聖書のみことば
2017年6月
  6月4日 6月11日 6月18日 6月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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6月11日主日礼拝音声

 教会は一つに
2017年6月第2主日礼拝 2017年6月11日 
 
大坪直史牧師(熊谷教会)

聖書/エゼキエル書 第11章19節、コリントの信徒への手紙一 第1章10節

エゼキエル書 第11章<19節>わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。
コリントの信徒への手紙一 第1章<10節>さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。

 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」
 御言葉は「兄弟たち」と呼びかけます。このように呼びかけられているのは、第一義的には、二千年前当時のコリント教会の人々です。御言葉は、コリント教会の人々に呼びかけるにあたり、「皆さん」と呼びかけるのではなく、あえて「兄弟たち」と呼びかけるのです。
 彼らが、「兄弟たち」と呼びかけられるのは、なぜでしょうか。彼らは、血縁関係において、同じ親を持つ兄弟姉妹だったのでしょうか。そうではありません。彼らは、血縁の関係ではなく、信仰の関係において、つまり、同じ神を父と仰ぐ、その関係において、兄弟姉妹だったのです。ここには、血縁における関係ではなく、より重要な、信仰における関係というものが明らかにされています。
 コリント教会には、老若男女、様々な人たちが集っていたと考えられます。彼らは、年齢も違えば、性別も違う。各々、育った時代も、地域も、環境も違う。当然ながら、十人いれば、十人十色です。見た目も、性格も、趣味も、考え方も、皆、異なるのです。このように、コリント教会は、様々な点で異なる人たちによって構成されていたでしょう。しかし、本来ならば、何の関係性も見出し得ないような人々の間柄が、ただ信仰の関係においてのみ、「兄弟(姉妹)」とされるのです。彼らを結び合わせるものは、血の繋がりではありません。信仰の繋がりです。すなわち、主イエス・キリストを神の御子、救い主と信じる、信仰の繋がりです。
 コリント教会の人々には、イエスを主と仰ぐ、一つの信仰が、同じ信仰が、脈々と流れている。血縁関係ではなく、信仰縁関係と言えましょうか。この信仰の繋がりにおいては、コリント教会の人々も、また、私たちも、兄弟姉妹とされています。どの時代の教会も、どの場所の教会も、すべての教会が、この信仰の繋がりにおいて兄弟姉妹とされているのです。
 私たちは「兄弟たち」と呼びかけられる時、私たちが単なる一個人ではなく、孤独な一人ではなく、寂しい独りぼっちではなく、主イエス・キリストにおいて、同じ神を父と仰ぐ神の家族の一員とされた者である、この恵みを、覚えさせられます。私たちは、主イエス・キリストのもと、あるいは、その内にあって、神と私という縦の関係においても、また、私と兄弟姉妹という横の関係においても、豊かな交わりの内に生きる者とされているのです。
 今回、私は愛宕町教会の元夏期伝道実習生として、礼拝説教の奉仕にお招きいただきました。12年前、私は、ここ愛宕町教会において、大変衝撃的な夏期伝道実習を経験させていただいたものですから、昨日は、実は喜んでと言うよりも、戦々恐々としながら、こちらまでやってまいりました。夕方の5時ちょっと前にホテルに到着し、チェックインを済ませて荷物を部屋まで運び、一息ついていたところです。間もなく、フロントから連絡がまいりまして、「お迎えが来ています」ということでしたので、私は急いで身支度を整え、下に降りて行きました。すると、二人の兄弟が、穏やかな笑顔で私を迎え、それぞれ握手を交わしてくださいました。その時、私は、それまでの緊張感が、ふっと和らいで行くのを感じ、私は、主にある豊かな交わりの内に生かされているんだという、その喜びを、改めて実感することができました。その後、先生ご家族をはじめ、10名ほどの兄弟姉妹と夕食の時を過ごさせていただきましたけれども、以前出会った方々も、今回初めて出会う方々も、主にある兄弟姉妹として、何の障壁も抵抗も感じることなく、親しく交わるひと時を過ごさせていただきました。ここに、私が、私たちが、キリスト者とされた、教会の一員とされた、神の家族の一員とされているんだ、という一つの恵みがあると思わされました。
 御言葉は、私たちに「兄弟たち」という親しい呼びかけをもって、このような恵みに生かされている者の生き方、恵みに答えて生きる者の、その生き方について、語り始めます。

 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。」「勧告します」と言われますと、ちょっと堅苦しく聞こえて、身構えてしまうかもしれません。ただ、この御言葉は、要するに「お勧めします」と語っているのです。「そうするよりも、こうするほうを、お勧めします」ということです。しかし、これは、「そうしても、こうしても、どちらでも構いません」という程度の、弱弱しいお勧めではありません。「是非、こうしてください」というほどの、強い勧めの言葉です。別の言い方をすれば、「お願いします」と言うこともできます。「お願いですから、是非、こうしてください」、このような切実な願いが込められた、強い勧めが、ここで用いられているのです。
 第一コリント書の著者は、聖霊に用いられたパウロですが、なぜ、パウロは、切実な願いを込めて、強い勧めの言葉を、述べるのでしょうか。なぜなら、パウロの願いは、彼の個人的な願いではなく、自分勝手な思い付きによる願いでもないからです。彼が願っていること、彼が勧めていることは、実はパウロ自身の願いでも勧めでもないのです。なぜなら、パウロは「兄弟たち」という呼びかけに続いて、「わたしたちの主イエス・キリストの名によって」あなたがたに切実に願います、強く勧めます、と語っているからです。ですから、ここでパウロが願っていること、彼が勧めていることは、主イエスの御名のもとに、主イエスの権威のもとに、語られているのです。従いまして、それは、もはやパウロの個人的な願いでも勧めでもなく、主イエスの願い、主イエスの勧めに他ならないのです。このことを踏まえますと、この10節の勧告の言葉は、まことに重々しく、また、厳かなものであると言えましょう。

 では、パウロが、主イエスの御名と権威のもとに、私たちキリスト者に、私たち教会に、切実に願い、強く勧めていることは、何でしょうか。それは「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合(うように)」ということです。
 この勧めは、この世のどのような組織や共同体にとっても、とても大切な事柄であると思います。ただ、この世の組織や共同体はともかく、これは、私たちの、主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた教会にとりまして、とても大切な事柄です。この勧めは「皆」に呼びかけられていますから、すべてのキリスト者に、すべての教会員に、向けられています。「あなたは、この勧めに、応えなくて良い」というような例外はありません。私たちは、この勧めに応えるよう、招かれているのです。この勧めは、具体的に言いますと、四つの事柄についてです。まず、勝手なことを言わないこと。また、仲たがいしないこと。そして、心と思いを一つにすること。最後に、固く結び合うこと。以上の、四つです。
 パウロが、このような勧めを語った背景には、当時、コリント教会において、パウロがこのような勧めを語らなければならないほどの問題が生じていた、その事実を明らかにしています。それは、後に続く御言葉に明らかにされて行きますけれども、簡単に言えば、コリント教会におきましては、兄弟姉妹の間に、不和や争いがあったのです。そして、このような問題は、どの教会においても起こり得ることです。教会に、不和や争いが生じますと、どうなるでしょうか。答えは難しくありません。教会は痛み、傷ついてしまうのです。教会が痛み、傷ついてしまいますと、教会は教会としての歩みを健やかに力強く進めることができなくなってしまいます。ひどい場合には教会が壊れてしまうということもあり得ます。そこで、パウロは、四つのことを勧めているのです。

 まず、勧められていることは、「皆、勝手なことを言わないこと」です。これは別の訳では「みな語ることを一つにして」と言われます。「皆、勝手なことを言わないこと」という消極的な勧めですと、もしかしたら、教会は言論を統制するのか、というような、ありもしない誤解を招くおそれがあります。どちらかと言えば、「みな語ることを一つにして」という積極的な勧めの方が、受け止めやすいかと思います。要するに、皆が勝手なことを言わないということは、皆が語ることは一つのことである、同じことである、そういうことなのです。私たちは、神が与えてくださった、この口において、色々なことを語ることができます。「目は口ほどに物を言う」という、ことわざもありますから、口よりも、目で語る人もいるかもしれません。もしかしたら、手や足や体全体で語る人、物を書いて語る人、楽器を演奏して語る人もいるかもしれません。そのように考えますと、私たちは、言葉や行い、全存在をもって語ることができるわけですけれども、御言葉は、キリスト者が語ることは一つのことであると、教会の言葉は同じであると、そのように語っているのです。
 教会の言葉は、礼拝における聖書朗読、説教、祈り、賛美、信仰告白などにおいて、また、週報や月報や会報などの印刷物において、その他、礼拝前のロビーにおける雑談や、礼拝後の諸集会における会話などにおいて、発せられます。もちろん、そこでは、色々な言葉が、色々な話題が、発せられるわけですけれども、その言葉があらわすこと、その言葉が目指すことは、やはり一つのこと、同じこと、なのではないでしょうか。教会の言葉があらわす、教会の言葉が目指す、一つのこと、同じこと、それは何でしょうか。その答えのヒントは、先週の聖霊降臨日・ペンテコステにあると言えます。当時、聖霊降臨によって、この地上に具体的に誕生した最初の教会は、多種多様な諸外国の言語で教会の言葉を語ったわけですけれども、その言葉のあらわすことは一つ、目指すことは同じでありました。すなわち、彼らは神の偉大な業について語ったのです。教会の産声は、神の偉大な業について語った。「三つ子の魂百まで」という、ことわざもありますけれども、教会は、百になっても、二百になっても、二千になっても、三千になっても、「魂」ではなく「聖霊」によって、いつまでも変わることなく、いつまでも変わることのない神の偉大な業について語り続けるのです。ここに、教会の誕生があり、教会の命があり、健やかな成長と力強い前進があります。

 教会の言葉の内、大変よく整えられた言葉、洗練された言葉は、信仰告白です。私たちの教会は、伝統的な信仰告白である使徒信条を内包する日本基督教団信仰告白を斉唱いたします。ここに、私たちの主に対する信仰が告白されています。信仰告白は、私たち教会にとりまして、かけがえのない神の恵みです。なぜなら、この信仰告白の内に、私たちの救いが、私たちの命が、込められているからです。私たちは、このような信仰によって、生きているし、生かされているのです。
 この信仰告白こそ、教会の言葉の中の教会の言葉です。教会の命であり、教会を建て上げる言葉です。このように考えますと、御言葉が語るところの「皆、勝手なことを言わないこと」「みな語ることを一つにして」という勧めは、第一義的には、信仰を告白することであり、第二義的には、信仰告白的な言葉を語ることであると、こういうふうに言うことができるのではないでしょうか。もし、教会が、このような教会の言葉ではなく、教会を傷つけるような言葉や文書を発すれば、教会はたちどころに立ち行かなくなってしまうでしょう。教会は、その内側に対しても、また外側に対しても、その発する言葉や文書において、一種の語り部としての役割、つまり、神の偉大な業について語る使命を、主イエス・キリストの福音を語る使命を、果たすのです。

 続いて、勧められていますことは、「皆、仲たがいしないこと」です。なぜ、仲たがいしては、ならないのでしょうか。答えは言うまでもありません。教会の命が失われてしまうからです。教会がその使命を果たせなくなるからです。仲たがいが起これば、教会に裂け目が生じ、やがて裂け目は破れとなってしまいます。網が破れてしまったら、魚を獲ることはできません。主イエスが、最初の弟子たちを御招きになった際、「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃったように、教会は、その初めから、人間をすなどる使命を帯びているのです。教会は、主イエスに救われ、主イエスを礼拝し、主イエスを宣べ伝え、更に主イエスに救われる兄弟姉妹が増し加えられて行く神の家族であり、信仰共同体、伝道共同体です。私たちも、この教会において、主と出会わされ、救いへと導かれたのです。もし、教会において仲たがいが起これば、伝道の業は大いに妨げられてしまうと言わねばならないでしょう。

 それゆえ、続く御言葉は、仲たがいしないように、という消極的な勧めではなく、「心を一つにし思いを一つにして」という積極的な勧めを語ります。ここには「一つ」という言葉、すなわち「同じ」という言葉が用いられています。先ほどの「みな語ることを一つにして」という「一つ」を加えますと、10節の御言葉は、一節の、その御言葉の中に、「一つ(同じ)」という言葉を、三回も用いているのです。教会にとりまして、一つであるということが、同じであるということが、いかに大切なことであるか、そのことを思わされます。
 もちろん、教会は、人間的な事柄や政治的な事柄についても、一致しなければならない、ということを言っているのではありません。キリスト者でありましても、個々の事柄や政治的事柄に関しましては、色々な考えや主張があって良いのです。しかし、こと主イエスに対する声、心、思いにおきましては、それは一つとされている、それは同じとされているのです。教会は、主イエスに祈る声、賛美する声、信仰を告白する声におきましては、一つ、同じなのです。私たちは、別々の神を信じているのではなく、ひとりの神を信じているからです。

 最後に、10節の御言葉は、「固く結び合いなさい」という勧めによって締め括られます。これは、主イエス・キリストに対するひとつの声、ひとつの心、ひとつの思いにおいて、固く結び合いなさい、これを完全に保っておきなさい、という勧めです。
 これは、私だけがひとつの声、ひとつの心、ひとつの思いにおいて、他の兄弟姉妹と一致していれば良い、私だけが他の兄弟姉妹と、仲たがいしなければ良い、そういうことを言っているのではありません。この勧めは、教会の一致ということについて、もっと積極的に関わるような姿勢を目指させるものであります。
 つまり、教会の一致のために、とりあえず自分だけがしっかりしていれば良い、という、そのような姿勢に留まるのではなく、もし、一致していない兄弟姉妹があるとしたら、彼らも一致するように、彼らに関わって行くというほどの積極的な姿勢を奨励しているのです。これは、具体的に言えば、求道者に対しては、彼らが、私たちの救い主なる主イエスへの信仰において一致するように彼らに関わること、すなわち彼らに福音を宣べ伝えるということになります。それから、もし、教会を傷つけている、そのような兄弟姉妹がいるような場合は、彼らが、主イエスへの信仰において改めて一致するように関わって行くこと、また、教会破壊的な活動をやめるよう、改めるよう、彼らのために働きかけたり、祈ったりすることです。御言葉は、教会の痛みや破れについて、和解の業をなすよう、そこに癒しの業を行うよう、勧めているのです。和解の業、癒しの業と言えば、これは私たちの救い主、主イエスの御業です。
 私たちの世界を眺めてみますと、私たち自身の姿を眺めてみますと、私たちは、皆、それぞれ勝手なことを言ったり、仲たがいしたりしてばかりいます。それは、ひどい場合には、お互いの心や体を傷つけたり、争いや戦争、テロなどにおいて命を奪い合ったりするような、悲惨な状況をもたらしてしまうものです。この悲惨な状況をもたらしてしまう根本的な原因は、やはり私たち人間の罪にあると言わなければなりません。罪は、神と私たちとの関係、また、私たち同士の関係を、つまり、縦の関係も横の関係も、分断してしまう、重大な問題です。
 罪の問題のゆえに、私たちは、神とも、隣人とも、中々一つになることができません。私たちが人間的な知恵や力や方法によって、心と思いとを一つにしようとしたとして、それは不可能なことです。しかし、神にはそれが可能です。神は、このような罪によって分断されてしまう私たちを、一つにするために、堅く結び合わせるために、私たちの救い主、主イエス・キリストを、御遣わしくださったのです。
 主イエスの十字架の贖いは、そのためのものです。主イエスは、私たちを神とも隣人とも堅く結び合わせるために、十字架におかかりになり、私たちの罪の問題を解決し、そして、共に生きる永遠の命まで与えてくださったのです。
 ともすれば、対立や争い、分裂や破壊、赦し合えないこと、分かり合えないこと、一致できないことが多々ある、人間の世界におきまして、主の御名のもとに一致することができる私たち教会は、まさに、私たちの救いであり、希望です。主イエスに救われた私たち教会は、主イエスによって一つとされるからです。「教会は一つに」なるのです。「教会は一つに」されるのです。教会の一致は、私たち人間の知恵や力や努力によって成し遂げられるものではありませんけれども、聖霊の御力によって終末においては、必ず成し遂げられるものであります。
 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、堅く結び合いなさい。」

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