが日々に与えられている生活の中で、当然なすべき目の前の務めに心を傾けて向かっていくというのではなく、自分がこれをすれば、あるいはしなければ、どう周りから見られるだろうか、自分にとって得か損か、そういう思いばかりが頭をもたげてしまうために、私たちの中で実をつけることができるはずの「御言葉に従って行く生活」ということが窒息してしまうことになります。私たちは、大なり小なり、そういう面を持っているでしょう。そう考えますと、私たちの中には常に、茨が生えていると言えなくもありません。ところが、そうであっても、なおそこで御言葉の種が落ちて実をつけるとすれば、それは不思議なことと言わなければなりません。やはりこれは奇跡だということになるのです。

 主イエスはこのように、3つの種のことを前もってお話になりました。そしてその後で、第4の種のことが教えられるのです。8節に「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」とあり、その説き明かしが23節に「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」とあります。今までは実を結べなかった種の話を聞いてきただけに、最後に語られる「実を結ぶ種の話」というのは、喜ばしい嬉しい知らせになっています。この4番目の種の話があることで、この譬え話には救いがあります。そういう意味で、4番目の種の話は真実の福音と言ってよいようなものです。
 すなわち神の御言葉というのは、たとえこの世の状況がどうであるとしても、決して実らないことはないのだという約束がここに語られているのです。神の御言葉は、2000年の間ずっと、この地上に語り続けられてきました。その御言葉は果たして実を結ばなかったのでしょうか。そんなことはないのです。2000年、さらに言えばもっと前から、御言葉は常にこの地上において、主イエスがこの4番目の種に譬えておられた通りに、豊かな実を結んできています。
 主イエスが4番目の種についておっしゃっていること、このことは、この時初めておっしゃったことではありません。旧約聖書の中にも、同じように約束されていることなのです。イザヤ書55章10節11節に「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」とあります。まさに、今日のところで4つの種の譬えを語っておられる主イエスご自身こそが、ここに言われている「わたしの言葉」と言われているお方です。主イエスご自身が神の言葉そのものでいらっしゃるようなお方なのです。また、ヨハネによる福音書1章14節では「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と教えられています。人間の肉をまとってこの世にこられた神の御言葉、それが主イエスなのだと、ヨハネによる福音書には語られています。そして、御言葉である主イエスは、イザヤ書にあるように、「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われています。
 今日、主イエスが譬えの中で教えてくださったように、神の御言葉が私たちの中に蒔かれる時には、そこで様々な戦いが始まります。御言葉が私たちの中に蒔かれて実を結ぼうとする、そのために様々な邪魔が横合いから入ってきます。しかしそれにも拘らず、神の御言葉である主イエスは、私たちのもとを訪れてくださって、私たちの中に留まって共に住んでくださり、そして、豊かな実を私たちに結ばせてくださるのです。

 4つの種の譬えを聞きながら、最後に、はっきりと弁えたいことがあります。「今はまだ、種蒔きの時である」と主イエスがおっしゃっていることです。ですから、今すでに熟したと私たちが考えるならば、それは考えが早まっているのです。神のご計画の中では、今はまだ種蒔きの時であり、もしその中で少しでも実りらしいものが生まれているとすれば、それは早なりの実ということになります。今はまだ、採り入れの時期ではありません。採り入れの時期ではなく、種が蒔き続けられている時だからこそ、地上で教会が盛んに活動していて、私たちは毎週日曜日になると、この場所で御言葉の種を蒔かれるという経験をするようになっているのです。
 今日の日曜日にも、世界中で盛んに神の御言葉の種が蒔かれているのだということを覚えなければなりません。私たちは、神の御国の歴史の中では、終わりの収穫の時にいるのではなく、まだ始まりの種蒔きのところにいるのだということを知らなくてはなりません。使徒パウロがガラテヤ地方の諸教会を巡って励ましたように、私たちが天の国に入るには、なお多くの苦しみをこれから経なくてはならないのだということを知らなければなりません。そういう理解は、ただパウロだけが言っているのではなく、聖書全体を通じて教えられていることです。

 今の時代に、種蒔きをしながらキリスト者一人一人が生きていく、その時には、私たちは、最初に読みました詩編126編に出てくる農夫のようなことになるのです。5節6節に「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」とあります。私たちに蒔かれた御言葉が、私たちのうちにあって豊かに実を結び、100倍、60倍、30倍にも豊かにされる日を待ち望みつつ、私たちは、与えられている今日の生活に勤しむ者とされたいと願うのです。「十字架に架かってくださった主イエス・キリストが私たちの罪の重荷を全て引き受けてくださって、私たちを完全に身請けして、清らかな者にしてくださる。その主イエスによって、私たちが、やがての日、完全に清められた者として神の前に立たされる。そういう日が来る」ことを信じ、その時を望み見ながら、今日この時を歩みたいと願います。

 私たちは、御言葉の種を蒔かれています。その御言葉は、「確かに私たちの中で豊かな実を結ぶ」と約束されていることを信じて、私たちはなお、ここから歩み続ける者とされたいと願います。
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