聖書のみことば
2017年3月
  3月5日 3月12日 3月19日 3月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月19日主日礼拝音声

 裁判
2017年3月第3主日礼拝 2017年3月19日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第15章1節〜15節

15章<1節>夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。<2節>ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。<3節>そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。<4節>ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」<5節>しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。<6節>ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。<7節>さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。<8節>群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。<9節>そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。<10節>祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。<11節>祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。<12節>そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。<13節>群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」<14節>ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。<15節>ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 ただ今、マルコによる福音書15章1節から15節までをご一緒にお聞きしました。1節2節に「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』と答えられた」とあります。

 主イエスを有罪と裁いて処刑することを決めた裁判は、マルコによる福音書によると3回開かれたことが知られています。第1回目の裁きは木曜日の夜、主イエスが逮捕されて間も無く開かれました。逮捕自体が、日が暮れて夕食を摂った後のことでしたから、当然のこと、第1回の裁判は夜間に開かれたことになります。そして、そこでまず「死刑」が宣告されました。今日は読みませんでしたが、14章63節64節にその場面が語られています。「大祭司は、衣を引き裂きながら言った。『これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。』一同は、死刑にすべきだと決議した」とあります。これは、大祭司の屋敷で開かれた最高法院の会議です。最高法院が、非公式に夜間に召集されたわけですが、実は最高法院というものは、夜間に会議を召集することも夜間に判決を下すことも禁止されていたと言われています。夜間は暗闇の力が勢力を増す時であり、多くのユダヤ人たちが知らないところで一握りの人が物事を決することは神の御心に適わないと考えられており、「夜間の裁判はあってはならない」とされていました。ところが、主イエスの敵対者たちは、まさにその禁じ手である夜間の会議を開いて、主イエスを有罪とし死刑判決を下します。ゲツセマネの逮捕から恐らく10時間足らずのうちに、この判決が下されているのです。
 このように裁判を急いだ理由は、祭司長たちを始めとする最高本院の幹部たちの中で、最初から主イエスを処刑することが決まっていた「結論ありき」の裁判だったということが一つあります。もう一つは、ちょうど過越の祭りの時でしたから、各地からエルサレム巡礼のためにやって来ていた大勢のユダヤ人たちに、主イエスの逮捕と処刑が知られないように、裁判を急いだのです。いずれにせよ、この夜間の裁判の場において「主イエスを死刑にする」という基本的な方向性が定まりました。祭司長たちや最高法院の幹部たちは、人目を気にしながら、この死刑判決を速やかに実行しようとします。
 しかし、実際に主イエスを処刑するためには幾つか越えるべきハードルがありました。その最初が夜間の会議です。これは公には認められない会議ですから、この会議での判決は有効ではありません。そのために、彼らは夜明けを待ちました。そして、夜明けと共に第2回目の会議が召集され、前夜の結論が大急ぎで可決され、主イエスの身柄をローマ総督のピラトのもとに送ることが決められました。この第2回目の会議は、召集と言っても議員たちは前夜から大祭司の官邸に集められていますから、場所を最高本院へと移動しただけでしたので、この会議はとても素早く決しました。言わば、昼間に会議を行ったという形式を整えるためだけに開かれた裁判でした。そして、この会議が終わるとすぐに、主イエスは縄を打たれてピラトのもとに引いて行かれ、第3回目の裁判に臨むということになるのです。これが、15章1節に「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した」と語られていることの経緯です。「最高法院全体で相談した後」とありますように、第2回目は本当に簡単な裁判だったことが分かります。

 さてここには、「主イエスを十字架刑にしてもらうためにピラトに引き渡した」と言われていますが、この時に、主イエスの敵対者たちは、ある「ごまかし」を行いました。それは、主イエスを死刑にする理由、口実を、前夜と少しだけ変えたのです。第1回目の死刑判決の理由は何であったか、14章61節62節に「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、『お前はほむべき方の子、メシアなのか』と言った。イエスは言われた。『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。』」とあります。それは主イエスご自身が「自分はメシアである」と認め、「神の右の座に着く者だ」と言われたこの発言が、神を冒涜しているというものでした。この言葉を決め手として、63節に「大祭司は、衣を引き裂きながら言った。『これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。』一同は、死刑にすべきだと決議した」と言われています。ですから、主イエスが最初の裁判で有罪にされ死刑が確定する理由というのは、宗教的な理由です。 宗教的な理由と言っても、主イエスはまさにご自身が神の独り子、救い主メシアなのですから、「お前はメシアなのか」と尋ねられて、主イエスが「そうです」と答えても、「わたしは人の子であって、神の右に座する者だ」とお答えになっても、それは本当のことであって、汚し事は何も言っておられません。けれども、主イエスをメシアだと認めない人たちにとっては、主イエスがおっしゃったことは並外れて尊大な汚し事だということになるのです。そしてそれ故に、主イエスは死刑に相当すると判断されたのです。ですから、最高法院の死刑判決の理由は、主イエスがご自身を神と並ぶ者と称した神冒涜という宗教的な理由です。

 このように最高法院ではそういう判決が下ったのですが、ピラトが総督を務めているローマ帝国当局は、ユダヤ人の宗教的な事柄には一切立ち入った判断をしないのです。財産が奪われたり人命が損なわれたりする世俗的な事件や、あるいはローマ帝国に対する謀反の企てに対しては容赦なく裁判を行いますが、ユダヤ人同士の宗教的な事柄についてはユダヤ人の中でというのが、ローマ帝国のスタンスです。しかし、ユダヤ人の最高法院は、処刑する権限を持っていません。ですから、最高法院が前の晩のままの判決をピラトのもとに持って行き、「この人は神を冒涜したから死に値する。だから処刑してくれ」と訴えても、ピラトはそれを関知せず、受け付けないのです。宗教的なものはピラトの法廷にそぐわないとして、門前払いされる可能性が多分にありました。
 それで、ユダヤ人たちは、「このイエスは、ローマ帝国に対する謀反を企てているのだ」と話をすり替えました。主イエスはご自身をメシアであると言われましたが、それはいわゆる政治的にローマ帝国の支配を転覆させようとする、そういう意味合いでのメシアではありませんでした。けれども、ただ神を冒涜する言葉を言ったということだけでは死刑にできませんので、自らをメシアだと言ったということは即ちローマ帝国からイスラエルを解放する「ユダヤ人の王」を名乗るような不逞な輩だとして、ピラトに主イエスを突き出したのです。

 ピラトが最高法院のこの訴えをどこまで真剣に受け止めたのかについては、はっきりしませんが、実際に連れて来られた主イエスを見て、ピラトはさほどの恐れも脅威も感じなかったらしいことは2節の言葉から分かります。2節に「ピラトがイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』と答えられた」とあります。目の前に連れて来られた主イエスにピラトは目を注ぎます。人々はいろいろと罪状を述べ立てますが、ピラトにはどうも合点がいきません。縄を打たれた貧相な若者が、本当にローマ帝国への反逆、転覆を企てている人のようには思えないのです。ピラトも飾り物のような無能な総督ではありません。ピラトはピラトなりに、エルサレム各地に協力者を持ち、ピラトなりの情報網を張り巡らしています。そういうピラトの情報源によれば、この日の時点で、暴動が起こりそうな深刻な兆しはどこにもありませんでした。深刻な兆しがないからこそ、ピラトは今、エルサレムにいるとも言えます。私たちは、裁判がエルサレムで行われていますからピラトはエルサレムにいると思っていますが、ピラトが普段暮らしていたのは海沿いの港町カイサリアの駐屯地です。過越祭のようにユダヤ人たちが集まってくる時期になると、そこで不測の事態が起こらないように、兵隊を連れてエルサレムまで出張してきている、それがこの時のピラトです。ここでピラトのもとに連れて行ったというのは、ピラトの宿泊先ですが、そんなことができるのは、不穏な動きの情報がないと判断しているからです。ユダヤ人が何万と集まっている中に、武装しているとしてもピラトが連れて行けるのはたかだか数千の兵です。数千の兵で神殿の警備をしていたとしても、もしそこで暴動でも起ころうものなら、その兵力では太刀打ちできるはずがありません。ですから、ピラトはせいぜい警備のようなつもりで来ており、暴動が起こるとは考えていないのでエルサレムにいるのです。この時点でピラトは、不穏な気配を感じていません。もし、祭司長たちが主張するような謀反の企てがあったとすれば、ピラトはこのように易々と無防備にユダヤ人たちの前に現れたりはしないのです。

 それで、ピラトは主イエスが謀反の首謀者だと言って連れて来られても、簡単には同意しませんでした。取り敢えず、自分で尋問します。そして、この尋問によってピラトは、いよいよ謎を深めることになってしまいます。
 ピラトは単刀直入に「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねました。「ユダヤ人の王と自称している」との訴えを受けてのことです。ピラトはこう尋ねることで、実際に自分の目の前に連れて来られた人が本当に謀反を企んでいるのか、そうではないのかの判断が、ある程度できると思っていたようです。どうしてこんな単純な問いでそれが分かるのでしょうか。恐らくピラトは、2つほどの反応を予測していました。もしこの人物が謀反を起こすつもりのない一般のユダヤ人であれば、懸命に自分の無実を訴えるに違いありません。あるいは、もし本当に謀反を企んで、その上で捕らえられたのであれば、必ず見ているはずの謀反の同志たちの前で無実を訴え命乞いするような情けないことはできません。ローマ帝国のひどい圧迫を滔々と述べ、また自分は死んでも同志たちが必ずローマ帝国の支配を打ち破ると、正面からローマを罵るに違いありません。要するにピラトにしてみれば、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねることで、このどちらに近い返事をするかによって判断できると思っていたのです。
 ところが、ピラトは主イエスの不思議な答えを聞くことになりました。「それは、あなたが言っていることです」という答えです。これは容疑を否定している言葉ではありません。「あなたがそれを言った」とも訳されますが、ピラトはこの答えに混乱します。無実であれば否定するはず、事実があるならばローマを攻撃するはず、なのにこの人物は、「あなたがそう言うのならば、そうでしょう」という感じの答えをしました。ピラトは、この答えは打ち消している答えではないので、そうであればこの人物は謀反人だろうかと考えています。けれども、もし本当に謀反を企んでいるのであれば自分の立場を主張するはずですが、一切主張していません。それで、ピラトは大変困ってしまいました。
 この人物は「ユダヤ人の王」であると言って捕らえられ、連れて来られました。ローマ帝国への反逆者だとの疑いをかけられているのに、しかし、全く容疑事実を争おうとしないで、「あなたがそう言うのであれば、どうぞ、あなたの意見に任せます」と言います。これは多分、今日の裁判でも同様だと思いますが、もし起訴事実や容疑事実を争わないならば、その事実は相手の訴えの通りになると思います。黙秘権という権利はありますが、しかしもし、黙秘という戦術を最初から最後まで貫いたならばどうなるでしょうか。それは結局、相手の主張を黙認したということになるのです。裁判が終わってから、「自分は相手の意見に同意したわけではないが、ただ黙っていたのだ」と言っても、もう手遅れです。もし同意できないのであれば、裁判の場で「同意できない」という立場を主張しなければならないのです。
 ところが、主イエスはそれをなさいませんでした。主イエスが自分の立場を主張しないのであれば、相手が言った通りに全てが動いていくことになります。裁判官役であるピラトとすれば、一方的に、主イエスを訴えている側の訴えばかりを聞かされることになります。そして、それに基づいた判断を下さなければなりません。相手方は、「主イエスがユダヤ人の王だと主張した」と訴えているのですから、それを覆さず事実として認定するのであれば、このイエスは謀反人として処刑される他なくなるということになります。

 ピラトにはそういうことが分かっていますから、現在の立場がイエスという男にとって大変不利であることを分からせようとして、更に尋問します。3節から6節に「そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。『何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。』しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った」とあります。ピラトは、この時のイエスの有り様を本当に不思議に思いました。しかし恐らく、不思議に思うのはピラトだけではないだろうと思います。私たちも不思議に思うのではないでしょうか。一体どうして、この重大な局面で、主イエスはご自分の立場を主張なさらないのでしょうか。
 ピラトの前での主イエスの裁判について、私たちは、この前半ではなく後半の、群衆が祭司長たちに扇動されて「十字架につけろ」と叫ぶ場面の方にばかり気を取られるようなところがあります。もう一人の囚人バラバが許され、主イエスが十字架に付けられるという、そちらの印象が強いので、「主イエスが黙っておられる」ということについては、あまり気にしていないかもしれません。けれども、この点について考えてみたいのです。一体どうして、この重大な局面で、主イエスは黙ってしまわれたのでしょうか。それは、この時、主イエスが「一切を神の御手に委ねておられた」からです。神の御手に全てを委ねておられるが故に、主イエスは何も言わず、沈黙を貫かれたのです。
 先に、ゲツセマネの祈りの箇所を聴きました。あの時に、主イエスは最後にどういう祈りに導かれたでしょうか。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。主イエスは、神の前で非常に激しい祈りを祈られ、一番最後には「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という祈りに導かれていました。そうであるからこそ、今日のところで、ご自身の立場を主張なさらないのです。主イエスはここで、ただひたすら「神がわたしに、ここから備えておられる道に歩もう」と決めておられます。
 そして、そういう主イエスの有り様が、ピラトには大変奇妙に映ったのです。ピラトは「このままでは処刑されることが目に見えているのに、なぜこの人は自分の立場を主張しないのだろうか」と不思議に思いました。それは考えてみれば、ピラトが、人間というものについて「人とは、いつも自分のことしか考えられない者なのだ」と思っていたからです。「人生とは、自分の思いが実現するためのものである。自分の思いを実現するために、人は生きるのだ」と思っている人が自分の立場を主張しないなどということは、ピラトには考えられないのです。「自分の思いより神の御心が実現することの方が、はるかに重大である。神の御心をこそ、このわたしに実現しますように」と願い求めて生きる人生というものがあるということを、ピラトは微塵も考えていないのです。しかし、実際問題として、今ピラトの目の前に連れて来られている主イエスは、「わたしの思いではなく、御心のままになりますように」という祈りを持って、そういう思いを持って、この裁判に臨んでおられるのです。

 主イエスがそのように「神の御心に従おう」という思いを持つことができた理由、それは「主イエスが神の独り子であって、主イエスの中に神の霊が宿って、神の御心を正しく弁えている」ということがあったからです。「主イエスの中に神の霊が宿っている」ということは、かつて、ヨルダン川で主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたその時に、証しされていたことでした。マルコによる福音書1 章9節から11節に「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。主イエスがヨハネから洗礼をお受けになって、そこから主イエスの公生涯が始まります。公生涯の最初のところで、主イエスはご自分の上に「聖霊が働いている」ことを自覚しておられたと語られています。「自分は聖霊の働きによって動かされている。自分は神の霊に従って生きていく」と自覚しておられ、この時以来、主イエスは、ご自身の思いに従って生きるのではなく、聖霊の示しに従って神の御心に適うことを行おうとして歩んで来られたのです。考えてみますと、主イエスのゲツセマネの祈りは、「公生涯の始まりに示された歩みを最後まで貫けますように」という祈りを与えられた出来事だったと言ってよいと思います。
 そしてまた、主イエスの洗礼の出来事で最も大事な点は、主イエスの洗礼ということが、「敢えて、罪ある他の人間たちと同じ立場に立つ」という意味を持っていたということです。この世で大きなことをしたいと望む人は、何とかして他の人たちより抜きん出ようとします。自分が一目置かれる特別な存在でありたいと願います。ところが主イエスは、特別になろうとはなさらないのです。むしろ、ご自身が他の人と同じであってこそ、他の人たちに救いをもたらすことができるのだとお考えになったのです。もし主イエスが、神の御子としての特別な者であることを主張するために生きておられるのであれば、洗礼など受ける必要はなかったでしょう。「わたしは神の子である」と言えば済んだはずです。けれども、主イエスはわざわざヨハネから「罪を悔い改める洗礼」を受けて、そして「罪を悔い改め、神の前に赦されて生きなければいけない」そういう人間の中に立ってくださったのです。神を忘れ、事あるごとに神抜きで生きてしまいがちな私たち罪ある人間と、主イエスは同じ立場に立って、そういう人間の罪をご自身がその身に引き受けてくださる、そういう仕方で人間の罪を清算することが神の御心だと確信しておられたのです。主イエスは、そういう仕方で救い主メシアであろうとなさいました。

 しかし、こういう主イエスの救いが本当のこととして実現していくためには、どうしても避けて通れないものがあるのです。それは何か。たとえ主イエスが人間の身代わりに罪を引き受けて十字架に架かられたとしても、もし私たちが「自分には関係ない」と思っていたとすれば、私たちは結局、主イエスの十字架と何の関わりもないまま生きてしまうことになります。「あの十字架に架かった主イエスこそ救い主であって、このわたしの罪を十字架の上で背負ってくださったのだ。わたしの代わりに十字架に架かって死んでくださった。だから、わたしは今ここで、主イエスによって赦しを与えられて生きている」、このことをもし信じないならば、救い主としての主イエスの御業はただの犬死になってしまいます。「主イエスこそが自分の救い主であると信じる」ことが、主イエスの御業には必要なことなのです。
 主イエスが連れて来られて、ピラトが「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねた時に、主イエスは、まさにそこに「信仰に繋がる響きがある」ということを聴き取られました。聴き取られたので、「それは、あなたが言っていることです」と返事をされました。「あなたは今、それを言った」とおっしゃるのです。ピラトであろうと、他の誰であろうと、まさに「主イエスこそが自分の王であり、主であり、救い主である」と信じ、言い表すことで初めて、そこに救いがもたらされてくるのです。ですから、大変思いがけないことですが、この裁判の場面で主イエスは、ピラトを救いに導き入れようとしておられるのです。
 ピラトが聞かされていたことは、元々の裁判とは少し違った訴えであったことを先に話しました。もともとユダヤの最高法院は、主イエスが「自分はメシアであり、神の右に座す者だ」と言ったことが冒涜だとして死に値すると決しました。ところが彼らは、ピラトに向かっては「ユダヤ人の王と自称している、ローマ支配に抵抗して暴動を起こそうとする首謀者なので死刑である」と訴えました。ピラトはそれに基づいて「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねました。しかし、主イエスは実は、ピラトから「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねられた時に、そこに「これはメシアということに繋がりがあることを尋ねている」と感じ取られるのです。そして、ピラトが尋ねていることに対して、「あなたは今、とても大事なことを言っている」とお答えになるのです。
 もしピラトがこの時に、目の前にいる主イエスの中に「救い主を見出したい。自分の王を見出したい」という気持ちがあって、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねたのであれば、主イエスの答えはピラトにとって非常によく理解できる答えになったはずです。「あなたは本当に、わたしの王なのですか。わたしの救い主なのですか」という問いに対して、「あなたが今、それを言ったのだ」と言われたならば、「ああ、そう信じて良いのですね」と答えることができたに違いありません。「わたしは信じます」という告白がここに起こった可能性もあったのです。
 ところが残念なことに、ピラトはそのような思いで尋ねているのではありませんでした。「人間は皆、自分の思いを実現するために生きるのだ」と思い込んでいますから、「神を信じて生きることが大事だ」とは全く思わずに、主イエスを尋問するのです。ですから、主イエスの答えを聞いてもピラトには何のことか分かりませんでした。

 さて、ピラトに対して主イエスがこのようにお答えになったのだと聖書から聞かされるのであれば、私たち自身はどうなのでしょうか。私たち自身も主イエスに向かって「あなたはどなたなのですか」と尋ねる時があるかもしれません。
 一度信仰を告白してキリスト者になったら、もうその後は一生の間、何の変わりもなく信仰を持ち続けられるかというと、信仰というのは人間の信仰ですから破れがあると言えばそうですが、しかし、最初に信仰を言い表した時のような思いを一生の間持ち続けることができるかというと、なかなかそうは行かないだろうと思います。私たちは様々な出来事に遭遇する時に、ふと自分が本当に「主イエスを信じているのか」分からなくなるということもあるかもしれないのです。そういう時には、大変辛く苦しい思いの中で、主イエスに尋ねます。「イエスさま、あなたは本当にわたしの主なのですか」と。そして「そうです」と言って欲しいのです。けれども、主イエスはそうはおっしゃいません。「あなたがそう言っているのだよ」とおっしゃるのです。どうしてでしょうか。それは、私たちの信仰が問題だからです。「あなたがわたしの主なのですか」と尋ねている、そういう自分自身に私たちは気づかなければなりません。私たちの信仰は、いつでも見事に「あの主イエスこそが、わたしの救い主です」と言えるということだけが信仰の表現であるとは限らないのです。むしろ本当に、悩みや疑いや恐れを持ちながら、「イエスさま、あなたはわたしの主なのですか」と尋ねるという仕方で、私たちは自分自身の信仰を言い表している場合が有り得るのです。そして主イエスは「あなたはまさに、それを言っている。それを言っているのはあなただよ」と言ってくださるのです。「十字架にお架かりになった方、あのナザレのイエスと呼ばれていた方、あの方が本当にわたしの主なのでしょうか」と私たちが尋ねる時に、「あなたはまさに、今、そう言っているのだよ」と言ってくださるのです。

 主イエスは私たちのために、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、私たち人間の只中に立ってくださいました。疑いを持ったり、苦しんだり悩んだりする、そういう人間の列の中に、主イエスも共にいてくださり、そして「共にある方」として私たちを導こうとしてくださるのです。私たちが鮮やかに「十字架の主イエスこそ、私たちの主です」と言える時だけの「主」なのではありません。私たちが悩んだり、傷ついたり迷ったり苦しんだりする時に、「主イエスよ、あなたがわたしの主なのですか」と尋ねる中に、主イエスは「わたしは、あなたがそう言っているのを聞いているよ」と言ってくださるのです。

 主イエスは、ピラトが再び尋ねた時には、「もはや何もお答えにならなかった」と聖書は語っています。ピラトは、主イエスに本当に救い主を見出そうとしていなかったために、この主の沈黙の意味が分からず、不思議に思うだけで終わってしまいました。しかしこの沈黙は、私たちが主イエスに対して信仰を言い表すために、主イエスが黙っておられる、そういう沈黙なのです。主イエスが黙られる時に、私たちは、自分自身が様々に悩んだり疑ったりしながらも、しかし「主よ、わたしはあなたに呼びかけます」と言い、そして「あなたこそが、わたしの主です」と言い表すことができます。主イエスは、私たちのこのような信仰の言葉を、ご自身の言葉で埋めたりなさらないのです。私たちがそれぞれに、疑いを抱えながらも、迷いを抱えながらも、「今ある姿で主イエスに信頼を寄せていく」、そのようなあり方を喜んでくださいます。私たちが負っている罪を主イエスが背負ってくださって、十字架で清算してくださるのです。
 迷いが無くなった時に信仰を告白できるのではないと思います。迷いながら、恐れながら、しかし、「主イエスが今日、わたしと共に歩んでくださっている」、そういう救い主が私たちに伴っていてくださることを感謝して、ここから歩み出したいと願います。

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