聖書のみことば
2017年3月
  3月5日 3月12日 3月19日 3月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月5日主日礼拝音声

 祈り
2017年3月第1主日礼拝 2017年3月5日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第14章32節〜42節

第14章<32節>一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。<33節>そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、<34節>彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」<35節>少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、<36節>こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」<37節>それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。<38節>誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」<39節>更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。<40節>再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。<41節>イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。<42節>立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 ただ今、マルコによる福音書14章32節から42節までをご一緒にお聞きしました。先週の水曜日、3月1日から今年の受難節、レントに入っております。イースターは4月16日ですが、それまでの間、今年は、マルコによる福音書の記事に従って、主イエスの御受難のことを思い巡らそうと計画しています。今日はその一番最初ですが、主イエスが十字架にお架かりになる前の晩、敵に逮捕される直前のところで、オリーブ山で神に祈りを捧げられたという記事をお聞きしました。今日はこの主イエスの祈りを中心に御言葉を聴きたいと思います。
 32節に「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた」とあります。「ゲツセマネ」というのは、オリーブの実から油を絞る搾油機という機械のことを言い表す言葉です。ルカによる福音書の22章39節から40節を見ますと、同じ内容の箇所が「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた」と記されています。マルコでは「ゲツセマネ」という名前がありますが、ルカには出てきません。その代わりに、「オリーブ山のいつもの場所に来た」という書き方がされています。
 「オリーブ山」というのは名前の通り、オリーブの木がたくさん繁っていた山ですが、エルサレムの山を下りキドロンの谷を通り抜けて反対側に登っていくと、それがオリーブ山です。主イエスはそこを寝ぐらにしておられたのです。オリーブ畑から実を収穫して、油を絞るための搾油機が置いてある所、そこがいつも主イエスと弟子たちが集まっている所でした。恐らく周囲のオリーブの潅木の下で弟子たちはそれぞれに休んでいたのでしょう。この日、いつもの場所に来られたのですから、弟子たちは就寝前の祈りを捧げてからそれぞれの寝ぐらに向かって行くものだと思っていたと思います。
 ところが、この晩はいつもと様子が違いました。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と主イエスは言われて、他の弟子たちを置いて、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて少し離れた場所に移って行かれたのです。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と主イエスが言われた意味は、「3人以外の弟子たちは付いて来ないでここで待っていなさい」ということです。普段、弟子たちは、主イエスがどこに行かれるにしても付いていくのが習慣でした。ですから「付いて来ないでここに残っていなさい」と言われることは異例のことです。しかも、主イエスに同行を許されたペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人も最後まで主イエスに従えたわけではありません。34節には「彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」とあり、3人もその場に留まるように言われます。そして35節に「少し進んで行って」とあるように、今日の記事では、主イエスが12人の弟子たちを後ろに置いて、弟子たちと少しだけ離れられたことになります。本当に僅かな隔たりで、ルカによる福音書では「石を投げると届く程度の距離」だと言われています。ほんの数メートルだと思いますが、その場所で主イエスは祈りを捧げられました。

 この晩の祈りは、今から起こる目まぐるしい出来事の中で、主イエスご自身が神の御心に従って行けるようにという祈りです。主イエスが弟子たちから離れられたのは、神に祈るため、神との二人きりの差し向かいになるためでした。しかし同時に、弟子たちとほんの僅かしか離れなかったということは、神に祈っている真剣な姿を弟子たちにも示そうという意図もあったと思います。主イエスは今、弟子たちと別れなければならない一番最後の場面で、ご自身が神に祈る姿を弟子たちに示そうとなさるのです。

 「祈り」ということでは、かつて弟子たちが主イエスに「祈りを教えて欲しい」と願ったことがありました。その時、主イエスは「あなたがたは、こう祈りなさい」と言って「主の祈り」を教えてくださいました。今日の礼拝でも、私たちは「主の祈り」を捧げました。主イエスは、この最後の時に、「祈る」ということがどういうことなのかということを、身をもって弟子たちにお示しになろうとなさったのです。そのために、ほんの少しだけ弟子たちから離れて、神の御前に進み出て、神の前にお立ちになられます。
 この「ゲツセマネの祈り」というのは、本当にぎりぎりにところで祈られている「主の祈り」のような祈りです。実は、「主の祈り」と重なる点が、この「ゲツセマネの祈り」には幾つも指摘できます。
 例えばまず、呼びかけの言葉です。ここで主イエスは「アッバ、父よ」と呼びかけてお祈りを始めておられます。「主の祈り」の中では、何と言ってお祈りを始めなさいと教えられたでしょうか。それは「父よ」という呼びかけでした。ですから、私たちも「天にまします我らの父よ」と言ってお祈りを始めるのです。主イエスの時代、他のラビたちも様々な祈りを教えていたようですが、神に向かって「父よ」と親しく呼びかけたのは主イエスだけだったと言われています。ですから、主イエスの弟子たちが神に向かって「天の父よ」と呼びかけて祈るのは、大変珍しいことだったのですけれど、主イエスは「ゲツセマネ」でのぎりぎりの祈りの中で、主ご自身が「アッバ、父よ」と呼びかけて祈り始めておられるのです。
 そして続けて「あなたは何でもおできになります」と言われました。神への全幅の信頼、「神さま、あなたは全能の方です」という信頼を言い表しています。弟子たちに教えられた「主の祈り」は、6つのお願いの形からなっていますから、このような信仰告白の言葉は一見すると無いように思います。けれども、私たちは「主の祈り」の中で、「あなたは何でもおできになります」という主イエスの告白と同じ質のことを祈っています。それは「願わくは、御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ」という祈りの言葉です。「御名を崇めさせてください。御国を来たらせてください」というのは、神の支配を願う祈りです。「このわたしが神の前にひれ伏すことができますように、神のご支配のもとにわたしを置いてください」、そして「わたしだけではなく、わたしが暮らしているこの世界全体が神のご支配のもとに服することができますように」という祈りです。「私たちが、自分自身もこの世界も神の前に平らになれますように」という祈りを、「天の父よ」と呼びかけた後に、私たちは祈っているのです。このことは、どちらも「神の前にへりくだりますように」という祈りですから、それが実現する時には、何もかもが神の御心のままになっていくということです。神のご支配がすべてに及ぶ、つまり「あなたは何でもおできになります」と、信仰告白の核心の形で主イエスが言い表しておられることと同じことを、私たちは「主の祈り」において、お願いの形で祈っているのです。「神さま、あなたは何でもおできになるのですから、あなたのご支配をこのわたしの上に、この世界の上に現してください」と祈っているのです。
 続けて主イエスは、「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。「この杯ではなく、できれば別の杯をください」と祈られ他のです。主イエスは「主の祈り」の中でも、私たちが自分の必要を祈り求めて良いことを教えてくださいました。「日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りです。この祈りは食事だけを求める祈りではないはずです。「私たちに必要なものをすべてお与えください」という祈りです。そして、主イエスはここで、そう祈っておられます。「この杯」というのは「十字架」を指していますが、「この杯をわたしから取りのけてください」というのは、「十字架に架かるのは嫌だ」ということだけではなく、「もし可能であれば、別の杯をお与えください」と願っているのです。けれどもその直後に「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。これも「主の祈り」の中に出てきます。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りです。
 ですから、私たちは普段、思ってもいないことですが、一つ一つを確かめて考えますと、実は「ゲツセマネの祈り」の下敷きには「主の祈り」があるのです。主イエスは、かつて、弟子たちに「祈るときには、こう祈りなさい」とおっしゃって「主の祈り」の言葉を教えてくださいましたが、今、ご自身の生涯の最も暗い暗闇に臨んでいるとき、深い嘆きと恐れと苦しみの中にあるこのときに、主イエスご自身もまた、同じ祈りを祈って、神に依り頼んでおられるのです。それが「ゲツセマネの祈り」なのです。

 それにしても、何と苦しい中で祈っておられることかと思います。主イエスご自身がこの悩みや苦しみの深さを隠さずに、弟子たちに打ち明けておられるのです。34節に「彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」とあります。「死ぬばかりに悲しい」とおっしゃるのです。この言葉からは、主イエスは復活することになっているのだから死ぬことは平気だったなどとは決して言えないような深刻な悩みと悲しみが聞こえてくるのではないでしょうか。けれども、主イエスがこの時に感じておられる悲しみ、嘆き、苦しみとは一体何なのでしょうか。どういうことをこのように言い表しておられるのでしょうか。私たちには、主イエスのこの時の悲しみ、嘆きの深さは計りかねるほど深いのだと言わざるを得ないのだと思います。
 昔から、この主イエスの「死ぬばかりに悲しい」という言葉を、いろいろな人が様々に人間の言葉で言い換えようとしてきました。例えば、ある人は「あまりに悲しくて殺されてしまうほどだ」と言い、ある人は「主イエスは今や本当に深い悲しみに直面しておられるので、生きていることよりも死の方が慕わしいと思ってこうおっしゃったのだ。死というものが筆舌に尽くしがたいほどの悲しみから魂を救い出してくれる友なのだ」と説明した人もあります。そういう人間の説明を一つ一つ聞いておりますと、なるほどと思わされます。けれども、本当にそんなことでこの時の主イエスの深い悲しみを語り尽くせているのだろうかという思いも、一方に残ります。ここでの主イエスの悲しみは人間の想像を絶する、私たちの思いを遥かに超えるようなものがあるのです。
 主イエスはこれまで何度も何度も弟子たちに、ご自身が十字架にお架かりになることを伝えて来られました。一番最初に教えられたのは、マルコによる福音書で言えば8章31節です。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」とあります。9章31節でも「それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである」とあります。10章33節34節でも「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」とあります。主イエスはこのように、ご自身がお受けになる苦しみについて非常にはっきりと弁えておられて、今から必ずこういう苦しみに遭うと弟子たちに教えておられました。けれども、弟子たちの方は、そういう主イエスの言葉を聞くと、尻込みして耳を塞いでしまうというところがありました。あまり聞きたくない、だから何も聞かなかったという言葉も出てきます。
 しかし、主イエスはご自身が進んでいく先に「十字架の苦しみ」があるのだとしっかり見据えて、顔を堅く据えてという言い方がされますが、エルサレムの方に向かって行かれたのです。ですから、主イエスがゲツセマネの園で祈りを捧げておられるときに感じておられた悲しみ、苦悩というものは、単にご自分が十字架上で傷つけられるとか命を落とさなければいけないということだけの悲しみであったとは思えないのです。主イエスはそのことを十分に分かっていて弟子たちに何度も教えておられ、その時に弟子たちは狼狽しますが、主イエスは極めて落ち着いておられました。十字架に架からなければいけない痛みや苦しみを負わなければならないということであれば、主イエスは既に覚悟しておられるのです。もしその覚悟がなかったのであれば、どうしてゲツセマネの園に留まっていられたかと思います。もう捕らえられることは分かっているのですから、もしその覚悟がなく、この杯が嫌だということであれば、逃げれば良かったでしょう。けれども主イエスはそうなさらないで、ゲツセマネの園に留まって、そしてここにやがてイスカリオテのユダが捕り方を連れてやって来ることを承知しておられて、その場所に留まって祈っておられるのです。
 ですから、主イエスは十字架にかかる覚悟がなかったということではありません。主イエスはこの時、ご自身の死への恐れや死への悲しみを思って嘆いて苦しんでおられるのではないのです。そうではなく、ここでこの晩に主イエスが抱えておられた悲しみとは、ご自分の悲しみ苦しみを超えたもっと大きな重たいものでした。それらをすべて言い尽すことはできないと思いますが、しかし幾分かを言うとするならば、ここでの主イエスの嘆きの中には、間違いなく、弟子たちの弱さ、不甲斐なさというものが入っていただろうと思います。11人の弟子たちは、主イエスが祈っている間、「ここに留まって、共に祈っていてくれ」と言われました。ところが、弟子たちはほんの一時も目を覚していることができなくて、眠り込んでしまう弱さを抱えていたのです。
 弟子たちは、主イエスに対して冷淡だったわけではありません。心から主イエスを愛し、敬愛する先生だと思っているのです。ところが、敬愛する主イエスが自分たちの間から取り去られる、まさにその晩に、この弟子たちは目覚めていることができないのです。そして、主イエスはそういう弟子たちの肉体の弱さを深く憐れまれました。弟子たちに「あなたがたは、この世では、苦しんでいる人、悲しんでいる人たちのために慰めや執り成しを祈る必要があるのだよ。目を覚まして祈っていなさい」と教えられながら、しかし一方で、弟子たちの肉体が本当に弱いということをご存知で、その弱さを気遣われるのです。そして、38節には「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われました。この言葉は大変印象的な言葉なので、私たちは一度聞いたら忘れないことでしょう。しかし、この言葉で主イエスは一体何を弟子たちにおっしゃったのでしょうか。

 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われたのですから、弟子たちが、この世の様々な苦しみや悲しみに対して執り成しの祈りを捧げる人たちなのだということを言っておられるのは確かなのです。しかし、その後に「心は燃えても、肉体は弱い」と言われました。これは一体何を言っているのでしょうか。殊によると、誤解しますと主イエスの言われたことと全くあべこべの受け取り方をしてしまうかもしれないのです。「あなたの気持ち、心は一生懸命、神に向かうことがあるかもしれない。でも肉体は弱いのだから眠り込んでしまうのだ」と、主イエスがおっしゃったのだと理解してしまいますと、それは多分酷い誤解に繋がっていきます。「あなたは祈らなければいけない。けれども肉体は弱いのだ。そうすると、どうやって目覚めていたらよいのだろうか」ということになります。「どうせ肉体が弱いのだから眠り込んでしまう」と言われれば、多分、祈ろうとする意欲は薄らいでしまうだろうと思います。
 けれども、主イエスの言っておられることは、全く逆です。「あなたの霊が眠らないで燃えているときでも、肉体はなお弱さを負っているのだ。あなたは眠り込んでしまうものなのだ。だから、そういうことがあっても肉体の弱さに絶望しないで、目覚めていて主イエスに依り頼み続けるように」と教えておられるのがこの言葉です。生身を引きずっているのですから、私たちは時に眠り込んでしまう。それどころか、何度でも眠り込んでしまう。まさにこの晩の弟子たちがそうでした。主イエスの苦しみを前にして、起きていることができないのです。不甲斐ないと思ったと思います。2度目に主イエスが戻ってきたときに、弟子たちは何と言ったらよいのか分からなかったことが40節に記されています。「再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった」。本当に不甲斐ない、でも、眠り込んでしまう。
 もしも「心は燃えていても肉体は弱いのだから眠ってしまうのだ」ということが結論であるならば、そもそも「目を覚まして祈っていなさい」ということ自体が無理な要求だろうと思います。そうではなく、主イエスは、「あなたがたは、肉体が弱いので眠ってしまうことがある。でも、諦めるな」とおっしゃっているのです。

 そして、ここで主イエスが言ってくださったことは、実は聖書を超えて、私たち自身の信仰生活や教会生活を振り返っても、やはりそうだろうと思います。私たちは日曜日、主の日の礼拝に招かれ、ここで御言葉の説き明かしを受けます。それぞれに「わたしに分かった」と思う分に応じて、心を燃やされて家路に着きます。ところが、一週間、それぞれの場所で生活しているうちに、いつの間にか私たちは、御言葉から離れて自分の思いを先立たせて歩んでしまうようなところがあります。実は、私たち自身がまさしく、「心は燃えても肉体は弱い」ということを、一人一人、自分の身に経験しながら、この地上でキリスト者として生きているのです。では、私たちは「肉体は弱いのだから、主イエスに心燃やされることには意味がない」ということになるでしょうか。そうはならないのです。どうしてでしょうか。私たちのために主イエスが祈ってくださっているからです。それでも私たちは、なかなか目覚めていることはできないのですが、主イエスはそんな私たちのことを覚えて、ご自身の痛みや苦しみということを遥かに超えて、重いものを抱えながら祈ってくださっているのです。
 聖書の中の弟子たちも同じです。弟子たちは、3度、主イエスが戻られたとき、眠っています。3度目に戻られたとき、主イエスは言われました。41節「イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た』」。3度目に戻られて、まだ眠っている弟子たちを見て主イエスが「もうこれでいい」とおっしゃったと言われています。けれども、これは謎の言葉です。一体何が「これでいい」のでしょうか。どうしても目覚められないのなら眠りっぱなしでよいということなのでしょうか。そうではありません。「もうこれでいい」と訳されている言葉は、原文でみますと誠に不思議な言葉です。直訳するなら「領収済み。勘定は済ませた」と書いてあります。この場面で「勘定が済んだ」と言われても、ちょっと文脈が繋がりません。どう訳すべきかと悩んだあげく、「もうこれでいい」という訳になっているのです。「もうこれでいい」というのは、眠ってしまいがちな弟子たちを主イエスが深く憐れんで、嘆きながらも彼らの代わりに執り成しの祈りを捧げてくださっているからなのです。「本当は、あなたが祈るのだよ。でも、あなたはもう眠っている。その分わたしは祈っている。だから、あなたの勘定は済んでいるのだ」、それが「いいのだ」という言葉の内容なのです。
 本当であれば、十字架に向かっている主イエスが「ここで目を覚して共に祈っていなさい」と言われたのですから、弟子たちは一緒に祈っているべきなのです。けれども、弟子たちは誘惑に負けて祈れない。その不甲斐なさ、情けなさ、あるいは冷酷さを主イエスはよくご存知です。そして、主イエスは逆に、そういう不甲斐なく、主イエスに同情できない冷たい弟子たちのことを深く憐れんで、執り成しの祈りを捧げてくださっているのです。「わたしがあなたのために祈った、だから大丈夫だ」とおっしゃっているのです。
 ここで、最後の時まで主イエスは一人で祈られ、今やその時がやって来るのです。イスカリオテのユダがやって来て、主イエスは敵の手に落ちます。そして、十字架に架けられ殺されていきます。けれども、その十字架の時というのは、主イエスがまさしく全ての人の贖いとなって、十字架高くに掲げられ、人間の罪ゆえの弱さも過ちも、全部、その上で滅ぼしてくださる勝利の時なのです。主イエスがそういうお方として、上から栄光をお受けになる。特別に顧みられる時でもあるのです。

 十字架にお架かりになる主イエスが、祈ることのできない弟子たちを憐れみ、その弟子たちを覚えて、代わりに祈っていてくださる。私たちは、主イエスが最後まで、十字架上で、私たちのために祈ってくださったという言葉を知っているはずです。「主よ、彼らをお許しください。何をしているのか分からないでいるのです」。私たちはまさに、主イエスがどんなに私たちの真実の姿を深刻に受け止めておられるのかということを、聖書から知らされるようにとされているのです。そして主イエスは、ご自身の十字架によって、その負債を全部支払ってくださる。「勘定は済んでいる。このわたしがあなたのために祈っている」とおっしゃってくださっているのです。そういう意味で「もうこれでいい。あなたはわたしの祈りのもとにあるのだから」と言ってくださっているのです。それは、眠り込むのがよいことだと認められているということではありません。私たちは眠り込むことはあるかもしれない。けれども「主イエスのゲツセマネの祈りに執り成されている。最後まで確かに覚えられている」、それが「いいのだ」と言われていることです。

 キリスト者は誘惑に負けないよう、この世の生活の中で目覚めて祈る務めに召されています。祈りの中で、自分自身について、また私たちが生きている世界全体についても、隣人についても、その全てを祈りによって神の御手に委ねる、そういう務めを私たちは一人一人与えられています。ところが、私たちはなかなか祈れません。祈らなくても自分で何とかできてしまうかのように、安易に思ってしまうところがたくさんあります。祈るべきとき、祈らなければならないことを祈れないのです。そして、神の御旨に従って生きていくべきなのに、自分の思いばかりを先立たせてしまうのです。
 「主イエスは、あなたのために十字架に架かられた」と聞かされても、私たちはその時には分かったつもりになるのですが、しばらく時間が経つと、そんなことは自分には関わりがなかったかのように思ってしまう。なかなか、以前からの自分中心の生き方から、私たちは抜け出せないのです。けれども、主イエスはそういう私たちを憐れんで、気遣ってくださいます。「あなたたちは肉体が弱い。でも、あなたのために祈っている」という祈りを弟子たちの前で示してくださいました。それがこのゲツセマネの祈りなのです。

 主イエスがこの晩、ご自身の血を流すほどに祈ってくださったと言ってよいと思いますが、そのようにして祈ってくださったので、ここにいる私たちは、自分の人生が深刻な局面に差し掛かるときに、極めて大きな武器を与えられているということも、事実だと思います。
 私たちがそれぞれに深刻な出来事に出遭う。見通しもはっきりしない。そんな時には「神さま、わたしは今、自分が願っていることが思い通りに運ぶのかどうか分からずに、不安な気持ちでいっぱいです。でもどうか、神さま、わたしの思い通りにではなくて、神さまの御心に最も良いことを行ってください。そしてどうか、わたしに、あなたのなさる御業を受け入れ受け止めることができる落ち着きを与えてください」と、私たちは本当に追い込まれると、こういう祈りをしていくだろうと思います。そして、そういう祈りを祈ることで、実は平安を与えられます。与えられている人生を、「これは神から与えられた人生なのだ」と信じて生きていくことができるようにされる、そういう経験をしている方は少なくないと思います。しかしそれは、まさしく、主イエス・キリストがゲツセマネで、弟子たちを覚え、血の汗を流しながら懸命に祈っていてくださっていることの直接の結果なのです。

 この晩、主イエスは、ご自分の死が嫌で、そうならないようにと、ご自分のために祈られたのではありません。そうではなく、弟子たちの不信仰を悲しみ、そして弟子たちが本当に真の神への信頼に生きるようになるようにと、ゲツセマネの園で祈ってくださいました。その祈りが、「わたしの思いのままではなく、御心のままになさってください」という言葉の中に現れているのです。
 私たちの今日の信仰生活も、この主イエス・キリストの執り成しの祈りのもとに置かれているのだということを覚えたいと思います。そして、私たち自身、この主の祈りに励まされながら、慰められながら、諦めずに、自分についても、この世界についても執り成しを祈り続ける者とされたいと願います。

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