聖書のみことば
2017年2月
  2月5日 2月12日 2月19日 2月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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2月26日主日礼拝音声

 実らない
2017年2月第4主日礼拝 2017年2月26日 
 
小島章弘牧師 
聖書/エレミヤ書 第24章1節〜10節、ルカによる福音書 第13章6節〜9節

エレミヤ書第24章<1節>主がわたしに示された。見よ、主の神殿の前に、いちじくを盛った二つの籠が置いてあった。それは、バビロンの王ネブカドレツァルが、ユダの王、ヨヤキムの子エコンヤ、ユダの高官たち、それに工匠や鍛冶をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後のことであった。<2節>一つの籠には、初なりのいちじくのような、非常に良いいちじくがあり、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないいちじくが入っていた。<3節>主はわたしに言われた。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは言った。「いちじくです。良い方のいちじくは非常に良いのですが、悪い方は非常に悪くて食べられません。」<4節>そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ。<5節>「イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。<6節>彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。<7節>そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。<8節>主はまたこう言われる。ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。<9節>わたしは彼らを、世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的とする。彼らはわたしが追いやるあらゆるところで、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となる。<10節>わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を送って、わたしが彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽くす。」

ルカによる福音書第13章<6節>そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。<7節>そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』<8節>園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。<9節>そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

 今日与えられました旧新約聖書共にいちじくが取り上げられています。旧約エレミヤ書ではバビロニアに連行された人たちが良いいちじく、国に残った者たちが悪いいちじくで表されています。それは南ユダが神様に不従順であったために滅亡することが暗示されています。ルカによる福音書では、実のならないいちじくがテーマになっています。これらは悔い改めとか不従順という聖書全体のテーマの一つだと言ってよいでしょう。 
 このことについてルカによる福音書に、イエスさまが、非常に適切なたとえ話をしておられるので、それを中心に御言葉に聞きたいと思います。

 「実らない」いちじく(無花果=花のない果物)のたとえ話です。いちじくは、葡萄やオリーブと共にイスラエルでは最も親しまれている植物です。創世記に真っ先に出ている果物も無花果です。アダムが、自分の裸体を隠したのが無花果の葉でした(創世記3:7)。新約聖書にもしばしば登場していますが、イエスさまが十字架におかかりになる前に、実のならないいちじくを叱ったら枯れた(マタイ21:19)と記されています。
 いちじくは、B.C.2000年ごろから栽培されたといわれています。葉が大きいので日よけとして日照りの強いイスラエルでは重宝したようです。どの家でも1、2本は畑や庭先に植えられていました。愛宕町教会の裏、駐車場のところにも植えられています。私も何回か頂いたことがあります。賀川豊彦先生は、教会に実のなるものを植えるように奨励しておられたと聞きました。しかし、いちじくだけの果樹園はなく、普通はぶどう園の隅に植えられていたようです。小生も子供のころ、戦争後におやつとしてむさぼった覚えがあります。

 さて、ルカによる福音書にだけ記されているイエスさまのたとえ話です。
 前置きもなく、「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった」と切り出しています。日本では「桃栗3年柿8年」と言いますが、いちじくはどれほどの年数がかかれば実がなるのでしょうか。レビ記を見ると、実がつくようになって5年目から食べるように規定されています(レビ記19:23~25)。これは植物の生態からも合理性があるようです。
 このぶどう園の主人は、3年間も実るのを待って実を探しに来たと書かれています。レビ記ではたとえ3年後に実がなっても5年後でなければ食べてはいけないことになっていますので、待ち通しかったし、3年間も忍耐していたことが読み取れます。主人は、「切り倒せ、土地をふさがせておくのか」と、かなり忍耐にも限度があると腹を立てている様子がうかがえます。
 わたしたちも、日常生活の中でこんな気持ちを持つことがあります。 また、この頃毎日のように報道されている、そのほとんどが我慢の限度を超えて事件になっているように思われることがあります。我慢して、我慢して、限界が来て、暴力行為に及んでしまうという事件がみられるように思います。あるいは、自分のわがままから事件になっていることもあるのでしょう。
 園丁は、そんな状況の中で、「今年もこのままにしておいてください。木のまわりを掘って肥やしをやってみます。そうすれば来年は実がなるかもしれません」 と訴えています。 このたとえ話は、ここまでで切れています。結論がなく、尻切れトンボのお話ということに見えます。何か意味があるのでしょうか。イエスさまは何を語ろうとされたのでしょうか。結末には興味を持っていないようです。それではどこに、このたとえ話のポイントを置いているのでしょうか。 

 先ずこの園丁が、その実らないいちじくの木に、並々ならない愛着と執着を抱いていたということです。でも園丁の気持ちは複雑です。極端と思えるこだわりです。肥料を施してでも、1年経って実がならなかったら切り倒してくださいと言っているので、厳しさも示しているからです。
 それに加えて、イエス様がこのたとえ話をお話しされるきっかけも欠落しています。このことについては前に書かれている2つの事件とイエスさまのお言葉が重要な意味を持っているように思われます。今日は読んでいただかなかったのですが、ルカによる福音書には、2つの事件が記されています。これはルカ福音書にだけ記されているものです。
 第一の事件は、ポンテオ・ピラトの野蛮なふるまいでした。過越しの祭りでのことだと思われますが、ガリラヤからの巡礼者たちが儀式をしている最中に、ピラトの手の者が襲い掛かってガリラヤ人を殺害し、その血を動物犠牲の血に混入するということがあったようです。ユダヤ人にとっては宗教的に神聖な儀式を冒涜するものでした。恐らく、この事件はユダヤ人の反感をかい、後に紀元70年の反乱につながっていったと考えられます。それは当時台頭してきた熱心党への弾圧が背景にあったのかもしれません。更に、この事件にはファリサイ派も関係していたと思われますが、人間の在り方にかかわることとしてイエスさまは、単に当事者のみならず、すべての者が悔い改めることの大切さを指摘しているのです。皆に悔い改めることが求められると言っておられるのは、そのことを暗示しているように思われます。「あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる」、悔い改めるということは、自分中心に生きていることを神に向かって方向転換することですから、すべての人に求められることになります。
 もう一つの事件は、シロアムの塔が倒れて18人が死んだ事件です。これは当時噂になっていた事件でした。わたしたちも、ここ数年を見ても自然災害が続いています。地震、台風、大雨、大火事、大雪などの災害や、ヒューマンエラーなどが多発しています。当時災害は罪の結果だと言われていたので、そのことに対して、すべての人に起こりうることなのだといって、悔い改めへの呼びかけがイエスさまによってなされているのです。
 この2つの事件が、それに続くイエスさまのたとえ話の前置きとなっていると考えられます。ですから決して唐突に、このたとえ話がなされているわけではないのです。
 もう一度たとえ話に戻ってみましょう。

 短いたとえ話ですが、前後半に分かれています。先ず、前半では3年間も実のならないいちじくを切り倒せとの主人の厳しさが語られます。そして後半は、園丁があと1年の猶予、肥料をやって何とかしたいという提案がなされています。この姿勢にイエスさまの姿が見えてきます。それは、考えられないほどの憐れみと愛が示されていることです。そのことに忍耐し、どこまでも寄り添うイエスさまの姿が描かれています。それは異常とも思える愛の招きです。
 「実らない」ということに暗示されている自分たちへの評価を知って、憤慨していることも示しています。当時人々は、その警告と厳しい追及の中に、イエスさまの異常で、無条件の愛を知ることになって、神妙に聞いていたに違いありません。そして、イエスさまがついに十字架にかかられることの中に、神の裁きを自ら背負って、十字架にかかられたイエスさまの姿と重なってきます。それはイスラエルの滅亡ではなく、イエスさまの十字架の死という仕方で実現したことを表しています。神の裁きが、神の愛によって貫かれたと言ってもよいでしょう。

  神の義が愛によって実現し、神の愛が義を実現したということを意味しています。これこそ十字架の出来事です。それは一人一人を探し求め、寄り添い、声を掛けてくださるイエスさまの姿です。さらに、神様は忍耐強く神様に立ち帰ることを待ってくださっていることも気づかされます。

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