聖書のみことば
2017年2月
  2月5日 2月12日 2月19日 2月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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2月19日主日礼拝音声

 憐れみの主
2017年2月第3主日礼拝 2017年2月19日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第9章35節〜38節

9章<35節>イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。<36節>また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。<37節>そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。<38節>だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 ただ今、マタイによる福音書第9章35節から38節までをご一緒にお読みしました。35節に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」とあります。主イエスがガリラヤ地方の町や村を巡って民を顧みてくださったということが、ここに述べられています。
 この言葉は、実は4章23節で、ほとんど同じことが述べられていました。4章23節には「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」とあります。4章と9章を比べますと、違いは、4章ではガリラヤという地名が出てきますが9章では出て来ないということくらいで、内容的には全く同じことが言われている、そういう書き方です。これは、この福音書を書いたマタイが恐らく意図して、このように仕掛けをして書いています。
 この福音書を初めから続けて読みますと、今日の箇所まで来たところで、記憶力の良い人であれば、「これは前に聞いた話と同じだ」と気づくことになります。そして前に戻って4章23節を見つけます。そうしますと、「4章と9章の間に挟まれているところには、一体どんなことが語られたのだろうか」と考えるようになります。何が語られていたのかを思い返しますと、4章23節は5章の直前で、結局5章から9章までが間にあるのですが、その前半の5章から7章は、主イエスが山に登り弟子たちや群衆に教えられた、いわゆる「山上の説教」で、「主イエスの教え」が語られているところです。これは4章でも9章でも、「御国の福音を宣べ伝え」とありますように、「主イエスが言葉で神の国の訪れを伝えておられた」ことを語っている箇所です。
 その後の8章9章では何が語られていたでしょうか。主イエスがさまざまな奇跡をなさったことです。主イエスは、次々に連れて来られる病気や悪霊に苦しめられている人々を癒されました。4章23節、9章35節に共に記されている「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」ということが、8章9章に語られていたことでした。
 よく言われることですが、マタイによる福音書5章から7章には「説教するメシア」すなわち「言葉による救い主」がおられ、8章から9章には「癒しのメシア」すなわち「業による救い主」がおられると言われます。「教えによる救いをもたらすメシア」として描かれている前半と、そして「実際に人々に仕え、癒やしの業に従事してくださる方」として描かれている後半部分、これらを前と後ろから囲み込むようにして4章23節、9章35節が語られていることになります。9章35節で言いますと「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」ということですが、そう考えますと、4章23節は、その後の5章から9章にかけて縷々語られていることを一言で言い表した表題として、マタイが書いたと言ってもよいと思います。同じことを逆から言うならば、5章から9章に語られている内容は、4章23節で何気なく一言で述べられている事柄を事細かに物語って聞かせたものだと言えます。そして、それは実は、主イエスの地上でのご生涯の現実、実際のところを告げ知らせていることなのです。つまり主イエスというお方は、この地上でのご生涯の間、救い主として働いてくださったのですが、その一つは「御国の福音を人々に告げ知らせる」という教えによる救いを人々にもたらされ、そしてまた、そこに語られている福音の通りに「不思議な癒やしと慰めの御業が起こる」という仕方で、弟子たちや群衆たちに仕えてくださっていたのであり、それが主イエスの地上でのご生涯であったと言えます。

 そしてこのことは、主イエスが不思議なお方だったということだけではなく、今日の教会にも受け継がれて、私たちが教会生活の中で実際に経験させられることに重なっている、そう言ってもよいと思います。
 すなわち、教会では一体何が行われているのでしょうか。主の日ごとに聖書が朗読され、御言葉が説き明かされることで「御国の福音が告げ知らされて」います。「この地上で私たちは、自分たちだけで生きているのではなく、神が私たちを顧みてくださっていて、私たちの日々の生活を支えてくださっている。私たちは今、甦りの主のもとにこの地上で生活することが許されている」、この福音を、私たちは、週ごとに礼拝の中で聞かされています。そしてそのことは、単に口先だけの教えに留まっているのではありません。実際に教会に連ならされている私たち一人ひとりを通して、大きな慰めと癒やしが実際に生まれ、それが兄弟姉妹の間に持ち運ばれています。更には教会の隔てを超えて、この世に生きている大勢の人たちにも、キリスト者一人ひとりが主イエスの慰めや癒やしを持ち運んでいくということが起こっているのです。
 そして、そういう「主イエスのもとにある生活」とはどういうものなのかということが事細かに語られていたのが、5章から9章の箇所だったと言ってよいのです。今日は9章の終わりですが、「主イエスのもとにある生活」がもう一度、要約されるような形で聞き取られていきます。そしてまたそれは、10 章以降で聞いていくことになる単元の導入となっていきます。10章で語られていることは何でしょうか。「弟子たちがこの世に向かって主イエスのもとから送り出されていく」、そういう「派遣」の話です。弟子たちが主イエスのもとに招かれて御国の福音を聞かされ、主イエスによって癒され慰められ、清められ強くされる。決してそれは、そこだけに留まる話ではありません。自己完結してそこで終わるということではないのです。そこから今度は、「この世の生活に、主イエスによって遣わされていく」ということが続いていく、それが10章に語られていくことです。これも、私たちの礼拝と同じだろうと思います。私たちは毎週この場所に集まって、御言葉に聞いて、慰めと勇気を与えられます。そしてまた、兄弟姉妹の交わりの中で本当に癒され、励まされ、力をいただきます。しかしだからと言って、教会の中で出家した共同体として自分たちだけで生きるというのではありません。礼拝が終わると、この場所から、それぞれに与えられているこの世の持ち場へと遣わされていきます。

 今日の箇所は「遣わされていく」ということがこれから起こる準備、土台となっている箇所ですが、どうして遣わされることが起こるのかということが語られています。それは、主イエスが町や村を残らず回ってくださって、そこでご覧になったことに関係しているのだと言われています。主イエスが、出会われた群衆たちが弱り果て、打ちひしがれている様子をご覧になって非常に強く心を動かされた、それが、弟子たちが送り出され遣わされていく元々の理由であると言われています。36節に「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。方々の町や村を巡り歩いて主イエスがご覧になったもの、それは、単にいろいろな点で足りないところが多くて未熟なためにヘマばかりしている、それで人生の道行きに思い悩んでいる人間の姿などというものではありませんでした。それよりはるかに深刻な、悲惨な姿をご覧になったのだと言われています。
 それは一言で言えば、何の保護もないままに放置されて、ひどく傷つけられ、絶望的なまでに傷んでいる人間の姿です。36節の言葉で言えば、群衆が「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた」のです。主イエスは町々村々を訪ねて、いろいろな人たちに出会われました。その人たちは主イエスから御国の福音を聞きたいと思って、主イエスの後を追いかけてくる人たちです。あるいは癒されることなく自分ではどうしようもなくうずくまって途方に暮れている人たちです。主イエスはそういう人たちに出会われて、御国の福音を聞かせ、そして、癒しの業に仕えてくださいました。そういう中で、人間がどんなに弱り果てているか、また、打ちひしがれているかをご覧になったことが語られています。
 「弱り果て」と翻訳されていますが、元々のギリシャ語で読みますと「皮を剥がれてずたずたに切り裂かれる」という言葉から派生した、非常に強い言葉です。つまり羊がそんな目に遭っているというのです。羊はヤギと同じ祖先から進化した動物ですが、ずっと昔に人間の家畜となり、人間の保護のもとに何世代にもわたって繁殖を繰り返してきた動物です。ずっと家畜でしたから、羊の場合には野生がすっかり後退して、羊飼いが導いてくれなければ、どちらに行ったら安全か、どちらに食べ物があるか、自分では分からなくなっているのです。そういう羊が不運にも羊飼いとはぐれるとどうなるか。自分では仲間の群がどこにいるのか見当をつけて見つけ出すということはできません。荒れ野や野山を彷徨うことになり、荊にひっかかって皮が破れ、棘に刺されて身体中から血がにじむという痛ましい姿になる。それがここに「弱り果て」と言われている姿です。皮が破れ肉が裂けている、人間がそういう姿でいるのを、主イエスはご覧になったのです。私たちもまた、この羊のようなところがあるのだと聖書は言っています。私たちはいろいろと考えたり直感したりしますが、それでも将来を見通すことはできません。あるいは、良かれと思ってしたことでも、すべてに弁えがあるわけではないために深く傷ついて行き詰まって、絶望的な憂いに閉じ込められてしまうこともあるのです。
 また、「打ちひしがれて」という言葉は、「投げやられ、打ち捨てられている」という言葉です。深く傷ついて大怪我をしながらも自分で手当てすることもできないまま、荊の中に打ち捨てられているような、そうやって横たわっているような人間の現実を、主イエスはご覧になりました。そして主イエスは、そういう人間の辛い現実をご覧になりながら、「この人たちはまるで飼い主から見捨てられた羊のようだ」とお感じになったのです。

 「飼い主のいない羊のようだ」という言葉は印象的な言葉ですが、この言い方はマタイが創作したのでも、主イエスが思いつかれたのでもありません。もともとは旧約聖書の中で、「保護してくれる者を失って艱難辛苦に耐えなければいけない」そういう「イスラエルの民」のことをこう述べている箇所があり、主イエスはその旧約聖書の言葉を思い出しながら、まさに目の前にいる人たちの現実はイスラエルの民に言われていた通りの姿であると思われたということです。羊飼いから見捨てられた羊たちの箇所は、旧約聖書を探すと何箇所もありますが、例えば、エゼキエル書34章2節から5節には「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」とあります。ここではイスラエルの民が羊の群れに譬えられています。イスラエルの民があらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになったと言われています。これはイスラエルの人たちが外国の勢力によって散々に踏みにじられたということを言い表しています。
 そして、そうなってしまったのは、羊の群れを牧していく牧者たちのせいであると、群れの牧者の責任が糾弾されています。イスラエルの牧者とは誰のことを言っているのでしょうか。歴代の王たちや大祭司たちのことです。こういう立場にある人たちは、本当ならばイスラエルの民を相応しく導いて、一人ひとりを神にまっすぐに向かわせる、神に従って生活するように教えたり、慰めたり励ましたりして生活を整えていくという務めを負っていました。ところが現実的には、王や大祭司たちは、肥えた動物を屠って食べたり、その毛皮を着る、乳を飲むなど、群れを利用して自分が豊かになる術は心得ていますが、しかし、群れの一人ひとりのためには指一本動かそうとしなかったのだと言われています。そういう無能でやる気のない牧者たちが自分の地位にあぐらをかいているうちに、群れの状態はどんどん悪くなって、病んでいる者も傷ついている者も手当してもらえず放っておかれる。迷って姿が見えなくなった者も放置されている。ですから、牧者はいるにはいるけれども、実際には牧者の働きを放棄していて、指導者らしく群れを導いていく責任を果たそうとしませんでした。そういうイスラエルの牧者たちは、実際には牧者ではなく、羊の毛の中に寄生しているしらみのような者でした。
 主イエスは、エゼキエル書にそのように書いてあるということを思い出しながら、ご自身が出会われた大勢の人たちが、まるで飼い主のいない羊の群れのようだと思われ、腹の底から深い痛みを覚えられました。

 マタイによる福音書の今日の箇所では、どうして弟子たちが遣わされていかなければならないのかということが語られています。それは、主イエスが本当に深くこの世界に生きている一人ひとりを憐れんで、深刻に受け止めておられるからです。36節後半から「深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」と言われています。そして10章になると、主イエスが弟子たちを伝道のために派遣していくということが起こります。
 主イエスが弟子たちをお遣わしになった、弟子たちが主のもとから遣わされて行ったのは、主の憐れみのゆえだったということが分かります。私たちがこの礼拝を終えてそれぞれの生活に向かって行く、その時にも、私たちが歩んでいくその背後には、深い憐れみをもってこの世界をご覧になっている主イエスが立っておられます。そして私たちは、その主イエスから遣わされて、それぞれの地上の持ち場に向かって行くことになるのです。その際に、主イエスは弟子たちに「あなたがたがこれから遣わされていく所、それは、収穫をする刈り入れの仕事場なのだ」と教えてくださいました。37節に「収穫は多いが、働き手が少ない」と言っておられます。
 「収穫が多い」という言葉は、何となく嬉しい言葉ですが、しかし実際には大変切羽詰まった緊張感を孕んでいる言葉です。その緊張感に気づかないと、もしかすると私たちは、この言葉を暢気に聞いてしまうかもしれません。つまり、「収穫が多いのだから、探さなくても、どこででも収穫できる。倉に運び入れさえすれば良いのだから簡単だ」と考えてしまうかもしれません。しかしそう考えますと、私たちは、自分の生活の経験からは随分ずれているなと感じざるを得ません。親しい知人や家族たちに「教会に一緒に行こう」と誘っても、なかなかその誘いに乗ってもらえないという経験を、私たちは持っているのではないでしょうか。「主イエスは収穫が多いと言っておられるけれど、本当に収穫は多いのだろうか。色々生えていても、それは雑草ではないのか。収穫とはならないものに手を伸ばしているのではないだろうか。どこに行ったら収穫に出会えるのだろう」と戸惑いを覚えるかもしれません。
 主イエスの時代の収穫は、どこの畑でも時間との競争だったと言えると思います。畑に様々なものができ収穫するべき時期がやってくる、その時には、収穫を後回しにはできません。大急ぎで収穫しなければならないのです。どうしてかと言いますと、恐らく今日でもそうでしょうけれど、空の鳥が喜んで待っているからです。「そろそろ熟してきたから、明日収穫しよう」と楽しみにしていると、翌日の朝には鳥に突かれていたということは、果物などではよくあることです。穀物でも、スズメがやってきて食べてしまうということもあります。ですから、収穫の時が来たら、大急ぎで人手を使ってでも収穫をしなければなりません。主イエスの譬え話にもあったと思います。ぶどう園の譬え話は、刈り入れの時期が来たので主人が朝早くから労働者を探し、朝出会った人には一日1デナリオンの約束をし、9時に出会った人、正午に出会った人にも、また夕方近くに出会った人にも同じ約束をして、結局、夕方出会った人は少しの時間しか働かなかったのに1デナリオンもらって喜んで帰ったけれども、早朝から働いた人は1デナリオンしかもらえずに不平を言い、それに対して主イエスが教えられたのは、誰もが一日を暮らせるようにするという情け深い主人(神)の話でした。そもそもどうしてこういう話かと言いますと、それは収穫が時間との闘いだったからです。急いで刈り入れなければいけないのです。
 そうしますと、「収穫が多い」というのは、ただ手放しで喜ぶという話ではありません。「どうやって収穫したら良いのだろうか」ということに繋がる話です。

 また更に、別の面から言いますと、「収穫」は倉に収めるという点では嬉しい時ですが、畑の方から言うならば、それまで育てた作物が全て刈り取られて、もう一度、切り株だけ残った荒地に戻るという時でもあります。麦畑を例にとって言うならば、麦と一緒に育っていた毒麦は、ついに役に立たないものだと判断されて焼かれてしまうという滅びの時、それが刈り入れの時なのです。主イエスは確かに、そういう譬えをこの後13章あたりでなさるのです。ですから、聖書に出てくる収穫の時というのは、決して待ち遠しいだけの時ではありません。刈り入れは時間との闘いであり、そこでは何が神の前で通用し、何が通用しないで焼かれるものかがはっきりする裁きの日なのです。そして、だからこそ主イエスは、その裁きが臨む前に、一人でも多くの人が神のもとに立ち帰るようにと望んでくださっているのです。
 主イエスご自身はもちろん、御国の福音を宣べ伝えて、それを聞いた人が神のもとに立ち帰って、神の保護のもとに生活できるようにと教えてくださいます。けれども、自分が出会える人というのには限りがあります。更に多くの人たちに御国の福音を宣べ伝えなければなりません。あるいは、この地上の生活で自分のことだけ考えて傷ついて倒れ伏している人、そういう人たちに仕えて癒しをもたらさなければならない。おかしな霊に捕まえられて生活が崩れてしまっている人たちが、与えられている生活をもう一度そこで始めるように導かなければならない。そういうことがあるので、主イエスは弟子たちを伝道のために、ご自身のもとから派遣されていくのです。

 「収穫は多い」と、主イエスは言われます。私たちは「一体どこに収穫はあるのでしょうか。どこを向いても、なかなか教会にきてくれそうな人はいません」と尋ねるでしょう。けれども、まさにそういう人たちこそが収穫されていくべき麦の束なのです。そしてそれは、もし先に召されている私たちが働かないならば、収穫されることのないまま鳥に食べられてしまったり、あるいは雑草か毒麦のように火の中に投げ込まれて焼かれてしまうかもしれない、そういう人たちなのです。
 主イエスは、当時、多くの町や村を巡り歩かれて、見捨てられている人たちをたくさんご覧になりました。エルサレムでは大祭司や祭司長たち、律法学者たちが自分たちの正しさや自分たちの暮らしが豊かになること、あるいは、自分たちが民の中でどれほど重んじられるかということばかりを気にして自分のことしか考えていない、そういう中にあって、人々は打ち捨てられ、神の御言葉も聞かせてもらえない、癒されもせず倒れ伏しているという現実をご覧になっているのです。そして、何とかしてその人たちを神と共に生きる生活へと導こうと決心しておられるのです。そのために、ご自身のもとから弟子たちを送り出していかれる。それが「収穫は多いが、働き手が少ない。わたし一人ではとても手が足りないから、あなたがたも行って一緒に働きなさい」と言って、主イエスは弟子たちを伝道へと遣わされるのです。
 ですから、主イエスのもとから弟子たちが送り出されていくということには、主イエスが人間の現実を、私たち人間以上に深刻に受け止めておられるということがあるのです。そして、私たち人間が自分だけではままならない、そういう命を生きているということをご存知だからこそ、主イエスは、先に御言葉を聞いて、御言葉による癒しに与っている人たちに「あなたも同じ働きに与っていくのだ」とおっしゃっているのです。

 けれども、主イエスからそう言われてしまうと、私たちはつい、臆病風に吹かれるということがあるかもしれません。私たちは礼拝に来て、聖書の説き明かしを聞き、御国の福音を聞かされ、そして主イエスが癒しに仕えてくださって私たちを大事にしてくださる、そのことに与ることは大変嬉しいのです。けれども、「そういうあなたが、今、ここから遣わされて、それぞれの持ち場で、今度は御国の福音を伝える立場に立つのだ。人々に癒しを持ち運ぶ立場になるのだ」などと言われると、「わたしは一体何をしたらよいのだろか」と当惑し、途方に暮れてしまうということがあるかもしれません。
 主イエスは、弟子たちがそういう弱さを抱えているということをご存知で、だからこそまず、「祈りなさい」と教えてくださっています。38節に「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とあります。「あなたが最初にやるべきことは、収穫の主に願うことである」と言われます。私たちが主イエスに代わって御国の福音を宣べ伝えたり、主イエスのなさった癒しの業に仕えるためには、まだまだ不信仰であり、未熟です。主イエスはそのことをよくご存知で、だからこそ収穫を得るために、諦めるのではなく、収穫のための働き手が備えられますようにと、まさにたくさんの収穫を前にして「働き手が与えられますように」と祈るべきことを教えてくださいました。
 「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という言葉は、神学校の募集案内などでよく目にする言葉ですが、しかしこれは神学生のことだけを言っているのではないだろうと思います。私たちが生活しているこの社会の只中に、豊かな収穫が眠っています。その収穫に向かって、私たち自身が「仕える勇気と、またその業に仕えるに相応しい落ち着きと知恵をお与えください。わたしは、今は、どうして良いのか分からないけれども、しかしどうか、このわたしに、働き手となる力を与えてください。そしてまた、もしわたしが今日、相応しくないならば、相応しい働き人をこの場にお送りください」と祈るべきことを教えてくださっているのです。

 主イエスが今日に至るまで、私たちの間で働いてくださっていて、御国の福音が告げ知らされている。そして、それによって癒されるという現実が、この世界の中に、この地上に実際に生じているのです。私たちは、そういうものに出会わされ、慰められ勇気を与えられたからこそ、礼拝に毎週集って、主イエスの民としてここから遣わされていくということを願っているのではないでしょうか。そうであるのならば、私たち自身は小さい者にすぎませんが、しかしそれでも、この私たちが主の御業に仕え、用いられる者とされるように祈り、そして主に感謝し主を賛美しながら、与えられている生活の務めを精一杯歩む者とされたいと願うのです。

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