聖書のみことば
2017年6月
  6月4日 6月11日 6月18日 6月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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6月25日主日礼拝音声

 喜びの担い手
2017年6月第4主日礼拝 2017年6月25日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第11章2節〜19節

11章<2節>ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、<3節>尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」<4節>イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。<5節>目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。<6節>わたしにつまずかない人は幸いである。」<7節>ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。<8節>では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。<9節>は、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。<10節>『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。<11節>はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。<12節>彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。<13節>すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。<14節>あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。<15節>耳のある者は聞きなさい。<16節>今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。<17節>『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』<18節>ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、<19節>人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 ただ今、マタイによる福音書11章2節から19節までをご一緒にお聞きしました。2節3節に「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」とあります。ここには、主イエス・キリストの噂を耳にして戸惑い思い悩んでいる洗礼者ヨハネの姿があります。ヨハネはこの時、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって身柄を拘束され、ガリラヤ湖畔、マルケス要塞の地下牢に閉じ込められていました。「牢の中で」という言葉がこの事情を説明しています。牢に囚われているヨハネの命は、あまり長くありません。この時から程なくして、洗礼者ヨハネは、ヘロデ・アンティパスの命令によって処刑されます。
 けれども、ヨハネには死ぬ前に是非とも確かめておきたいことがありました。それは、かつての日、ヨハネがまだヨルダン川で大勢の人々の前で悔い改めを呼びかけ洗礼を授ける活動に従事していた時に、指し示した一人の方が「本当に来るべき方、真の救い主なのだろうか」という疑問です。ヨハネはかつてヨルダン川で、自分とほぼ同年配の若いラビに会いました。ヨハネから洗礼を受けたいと申し出たその若いラビの中に、ヨハネは「この方こそ、自分の後からやって来るべき救い主だ」という確信を持つようになります。マタイによる福音書3章13節から15節に「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」と、その時の顛末が語られています。
 ヨハネは、あの日、洗礼を受けたいと申し出た主イエスの中に「来るべき方、救い主」の姿を見出しました。そこで、自分が主イエスに洗礼を施すのではなく、むしろ自分の方が主イエスから洗礼を受けるべきではないだろうかと申しあげます。ところが、主イエスが「今は、止めないでほしい」と強く願われたので、ヨハネはその求めに応じて主イエスに洗礼を授けたのでした。
 そして今、ヨハネは牢屋の中で、再び、主イエスの噂を耳にします。キリストの御業について知らされます。しかし、彼に伝えられているのは本当にキリストの御業なのでしょうか。本当に救い主の働きなのでしょうか。かつてのヨハネは、自分の後から現れる「来るべき方」について、確信を持って語っていました。「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。その方は聖霊と火によって洗礼をお授けになる方であり、脱穀場を隅々まで綺麗にし、麦の収穫を集めて蔵に入れ、殻は消えることのない火で焼き払われる方である」と教えたのでした。そして、そういう救い主の先触れの使者として、ヨハネは恐れを知らない人でした。歯に絹を着せず、相手が誰であろうが激しく人々に悔い改めを迫りました。
 ところが、そのようにヨハネが告げ知らせた「来るべき方」だと思っていた、その人の働きはどうでしょうか。ヨハネが願い求め宣べ伝えた「神の国のご支配」は、到来しているのでしょうか。確かに主イエスも「天の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と教えています。しかし、それならばどこに天の国の到来の兆しがあるのでしょうか。「来るべき方」が来ているのに、人々の悩みや苦しみは一向に減りません。神が与えてくださる真実な平和と正義を求める切なる祈りは、依然として世界のあちこちで捧げられ続けています。もしその祈りの声が幾分かでも小さくなっているのだとすれば、部分的に天の国が訪れ人々が満足したためだということではなく、むしろ逆のことが起こっているためです。即ち、長年熱心に祈り続けて来た人々が「神の国の御支配」を一向に見出せないために、祈ることに倦み疲れ、次第に祈らなくなって来ている、そのために地上では平和や正義を願い求める祈りの声が次第に小さくなり、途切れがちになるということが起こっているのではないでしょうか。
 従って、ヨハネとすれば獄中からでも、どうしても問わずにはいられないのです。「あなたが本当に来るべき方なのですか」という問いは、単に主イエスについて、あるいは救い主についての知識を得たいという気楽な問いではありません。まもなく地上の命を終えるヨハネが、自分の一生をかけた問いとして、これを問うています。深く底をえぐり、問い詰めるような思いで、ヨハネは問うています。牢に囚われているヨハネの苦しみは、決して和らぐことはありません。むしろ一日ごとにヨハネは消耗し、生きている現実は何もかもが辛く、イスラエルの期待に背くことばかりが生じています。
 かつてヨハネは、主イエスの中にこそ、来るべき方がおられることを見出して宣べ伝えました。「この方こそ、神から油を注がれた特別な方だ」と確信していました。しかし、そういう救い主が来ているというのであれば、旧約聖書の預言者たちの言葉に従って、そこには明らかな徴が生まれてくるに違いないと、ヨハネは思っているのです。苦しみや痛み、重荷や心配事が取り去られ、嘆き悲しみに終止符が打たれ、争いと諍いが姿を消していく、そういうことが実際に起こっているはずです。神が預言者を通して語っておられた約束が、世界の中に実現していると言えるのか、そのようには思えないと、ヨハネは感じているのです。この世は決して救われていないし、神の国の御支配も現実のものとはなっていない。もし本当に救い主が現れているのであれば、当然なっていくべきはずの事柄が、少しも実現していない。そうなると、自分が指し示したあの方、ナザレのイエスが、本当に来るべき方なのだろうかという疑いの思いが、ヨハネの中にむくむくと頭をもたげてきているのです。
 ヨハネは、この問いに答えが無くてもよいとは考えません。彼は、見込み違いだったと言って失望し、黙り込んだり、落胆して引き下がるようなことはしません。却って、戸を力いっぱい叩き続けます。戸を開けてもらうまで、彼の不安が解決するまで精一杯に戸を叩くのです。ヨハネはかつて自分に与えられていた信仰に最後まで忠実に歩もうとします。主イエスの御言葉に出会って本当に安らかな中に憩わされていると知るところまで、懸命に御言葉を尋ね求め、理解しようと努めます。
 ヨハネの弟子たちは、そういうヨハネの問いを携えて、主イエスのもとにやって来るのです。ですから、彼らに与えられている務めは責任重大です。彼らの先生であるヨハネの実存がかかった問いを主イエスに尋ね、そこで主イエスから与えられる御言葉を曲げることなくヨハネのもとに伝えられるかどうか、これは決して大げさなことではなく、重大な事柄が託されているのです。「主イエスが真の救い主なのか」、この一点に、ヨハネの一生がかかっているのです。弟子たち自身にとってみれば、ヨハネの言葉を信じて弟子になったのですから、ヨハネの伝えた信仰が本物だったのかどうかということは、弟子たちにとっても重大な問いです。弟子たちは、このように重い問いを抱えて、主イエスのもとにやって来ました。

 こう考えますと、時々この箇所でされるある種の説明は、全く見当違いだということが分かります。ある人たちは説明します。「この時ヨハネは、自分自身は主イエスがメシアであることを確信していたけれど、そのことを弟子たちに理解させるために、弟子たちを主イエスのもとに遣わしたのだ」という説明です。しかし、決してそうではありません。もしも、この箇所をそのように理解し、ヨハネの問いに込められている深刻さを軽く考えてしまうなら、私たちは、ここでヨハネが真剣に問うていることの意味を受け取り損ねてしまいます。
 ここでヨハネは、主イエス・キリストの福音の真ん中にある「つまずきの種、つまずきの石」を問題にしているのです。まさに福音の中心的な事柄、それがここで問題にされていることです。ヨハネの問いは、単なる敬虔さゆえの問いではありません。ヨハネはここで、主イエスの噂を耳にして、そこで起こっていることを聞いて、「これは本当に救いなのか」と問うているのです。これは、実はヨハネだけが抱く問いではないと思います。私たち自身もまた、それぞれに、そう考えることがあるかもしれません。
 週ごとに教会に来て、私たちは主イエスを礼拝しています。けれども、こうして礼拝を捧げることが本当に救いにつながっている生活なのだろうか、もしその点がはっきりしなくなると、私たちの礼拝は惰性になってしまいます。ただ毎週集まって、賛美し、聖書を読み、説き明かしを聴くという生活があり、それに慣れているから礼拝しているということになっていってしまいます。しかし中心にあることは、「ここに救いがあるのか」ということです。ヨハネは、その点を質しています。「この方が本当に来るべき方なのか。この方が本当に救いを私たちの世界に運んで来てくださっている方なのか」、ヨハネはこの点に不安を感じ、疑いを覚え、迷っているのです。突き詰めて考えますと、もしかすると私たちも同じことを思うかもしれません。私たちはあまり突き詰めて考えようとしないのですが、しかしヨハネは、誰もが抱くに違いない疑いと不安を正面から取り上げて、ここで問うているのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」、これは、「本当に救い主として主イエス・キリストに信頼してもよいのか」という率直な問いなのです。

 主イエスは、この問いを前にしてどう応対なさるのでしょうか。4節に「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい』」とあります。主イエスはこの時、「答えられた」と言われています。これは主イエスがヨハネの問いを正面から受け止められたということです。
 主イエスのお答えについて考えるより先に、7節以降のこと、遣わされた弟子たちが帰って行った後のことを申し上げたいのですが、主イエスは、もしかすると人々がヨハネにするかもしれない非難をあらかじめ予想して、ヨハネをかばっておられます。「ヨハネは真実に問うべき事柄を問うた人である」と群衆に向かっておっしゃっています。まず最初に「ヨハネは葦のような人ではない。風が吹くとあちらこちらに流されて定まらないような生き方をしている、そういう人ではない」、また「ヨハネはしなやかな服を着て大言壮語するような人でもない」。そうではなく「ヨハネはまさに、神から遣わされて、問うべき事柄を正面から問うている人。まさに預言者の中の預言者である」と、ヨハネを人々に紹介しています。11節に「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」、あるいは14節に「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」とおっしゃっています。
 この主イエスの言葉から教えられます。ヨハネのように問うべきことを真正面から問う預言者であっても、疑いに捕らわれ迷ってしまうことがあるのだということです。聖書の中の問うべきことを問い、聴くべきことを聞いていれば、私たちが天使のように何の疑いも迷いも宿さなくなるかと言うと、そんなことはないのです。むしろ、信仰者が生身を引きずって、生身の中に信仰を宿して生きていく、その時には、生きている信仰であるがゆえに、迷い考え込み悩む、そういうことが起こり得るのです。ここでヨハネが悩んでいるように、です。
 ヨハネは信仰がなくて悩んでいるのではありません。信仰がなければ、そもそもこのような問いを発する必要もありません。ヨハネは何とか信じたいと願っている。だから「あなたがその方なのですか」と尋ねているのです。そして、ここにいる私たちも同じだろうと思います。信仰が生きたものであればこそ、私たちは悩んだり、深刻な問いの前に立たされたりするのだろうと思います。「主イエス・キリストが本当に私たちの救い主なのか。本当にこの世界に救いが訪れているのだろうか。この方より、もっと違う形の救いを探し求めるべきではないだろうか」。そういう迷いを経験したことをはっきりと言い表してこそ、4節以下で主イエスが語っておられるお答えに深く聞き入ることができると思います。4節から6節を改めて聞きたいと思います。「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである』」。

 「あなたこそ来るべき方なのですか」というヨハネの問いに対して、主イエスは断定的にイエスともノーともおっしゃいません。一風変わった答え方をなさいます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」、この主イエスのお答えは一体何を言い表しているのでしょうか。聖書に親しんでいる人であれば、ここで主イエスが言わんとしておられることが分かるに違いありません。これは、旧約聖書の預言者イザヤを通して語られた神の約束の言葉を下敷きにしています。主イエスは、旧約聖書イザヤ書の言葉を思い浮かべながら、起こっている事柄を語っておられます。例えば、イザヤ書35章5節6節には「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」とあります。29章18節19節には「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る」という約束がされています。61章1節には「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」とあります。イザヤを通して神は、一つの約束を伝えておられます。それは、ご自身の民であるイスラエルを決してお見捨てにはならない、やがて神が御心深くに定めておられる時が来たら、ご自身が救いを携えてイスラエルの民のもとを訪れてくださるという約束であり、その時にはどのようなことが起こるかを教えてくださっている言葉です。
 主イエスは、イザヤ書の中にそういう神の約束があることを念頭に置いた上で語っておられるのです。「今ここで、わたしのもとで起こっている出来事をヨハネに伝えなさい」とおっしゃるのです。それを聞いたヨハネが、本当に救いが始まっているかどうかを、どう考えるか、それはヨハネ自身が決めることです。けれども、ヨハネが持ち出した問いは、誰かが断定的な答えを言えばそれで解決がつくような話ではありません。ヨハネ自身が「ああ、やっぱり本当にここに救いの出来事が始まっている」と信じて、自分自身で受け取るのでなければ、ヨハネの問いは、決して決着することのない問いなのです。主イエスは、「こういうことが起こっているが、あなたはこれをどう考えるのか」とおっしゃっているのです。

 もしも私たちが、「救い主が来ているのに、この世界は少しも改まったように見えない。混乱や悲しみ苦しみは、この世界にいくらでもある。これは本当に救いなのだろうか」という問いを抱くならば、教会の中で起こっている出来事はどうなのだろうかということに思いを向けるべきです。教会の中で「信仰を与えられて生きている」そういう人々が毎週礼拝を捧げ、御言葉に励まされ慰められて歩んでいく。それは一体どういうことなのだろうか。このことにこそ思いを向け、そして、救い主がわたしのもとを訪れてくださっていることを一人一人が改めて信じて歩んでいくということ、そのことによってのみ、ヨハネが問うた問いに答えを見出し、乗り越えることができるのです。
 主イエスはこの日、疑いを持ち問うべきことをきちんと問うたヨハネに、真正面から答えて、「あなたが、わたしの周りで起こっている出来事を聞いて、それを信じるべきなのだ」と教えられました。そして、ヨハネに答えてくださった主イエスの御言葉は、私たちにも語りかけられています。「本当にこの方が救い主なのだろうか。この方を信じてもよいのだろか」と、もし躊躇を覚えておられるなら、まさしく、この主イエスのお言葉がその答えなのです。「教会がこの地上に形作られ、2000年の間、御言葉が語り続けられ、そして人々がそれによって慰めを受け、力を与えられ勇気を与えられて生きてきた。今日もそのように歩む営みがある。これをどう考えるのか」という問いが、私たちには投げかけられているのです。
 いかにも敬虔そうな顔をして、主イエスについての疑問や迷いを抑圧するのは、本当の信仰者がすべきことではないのだろうと思います。私たちが真実に信仰に生きるためには、自分がそういう問いを抱く時にはそれに向き合わなくてはならないし、また、主イエスを土台としてこの世界の中に教会が建てられ、私たちがそこに招かれているという事実に目を向けなければならないだろうと思います。

 さてしかし、主イエスがここで、この日ヨハネの弟子たちに伝えた「神の救いが始まっているという徴」は、多くのことが語られていますが、その中の最も中心的な事柄とは一体何なのでしょうか。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と、主イエスは言われました。この中で一番中心になることは何かと言えば、「貧しい人は福音を告げ知らされている」ということです。様々な天の国の訪れの徴がある中で、主イエスはこのことを最後におっしゃいました。様々に挙げられた最後に、いわばクライマックスとして言っておられるのです。目の見えない人にも、足の不自由な人にも、重い皮膚病の人にも耳の聞こえない人にも、あるいは死んだ人にも、それぞれの身に生じる不思議な徴はあります。けれども、それらに勝ってどうしても最後に語られなければならないこと、それは「貧しい人に福音が告げ知らされている」ということなのです。主イエスはそう言われましたが、しかし、これは本当のことなのでしょうか。これが最大のこと、なのでしょうか。
 聖書は、初めの1500年くらいは手書きで伝えられて来ました。マタイによる福音書もそうです。手書きの写本はいくつも残されていますが、マタイによる福音書の写本を調べていくと、時々変わった写本が出て来ます。ある写本では、最後の部分が入れ替わっています。「死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」ではなく、「貧しい人は福音を告げ知らされ、死者は生き返っている」、どうしてこのように順序を入れ替えたのか。恐らくそれは、死んだ人が生き返るなどということは決してあるはずがない、だからこれこそ最大のことなので、これが最後にあるべきだと写本家が感じたからです。あるいはまた、「貧しい人は福音を告げ知らされている」という言葉をスポンと取ってしまった写本もあります。これは明らかに、この言葉が、その前の様々な奇跡の出来事と比べて余計なことだと写本家が感じたということです。天の国は様々な奇跡が起こった徴で現されるのだから、これを削った方が分かりやすいと考えたのです。
 けれどもそのようなことでは、主イエス・キリストの福音の一番大事な中心が失われてしまうことになります。「貧しい人は福音を告げ知らされている」という言葉を削ってしまうことは、大変象徴的なことで、福音書なのに「福音」という言葉を削ってしまったわけですが、しかし、この言葉は実は決して削ることのできない言葉です。主イエスご自身は、あらゆる不思議な業が行われていても、最後には「貧しい人は福音を告げ知らされている」ということが何よりも大事だとお考えになっているのです。様々な徴は、「貧しい人が福音を聞かされている」という事柄に向かって行かなければいけない、そこに向かっての徴でなければならないと考えておられるのです。
 確かに、癒しの奇跡は人々を驚かせ、多くの人の関心や興味を引きつけますが、主イエスのなさった奇跡の業は、それによって多くの人の注目を得ようとするための行いではありませんでした。主イエスのなさった癒しの業も、自然を従わせるという業も、「主イエスというお方を通して、この世界の上に新しい生活、新しい命と生き方が訪れて来ている」、そのことを指し示す徴として起こっているのです。主イエスは、「貧しい人は福音を告げ知らされている」ことが何よりも大切だとお考えでした。人間の貧しさこそが問題なのです。
 この貧しさは、物質的なものだけではありません。私たちは、あらゆる点で貧しいということがあります。そして、主イエスはそのことと闘われるのです。食べるもの着るもの、お金がたくさんあるとしても、もしそれだけで、私たちが人生を満たして何も考えないとするならば、実は私たちは、失われた者としての一生を送ることになります。周りの人たちからは豊かなことを羨ましがられるかもしれません。しかし私たちは、この地上の豊かさを全て手放して、地上の生活を終えて行かなければなりません。地上の生活に与えられているものがどんなに豊かであろうと、どんなに名声が高かろうと、どんなに人間関係に恵まれていようと、そういうものをお墓に持っていくことはできないのです。私たちは最後には、身一つで終わりまでを歩んで、死んでいかなければなりません。生活が事足りていても、一体何がこのわたしの人生を成り立たせているのか、それが分からない。一体何がわたしの歩む人生の最後の支えになるのか、それも分からない。そうであれば、私たちはどんなに見かけ上裕福であったとしても、失われた者であり、貧しい者の一人でしかないのです。

 主イエスが生きておられた時代のユダヤでは、社会の底辺にいる人たちだけを貧しい人と言ったのではありません。そうではなく、他にも貧しいと言われた人たちがいました。それは、神に信頼を置きたいと心から願い、神から全てを与えられたいと願っているけれども、神に向かって「どうかわたしを顧みてください」と手を伸ばしているけれども、しかしそれでいて、実際には自分のあり方が不甲斐なく弱いために目指すものを手にできないでいると思っている人です。自分は本当に、願っているものに対して空っぽな者でしかないと思っている、そういう人たちが「貧しい人」と呼ばれていました。そういう貧しさと対局にいたのは誰かというと、エルサレムの大祭司たちや律法学者たちです。自分は神のことを全て分かっている。礼拝も、全部自分のコントロール下にある。「わたしはこの礼拝でしっかりと神に繋がっており、全てを満たされている」と思っている、そういう人たちがいました。しかし一方には、本当に神に支えられたいと願いながら、それが満たされないと感じて、それで飢え乾きを覚えている人たちがいたのです。神のことがよく分かるというよりも、むしろ「神の事柄は自分にはまだよく分からない。だからこそ、神の御言葉に耳を傾けるし、神の側からのお答えを待ち望む」、そういう人が「貧しい人」なのです。
 そして、そういう意味で考えると、今牢屋に囚われているヨハネも確かに「貧しい人々」の中の一人なのです。かつてはそうではなかったかもしれません。「わたしの後から確かに、正しい人、救い主が来られる。わたしはそれを知っている。だから悔い改めよ」と、ヨハネは自信も確信も持って、主イエスのことを伝えていました。しかしそのヨハネが、自分の一生の最後のところで、「本当にこれで良かったのだろうか。自分がここまで生きて来た一生は、ここまでは大変豊かだと思って生きて来たけれど、しかし、本当に自分を支えてくれる救い主はあの方なのだろうか。この世界に救いの出来事が確かに始まっているのだろうか。その答えをどうしても欲しい」と、ヨハネは願っているのです。だからこそ、弟子を遣わしてまで、問うたのです。
 はっきり言ってヨハネは、自分が生きて来た人生の意味を確かなものとして見出せずに途方に暮れています。しかしまさに、そういうヨハネに対して主イエスが教えてくださるのです。「様々な徴が起こっているのだよ。けれども、一番大きなことは、貧しい人たちに福音が告げ知らされているということなのだ」と、主イエスは教えてくださるのです。

 では、それはどのような福音なのでしょうか。それは「あなたは決して一人ぼっちではない。たとえ十字架に磔にされて死ななければいけないとしても、この世界から放り出され『お前は要らない』と言われ命を終えていかなければならないとしても、隣の十字架には主イエス・キリストが同じ者として架かってくださっている。あなたがどんなに弱り、どんなに疲れ、歩めないと思っても、そのあなたの手を取り背中を押して、主イエスが共に歩んでくださる。心打ちひしがれた者を慰め、まことの友となり、兄弟姉妹となって一緒に歩んでくださる」、これが、主イエスが伝えてくださっている「福音」です。主イエス・キリストが、どんなことがあっても「あなたと一緒に生きる」というお方として共に歩んでくださっている。そして、その福音がこの世界の中で火を灯していくのです。
 もちろん、この世界には闇がたくさん残っています。無残な出来事や自己中心的な人間の生き方や、無責任なことや偽善的な行いは、この世界からなかなかなくなりません。そういうものは、この世の中で大手を振って横行しています。しかし、そういう世界の中にあって「福音が貧しい人たちに語りかけられる」のです。「真実に神によって支えられたい」と願っている人たちに、主イエスの十字架と甦りの出来事を通して、福音が語りかけられてくるのです。
 この福音は、一度きり輝き、それによって世界の隅々まで暗闇が一瞬のうちになくなるというようなものではありません。人間の悪い営みがそれによって一掃されていくようなものではありません。ヨハネは獄中で、そういう救い主の御業を期待したのです。来るべき方、救い主が来たのであれば、この世界はまるでエデンの園のように変えられるに違いない。しかし、そうなっていないので、「来るべき方は、あなたなのですか」と尋ねたのです。
 確かに、ヨハネの期待したような、世間をアッと言わせるような証しはありません。しかし、たとえそうであっても、この世界が混乱と矛盾と痛みに満ちている場所であっても、主イエス・キリストの訪れによって、そこに一筋の光が灯されているのです。その光を示され、それを信じた人たちが、今度はその灯火をこの世に持ち運んでいくのです。「本当の喜びがここに現れている」そのことを信じて、一人一人が持ち運んでいく、そういう福音の使者になるのです。
 ヨハネの弟子たちは、主イエスの周りで起こっている徴を教えられ、それを持ってヨハネのもとに帰って行くようにと命じられています。十字架に架かって、この世の苦しみ、痛み、嘆き、辛さ、それらを全て承知した方が、「あなたと共に、わたしは歩む」と言ってくださる、その福音を携えてヨハネのもとに戻り、獄中でまもなく一生を終えるヨハネがこの福音によって生きるようにとおっしゃって、主イエスは弟子たちをヨハネのもとに遣わされるのです。
 私たちもまた、同じではないでしょうか。ここから主イエスが共に歩んでくださるのです。どんなことがあっても、どんなに問題に満ちた世界であっても、「あなたはわたしと一緒に生きる者なのだ」と言ってくださる主イエスの福音の言葉を、私たちは、ここから携えて、それぞれの生活の場に送り出されて行くのです。
 本当の喜びを知らされて、それを携え、私たちはここから一巡りの生活に向かっていきたいと願います。

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