聖書のみことば
2015年10月
  10月4日 10月11日 10月18日 10月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月25日主日礼拝音声

 朱による確立
10月第4主日礼拝 2015年10月25日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/フィリピの信徒への手紙 第4章1節

4章<1節>だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

 ただ今、フィリピの信徒への手紙4章の1節だけをご一緒にお聞きしました。わずか1節ですが、この言葉には、使徒パウロがここまでフィリピ教会に心を込めて伝えてきた万感の思いが込められている、そういう箇所だと思います。
 4章の2節からは、手紙の内容が少し変わり、当時のフィリピ教会で起こっていた具体的な問題、教会員の間にあった摩擦について、パウロが、主を信じる者として助言を与えるという内容になってきます。ですから、今日の一節は、これまで語られたことの締めくくりとして述べられています。そういう言葉として、今朝は、ここに込められているパウロの心から聞き取りたいと願います。

 まず「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち」と、パウロが改めてフィリピ教会の人たちに向かって呼びかけています。フィリピ教会は元々パウロが伝道して立てられた教会ですから、礼拝に集う一人一人をパウロはよく知っていたに違いありません。ですから「愛するあなたたちへ」という呼びかけは不自然ではありません。しかし実は、今日の箇所でパウロはとても珍しい言葉遣いをしています。それは「慕っている」という言葉です。この言葉は、新約聖書の全体の中でここにしか出てこない特別な言葉です。ここだけにしかないということは、パウロがただ一度だけ、こういう言い方をしたということです。ですから、そこにどういう思いが込められているのか、考えてみたいのです。
 「慕っている兄弟たち」という形容詞はここだけですが、この言葉の元になった動詞は、フィリピの信徒への手紙の中で2度出てきます。ですから、どこで使われているかを読んでみますと、ここに記されていることのニュアンスが分かると思います。

 最初に出てくるのは1章の8節です。「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」。訳が違いますが「あなたがた一同のことをどれほど思っているか」という言葉が、「慕っている」の元になっている動詞です。パウロがどれほどフィリピ教会の人たちのことを思っているか、それは「キリスト・イエスの愛の心で」思っているのだと、パウロは言っています。それはどんなに深い愛だろうかと思わされます。
 私たちは普段、お互いの間で、こんな言葉遣いはしないでしょう。「キリスト・イエスの愛の心で、あなたのことを思っています」と、確かにそういう思いになる時はあるのだろうと思います。けれども、たとえそういう思いになったとしても、照れ臭くて、なかなか互いにそうは言えないのではないでしょうか。こんなに強い、はっきりとした言い方で相手への思いを告げるということは、なかなか無いように思います。遠慮する思いが働いて、「キリスト・イエスの愛の心で思っている」と思ったとしても、「罪人である自分がこんなことを言ってもよいものか」という躊躇いが入り込んでくるのではないでしょうか。
 しかし、パウロがこのように強くはっきりとした言い方で書いているのは、この手紙を書いているパウロのその時の状況が普通ではなかったからです。これまで語ってきましたように、パウロは牢屋に捕らわれていました。しかも、刑期も定かではなく、そこから再び無事に外へ出られるかどうか分からない、フィリピ教会の人たちにもう一度会えるかどうか分からない、もしかしたらこの手紙が最後になるという恐れさえあったのです。牢屋の中からパウロが書いている手紙にはいつも絶筆のような感じがあるのですが、そういう中からパウロは、本当に大事なことをどうしてもはっきりと伝えなければならないという思いを持って、こういう言い方をしているのです。
 ですから「愛し、慕っているあなたたち」という言い方は、譬えて言うと、長年親元を離れて暮らしていた一人息子が、ある日、母親が危篤であるとの知らせを聞いて大急ぎで駆けつけて、「お母さん、このわたしを生んでくれてありがとう」と涙ながらに呼びかけるのと似ています。もはや生きている間に二度と言葉を交わすことはできないかもしれない。そういう状況の下で、パウロはフィリピ教会の人たちに向かって「あなたがたを愛しているのは、キリスト・イエスの愛の心によるものなのだ」と告げているのです。ここでは、普通では想像できないほどの深い思いが込められていると思います。

 もう一つ「慕っている」の動詞が使われているのは、2章26節です。ここではパウロ自身の思いを語っているのではなく、エパフロディトという同労者の思いをパウロが代弁して述べています。「しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです」。ここでも訳が違いますが、「しきりにあなたがた一同と会いたがっている」という言葉が、「慕う」という形容詞の元になっている言葉です。
 エパフロディトは、囚われの身のパウロの身の回りの世話をしようという志を与えられて、牢屋のパウロのところに行くのですが、牢屋の生活があまりにも過酷なために、パウロに仕えて暮らすうちにエパフロディトの方が体調を崩し、一時は生きるか死ぬかという状況になりました。幸い一命を取りとめて、健康を回復しつつあるのですが、その状況から、もう一度フィリピ教会の人たちと会って顔を合わせたいと願っている、それが「しきりにあなたがた一同と会いたがっている」という表現なのです。この慕わしさというものは、普通私たちが思う「愛する、慕う」という以上のことが含まれていると思います。
 2章26節の言葉を丁寧に読み返すと、そこには、エパフロディトがもう一度フィリピ教会の人たちと会いたいと願っているということと、もう一つのことが並行して書かれています。それは、エパフロディトの病気のことがフィリピ教会に伝わってしまったために、そのことでエパフロディトが心苦しく思っているということです。この二つのことが並び立っているということが注目すべきことだと思います。
 ある説教者はこのことについて、ここでエパフロディトがフィリピ教会の人たちを慕うというのは、ただ単に懐かしいとか、会えなくて寂しいというような気持ちのことではないと語っています。エパフロディトが自分の病気のことで心苦しく思うことは、エパフロディトにとって「慕う」ということが、夢のような甘いことではなかったことが分かるというのです。相手への思いやりがここにある、自分のことで心配をかけたり、迷惑をかけることが大変申し訳ないことだと思っている。そのことが、エパフロディトがフィリピ教会の人たちを慕うと言っていることと深く結びついている。もし、単に自分が病気で辛く苦しいから会いたい、寂しくて仕方ないから誰かを身近に感じたいということだけだったなら、これは時として大変な我が儘になる場合がある。相手の都合など考えずに、ただ一緒に居てほしいと思うことを本当の愛のように思うことは間違いではないかとすら言っています。
 こういう指摘を聞いて思います。信仰をもって愛し、信仰をもって慕うというあり方は、自分の思いを満たすことではなく、相手のことを心から思い、考えるということではないでしょうか。心から愛すればこそ、迷惑をかけたくないと思うでしょう。あるいは、自分の病気のことが知られて、皆が心配してくれていることを知ったならば、一刻も早くその心配を取り除くために自分が努めたいと思う、それこそがキリスト者の愛の形であり、キリスト者が本当に相手を慕っている姿だと思うのです。
 ですから、パウロがキリスト・イエスの愛の心でフィリピ教会の人たちと会いたいと願っていることと、エパフロディトがフィリピ教会の人たちとしきりに会いたがっているということは、同じことだと言ってよいと思います。エパフロディトは、自分が苦しいから皆と会って元気になりたいというのではなく、心配をかけている皆に、何とか早く元気な姿を見せて安心させたい、と同時に、フィリピ教会の人たちにパウロ先生が獄中であっても意気軒昂に生きていることを伝えたい、それによって、フィリピ教会の人たちの不安を取り除いてあげたいという気持ちなのです。
 もしエパフロディトが、自分の思いや内面を気にするとすれば、彼は逆に帰りたくないだろうと思います。パウロを助けるつもりが、病気になって却ってパウロに心配をかけているのですから、そう考えれば計画は失敗したわけで、どんな顔をしてフィリピに帰ったものか、いっそ消えてしまいたいという思いになるかもしれません。けれども、エパフロディトがそうならないのは、自分のために信仰生活しているからではないからです。共に生きている兄弟姉妹のために、互いに励まし合いながら支え合いながら生きる、エパフロディトがそう生きているからこそ、フィリピ教会の人たちとどうしても会いたいと願っているのです。

 考えてみますと、教会の外のこの世の交際というものは、いつも自分が元気だったり上手くいっていることが根底にあるのではないでしょうか。万事が上手くいっている時には、自分も世間並みに他者と付き合ってみたいと思うでしょう。そして、楽しいからこそ、そこで交わりをするのです。けれども、もし体が不自由になってしまったり、生活が左前になってしまったら、今の弱った自分を見られるのが嫌で、急にこれまでの交際から身を引いてしまう、この世ではそういうことがよく見られるのではないでしょうか。それは、自分の思いで、自分の力で他者と交際しようとする人間の姿です。
 けれども、エパフロディトは違います。自分の病気のことで兄弟姉妹に心配をかけていることを心苦しく思っていますが、しかし同時に、感謝して、何とか早くその心配を取り除きたいと思っている。自分は決して見事な働きができたわけではないけれども、しかし、自分の今ある状況で、何とかしてもう一度兄弟姉妹、隣人のために自分を役立たせたい、そういう思いを持っているのです。エパフロディトは決して、自分に近しい人たちを愛しているのではありません。そうではなく、主イエス・キリストがその兄弟姉妹を愛しているが故に、わたしも同じように、フィリピ教会の兄弟姉妹に仕えなければならない、そう思っているのです。
 パウロは、エパフロディトの病気が治れば、一緒にフィリピ教会に行きたいと思っていますが、牢屋に捕らわれていますから行けません。牢屋の中からフィリピ教会のことを案じ続けるのです。その際に、エパフロディトが自分の病気のために心配をかけて心苦しく思っているのと同じように、パウロも、パウロ自身のせいではありませんが、牢屋に捕らわれることで心配をかけて心苦しく思っています。けれども、その牢屋の中で、「ここでわたしは甦りの主イエス・キリストに支えられつつ慰めと励ましを受けて精一杯生きています」と意気軒昂に語ります。捕らわれて不自由な中から「キリスト・イエスの心で、わたしはあなたがたを思い、あなたがたを愛しています」と伝えるのです。そして、そう書かれた手紙を携えて行くのは、病気の癒えたエパフロディトであり、またパウロが最も信頼し側に置いていた弟子テモテでした。

 この二人が、パウロの意気軒昂な生き方と思いをフィリピ教会に伝えてくれることを思った上で、パウロは、フィリピ教会の人たちにも「主イエス・キリストへの信仰の中に生きる生活を送ってほしい」と願うのです。「わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」と言っています。「主イエス・キリストによってしっかり立ってほしい。キリスト・イエスの愛の心に仕える、そういう生活をわたしと一緒に歩んでほしい」、このことがこのパウロの手紙に書いている切なる願いなのです。「主によってしっかりと立ちなさい」この一言の中に、パウロの思いが凝縮されていると言ってよいでしょう。
 しかしこう言った時、パウロは実際にフィリピ教会がどうなってほしいと思っているのでしょうか。「主イエス・キリストによってしっかり立つ」ということを、もう少し丁寧に語り直すならば、「主の内に立つ」とも訳せるのですが、「主の御体なる教会の交わりの中にあって、その教会の信仰の中に立ち続けて欲しい」ということになるだろうと思います。教会の交わり中に身を置き、教会の群が信じている信仰に支えられて、キリスト・イエスの愛に生きる、そうあって欲しい。それが「このように主によってしっかりと立ちなさい」という言葉になっているのです。
 
 「このように」と言っているのですから、直前にその内容があります。それは「わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」です。ここまでパウロは「喜び」「冠」ということをしばしば語ってきました。特に「喜び」は繰り返し語っています。1章3・4節では「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」と語っています。フィリピ教会の人たちがパウロの喜びになっている。フィリピ教会のことを思い起こすたびに喜びをもって祈っていると言っています。また、2章2節では「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とも言っています。これは、パウロと同じように考えなさいと言っているのではありません。そうではなくて、パウロが主イエスに感謝して生きている、そのように主イエスに感謝し、主イエスが命じるように隣人を愛し、仕えることで同じになって欲しいと言っているのです。
 また更に、2章17節では「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」と言っています。「わたしと一緒に喜んでほしい」、それは、自分の思い通りになることが喜びではないことは明らかです。十字架の主イエス・キリストが自分と共に歩んでくださるのだから、「たとえ自分が死ななくてはならないとしても、わたしは主と共に歩んでいく。だからあなたがたも一緒に喜ぶ者となって欲しい」と言っています。

 パウロは福音を伝える伝道者として、教会の群の一人ひとりを覚えて祈り、一人ひとりを主に委ね、喜んでいます。フィリピ教会の人たちが皆、天使のようだったわけではなかったでしょう。一人一人、目に見える形で、あるいは見えなくても様々な問題を抱え生きている。しかし、そういう一人一人がキリストに委ねられた者なのだと信じて、パウロは祈るのです。そして心から喜んでいると言っています。
 私たちの人生には、本当に悲しいこと、辛いこと、嫌なこと、苦しいことが満ちているでしょう。けれども、そういう私たちがキリストに委ねられているのです。私たちに能力があって、道を切り拓く力に満ちているから嬉しいのではありません。私たちは本当に貧しい者で、もはやどちらに向かって歩んで行ったらよいのか分からなくなることすらあるかもしれません。しかしそれでも、牢屋の中のパウロは、「わたしは主イエス・キリストに伴われている」と言い、またそれはフィリピの教会の人たちとて同じだと言っています。そして、主イエス・キリストに委ねて、感謝して、喜んでいるのです。
 人生には決して嬉しいことや楽しいことばからがあるのではありません。むしろ、自分のことを分かってもらえないもどかしさ、怒り、憤り、あるいは孤独というものを、しみじみと思う時もあるに違いないのです。しかしたとえ、そういうことがどんなに私たちの人生に満ちていたとしても、十字架を見上げれば、そこには主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかってくださっている、それは、私たちが正しくあるための慰めになり励ましになるはずなのです。私たちが本当に辛いのに誰も分かってくれないとすれば、私たちは絶望するよりありませんが、しかし主イエスは、そのことを承知の上で、私たちのために十字架にかかってくださっているのです。そして、十字架上から「あなたたちは、神に喜ばれるように生きてよいのだよ」と言ってくださるのです。
 パウロは、十字架によって新しい命を与えられて生きる者として、置かれた場所からもう一度新しく生きていくことができる、そういう喜びに生きています。そして、「あなたたちも、そういう喜びに与っている者なのだ」と、フィリピ教会の人たちに向かって語っています。「わたしの喜びである人たち、あなたたちは、そういう人である」と呼びかけています。

 そしてまた、同時に「あなたたちは、冠である人たちである」と語ります。ちょっと驚くような言い方だと思います。私たちは教会に集って、自分が冠みたいな存在だなどとは思わないでしょう。むしろ、庶民であり、どちらかと言えば、底辺の方を生きているという感覚でしょう。当時、「冠」には二種類の意味がありました。
 冠の一つは、王や皇帝が頭にかぶる冠です。それは地位、権力、力を表しています。冠と言えば力の象徴だと私たちは思っていますから、それで、自分が冠だと言われてもそぐわないと思うのです。けれども、実は、もう一つの冠があります。そして、その冠も当時の人たちにとってはとても親しみがあるものでした。それは月桂冠です。競争に勝った人が頭に戴くものです。競争に勝ったからといって、いきなり権力者になるわけではありません。今日ではマラソンなどで、ゴールした優勝者がかぶるのを見ることがあります。あの冠は、権力の象徴なのではありません。「あなたはよく頑張った。苦しい練習に耐えて、この日を迎えたのだ」ということを讃えるための冠です。
 黄金などのきらびやかな冠は、キリスト者には無縁です。しかし、月桂樹の冠は、私たちの信仰生活に関わりがあります。それは、ただ成績が良いから貰えるという冠ではないのです。周りから見ればあの人は成績が良かったから被らせてもらったのだと思うかもしれませんが、しかし、もらった当人からすれば、本当に辛い練習を手抜きせず耐え、肉体に鞭打ちつつやってきたことを表す冠です。
 この手紙の3章12節〜15節でパウロは、信仰生活を競争に譬えています。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」。信仰生活とは、長い競争のようなものなのだと、パウロは言います。「後ろのものを忘れなさい。どんなに今まで惨めな生活を歩んでいたとしても、その生活をこれから先も続けなければいけないと決まっているわけではないのだよ」と言っています。「神が『前に』備えてくださっているのだから、今からもう一度自分自身を鍛えて生きていくのだ。そうすれば神は、きっと冠を与えてくださる」と、パウロは、キリストの愛の心を持って生きるというところから離れない、そういうキリスト者の懸命な有り様を冠に譬えているのです。「そういう生活へと招き入れられている。だからこそ、主の教会の交わりの中で、しっかりと立って歩んで欲しい」「わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」と言っています。

 実は、この「しっかり立つ」という言葉には、語るべきことがあります。この言葉は、当時の人が普通に使っていた言葉ではありません。キリスト者たちが新しく使い始めた言葉なのです。元々この言葉は、戦争で敵が攻めてくる時に、退却せずに陣地を守り抜くという言葉です。「そこに立つ、立ち続ける」、そういう言葉から作り出されました。「主イエス・キリストがわたしの土台となってくださっている」ということです。
 言うなれば、私たちの捧げる礼拝は、私たちが主イエス・キリストの土台の上に陣地を築いて、そこから離れない、そこに踏みとどまるためにあります。私たちは毎週毎週この礼拝に招かれ、主イエス・キリストを信じて生きる生活に留まり続けるべきことを教えられています。
 私たちは本当に幸いな者です。毎週礼拝するために集まる場が備えられています。しかし、このことは決して当たり前なことではありませんでした。使徒言行録などを読みますと、よく分かります。初代教会のキリスト者たちは、自前の礼拝堂を持っていないため、往来の騒がしい所で礼拝したり、場所を借りて懸命に礼拝を捧げていました。ところが、そのことを快く思わない人たちに追い出されることを繰り返し、そういう中でパウロは暴漢に襲われ、怪我をしたりしています。使徒言行録を読みますと、パウロは行く先々で攻撃される、パウロの伝道旅行とはそういうものでしたが、しかし、そういう中からフィリピ教会も立てられたのでした。そして、今私たちの捧げる礼拝は、そういう礼拝によって育てられてある礼拝なのです。迫害の経験の中から立ったフィリピ教会の人たちに向かってパウロは「主イエス・キリストの土台にしっかり立ちなさい。踏みとどまりなさい」と言っています。

 私たちは、自分の思いの強さや自分の確かさの上に留まるのではありません。自分で何とかしなければならないと思えば、大変なことでしょう。しかし、私たちがどんなに惨めな大変な状況に置かれていたとしても、主イエス・キリストがここに居てくださる。私たちが「辛い、悲しい、もう駄目だ」と思う時に、その足元には十字架の主イエス・キリストが共に居てくださるのです。だからこそ、パウロは「ここにしっかりと立ち、留まりなさい」と語っています。
 
 私たちが毎週毎週、聖書から聞かされている福音は、「十字架と復活の主イエス・キリストが、あなたと共におられます」ということです。私たちが志を高く上げて悟りを開いて主イエスに近づきなさいという教えではありません。そうではなく、「主イエス・キリストは、あなたのために生まれてくださいました。あなたのために、飼い葉桶から十字架までの道を歩んでくださいました。そして、今、甦られて、あなたが生きる人生の中に、共に立っていてくださいます」と語られています。
 私たちは、主イエス・キリストが私たちと伴ってくださることを信じ、主の御言葉に示されながら、神に愛されている者として相応しい生活に留まりたいと願うのです。
 自分の思いや願いが満たされることを願うのではなく、信仰による愛の働きに押し出されて行きたいのです。そういう生活が私たちに与えられるように祈りたいのです。弱さ、頑なさを持つ私たちのために、主イエスが十字架におかかりくださっています。その主イエス・キリストによって、私たちには新しい生活が与えられているのだということを信じて、ここからもう一度歩み出したいと願うのです。

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