聖書のみことば
2017年4月
4月2日 4月9日 4月16日 4月23日 4月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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4月30日主日礼拝音声

 主の招き
2017年4月第5主日礼拝 2017年4月30日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第10章1節〜4節

10章<1節>イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。<2節>十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、<3節>フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、<4節>熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 ただ今、マタイによる福音書10章1節から4節までをご一緒にお聞きしました。主イエスのもとに最初の12人の弟子が呼び寄せられたという出来事がここには語られています。
 私たちも、今朝、主イエスに呼び集められてここに集まっています。もちろん、私たちがこうして集まっているのは、「誰かに呼ばれたわけではない。自分の意志でやって来たのだ」と思っている方はいらっしゃると思います。確かに私たちは無理強いされたわけではなく、自分からやって来たという面もあるのですが、しかしそれでも、私たちが今日ここに集まっているということは、主イエスの招きと全く関わりがないということではないのです。主イエスは、今の時代には教会を通じて私たちを一人一人、身側近く歩むようにと招いてくださいます。
 それは、教会がキリストの体だからです。聖書の中には、「教会がキリストの体である」、そして「教会の頭はキリストである」と繰り返し出てきますが、教会の頭である主イエスは、その体である教会を用いて私たちに呼びかけて、この礼拝に一人一人を招いてくださり、呼び集めてくださるのです。
 ここに集まっている私たち一人一人は、それぞれに違った求道生活を与えられました。山梨英和のようなミッションスクールを通して初めてキリスト教に出会ったという方がいらっしゃいます。あるいは、就職した職場にキリスト者がいて、その方によって導かれたという方もおられるかもしれません。中には、クリスチャンホームに生まれたので、物心ついた時にはもう、両親に連れられて教会に来るようになっていたという方もいらっしゃるかもしれません。このように、教会に繋がるようになったきっかけとか、礼拝に連なるようになった入り口は千差万別です。しかし、形は違いますが、私たちは一人の例外もなく、主イエスに招かれてこの礼拝に集うようにされているのです。私たちの方が先に主イエスを見出して悟りを開いたというのとは違います。そうではなくて、主イエスの方が私たちを見出して招きの言葉をかけてくださって、教会に来るようにと言ってくださって、私たちは教会に来ることができるようになっているのです。
 ですから、そう考えますと、今日ご一緒にお聞きしたマタイによる福音書10章1節の言葉というのは、私たちの教会の一番発端を語っている言葉だと言えるだろうと思います。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せられた」と語られています。主イエスが12人の人をご自分の弟子としてお招きになった、呼び寄せられた、それで12人が弟子になったと言われています。私たちも、人生のどこかの時点で、主イエスから「わたしについておいで」と呼びかけられたのです。自分が弟子であるという強い思いを持っているかどうかは分かりませんが、私たちは「呼ばれたので、今、ここに共に集まっている」、そんなところがあります。主イエスが招いてくださったので、私たちは、今ここで一緒に礼拝を捧げるようになっているのです。

 さて、そのように招かれて来たのですが、私たちは一体何のために、ここに招かれたのでしょうか。「招かれ、礼拝を捧げるようになった。さらには、そういう中で信仰を与えられてキリスト者とされた」、そういう私たちは、一体何のためにキリスト者になったのでしょうか。何のために礼拝に集められたのでしょうか。「あなたはどうしてキリスト者なのですか」と改めて問われると、咄嗟には返事に詰まるという方もいらっしゃるかもしれません。「自分はなぜ今キリスト者になっているのだろう。特に目的はない。ただたまたま、人生のどこかの時点で主イエスというお方とお会いして、その方から『ついていらっしゃい』と言われたから、自分としてはそれ以来、その主イエスを信頼して礼拝に連なっているだけだ」という方もいらっしゃると思います。
 確かに、私たちがキリスト者である、礼拝の民であるということは、自分自身の何かの願いを叶えるためとか、あるいは自分の目的を果たすために主イエスに従っているということとは違うかもしれません。けれども、私たちの側ではなぜここにいるのかがはっきり分からないとしても、主イエスの側ではどうなのでしょうか。主イエスは何かの目的を持って、私たちをお招きになったのでしょうか。それとも、主イエスの方でも取り立てて何の目的もないままに、たまたま行きずりの人を見つけて「あなたは、わたしのところに来なさい。一緒にお茶でもしましょう」とお招きになったのでしょうか。「これからは一緒に交わりを持って力を合わせて生きていきましょう」と、主イエスはそうおっしゃったのでしょうか。今日の箇所を読むと、どうもそうではないようです。主イエスの方では、私たち一人一人を「従って来なさい」と招くに当たって、非常にはっきりした目的をお持ちだったようです。
 それは何かと言いますと、弟子たちが一人一人、この世にあって、主イエスご自身の働きを持ち運ぶ者となるようにということです。そういう明確な意図を持って、主イエスは招いておられるのです。1節を読むと分かります。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」と言われています。主イエスが何のために12人をお招きになったのか。それは、この12人に「汚れた霊に対する権能を授けるため」、そして、出かけて行って「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」と、ここに言われているのです。

 この12人は特別な人だったのでしょうか。特別な能力に恵まれていて、他の人たちにはとてもできないことができていたために、他の人がやらないような特別な働きや役割を果たすように召し出され招かれたのでしょうか。「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすために弟子にされたのだ」と聞かされますと、私たちは、「この12人は特別な人たちだったのではないか」と思ってしまいます。けれども、仮にこの12人が特別な人たちだから主イエスに招かれたのだとすれば、では、今日ここにいる私たちはどういうことになるのでしょうか。
 主イエスを中心にして従う12人の弟子の群れが教会の原型だとするならば、私たちの教会も、またここに招かれている一人一人も、驚くようなことですが、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすために、ここに集わされている」ということになるのではないでしょうか。けれども、そう考えますと、途端に気後れして後ずさりしたくなるようなところがあるのではないでしょうか。振り返ってみて、私たちは、自分には特別な能力があるとは思えないからです。「悪霊を追い出す者、病気を癒す者として弟子の一人に加えられている」などと言われると、「さて、私たちは本当にそんなことができるのだろうか」と思うのではないでしょうか。「とても無理だ」と思って途方に暮れてしまうのではないでしょうか。私たちのことはまた後で考えたいと思いますが、ここで招かれた12人とは、一体どういう人たちだったのか、そのことを考えてみたいのです。
 よく言われることですが、この12人は能力に恵まれて目覚ましい働きができる人たちだというよりは、むしろあまり目立たない、どちらかというと種々雑多な人の寄せ集めだったと言われます。2節から4節にかけて名前が記されています。「十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである」とあります。
 最初に名前が出てくるのはペトロです。そして、その弟アンデレが続きます。さらにゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。よく知られていることですが、この最初の4人は、ガリラヤ湖で魚を獲っていた漁師たちです。使徒言行録4章13節には、この4人を紹介して「無学な普通の人である」という言葉が出てきます。元々漁師ですから、湖の天候とか舟を操る技術、あるいは湖のどこに網を下せば魚が潜んでいるかという知識については、他の人たちより知恵があったし技能を身につけていたかもしれません。けれども、聖書を読んでいますと、この4人はその技能があった割には時々失敗しています。湖の上で一晩中逆風に吹かれて漕ぎ悩んでしまうとか、主イエスが甦られ弟子たちのもとを訪れてくださった明け方には、前の晩、一晩中網を下ろしたけれど一匹も魚が獲れなかったとも書かれています。そうしますと、漁師としての腕前が超一流であったというよりは、案外、ごく普通の人であったのかもしれないと思います。
 この4人以外で職業が分かっている弟子は、マタイです。ここには徴税人マタイと紹介されています。徴税人ですから税金を集めるのが仕事です。能力的には金勘定はできたでしょう。けれども、徴税人としてのマタイの仕事は、ユダヤを支配しているローマ帝国の税金を集めるという仕事でしたので、当時の一般的なユダヤ人からは、自国を敵の手に売り渡す売国奴だと思われていました。福音書を読んでいますと、しばしば、徴税人と遊女と罪人は、3つセットで名前が出てきます。つまり徴税人は、普通のユダヤ人からは十把一絡げに「あの人たちは自分たちとは違う」と見なされ、蔑まれ嫌われていた人たちです。主イエスは、御国の福音を伝えて人々に救いをもたらして癒しの業をなさる、そのために弟子たちをお招きになっているのですが、そのために役に立つと考えた時に、果たして徴税人は適任なのだろうかという気がします。ユダヤ人たちに神の国を伝えるのであれば、徴税人などではなく、ユダヤ人たちから大変信頼の厚い人たちを弟子に加えたほうが良いのではないかと思ったりします。例えば、マタイのような徴税人よりは、会堂長のような、ユダヤ人たちから尊敬され信頼されている立場の人が弟子であっても良かったのではないかと思います。ところが主イエスは、この世的に信用のある人たちではなく、徴税人であったマタイを弟子の一人に加えられました。徴税人マタイのような人でも、主イエスは用いようとなさるのです。
 あるいはまた、職業ははっきりしないのですが、弟子たちの中には、熱心党であるシモンと呼ばれる人もいました。このシモンは、当時のユダヤ社会の中で政治的な立場、考え方からすると、徴税人マタイとは対極にいたような人です。熱心党とは、ユダヤを支配しているローマ帝国を何とか倒して独立したいと思っている人たちです。ローマ帝国の手先である人、傀儡政権になっているヘロデ家の人たちを、隙あらば暗殺してやろうと狙っていた過激派に属する人たちです。徴税人マタイはローマ帝国のために税金を集めていたわけですから、もしシモンが主イエスのもとで弟子仲間としてマタイと出会うのでなければ、もしかすると、熱心党のシモンはマタイを暗殺するようなこともあったかもしれません。そのように、注意を要する人、それがシモンです。シモンは熱心党上がりですから、愛国心があることは間違いありません。けれども、如何せん手口が荒っぽいのです。そういう意味で、マタイとはまた違った意味でですが、当時の一般的なユダヤ人たちからは警戒され、敬遠されていた人でした。そういう人も、主イエスは弟子に加えておられるのです。
 さらに、弟子の中にはイスカリオテのユダのような人もいました。ユダは本当に得体の知れない人物です。12人のグループの会計係をしていたと言われますから、マタイと並んで金勘定はできたことでしょう。けれども、よく知られているように、ユダは主イエスを銀貨30枚で敵の手に売り渡してしまうのです。それだけではなく、ヨハネによる福音書12章6節には、「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」という不穏な言葉も出てきます。「神の御国がやってきています。その御支配があなたに臨んでいます。神の真実があなたを包もうとしています」と福音を宣べ伝えるキャラクターとしては、いかにも具合の悪い人物ではないでしょうか。皆さん、どうでしょうか。例えば、牧師は毎週説教しているけれども、実は盗人であって教会のお金を着服していたなどということであれば、次の週からその牧師の説教など聞けなくなってしまうことでしょう。けれども、そういう人物を主イエスは弟子に加えておられるのです。
 また、それ以外の弟子も、あまりぱっとしません。聖書に書いてあることから何とかキャラクターを探ろうとすると、例えば、トマスという人は疑り深く頑固だったという印象がありますし、フィリポという人は優柔不断だったという印象を持たれています。その辺りはかろうじて人物像の一端が窺い知れるのですが、他の3人、バルトロマイ、アルファイの子ヤコブとタダイとなると、名前が知られているだけで、どんな人物でどんな働きをしたのか少なくとも聖書の記事からは何も伝わってこない、そういう弟子たちです。主イエスは、そのように目立たない人たちもご自分の弟子に加えておられるのです。

 これは本当に不思議なことだとしか思えません。顔ぶれからすると、主イエスの弟子は、才能に溢れ、いかにも働いてくれそうな人たちだとは見えないのです。主イエスは優れた人を勧誘なさったのではなく、一見すると「どうしてこの人が弟子に加えられているのだろうか」と首を傾げたくなるような人たちを、敢えて弟子に加えられたのです。主イエスはこの12人を、普通に見えるこの人たちを、実は驚くような目的のために遣わそうとなさっておられるのです。もう一度、1節を見ますと「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」とあります。
 12人が選ばれ、招かれた理由、それは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」というのです。悪霊を打ち破り追い出し、病と患いを癒すこと、それが弟子たちの選ばれた目的であると言われています。一体、この12人にそんなことができたのでしょうか。けれども、このことは決して他人事なのではありません。今日初めから申し上げている通り、この12人の弟子たちは私たちの教会の発端のところにいる人たちです。私たちの、今集まっている礼拝の群れの原型になっているような人たちです。最初の弟子たちが悪霊と戦ってそれを追い出し、病や患いを癒す目的のために主イエスに召し出されているのだとすれば、今日ここに集まっている私たちも、あの12弟子と同じ目的のために主イエスに呼び集められて、ここで礼拝をしている、そう言えるのではないでしょうか。
 「あなたはどうしてキリスト者なのですか。何の目的のために、あなたは主イエスに召し出されてキリスト者となって歩んでいるのですか」と問われて、自分としては咄嗟に答えに詰まる、そう思う方でも、その答えは、実は聖書のここに書いてあるのです。「あなたがキリスト者となっている、あなたが礼拝に招かれている理由は、汚れた霊を追い出すためです。あらゆる病気や患いを癒すためです。そのために、あなたはキリストに従うように招かれているのです」と、少なくとも私たちの教会の原型である弟子たちは、そのように招かれているのです。

 けれども、改めて聖書からそう聞かされますと、率直に言って尻込みするという方もおられることと思います。「このわたしが悪霊などという得体の知れないものと戦うのでしょうか。病や患いを癒すためにキリスト者とされているのでしょうか。そんなことを言われるのは、正直言って困るのですが」と感じる方もいらっしゃるでしょう。実際、本当にそう呟きたくなります。「イエスさま、そんなに買いかぶられても困ります。わたしにはとてもそんな力はありません。悪霊を追い出すどころか、わたしは自分の悩みや迷いすら、どう対処すれば良いのか判らないで途方にくれるのです。自分が癒し手になったり悪霊を追い出したりするのではなく、むしろ、わたしの方が自分の嘆きや痛みや苦しみや悩みを何とかしてほしくて、教会に来るのです」と、つい言いたくなってしまうという方もおられることでしょう。
 私たちはしばしば、そういう者です。自分の悩みや嘆きや悲しみに捕らえられてしまうのです。あるいは、いつの間にか神抜きで自分中心に生きてしまう、そういう罪の力に捕らえられて、そのために始終あっぷあっぷしながら自分の人生を生きているようなところがあります。そして、そういう私たちが急に、聖書から「あなたは悪霊に立ち向かうのです。病や患いに立ち向かうのです」と聞かされても、なかなか素直に「分かりました」と聞き従うことはできないのです。聖書に言われているこの言葉を聞き流してみたり、聞こえないふりをしてみたり、あるいは自分が召されているというところだけ括弧に入れて棚に上げてしまうようなところが、私たちにはあるのです。
 けれども、まさにそんな私たちだからこそ、この聖書の言葉を思い出したいのです。主イエスが最初に弟子として招かれた12人とはどういう人たちだったか。立派な信仰の力によって主から与えられた務めを十分に果たして奇跡を起こせるように見える人たちだったでしょうか。そうではありません。むしろ、様々に足りない点が目立って、あるいは本当に目立たないごく普通の人たちであって、その点では私たちと変わらないように思える、そういう人たちでした。

 ごく普通の人にしか見えない12人を主イエスは弟子に招いて、そして癒しの業を行わせたり悪霊を追い出す業に用いようとなさるのですが、しかし、それは無理なことではないでしょうか。聖書の中の他人事として聞いている分には「ああ、そういうことがあったのですね」で終わりますが、しかし、よく考えてみますと、「この12人にそんなことができるのか?」と思わないでしょうか。主イエスは無茶なことを弟子たちに押し付けておられるのではないでしょうか。けれども、そうではないのです。主イエスはこの12人をご自分の御側近くにお招きになって、そして先ずは、主イエスご自身がなさること、主イエスご自身がおっしゃることを注意深く見守るような場所に弟子たちを置いてくださるのです。そして、主イエスの姿を見た後で、弟子たちが「主イエスはどんなことをなさっていたか。どのように歩んでおられたか」を思い出しながら、主イエスのなさった通り、御言葉の通りに生活するようにと、主は教えようとしてくださるのです。

 実は、1節に語られていること、弟子たちが「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす」ということ、これは主イエスご自身がお手本を示してくださいます。汚れた霊を追い出すなどと言うと、私たちは、「どうやるのだろう」と途方に暮れますが、実はこの秘訣は、主イエスのなさりように目を注ぎ、主イエスの御言葉によく耳を澄ますというところにあります。主イエスはどうやって悪霊を追い出しておられたのか、8章12節には「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」とあります。ここには「悪霊を追い出す」ことと「病人を癒す」ことが一緒に出てきます。弟子たちの前で、主イエスはこのように働いておられたのです。
 どうやって主イエスは悪霊を追い出されたのか、病を癒されたのか、そう思ってここ読みますと、実は拍子抜けするようなことが言われています。「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」。「言葉で」なさったといわれています。
 悪霊を追い出すと言えば、私たちは、「秘密の魔法か魔術でも使わなければ無理だろう」と思ってしまいます。ところが主イエスは、魔法も魔術も使わないのです。「言葉によって」なさるのです。神の言葉を順々と聞かせることで悪霊が去っていくのです。
 けれども、このことは、実は、私たちが毎週の礼拝の中で親しく自分自身の身に経験させられていることではないかと思います。私たちはどうして、この礼拝に集まって来るのでしょうか。もちろん、招かれたから来ているということもあるでしょう。けれども、ただ「来なさい」と無理強いされているのではないと思います。私たちは、自分から喜んでこの教会に集まって来る、そういうことがあるのだとすれば、それはどうしてでしょうか。それは、私たち自身が礼拝を捧げる中で、御言葉によって癒され、そしてまた御言葉によって清められるという経験をするからではないでしょうか。礼拝の中では必ず聖書が朗読されます。そしてその御言葉が説き明かされます。それ以外に、礼拝の中では賛美、祈り、献金の時がありますが、しかし、何と言っても私たちが神を賛美し神に仕えようとするエネルギーを与えられる源になるのは、御言葉を聞くところにあるのではないでしょうか。御言葉の説き明かしがよく分からなかったり、説き明かしがよそよそしかったりすると、私たちは神に感謝し賛美し祈りを捧げるということが、辛くなって来るのです。ですから、多くの方が「礼拝の中で、説教がよく分かるといいなあ」と思いながら、礼拝に集われるのだと思います。説教を通して御言葉に触れたい、本当に聖書の御言葉が自分の身近なものとしてあり、御言葉に包まれたいと思って、私たちは礼拝にやって来るのだと思います。
 御言葉によって、私たちの中から悪霊が退散していくのです。そして、私たちの病や患いが、やはり御言葉によって癒されるのです。もちろん、礼拝したからといって、急に風邪が治って熱が下がるなどということはないでしょう。そういうところは医師の手を借りなくてはなりません。けれども、私たちが様々に病んでいる、そういう自分のあり方が、「もう一度ここから歩んで良い」という新しい思いを与えられて、礼拝からの一週間を歩んでいくことができる、だからこそ、私たちは、自分たちから喜んで礼拝に来るのだろうと思います。

 主イエスの言葉というのは、本当に不思議です。説教で、牧師が上手い話をしているのではありません。聖書が語っているだけなのですが、私たちはそれを聞くと、皆、癒されたり慰められたり、清められたりして、ここから新しい生活に歩んでいくことができるようにされるのです。そういう御言葉の働きに初めて出会ったという人は、大変驚かされます。マタイによる福音書7章の最後のところに、主イエスの言葉を初めて聞いた人たちがどんなに驚いたかということが語られています。28節29節に「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とあります。主イエスが御言葉を説き明かされた、すると、その言葉は本当に力があり権威があって、聞く人たちを驚かせたと言われています。驚かせたといっても、特に大声で、相手をびっくりさせるよう話したということではなかったと思います。そうではなく、神のなさりようについて主イエスが教えられ、それで人々は皆、「これは本当だ」と分かったのです。

 29節のところで、「権威ある」という言葉が出てきますが、「権威ある」と訳されているこの言葉は、今日私たちが聞いている10章1節で「汚れた霊に対する権能」と訳されている言葉と同じ言葉です。「汚れた霊に対する権能」とは、何か不思議な、すごそうな、わけの分からない力ということではありません。そうではなく、主イエスが神の御業をそのまま素直に説き明かしてくださる、その権威が弟子たちにも与えられるのです。どうしてそんなものを弟子たちに与えることができるのか。それは、主イエスの語る言葉が、弟子たちに分かる言葉だからです。そして、弟子たちが「本当だ」と思い、神が自分の上に働いておられることを少しずつ悟って、そして、周りの人たちにも伝えるようになるときに、周りの人も「本当だ」とわかるようになっていくのです。
 主イエスは言葉の勢いや剣幕や魔術で悪霊を追い出すのではありません。そうではなく、神がなさってくださる御業を一つ一つ丁寧に説き明かしてくださいます。そして、それによって私たちを支配しようとしている悪霊を追い払ってくださるのです。また、御言葉を説き明かすことによって、私たちを、蝕んでいる病、患いをも癒してくださるのです。

 主イエスがそういうことをおできになったのには秘密があります。それは、主イエスご自身が、「父なる神の御心に完全に従う方だった」ということです。主イエスご自身が神の御心に完全に従う方として、ご自身が生きた御言葉のようなお方でした。だからこそ、主イエスが語る言葉には力があったのです。そして、主イエスはそういう御言葉であるご自身を、弟子たち一人一人が注意深く観察し、その語る言葉を聞いて、次には持ち運ぶようにと、弟子たちを招いておられるのです。

 私たち一人一人もこの礼拝を捧げ、御言葉を聞きながら、今度は私たち自身が、自分たちの生活の隣り人に主イエスを持ち運んでいく務めを与えられています。
 悪霊を追い払って人間を癒し健やかに過ごさせるために必要なのは、私たち自身の優れた能力ではありません。あるいは、得体の知れない魔術の力でもありません。私たちにとって必要なこと、それは、主イエスの御言葉に聞いて、その御言葉の力に与るということです。そういう弟子とされるために、私たちは、御言葉によく耳を傾ける生活を心がける者とされたいのです。

 私たちが御言葉に耳を傾ける、そして「本当だ」とそれを受け入れて自分を明け渡すところに、神の主権が確立されていきます。普段私たちは、銘々が自分の思いで、自分のやりたいように生きていることが当たり前だと思っています。けれども、そのように生きていれば、私たちは、自分の思いは様々ありますが、ほとんど力を持つことができないのです。私たちのこの人生の真ん中に神が臨んでくださって、「わたしがあなたの主になってあげるよ。あなたを見捨てないで、どこまでもあなたを支え歩んであげるよ」とおっしゃってくださるところで、私たちは本当にホッとさせられて、そして、今与えられているこの生活にもう一度向き合って、今日自分が何をなすべきなのか、どう生きたら良いのかを考えながら歩んでみようという、新しい思いを与えられるのです。
 私たちはそのようにして、神に従う生活に相応しい歩みをここから歩み出していきたいと願います。

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