聖書のみことば
2015年6月
  6月7日 6月14日 6月21日 6月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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6月7日主日礼拝音声

 御国を来らせたまえ
6月第1主日礼拝 2015年6月7日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第6章9〜10節

6章<9節>だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。<10節>御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

 ただいま、マタイによる福音書6章9節10節をご一緒にお聞きしました。
 10節に「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」とあります。「御国が来ますように」、そう祈りなさいと主イエスが弟子たちに教えておられます。私たちは、そう教えられたままに「主の祈り」の中で「御国を来らせたまえ、御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈っていますが、改めて考えてみますと、このように祈るとは、少し不思議ではないでしょうか。どうして私たちは「御国を来らせたまえ」と祈らなければならないのでしょうか。何も私たちがそう祈らなくても、この世界は初めから神がお創りになった世界であり、神の御国なのではないでしょうか。この地上に、神のご存知でない土地が一画でもあるというのでしょうか。人間、獣、地を這うもの、空の鳥、海の生き物、地上に生きるもの全てを、神はすべてご存知なのではないでしょうか。この世界が神によって創られた世界であるのなら、この世界は神のものであって、神の支配する「御国」ではないでしょうか。そうであれば、どうして、「御国を来らせたまえ」と祈ることを教えられるのでしょうか。腑に落ちないように思います。
 旧約聖書、詩編139編8節から10節に「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる」とあり、旧約の詩人も、「神は至る所に居て、わたしを導いてくださる。神は普遍的な方なのだ」と語ります。なのにどうして、主イエスは私たちに「御国を来らせたまえ」と祈ることを教えられるのでしょうか。

 誤解してはならないことがあります。神は普遍的であり、どこにでも居て私たちを見ていてくださるということは、神がどこにでも居なければならないということではありません。どんな石ころの中にも、大木の中にも、あるいは緑燃え立つ草むらや、雨の一滴一滴の中にさえ神はおられる、そういう意味で神が普遍的であるという意味ではない。神が普遍的であることをそのように受け取ることは、大変大きな誤りです。神はあくまでも、この世界をお創りになった「主」であります。そのお方を、石ころや樹木、特定の場所や自然現象の中に閉じ込めておくことはできません。神は創造主ですから、ご自分が創った物の中に閉じ込められることはないのです。神はこの世界に縛り付けられているようなお方ではありません。神は完全に自由なお方として、ご自身がお創りになったこの世界に伴ってくださるのです。
 そしてその際に、神はこの世界から遠ざかることも近づくこともおできになります。神は新しいものをもたらすこともおできになる。しかし逆に、それは私たちからすれば放置されているように思うことですが、この世界をじっと忍耐して見ておられることもおできになるのです。そのような神の自由な介入を、私たちが妨げることはできません。
 天上であろうと地上であろうと、陰府であっても、神が介入なさる時に、それを阻むことはできません。逆に、神が立ち去ろうとなさる時に、それを留めることもできません。神の前ではどんな扉も自在に開かれ、神は遠ざかることも近づくこともおできになる、それが神の普遍性ということです。

 さて、この地上においては恐れていたことが現実となって持ち上がり、旧約の詩人や預言者たちは、神がもはや、この世界から御顔を背けられたと、しきりに語ります。今日の礼拝の招きの言葉では、エレミヤ書を読んでいただきました。エルサレム神殿に入る人々に向かって、エレミヤが「神は去った」と呼ばわる、その言葉です。私たちは日頃、神は私たちの近くにいつも居てくださると思っていますから、神が私たちに背を向けておられる、私たちを捨てて去っていかれたという聖書の言葉を聞く機会は多くありません。ましてや礼拝への招きの言葉で、「神が私たちから離れ去ってしまった」という言葉を聞くことは殆どないでしょう。
 しかし、神がこの世界から立ち去ってしまわれたということには、はっきりとした理由があるのです。それは何か。私たち人間の罪の故です。この地上はもはや、エデンの園のような楽園ではないのです。神はご自分が創られた世界を一つ一つご覧になって、「見よ、それはすべて極めて良かった」と言われました。しかし神がそのようにお創りになった世界は、今や様変わりしてしまっているのです。神に創られたすべてのものがこぞって神を讃美するというのではなく、この地はもはや、神に背を向けた人間たちの力のせめぎ合いの場となっています。神がお創りくださった世界を心から讃美して喜ぶ時を持つ、そういうことが本当に稀になっています。

 私たちであってもそうだろうと思います。日曜日の午前中の時間には礼拝において神を讃美し、御言葉から神がどんなに慈しみをもって私たちに臨んでくださっているかを聞いて、神の御業を誉めたたえます。けれども、この礼拝堂から一歩出て一週の歩みを始めると、私たちはどうでしょうか。礼拝での朗らかな思いのまま一週間を過ごせる、そういう方はいないのではないかと思います。礼拝堂を出る時には既に、何か身構えた思いをもって歩み出すのではないでしょうか。神を讃美する時間、それは日曜日の午前中だけに押し込めてしまって、一週の殆どの時間は、神を知らない人々の中で、私たちも神を知らない者であるかのように生活してしまう、そういうことが多いのではないでしょうか。それは決して、神が見て「極めて良い」とされた、最初の世界と同じではありません。人間が罪を犯して神に背を向け、神抜きで自分で生きることが当たり前になってしまっている、その結果、神を讃美して生きることによって神の創造の御業を誉め讃えることから離れた生活になってしまっているのです。
 この世には、日曜日の午前中の、この僅かな喜びの時間すら知らない人が大勢います。今この時間、私たちはこの礼拝堂に集められていますが、この壁の外には大勢の人がいて、皆それぞれに思い思いの時を過ごしています。そして多くの人は、そのように思い思いに生きることによって気晴らしができると思っています。けれども私たちは、実は、自分の思い通りにすることでは、本当には寛ぐことはできません。恐らく教会に来る前の私たちがそうであったように、教会に来ない方たちは、今この時を思い思いに楽しく過ごそうと思う時に、そうするためには、今のこの生活を守らなければならないという緊張感をどこかに持っていると思います。自分の生活、自分の生涯は、自分で守らなければならない。自分のやりたいことを守りながら生活し、自分の思いを実現するところに人生の意味があると思いならが生きることは、常にどこかに緊張を持たざるを得ないことなのです。
 そしてまた、そういう生き方を続ける人間から、神は離れ去ってしまわれることでしょう。しかしそれは、神のせいではありません。神抜きで、自分の思いで生きようとする人の所へは、神は入りようがありません。神がどんなに「わたしがあなたの主である。あなたの導き手である。あなたを守る」とおっしゃってくださっても、私たちの方から、「いえ結構です。わたしはわたしの力でやります」と言うならば、神が私たちから立ち去ってしまわれても、それは神の側に問題があるのではなく、私たち自身の在り方の問題なのです。

 けれども、そのようにして神が私たちから離れ去ってしまわれるとしても、それでもこの地上はもともと神が創られた世界であり、神のものです。したがって神は、預言者や詩人の口を通して繰り返し繰り返し、人の背きの罪を思い起こさせておられるのです。「あなたたちは、わたしに背を向けた。それはまるで不倫をしているようなものだ」と。「しかし、わたしは今ここにいる。あなたたちの姿は誤った姿である」と。預言者の言葉には、性的に不道徳な姿を、神に背を向けたイスラエルの民の姿として言い表す表現が多くあります。
 神は、人が神抜きで生きることを決してお認めになりません。人が神なしで生きることを良しとしている、そのことを神は常に糾弾なさいます。「あなたがたは、わたしに創られたものであるのに、わたしを抜きにして生きている」と。しかしなお、預言者は語ります。「神なしで生きる、神はそういう人間から一時、離れ去ってしまわれるけれども、しかし神は必ず戻って来られる。ご自身の内にある深いご計画によって、定められた時に、神は再びこの地上に訪れてくださる」と。しかしその時には、「神抜きで生きようとする人は裁かれ、また神は憐れむ者を憐れみ、再びご自身の民として取り上げてくださる」のだと、旧約の預言者たちはそう語ります。だからこそ、そういう神を畏れ、神の導きを祈るようにと語るのです。

 そのようにして語られた事柄の時が満ちて、神は主イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。主イエスが、その公生涯において一番最初になさったことは何だったでしょうか。主は様々な教えを教え、奇跡の御業をなさいましたが、一番初めにおっしゃったことは、マルコによる福音書1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということでした。「時は満ちて今や神の国はあなたがたの上にやって来ている。神の導きが今あなたの上に注がれていると信じて、生き方の向きを変えて神の民となりなさい」、主はまず最初にそう教えられました。そしてまた、主は、そのお働きの場において弟子たちに「神の国は、あそこにある、ここにあるというものではなく、実にあなたがたの間に、あなたがたの只中にあるのだよ」と教えてくださいました。
 人が神抜きで生きていたために神が立ち去ってしまわれた、しかし、その地上が再び、主イエスが来られたことによって神の国として歩み出すことを許されているとするならば、「主イエス・キリストがいてくださるところに神の国があるのだ」と言うことができます。主イエスは確かに、十字架にかけられ亡くなりました。弟子たちの前から取り去られました。しかしそれは、人が神に背を向けてしまった罪をすべて主が背負ってくださって、人の背きの罪を終わりにしてくださるための出来事でした。十字架上で、主イエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」と叫ばれました。そこに示されることは、神がまさにこの世界を見捨て、人間を見捨てて去っておられるということです。主イエスは、わたしたちの惨めさ、神から見捨てられた惨めさをすべて引き受け、十字架にかかってくださいました。主イエスがすべての人の身代わりとなって、神に見捨てられた惨めさを担ってくださったからこそ、何と幸いにも私たちは、もはや神から見捨てられた存在ではなくなっているのです。もう一度、神の顧みを受けられる、そういう恵みの中を生きることができるようにされているのです。
 したがって、この主イエス・キリストの十字架の御業によって、もう一度、この地上に神の国がもたらされたのだと言うことができます。主の十字架の御業を見上げる。そこでこそ、私たちの、見捨てられ滅びに定められた命が清算されている。その確かさに生きるときに、私たちはこの地に満ちるすべてのものが神の創造の御業であることを知ることができます。まさに主イエスの御業によってこそ、もう一度、神から「お前はわたしのものだよ」と言っていただけるのです。

 しかしこう考えてきますと、またしても腑に落ちなくなります。主イエスの十字架の御業によって、この世が再び神の御国として回復されたのだとすれば、私たちがわざわざ祈らなくても、この世界はやはり既に「神の御国」なのではないでしょうか。主が御国をもたらせてくださったというのに、なぜまた私たちが「御国を来らせたまえ」と祈らなければならないのでしょうか。また、他ならず主イエスがそう教えておられるのは、なぜなのでしょうか。
 もしかして、主の十字架の御業とは、まだ不完全なものなのでしょうか。十字架は為されたけれど、私たちが祈って後押ししなければ完成しないのでしょうか。そうではありません。主が十字架で私たちの身代わりとなり、神に見捨てられる孤独をすべて引き受けてくださった以上、確かに御国は私たちのところにやってきました。確かに神の御国は、私たちの上にあります。私たちは十字架の主を見上げ、主に信頼する限り、神の御国の民とされています。神は私たち一人一人の名を呼んでくださり、一人一人の喜びも悲しみも、そのすべてをご存知でいてくださるのです。
 もしまだ神の御国が来ていないとするならば、聖書は私たちに偽りを告げていることになります。旧約の預言者たちも、偽りを語ったことになります。主の御業によって新しい者とされたことを信じて福音のために仕えた新約の使徒たちも皆、偽りの証しを立てたことになります。
 しかし事実は、主イエスの十字架の御業によって、神の御国は確かにこの地上に始まっています。神は私たちを見限って遠くに行かれたのではなく、私たちの元にいてくださっています。そして、憐れみと慈しみをもって、私たち一人ひとりを持ち運んでくださっています。

 ではなぜ「御国を来らせたまえ」と祈るのか。それには理由があります。それは、主イエス・キリストがご自分の御業を私たちに無理強いなさらないからです。神はどんな時にも、私たちの自由を重んじてくださるのです。主が十字架にかかってくださった、だから私たちは否応なく神の御国に集まって御名を崇めなければならないという、強制を受けているわけではありません。主の御業によって、この世界は神に見捨てられるところから回復されました。今やこの地上は、神が顧みてくださる場です。ですから、そこに生きる者は皆、神の憐れみを受けるようにされています。
 けれども神は、私たちに「だから神に従え」とは強制なさいません。主イエスは、ご自身の御業によって御国もたらされた、そのことを弟子たちが信じて、喜んで自分から従って来るようにと招いておられるのです。主が私たちの身代わりになって苦しんでくださったのだとしても、私たち人間の側は依然として、「あんな十字架などわたしと関係ない。自分の人生の喜びも苦しみも自分自身のものだ」と言い張って生きることもできるのです。それは有り得るのです。そういう人はたくさんいます。しかしそういう人は、結局は自分の人生が十字架と関係ないものとして終わり、一人で死んでいかなければなりません。
 主イエスは、「わたしの十字架の出来事を信じていいのだよ」とおっしゃっています。だからこそ、「信じる者として、神の御国を生きることができますように。『御国を来らせたまえ』と祈りなさい」と教えてくださっているのです。主イエスが来てくださって神の御国が始まっていることと、私たちが信じて主の十字架を自分のこととして受け取っていくかどうか、これは同じことではありません。主と共に御国は始まっています。けれども、私たちはそれを信じて自分のこととして受け止めていかなければなりません。2000年前の十字架の出来事などわたしと関係ないと思うか、それとも自分のこととして受け止めるか、そのどちらかであって、中間は無いのです。
 主を信じて御業を受け入れることで、私たちは、主が始めてくださった御国の民に加えられていくのです。

 桃の実りを思います。たわわに付いた実は、本当に短い軸で木に繋がっています。私たちもそれに似たところがあります。私たちも本当に小さな信仰によってだけ、神の御国に結ばれるのです。もし御国に結ばれる小さな軸を失ったら、どんなに木の近くに落ちたとしても、それはもはや落ちてしまった実でしかありません。主イエスが神の怒りをすべて引き受けてくださったことを信じる、その小さな信仰を私たちが持てないならば、神の御国と関係なく生きて死ぬことになるのです。あなたは信じるのか、それとも信じないのかと、聖書は私たちに問いかけています。

 「御国を来らせたまえ」との祈りによって、私たちは自分自身の信仰に目を向けさせられます。繰り返しますが、主イエスによって神の国がもう一度始まっている、そのことを私たちは信じないこともできます。そして、そのように主を避けてしまうことも少なくはないのです。もし御国に繋がらないとすれば、私たちはどうなってしまうでしょうか。木の枝から離れてしまうのですから、糸の切れた凧のようになってしまいます。凧の糸が切れれば、しばらくは高く揚がっていても、強風に煽られれば舞い上がったり墜落したりすることでしょう。神の御国に繋がらない人の人生は、そのようなものです。その人なりに一生懸命人生を生きますが、確かな足場が無いのですから、頑張ろうとしても、どこに立って踏ん張ればよいのか分からなくなってしまいます。
 しかしそういうあり方を、私たちは蔑んだり嘲ったりはできません。私たちであっても、ふとした弾みでそうならないとは限りません。この世には、人を神から離そうとする力が至るところにあります。そういう勢力は、いろんな仕方で私たちを誘惑します。人生はお金があれば安泰、人々からの尊敬を受ければ人生は豊か、やりたいことをやり遂げることが人生の目標、良い結婚によって優れた血筋を残すことが大事、さまざまな誘惑が私たちの周りにはあり、実際に誘惑に遭い、場合によっては妥協してそれらを受け入れたこともあると思い出す場合もあるでしょう。
 けれどもそれらは、上空を吹きまくる風のようなものです。それは一時、私たちを押し上げて上手くいったような気分にさせ気持ちよくさせてくれますが、最後まで行き着いたときに、決して人生全体を完結させてくれるものではありません。私たちを誘惑する提案は、ただその時その時だけのものであることを、私たちはきちんと弁えておかなければなりません。人生の途上でどんなに成功していたとしても、富を得ても、死に際してそれらを持っていくことはできません。過ぎ去るもの、手放さなければならないものに私たちが心を寄せている限り、私たちは最後には、堕ちていかなければならないのです。

 「御国を来らせたまえ」という祈りは、何よりもまず、私たちが信仰を求める祈りです。「どうか私たちが、信仰によって神の御業に結びついていることができますように、御国にしっかりと入れられていますように」、そのことを祈る祈りなのです。「誘惑に負けて迷いそうになるこのわたしを、どうか御国につなぎとめてください。絶えず弱ってしまいそうなわたしの信仰を、どうか強め励ましてください」、そういう祈りが「御国を来らせたまえ」という祈りなのです。

 そして、「御国」と祈っている以上、その祈りは、私たち個人の祈りで終わることにはなりません。「御国」は一人で成り立つものではないからです。神がご自身の民を皆そこに招いてくださっている。ですから私たちは、教会において「兄弟姉妹と共に御国に連なる者とさせてください」と、そう祈るのです。
「神よ、どうか聖霊を送って御国をここに来らせてください。ただわたしを繋ぐということではなく、御国がここに始まっているこの現実の中で、このわたしも生きる者としてください」と祈るのです。「今信じている者たち、皆の信仰を励ましてください」と祈るのです。
 私たちは皆一人一人顔が違っているように、弱さも違います。皆個性があり、皆同じように神を信じ従うかというと、そうではありません。信仰者として生きる形は、皆違います。他の人が自分と違うから駄目だなどと言うことはできません。「皆一人一人、弱さも信仰のあり方も違うけれども、それでも共に神の御業に与っていることを信じて御国の中を生きる者としてください。そして、兄弟姉妹の傷や痛みも互いに労わり覆いながら支えながら生きる者とならせてください」と、そう祈るように招かれています。

 今の時代の難しさは、決して御国が来ていないということから始まっているのではありません。御国は、主イエス・キリストの十字架の御業によって既に始まっています。問題なのは、私たちが、御国が来ていることを真剣に信じることができないことにあります。したがって、「御国を来らせたまえ」との祈りによって私たちが願うことは、何よりもまず私たち自身の信仰を求めるということです。「どうか主の御国にこのわたしを繋がらせてください。自分自身を持て余すようなわたしであっても、どうかあなたの御国の中に置いていてください。どうかこのわたしに信仰を与えてください」と祈る、そのことが私たちにとって一番大切なことなのです。

 「信仰を与えてください。不信仰を取り去ってください。どうか私たちの群れを信じる者の群れへと育ててください」。「御国を来らせたまえ」と祈りつつ、この一巡りの歩みを歩み出したいと願います。

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