聖書のみことば
2017年4月
4月2日 4月9日 4月16日 4月23日 4月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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4月16日イースター礼拝音声

 復活
2017年 イースター主日礼拝 2017年4月16日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第16章1節〜8節

第16章<1節>安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。<2節>そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。<3節>彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。<4節>ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。<5節>墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。<6節>若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。<7節>さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」<8節>婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 ただ今、マルコによる福音書16章1節から8節までをご一緒にお聞きしました。最後の8節に「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とあります。「恐ろしかったから」という、この言葉が、マルコによる福音書の本来の結びであると言われています。私たちが今持っている聖書では、これに続けて9節から20節までありますが、注意して見ますと、9節の初めと20節の終わりには鉤括弧が付いています。これは、元々無かった言葉が後から付け足されて書き込まれていることを示す印です。マルコが書いた元々の福音書では8節で終わりですが、2世紀から9世紀までの間に、マタイ、ルカ、ヨハネ福音書の復活の話を混ぜ合わせるようにして9節から20節までが付け足されたのだと言われています。

 さて、福音書とは「福音」を書き記した書物であるはずです。「福音」とは「良い訪れ、良い知らせ、Good News」ですが、その福音を告げる書物の結びの言葉が「恐ろしかったから」という言葉であるということは、いかにも不思議なことではないでしょうか。「恐ろしい」ということが、どうして「福音」になるのでしょうか。今日は、結びのところで「婦人の弟子たちが恐れを覚え逃げ去った」という出来事が記されていることを心に留めながら、マルコによる福音書の復活の記事に聴いていきたいと思います。

 一体どうして、婦人の弟子たちは逃げ出したのでしょうか。彼女たちが覚えた恐ろしさとは一体何だったのか。それは一言で言うならば、「神の出来事に出会わされた時に覚える恐ろしさ、神の出来事に直面した時に経験する戦慄」と言ってよいと思います。
 マルコによる福音書は、大変印象的な言葉で書き始められています。1章1節は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉です。この福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」と言って、「主イエスというお方は神の子である」と宣言して始まるのです。主イエスが神の子であると言うならば、この福音書のどこかで「主イエスは神の子である」と分かるような箇所があるのかと思って、1章から読みましても、この福音書にはなかなか「神の子」という言葉は出てきません。注意して読みますと、ごく稀に出てきますが、それは決まって、弟子たちの口から信仰を言い表す言葉として出てくるのではなく、汚れた霊や汚れた霊に取り憑かれた人が「自分に関わらないで欲しい」と訴える中で、主イエスに向かって「おまえの正体は分かっている。おまえは神の子だ」という、そういう使い方で出てくるのです。
 その例として、5章7節には「大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい』」とあります。レギオンという悪霊に取り憑かれた人が、このように叫びました。汚れた霊、悪霊は、主イエスが神の独り子であるということを認めて、「神の子が来ている」という事実に怯えたり暴れたりすることがあるのです。このように、主イエスに敵対する勢力はいち早く主イエスを神の子だと認めますが、肝心の主イエスの弟子たちは、自分たちの目の前に神の子であるお方がおいでになっているのに、そのことに初めから終わりまで気づかないままです。
 唯一、悪霊に取り憑かれていない普通の人間が主イエスを神の子だと言い表すところがあります。それは、主イエスが十字架上で息を引き取られた時、処刑場の警備に当たり主イエスの処刑を見届けるために、主イエスの前に立っていたローマ人の百人隊長が「この人は、本当に神の子だった」と言い表すのです。15章39節に「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」とあります。主イエスについて、ここで初めて、そしてここでだけ、信仰的に「神の子」と言っています。百人隊長だけが言っているのですが、しかし、この人は主の弟子ではありません。
 そうしますと、マルコによる福音書が全体を通して言い表していることは、主イエスの弟子たちは、「遂に最後まで主イエスのことが分からないでいる。最初から最後まで主イエスを理解しないままである」ということです。確かに、弟子たちが主イエスに対する信仰を言い表すという場面が、8章に出て来ます。フィリポカイサリアに向かう道の途中で、弟子たちが「あなたはメシア、救い主です」と言っています。けれども、そう言ってはいても、本当には主イエスが何者であるかを弟子たちは最後まで分からなかったのだと、マルコによる福音書は語っています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き出しておきながら、弟子たちは最後まで「主イエスは神の子です」と言いません。
 では、弟子たちは主イエスのことをどう思っていたのでしょうか。「大変力ある言葉で神の御旨を取り次いでくださる方。神を知らせてくれる預言者、あるいは預言者以上の方かもしれない」とは思っていたでしょう。そして、そうであるからこそ、主イエスに従っていきたい、どこまでも付いて行きたい、導かれたいと願っていた、そういう憧れは持っていたようです。けれども、自分たちが今従っている先生が神の子、神の独り子であり、神と等しいような方だとまでは考えていません。大変力があって、自分たちを神へと導いてくれる方だとは思っているけれども、しかし、その正体は「自分たちと同じ人間だ」という程度に考えているのです。特別な救い主かもしれないけれども、神の子だとは気づかないのです。主イエスがどんなに神のことを教えてくださるか、神の力、その憐れみがどれほど大きいかを教えてくださるので、喜んで従ってはいるのですが、しかし、主イエスを通して、神が今、自分たちと共に歩んでおられるということには思い至らなかったのです。神の出来事が自分たちの只中で実際に、今、ここに起こっている、そんなことには気づかずに過ごしていたのです。そういう弟子たちの中には、ペトロもヤコブもヨハネもいましたし、また婦人の弟子たちもいました。
 ところが、私たちが今日聴いているお墓の記事ですが、この朝、お墓にやって来た婦人の弟子たちは、まさに人間の思いや力を超える神の出来事が起こっている、その場に居合わせることになってしまいました。お墓の入り口は大きな石で塞がれています。ですから婦人たちは、自分たちは中に入ることはできないだろうと予想しながら、お墓まで来ました。ところが、入り口の大石は取り除かれ、お墓の中を覗けるようになっていました。そして、お墓の中に入ってみると、中は空っぽになっていました。

 イースターのたびに語ることですが、お墓が空になっていることをもって直ちに、主イエスが復活したのだと言い切れるわけではありません。もしかすると、お墓の持ち主であるアリマタヤのヨセフが一時的に主イエスのご遺体を移動したとも考えられますし、あるいは、主イエスの弟子たちが「キリストは復活した」という話をでっち上げるために、遺体を夜の間に盗み出したという可能性も考えられなくはありません。ですから、空のお墓が復活の動かぬ証拠だと言うわけにはいきません。現に、マタイによる福音書の記事の中には、お墓が空であったことについて、「番兵を置いて見張らせていたにも拘らず弟子たちが遺体を盗み出したのだ」と言う噂が初めからあったことが記されています。
 お墓が空であることと主イエスの復活が真っ直ぐに繋がるわけではありませんので、人間の理屈を色々挙げて、「お墓が空だった」と聖書に書いてあるけれど、「本当に復活があったかどうかは疑わしい」ということを、言おうとすれば出来るのです。けれども、それはあくまでも人間の理屈の上での話です。実際に、この朝、お墓に行った3人の婦人の弟子たちは、「お墓が空である。けれどもそれは、すぐには復活に結びつかないはずだ」というような理屈は言いませんでした。しかし、かと言って「復活が起こった」と分かったわけでもありません。ただこの3人の婦人は、不思議な神の出来事がまさにここに起こっている。そして、他ならない自分たちがその出来事の当事者にされているということに気づいて、深く恐れ、呆然としているのです。「一度死んで世を去った人が、復活して甦る」などということが起こるとは、この3人はそれまで一度も考えたことはありません。
 主イエスの甦りに至るまでの女性たちの行動を、ここに語られていることを手掛かりにしながら再現してみたいと思います。

 まず16章1節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った」とあります。「安息日が終わると」と言われているのは、安息日が終わった直後の時間のことを指しています。ユダヤの一日は夕方から始まりますから、「安息日が終わると」と言われている時間は、私たちのカレンダーでは土曜日の夕方、6時半、7時という時間帯です。夕暮れが訪れて、新しい一日が始まるのです。土曜日の夕方は、私たちにとっては土曜日ですが、ユダヤ人にとっては日曜日が始まっています。これから夜の闇が深まって暗くなっていこうとする、その時に、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは買い物に出かけて香料を買ったことが記されています。香料は何のために買ったのでしょうか。お墓の中にある主イエスの傷つけられた亡骸を綺麗に水で洗って、そして死臭を抑えるために香料を混ぜた油を全身に塗って差し上げたいという願いがあったのです。直前の15章47節には「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」とあります。
 少し横道に逸れますが、ここで「ヨセの母マリア」と言われているのは、16章で「ヤコブの母マリア」と言われている女性と同じ人物です。ヤコブとヨセは兄弟で、次男、三男であり、長男は主イエスです。サロメは主イエスの母マリアの妹であり、ゼベダイの妻だったとも言われています。主イエスの弟子であるヨハネとヤコブはゼベダイの子ですから、弟子のヤコブとヨハネは主イエスの従兄弟に当たります。
 主イエスの亡骸をアリマタヤのヨセフのお墓に葬った時には、マグダラのマリアと主イエスの母マリアは、それを遠くから眺めていました。そして、主イエスが亡くなったのは金曜日の午後3時、それからピラトに願い出てアリマタヤのヨセフが遺体を引き取って葬るのですが、夕方から次の日が始まりますから、それまでに手早くヨセフはお墓に納めました。亜麻布を買って来させ、亡骸をざっと包んで葬ったと言われています。けれども、マグダラのマリアも母マリアも、主イエスの亡骸がそのようにぞんざいに扱われることに耐えられませんでした。せめて幾分かでも手を加えて、主イエスの死装束を整えて差し上げたい、そういう思いをもって2人は行動しています。安息日の間は行動できませんから、安息日が明けるとすぐ香料を買い、妹のサロメも誘って3人で主イエスの体に香料を塗りに行こうと準備を整えるのです。
 この3人が香料を買い整えた時、等しくこの3人の胸の内にあった思いというのは、主イエスへの深い愛惜の念だと思います。私たちも、ごく近い家族や親戚が地上の生活を終える時には、そういう思いを抱くのではないでしょうか。死の出来事から愛する者を取り戻すことは、もちろん出来ません。けれども、この上は精一杯愛する者たちを葬ってあげたいと思いながら、葬りを行うのだろうと思います。この3人の婦人たちは、主イエスの死という出来事に出会って、本当に言いようのない寂しさと辛さを抱えながら、それでも、主イエスのために何とか手を尽くしたいと願っているのです。
 彼女たちは、主イエスを捕らえた死の出来事の前に屈服しています。これはもう、どうにもならない。取り返せないと思っている。けれども、何とか主イエスとの思い出を自分たちの間に繋ぎ止めたいと思っているのです。何とか精一杯のことをしながら、在りし日の主イエスを思い出して、主イエスを自分たちの側に、思い出として引き止めたいと願っているのです。これは私たちも経験することですが、どんなに召された人を自分の側に繋ぎ止めたいと思っても、死の出来事というものは、私たちの力を遥かに超えて強く、私たちの前に立ちはだかるのです。死が起こったという出来事は、決して動かせない出来事として私たちの前に冷たく立ちはだかります。

 香料を買い整えて、3人はお墓に向かいました。けれども同時に、3人は、お墓には辿り着けないだろうとも思っています。お墓の入り口には大きな石が転がしてあって、それはどうしようもなく、自分たちの手には負えません。物理的に動かせないのはお墓の入り口の石ですが、しかし、本当に動かせないのは、死の事実なのです。死が、自分たちと主イエスを本当に堪え難いほどにはっきりと分けてしまったので、自分たちが生きている側には、もはや主イエスはいてくださらないのです。少しでも近いところに身を持って行きたいけれども、結局、お墓の入り口の手前で、自分たちは立ち尽くすことしかできないだろうと、婦人たちは思っていました。3節に「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた」とあります。
 これは、誰か石を転がしてくれそうな人がいそうだという話ではありません。「誰が転がしてくれるだろうか。いや、誰も転がしてくれないだろう」と、そう思いながら出かけて行ったということです。ですからこの3人は、お墓の手前で、「これ以上主イエスには近づけないだろう」と思っていたということです。「死が主イエスを取り去ったからには、もはや主イエスを自分たちの側に留めておくことはできない。自分たちは主イエスのもとに到達することはできないだろう」と諦めていたのです。その3人の姿がここに書かれています。
 この時の3人は、復活の出来事が起こるなどとは微塵も予想していません。相変わらず、死の出来事が自分たちの上に重くのしかかって、重苦しく支配しているのです。「残念だけれども、誰もが最後には死の前に膝をかがめざるを得ない。自分たちが愛している主イエスもそうなのだ」と思って、3人はここまでやって来ました。
 ところが、3人が実際にお墓に着いて見ますと、彼女たちの予想を覆すような大いなる神の御業が行われていたのであり、彼女たちは、その場面に立ち会わされることになるのです。

 3人が目にしたのは、大きな石が脇へ退けられ、ぽっかり口を開いた空の墓です。4節に「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである」とあります。普通ならば動くはずのない石が脇へ退かされていた。普通なら動かすことのできないはずの死の出来事が、脇へ退けられていたのです。
 入り口が開いているので、婦人たちは中へ入ります。するとそこで、婦人たちは、白い衣をまとった若者に出会わされます。ここには明らかにされていませんが、この若者は、神から送られた天使だっただろうと言われています。
 さて、天使がお墓の中でこの3人に何事かを告げてくれるのですが、しかし、3人は呆気にとられてしまって、言われていることを殆ど理解できませんでした。恐らくそれが本当のところです。この時、彼女たちを強く捕らえたのは、「今、自分たちが何を経験しているのか分かりかねるけれども、しかし、ここには確かに自分たちの思いを超えた神の出来事が起こっている」という思いでした。「図らずも、神の出来事に触れることになってしまった」、それが実は、今日のところでこの3人の婦人たちを捕らえていた激しい恐れの理由です。
 マルコは、この3人の経験を「恐ろしかったから」という言葉で結んでいます。ところが、「恐ろしかった」という3人の婦人の経験がこの福音書の結論になる、その結論に向かっていく福音書の書き出しはどうだったかと言いますと、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉でした。まさに教会が知らされている福音、「神の子である主イエスが、私たちの間に歩んでおられる」という福音の始まりには、私たちの思いと予想を超える大きな神の御業があるのです。そして、それに出会わされたならば、それを経験した人は思わず戦慄せざるを得ない、そういう恐ろしさがそこにあるのだということを、この福音書は伝えています。
 けれども、この恐ろしさは、これで終わりなのではありません。マルコによる福音書は「福音のはじめ」と書き出されて「恐ろしかったからである」で終わるのではないのです。そうではなく、「恐ろしかったというところまでが福音の初めである」と語られています。マルコがいみじくも語っているように、「恐ろしかった」という3人の婦人たちの経験は、実は「福音のはじめ」なのです。

 私たちは日頃、「神を信じる、主イエスを信じる」と言いますが、しかし、実際の私たちのあり様では、「神が本当にこのわたしを支配し、支え持ち運んでくださっている」とは、完全に思いきれていないようなところがあります。私たちはしばしば「神を信じています」と言いながら、その神を忘れ、神抜きで生きてしまうのです。まるで自分が人生の主役で支配者だというような思いで生活をして、神抜きで暮らしてしまうのです。
 私たちはそのように生きてしまうのですが、しかし、もしも「そのように生きてしまっているわたしの人生も、わたしの命も、全て神が支配しておられるのであって、私たちが人生の上手くいかないことも、あるいは逆に上手くいくようなことも全て、私たちの生も死も全てを神が握っておられるのだ」と身に沁みて知るようなことがあったなら、私たちはその時、どう思うだろうかと思います。神は遠くから毎日私たちの生活を微笑んで眺めてくださっている、そういう都合の良いお方ではなく、私たちの日々の生活を全て支配し、また私たちが心の中に思い計るどんな小さなことでも、全てをご覧になってよく知っておられるのです。そのことを私たちが本当に理解することができたならば、私たちはどう感じるでしょうか。おそらくは、ここでこの3人の婦人の弟子たちが覚えたような恐れ、戦慄を私たちも感じざるを得ないのではないでしょうか。「日頃、どんなに神のことをないがしろにして生活しているか、しかもそれで平気だと思っている。神を忘れている時もあるが、思い出した時に神の名を呼んでいれば、自分は神の民でいられる」と、私たちは何となく安直に思っていますが、しかし「本当に神がこのわたしの支配者である。神を忘れている時にも、神を軽く考えて自分の思いを先立たせてよいと思っている時も、そういうこのわたしのことを、神は全てご存知である。そして、いつでも神は、そういうわたしに対して裁きを下すこともおできになるお方なのだ」ということに、本当に私たちが気づかされるならば、私たちは深く恐れ、そして、神抜きで生きてしまいがちな自分の生き方を心から悔い、恐れるということが起こるのではないでしょうか。そして、それこそが実は「福音を知らされて生きる生活」の始まりなのです。
 私たちは日頃、どんなに神から遠く隔たっているか、神抜きで暮らしているか、神など関わりなく自分たちの世界で暮らしいることでしょうか。けれども、それが当たり前だった私たちが「神の御業が本当にわたしの傍で起き、わたしの身に行われているのだ」と知り、経験して、戦慄することこそが、実は「福音のはじめ」なのです。

 この婦人の弟子たちは、神の御業が自分たちの上に行われていることをお墓の中で知らされて、ショックと恐れのために天使の言っていることを十分に聞き取ることができませんでした。ですから、「弟子たちに、特にペトロに伝えるように」と言われたにも拘らず、何も伝えずに黙り込んでしまっているのです。
 これは、「天使が教えてくれた言葉は分かったのだけれど、自分のところで留めておこうと思った」というようなことではありません。そうではなく、すっかり動転してしまって、何を語りかけられたのか分からなくなってしまったので、告げ知らせることができなかったのです。
 けれども、人間の側では、恐れや驚きのあまり、あるいはショックのあまり聞き取ることができないとしても、神の側では私たちに、なお、はっきりしたことを語りかけておられます。天使はこの3人の婦人に伝えます。6節に「若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である』」とあります。「ここは空になっている。けれどもそれは、主イエスが復活なさったからだ」、そう言った後、続けて7節で「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」と言いました。
 主イエスが死の床から神によって起こされた、復活なさったことを告げた後、その主イエスにお会いするために、「あなたがたはガリラヤに行くのだ」と命じられています。「ガリラヤ」は、かつて主イエスが弟子たちを「わたしに従って来なさい」とお招きになった場所です。そしてまた、弟子たちと親しく時を過ごしながら、ご自身が何者であるか、言葉と行いをもって教えてくださった場所です。そこに行くようにと言われていることは何を表しているのでしょうか。もう一度、主イエスは弟子たちに全てのことを教えてくださる、教え直してくださるとおっしゃっているのです。「わたしはガリラヤであなたがたを待っているのだから、あなたがたもそこに戻りなさい。最初にわたしと出会った、あの所に戻って、もう一度わたしについて来なさい」と、主イエスはおっしゃるのです。
 その際に、「弟子たちとペトロに告げなさい」と、わざわざペトロが名指しされています。ここでペトロが名指しされている理由は、ペトロが特に激しく主イエスを裏切ってしまったからだと言われております。他の弟子たちが皆、逃げ散った後に、ペトロは大祭司の官邸の中にまでついて行って、そこで3度も主イエスを知らないと言って、主イエスを呪ってしまいました。ペトロは、そんなことをしてしまった自分であるということを深く恥じて、悲しんでいます。「ペトロはもはや、自分などとてもついて行くことはできないと思っている。だから、間違いなくペトロにだけはこのことを伝えるのだよ」と、主イエスは天使を通しておっしゃるのです。「わたしはあなたがたのことをガリラヤで待っているのだから、そこに行きなさい。あなたがたに予て言っておいた通り、そこで会えるのだから」と、主イエスはおっしゃってくださるのです。
 私たちは、神の出来事が行われていることに気づく時に、ショックのあまり、その時には何が起こっているのか分からないのです。私たちが洗礼を受ける、信仰告白をする、その時にも、多分私たちは、そこで何をしているのか、最初から全部分かっていたという方はいらっしゃらないでしょう。その時には本当に緊張して、とても嬉しくて、「何か分からないけれども、とにかく自分の身には何かが起こったのだろう」というくらいしか思えないと思います。私たちが神の出来事に出遇わされる時には、そうなのです。私たちは、神の出来事が自分の身に起こるという時に、最初から予想していた通りだったと言って、神の出来事を理解するのではありません。「自分では考えもしなかったけれども、神が御業をこのわたしの上にも行ってくださっている。これは一体、何だろう」と思いながら、私たちは、神の出来事に巻き込まれるようにして加わって行くようになるのです。

 けれども、そこで終わりなのではありません。信仰告白も洗礼も、それで終わりなのではなく、そこから始まるのです。「もう一度ガリラヤに行きなさい。あなたが最初から聞かされたこと、最初から示されたことをもう一度考え直しなさい」と、主イエスが伴ってくださって、私たちを弟子の一人として匿ってくださるところから、実は、私たちが「福音に生きる」ということが始まって行きます。
 福音の始まりには深い恐れがあるのですけれども、それは、恐れで終わるものではありません。神抜きで当たり前のように生活してしまった、そのことに気づかされるとき、そこに私たちの恐れが生まれます。ですから、福音の始まりにあることは、「私たちが神抜きで生きている、神の前に罪を犯して生きているということに気づかされること」です。
 けれども、そういうわたしを、神は、主イエスの十字架によって赦してくださり、もう一度主イエスと共に生きるようにと招いてくださっているのです。そのことを知らされながら、私たちは、そこで初めて、ようやく、「神が私たちの身の上にしてくださっている御業は何だろうか」と考えながら生きて行くことができるようにされるのです。

 もともとは、自分の見通しと思いと計画ばかりを押し通そうとして来た自分であったことに気づいて恐れるのです。けれども、神の側ではそんな私たちのために、主イエスを十字架に磔にする。そして、その十字架の上で全ての罪を清算する清らかな悔い改めの供え物を捧げていてくださるのです。そしてさらに、その主イエスを甦らせて、永遠に生きる主イエスが私たちと共にいてくださるようにするという御業を行ってくださっているのです。

 今日、私たちは、最初のイースターの朝に3人の婦人たちが経験させられた恐れにこそ、目を開かれる者とされたいと願います。そして、そこに語りかけられておられる主イエスが、もう一度初めから、私たち一人一人に伴ってくださり、今日も伴っていてくださる、その福音に慰められ、勇気を与えられ、ここから歩んで行く、そういう者とされたいと願います。

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