聖書のみことば
2015年6月
  6月7日 6月14日 6月21日 6月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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6月28日主日礼拝音声

 誘惑に遭わせないでください
6月第4主日礼拝 2015年6月28日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第6章9〜13節

6章<9節>だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。<10節>御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。<11節>わたしたちに必要な糧を今日与えてください。<12節>わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。<13節>わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

 ただ今、マタイによる福音書6章9節から13節までをご一緒にお聞きしました。13節に「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」とあります。「主の祈り」の言葉を一言ずつ考えて参りまして、主イエスが教えてくださった言葉としては最後のところまで来ました。私たちが「主の祈り」で祈る時には「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という言葉です。
 この言葉に先立って、11節12節では「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈るようにと教えられていました。先々週、先週と聞いてきた言葉ですが、まず主イエスは、私たちが食べ物のことを心配してよい、日々の生活のことを祈ってよいと教えてくださいました。けれども、私たちが本当に生きるためには、そのような肉体を支える事柄だけが必要なのではなく、心が支えられていなければなりません。自分が誰からも相手にされていないと思ったり、あるいは他人に憎まれていると思っていたとすれば、たとえ物質的に満たされていたとしても、私たちの人生は本当に辛いものになります。何でも思い通りにならないゆえに私たちは不安になり、恐れを抱きます。造り主である神への信頼を忘れ神から離れてしまう、人はそういう負い目(罪)を負うがゆえに、「あなたは神の赦しの中に置かれている。そこで生きていてよいのだよ」と言われることが、私たちにとってはとても大事です。だからこそ「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈り求めてよいのだと、主は教えてくださいました。この二つの祈りこそは、私たちに欠かせない祈りであることを聞いてきたのです。

 ところが、それに加えて今日のところでは「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るように教えられています。これはどういうことでしょうか。主イエスの十字架の贖いによって私たちの罪が赦される、そういう決定的なことが起こっている。そうであるならば、私たちにはもはや、恐るべきことはないのではないでしょうか。主イエスの十字架に免じて神は私たちの罪を赦してくださっている、このことを信じ、この赦しの中を生きてよいと教えられているのですから、この地上の生活においてたとえ様々な困難に出会うことがあっても、どんな試練も恐れなくてよいのではないか、そうは思われないでしょうか。
 かつてお仕えしていた教会のある信徒の言葉を思い出します。その方は、「主の祈りの中の『我らをこころみにあわせず』という言葉にいつも引っかかる。なぜこのような後ろ向きな言葉を祈るのか、腑に落ちない。自分としてはむしろ『どんどん試みに遭わせてください』と祈りたくなる。試みに遭いそれを乗り越えるところで、神への信頼がなお確かになるのではないか」とおっしゃるのです。その時には、確かにそういう面もあるかなと思いました。

 けれども、「こころみ・誘惑」とは、やはり手強いものなのだろうと思います。私たちがこころみに遭うとき、必ずそれを乗り越えられると決まっているでしょうか。誰の人生にも、試練や課題はあります。その際に、「いつも主イエスがわたしと共に居てくださるのだから、どんな困難も乗り越えられる」と確信して事に当たっている時というのは、恐らく、こころみの度合いとして、こころみの最も深刻な事態には遭遇していないのだろうと思います。「主、共にいます」と意気軒昂に思えるとすれば、確かにこころみの入口に立っていたとしても、しかしそれ以上にはまだ踏み込んでいないのかもしれません。
 こころみに遭う中で最も辛いと思うことは何でしょうか。目前の状況が思うに任せないということが当然あるでしょうが、それ以上に、神の存在をよそよそしく感じてしまう、神の御心がまるで分からなくなってしまう、このことこそが、神を信じる者にとって最も辛く厳しい状況、試練だと思います。主イエスが十字架におかかりになる時に、一言だけ、アラム語で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と言われました。この言葉を発せられた時の主イエスには、父なる神がとてもよそよそしく感じられたに違いありません。「神の御心に従っているのに、どうしてそのわたしがこんなに辛い目に遭っているのか」、それが十字架上でのこの叫びです。
 主イエスはこころみの恐るべき暗闇をご存知です。そして、ご存知だからこそ、罪の赦しを信じるということだけではなく、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈ってよいと教えてくださっているのです。

 では、そのような「こころみ・誘惑」は、どのようにしてやって来るものなのでしょうか。古くから教会の中では、およそ3つのことが言われておりますので、その一つ一つについて考えていきたいと思います。
 私たちが神から離されているように感じたり、神の存在をよそよそしく感じてならないと思ってしまう誘惑、それは一体どこから襲って来るのか。それはまず、私たちの内側から襲って来るのだと言われています。私たちが神のことを分からなくなる取っ掛かりは、多くの場合、私たちの内側にある。そしてそのことを、私たちは言い訳できません。使徒ヤコブは、誰でも試みに踏み込む時には、それを神の責任にしてはならないと教えています。ヤコブの手紙1章13節14節に「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」とあります。人はそれぞれ、自分自身の欲望によって誘惑に襲われ、唆されるのだと言われています。ですから、誘惑とは、まず私たちの心の中から始まるのです。
 それは、キリスト者であっても同じです。キリスト者は、主イエスの十字架の出来事を聖書から聞き、「十字架の上で、あなたの罪は赦されている」と知らされています。「あなたのために、主イエスが十字架上で尊い血を流されたのだから、もう一度ここで新しい命を生きてよいのだ。生きなさい」、私たちはそのような語りかけを確かに聞かされているのですが、だからと言って、そのことをすっかり信じて天使のように清らかになっているかと言えば、そうではありません。私たちが主イエスの十字架によって罪赦されているということと、それでもなお、私たちが罪の尻尾を引きずっていることの間には、譬えれば、人と、その人の爪とか髪の毛のような関係があると言う人がいます。私たちは髪の毛を刈り込んだり、爪を切って整えることはできます。しかしそうやって一時さっぱりしても、時間が経つとまた髪の毛はふさふさし、爪も伸びます。私たちの罪にも、そんなところがあるのです。主によって罪赦されていると信じて心から朗らかな気持ちになる。けれども、また罪が生い育ってくる。罪の問題をすっかり乗り越えたということはできないのです。
 万が一、主の十字架によって罪赦されてすっかり清らかな者となっていると思い込んでしまったら最後、私たちは知らぬ間にまた、自らの罪にどっぷりと浸かった生活に逆戻りしてしまうに違いないのです。「罪の赦し」など、まったく造作のないこと、当たり前のことだと思ってしまう。当たり前と思ってしまう時に、私たちは当たり前に罪を犯してしまう、そういう罪の中にはまり込んでしまうのです。
 そして、そういう罪が私たちの内にあることをご存知のゆえに、主イエスは、「罪を赦してください」と祈るだけではなく、続けて「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るようにと教えてくださっているのです。ですから、この祈りは、私たちが自分は確かな信仰者として立てられていると思い込んでしまって、そのために却って取り返しがつかないほど倒れてしまう、そのことを防止するための祈りです。
 あるいは別の言い方をするならば、「自分が赦されていることにすっかり馴れっこになってしまわないようにしてください」という祈りです。罪赦されていることに馴れっこになってしまって、感謝を忘れる。また、赦しに相応しい生活を送っているかどうかに気を配ることを忘れて、たとえどんなに野放図な生活を送っていても、わたしは赦されている者なのだと居直ってしまう、そういう危険が私たちには常にあるのです。そのように思い上がってしまわないように、「私たちを守ってください」と保護を祈る、それがこの祈りです。
 罪を赦されて当たり前と思い込む、もはや赦しを必要とする罪など無いのだと思ってしまう、そのように傲慢になっていく傾向を、私たちは持っています。私たちは、自分が罪人だと思うことをあまり好みません。できれば「自分には罪はない。清らかな良い人だ」と思っていたい。ですから、主イエスはこの祈りを教えてくださるのです。

 私たちは「悔い改め」という鍬で、毎日毎日畑を耕さなければなりません。あるいは、私たちの心の中から雑草のように罪が芽吹いてくる、それを丁寧に一つ一つ注意しながら摘み取っていかなければ、いつの間にか、私たちの心の畑に蒔かれている良い種より雑草の方が背丈が伸びる、そういうことがあるのです。
 朝ごとに、私たちは「どうか、誘惑からこのわたしを遠ざけてください」と祈りながら、「わたしは神によって誘惑から遠ざけられ、赦しの中に置かれている」という導きの中に身を置くことが大事なのです。
 「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という祈りは、その内容から考えますと、「聖霊がわたしを守ってくださいますように。罪赦された者として、真実に正しく歩むように導いてください」と祈る、そういう祈りでもあるのです。

 ところで、誘惑は、このように私たちの内側から来るだけではなく、外側からやって来るという場合があります。それは実に多様ですから簡単に言うことはできないのですが、ごく大まかに言いますと、二つの方面から私たちを襲って来ると言えると思います。
 まず第一には、生活の上での困難が大変重くのしかかって来る、そういう仕方で誘惑が襲ってくる場合があります。例えば、家庭の事情が大変複雑で少しも気持ちが休まらないとか、職業柄毎日厳しい状況に置かれて辛い目に遭っている方もいるかもしれません。また地域社会で暮らす中で、何かのきっかけによって悪い立場に追いやられて毎日針の筵に座るような思いをするということもあるかも知れない。これらは一つの例であって、もっと様々な苦しみが私たちの人生にはあり得るのですが、そのように辛い経験ばかりが次々と起こってくると、私たちはいつの間にか、そういう自分の生活にも神の恵みが注がれているのだということが分からなくなってしまう、そういうことがあると思います。
 教会で聖書に聞き、神は慈しみ深く憐れみ深いお方だと説き明かされても、自分の生活の中では全然実感できないということが起こってくることがあります。「教会で教えてくれる神は、裕福な人、生活が成り立っている人たちだけの神であって、少なくとも、辛い状況にあるこのわたしの神ではない」と、神の恵みを見失ってしまう、そういう誘惑の訪れがあるのです。
 主イエスはしかし、そういう誘惑・こころみに対して、断固として抵抗するようにと教えておられます。生活状況が厳しくて神の恵みを覚えられなくなる、その時にも、あなたは、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈りなさいと教えてくださいます。この祈りは、「どうかこのわたしを、神の恵みの保護の内側に留まらせてください」という祈りです。こういう祈りを祈ることが、私たちにとって、実は、誘惑に対する抵抗の始まりなのです。「わたしの生活状況には辛いことがたくさんあります。しかし主よ、このことによって、あなたの恵みが分からなくなることがないようにしてください。あなたの恵みの外に追いやらないでください。わたしは、あなたからのものとしてこの生活を受け取りたいと願います。どうか、あなたの恵みの中にある者として、今のこの生活における試練に向き合わせてください」、そう祈りなさいと、主イエスは教えておられるのです。

 外側から来る誘惑はしかし、またこれとは別のところからやってくる場合があります。それは、生活の困難とは逆で、状況が良すぎるというところから来る、感覚の麻痺ということがあるのです。経済的に裕福であるとか、学歴や職歴で他者から羨ましがられるようなエリートコースを辿っている。また、大変肉体が丈夫で医者いらずだと豪語する方もいる。これらはどれも一般的には良いことだと思われていることですが、しかし、良いことずくめであることの結果は、往々にして、思い違いが起こると思います。「今のこのわたしには、すべての人が好意を寄せてくれて当たり前、認めてくれるのが当たり前だ」という考えが出てきてしまいます。それは、私たちの生活から「感謝する」という思いを奪っていきます。
 とても俗っぽい話ですが、フランス革命で処刑された王妃マリー・アントワネットは、貧しい人々が食物を欲して「日毎の糧を与えたまえ」と祈っていると聞いて、「パンが無ければケーキを食べればいいじゃない」と言い放ったという逸話があります。実際のところ、私たちも物質的に全てが与えられているときには、このようになってしまうことがあり得るのだと思います。人生の大変さや苦しみが分からなくなって、人生は楽なものなのだ、自分にとって良いことづくめに進んでいくものなのだと思ってしまうときには、そうならないことに対して怒ることはあっても、自分に与えられている恵みへの感謝は失われていってしまうのです。そして、そういう仕方でも、私たちは神から離れていってしまうのです。神に赦されなければならないと思わずに、「神に赦されなくても、わたしは十分にここで生きています」、そういう思いになるのです。
 日本社会の中でキリスト教が振るわない、最近では逆境にあるとも言われますが、もしかするとそれは、私たちの社会が豊かになっていることにも関わりがあるのかもしれません。神になど頼らなくても、自分たちの力で十分立派に暮らしていくことができる、そう思っている人たちが案外多いのかもしれません。それは、キリスト者であっても否めません。教会に集い礼拝しているときには、神の前に罪赦された者として生きようと思っていても、一歩教会を出て日常の生活に戻っていくときには、「赦しなどない、自由に生きればよい」という周囲の人々の思いに流されてしまうかもしれません。
 このように、見た目に良い状況であったとしても、神から離れてしまうということがあるのですから、主イエスは「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈りなさいと教えておられるのです。こう祈ることによって、この世に流されていってしまうことに抵抗し、踏みとどまることができるようになるのです。

 このように、逆境からの誘惑であっても順境からの誘惑であっても、誘惑は私たちの周りに極めて自然な形で存在していると思います。ですから私たちは、自分で気づかないうちに誘惑に遭ってしまうということがあるのです。しかしそういう中でも「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈り続けるところで、信仰のよい闘いが可能となります。どうしてか。それは、私たちの祈りが独り言ではないからです。私たちの祈る言葉を神は必ず聞いていてくださいます。そして、神が私たちの目を開き、ご自身の御言葉へと導いてくださいます。そこでこそ、私たちは「このわたしは、確かに神から与えられた命を生かされている者なのだ」と信じて生きることができるようになるのです。

 ここまで、内からと外からの2つの誘惑を考えましたが、まだもう一つ、3つめの方向からの誘惑があります。3つ目の誘惑は、聖書を読まなければ知ることができません。「サタンの誘惑」と言われるものです。
 今日は招きの言葉にペトロの手紙一5章8節を選びました。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」とあります。ここでは「悪魔」と表現されていますが、サタンは特に「神の恵みを受けている人に狙いを定める」、このことを考えてみたいと思うのです。
 医師が入院中の患者に向かって「大分回復していますから、ベッドから降りて歩き回っていいですよ」と許可するということがあると思いますが、そういう場合には必ず一言「そうは言っても、いきなり歩き回りすぎて疲れたりしないように気をつけなさい。そうでないと、またベッドに逆戻りすることになりますよ」と注意することでしょう。実は、私たちの罪が赦されるということには、こういう面があると思います。私たちが罪赦され神を信じる者とされる、その時には天に大きな喜びがあります。しかし同時に、そういう私たちのことを苦々しく思って、歯噛みして悔しがっている力というものが存在するのです。

 「サタンがだれかを食い尽くそうと探し回っている」とありますが、確かに聖書の中には思い当たる記述があります。例えば、主イエスがサタンの誘惑に遭われたことが福音書に記されています。主がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、そしていよいよ公生涯に入られる、救い主としてのお働きを始められる、まさにその時に、サタンが主を訪れ「わたしを拝め」と迫ります。サタンは、この時以前から主イエスを襲うことはできたはずですが、しかし、サタンが狙った時は、主の公生涯の始まりの時でした。
 また、主の公生涯の最後にもサタンは近づいてきます。それは、最後の晩餐でイスカリオテのユダが主イエスを裏切る直前です。「ユダの中にサタンが入った」と記されております。最後の晩餐はどういう食事かと考えてみますと、それは過越の食事を祝っているのです。過越とは、旧約の時代に、神がエジプトで奴隷だったイスラエルの民を救い出すためにエジプトに裁きをもって臨まれ、エジプトでは人も家畜も初子(ういご)がすべて撃たれて死んでしまうのですが、イスラエルに対しては羊の血を家々の鴨居に塗って印とすることによって神の裁きが過ぎ越して行った出来事であり、過越祭はそのことを祝うのです。ですから過越祭の祝いの食事というのは、「どんなに激しい試練の中にあっても、神が必ず守ってくださる」ということを喜び感謝して集って食べる、そういう食事です。喜びの食事、まさにその最中に、サタンがユダの中に入るのです。まさに神の御業がそこになされている、そこにサタンがやってきます。

 私たちは、そういう点では、サタンの有り様を甘く考えているかもしれません。サタンというのは、遠くから段々と近づいてくるものと思っていないでしょうか。自分は今のところ主イエスに近いところにいるから大丈夫だけれど、何かの事情で礼拝を守れなくなって信仰が弱っていったらサタンが近づいてきて、遂には捕らわれてしまうのだろう…と思っているところがあると思います。けれども、聖書はそう言っていません。聖書はむしろ、神から喜ばれる者、神の御業がなされるまさにその場にいる者を狙って、サタンは近づいてくることを教えています。
 主イエスが公生涯を始められる、それはまさに主に従う者が起こされ、教会ができようとする時であり、そこにサタンが現れました。また、主が御業を成し遂げようとなさる直前の過越の喜びの席で、サタンがユダの中に入り、主は捕らえられました。
 またここで、サタンに襲われたのはユダだけではありません。過越の食事を終えて、主イエスと11人の弟子たちはゲッセマネの園に出て行くのですが、そこで主イエスが血の汗を滴らせるほどに苦しみつつ祈っておられる時に、主は弟子たちに「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と言われましたが、しかし、弟子たちは誘惑に負け、正体なく眠りこけていました。

 このように、サタンはどこから私たちに忍び寄ってくるか分かりません。また、譬えて言えば、サタンには猫のようなところがあります。猫は死んだネズミには見向きもしません。生きているネズミだけを狙い、捕まえ、おもちゃにして遊び、死んでしまったら捨ててしまうのです。信仰的に死んでしまっている人間を、サタンはもはや相手にしません。信仰が生きているからこそ、実はサタンは私たちを狙うのです。
 したがって、私たちが毎週教会に行っていれば大丈夫ということではありません。むしろ、私たちの生きた信仰生活の最中に、神から離されてしまうという危機が訪れることがあり得るのです。それゆえに、そういうことにならないように、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈り、「神よ、わたしを守ってください」と願ってよいと、主イエスは教えてくださっております。

 主イエスは、日毎の糧を祈り求めることを教えてくださり、地上の生活の思い煩いから私たちを解放してくださいます。そしてまた、負い目を赦してくださいと祈り求めることを通して、神の前で私たちの日々の生活が健やかであることを願ってよいと教えてくださいました。そして、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈ることを教えて、私たちが「神の保護のもとに、この地上の生活を歩んでよい」と教えてくださるのです。

 サタンの誘惑に対して、私たちは無力です。自分の力で抵抗しようとしてもできません。しかし、「神の聖霊がわたしを守ってくださいますように。どうか聖霊のもとにわたしを導いてください」と祈ってよいと、主が教えてくださっていることを覚えたいと思います。
 私たちは恵みのうちに置かれた者として、ここからそれぞれの生活へ歩み出して行きます。そして日々に、「主の祈り」を真剣に祈る者とされたいと願うのです。

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