聖書のみことば
2015年10月
  10月4日 10月11日 10月18日 10月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月4日主日礼拝音声

 目標を目指して走る
10月第1主日礼拝 2015年10月4日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/フィリピの信徒への手紙 第3章12〜16節

3章<12節>わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。<13節>兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、<14節>神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。<15節>だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。<16節>いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

 ただ今、フィリピの信徒への手紙3章12節から16節をご一緒にお聞きしました。12節に「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」とあります。
 「既にそれを得たというわけではなく」、つまり、パウロは「まだ、それを得ていない」と言っています。パウロは一体何を指して「それ」と言っているのでしょうか。パウロが何かを得たいと願っていたことは確かなようですので、何を得たいと願っていたのだろうかと考えながら、この箇所の少し前を読み返しますと、8節9節に「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」とあります。「キリストを得る」という言葉が出ています。ですから、今日のところで「既にそれを得たというわけではなく」と言っている「それ」は、「キリスト」を示していると見当を付けることができると思います。

 しかし、「キリストを得る」とは、一体どういうことなのでしょうか。9節でパウロは、律法を行うことで自分が完全になることができると主張する「律法の義」あるいは「自分自身の義」ということに対して、キリストを信じる信仰に基づいて神から与えられる義、「信仰による義」があるのだと語っています。ですから、パウロは「キリストを得る」という言い方で、「キリストを信じる」ことで神がパウロを「良しとしてくださっている」、「それは正しいあり方である」と言ってくださっている、そういう「信仰の義」ということを表そうと考えていたと思います。
 パウロの敵対者たちは、聖書に書かれている一つ一つの戒めや決まりごとを行えば、それで自分は正しくいられるのだと主張していました。今日のところで、パウロは「それを得た」とか「完全な者となっている」という言葉を使っていますが、それはもともと、パウロに敵対していた人たちが好んで使っていた言葉だと言われています。つまりパウロの周りには「それを得ている」とか「完全な者となっている」と言い張る人たちがいたのです。2節で「あの犬どもに注意しなさい」とか「よこしまな働き手たちに気をつけなさい」とパウロは警告の言葉を発していますが、「犬ども、よこしまな働き手」と呼ばれるような偽の教師たちは、もっともらしい顔をして偽りの教えを吹聴していたのです。彼らは、神についての誤った知識、真実とは全く正反対のことを語っていました。それが自分の義を主張するということです。

 パウロの敵対者から言わせれば、主イエス・キリストの御業はもはやそれほど大事なことではないという結論になります。主イエス・キリストがいなくても、自分たちには聖書(旧約)の中に神がどう生きるべきかを教えてくださっている言葉がある。神の民としての生き方については、聖書に余すところなく記されている。だから聖書を隅から隅まで丁寧に読み、理解して、それを行ってさえいれば、神の前に完全な者として立つことができるのだと、彼らは教えていたのです。聖書を通して、人間が知らなければいけない事柄は既に与えられている、得ている。また男子であれば割礼を受けるということから始まって、人生の中でしなければならない決まり事は必ず行っている。だから自分たちは完全な者なのだと教えていたのです。もうこれ以上、自分の信仰について教えられたり、付け加えられる必要はない。また、自分の今の生活から取り除かなければならないような過ちもない。幼い頃から神について教えられ、神と共にある生活を既に得ている。そういう生活を手にしている以上は、すべてを与えられた完全な者として歩いているのだから、安心しなさい。それが偽の教師たちの教えなのです。
 こういう教えは、ある意味で、私たちの心をくすぐるものだと思います。割礼を受け、律法の行いの目立つところを守るように注意して心がけていれば、「あなたの人生は神が良しとしてくださっているよ」と、まるでお墨付きを与えるような教えだからです。とても信心深そうに聞こえます。「聖書をなおよく読んで、今まで通り、律法を行って生きていけばよいのですよ」とは、信心深そうに聞こえますが、とても甘い囁きです。

 ところが使徒パウロは、そういう偽りの敬虔さに対して、真っ向から反対しています。「わたしパウロとしては、『それを得た』などとは、とても言えないし、『すでに完全な者になっている』などとは、とても言えない」と語ります。きちんと割礼を受けてさえいればそれで神の民としての資格を得、律法の言葉を自分なりに解釈して守ってさえいれば、そういうあり方で、完全な者として神の前に立てると考える、そういう教えに対して、パウロはあからさまに「ノー」と言っています。どんなに強く「わたしは割礼を受けている」と主張してみたところで、あるいは、どれほど熱心に聖書を研究して、そこに教えられている教えと戒めを実践して生きてみたところで、もしそれだけで終わってしまうならば、それでは決して十分とは言えないのだとパウロは語っています。「主イエス・キリストというお方を抜きにして、主イエスを忘れたところで、どんなに敬虔ぶってみても、そういうあり方では決して神に認められないし喜ばれることにはならない」と、そうパウロは考えているのです。

 実は、旧約聖書の教えについては、既に主イエス・キリストご自身が語っておられます。ヨハネによる福音書5章39〜40節で、主イエスは「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と言われました。「主イエスご自身」が「聖書が伝えようとしている内容そのもの」なのだと、主はおっしゃっています。
 当時のユダヤ人が好んで求めた「永遠の命」、言い換えれば「自分が生きた者になる、自分の一生が無駄にならない」、そのような命の源とは、聖書の文字の行間にあるのではない、聖書を読んで頭に閃くインスピレーションの中にあるのでもない。そうではなく、「わたしにこそ、あるのだ」と主イエスは言われるのです。どうしてでしょうか。それは、まさに主イエス・キリストというお方が「神の身元からこの地上に降りて来られた、ただ一人のお方」だからです。
 クリスマスの時期によく読まれる箇所ですが、ヨハネによる福音書1章18節に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。主イエス・キリストというお方こそが、私たち人間に神の深い御心を知らせてくださるのです。
 神の御心とは何でしょうか。神は、言葉に尽くせないほど深く御心を寄せて、この世界とそこに生きている私たち人間の営みを見てくださっています。にもかかわらず、そういう神がおられることに気づかないまま、私たちは気ままに生き、それをご覧になって神は深く悲しみ、正義をそこに来らせようと決意なさるのです。そして、正義を来らせるためには、ご自身の独り子をさえ犠牲にしても構わないとさえ思われる。それほどまでして、私たちが神のものとして生きる者となってほしいと、神は願っておられるのです。
 私たちが神抜きで生き奔放で無軌道な生活をしているために、その罪に対する怒りを、神はご自身の独り子の上に注ぎ、十字架の上でその清い命を滅ぼされ、それほどまでして人の罪を清算しようとなさいました。そして、罪の清算の十字架の後に、命の源なるお方として、主イエスに復活の命をお与えになり、またそれを信じる者にも永遠の命を与えると約束してくださいました。その神の御心の一切を、主イエス・キリストが私たちに教えてくださるのです。

 私たちが神の御前に立つことができるのは、私たち自身が自分の心の中でそう思い込んでいるからではありません。「わたしは神に愛されている、神の子供なのだ」と自分で強く思い込むから教会に来ているのでも、神の前に立つことができるのでもありません。もし私たちが、自分の思いだけで教会に来ているのだとすれば、私たちの心というものは風見鶏のようにくるくると変わるのですから、休まず教会に来ることなどできるはずはありません。恐らくこの世には、教会に行くよりも楽しいことがたくさんあるでしょう。
 けれども、神はそういう私たちを主イエスのもとに置いてくださる、だからこそ、私たちは主の十字架によって清められた者として新しくされているのです。意外なことと思われるかもしれません。教会へは自分の意思で来ていると思っておられるかもしれません。しかし、その私たちの意思というのは、主イエス・キリストが十字架にかかってくださっていればこそ、私たちに与えられているものなのです。主イエスの十字架の出来事が無かったら、私たちが自分で神を仰ぎ、神を慕って歩み続けるなどということはできません。それは、私たちの信仰生活を振り返って考えてみてもわかることです。礼拝に来る時には、確かに、私たちは神の方を向いています。けれども、礼拝の後、日曜日の午後から土曜日まで、私たちは常に神のことを考えて生活しているかと言えば、決してそんなことはないでしょう。
 私たちは、自分の心でだけ考えれば、いつでも神から離れてしまいがちな傾きを一人の例外もなく持っています。牧師であってもそうです。にもかかわらず、私たちは日曜日には教会にやって来ます。どうしてでしょうか。それは、主イエスが十字架の御業をもって私たちの罪を滅ぼしてくださって、そして私たちに神の民としての新しい姿を与えてくださっているからです。主イエスを抜きにしたところで、どんなに私たちが一生懸命神について考え、あるいは主イエス抜きで聖書を研究してみたところで、神の深い慈しみと愛がこのわたしに注がれていることを感じることができるかと言えば、それは決して分からないのです。

 もちろん、私たちは主イエスを離れたところで、「神の愛」と言うことはできるし、神の愛についていろいろ思い巡らすことはできると思います。けれども、もし、神が主イエスをこの地上に送ってくださっていなかったら、どうなるでしょうか。主イエスがおられるからこそ、私たちは、主の十字架と復活の出来事を仰いで、確かに神の愛と慈しみがこのわたしの上に与えられていることを確認することができるようにされているのです。
 もし、主がいてくださらなかったら、日曜日ごとに礼拝に来ることがなかったならば、私たちの一生の心の向きは、今と同じようでいられたかどうか、恐らく無理だろうということに気づかれると思います。私たちは、日曜日ごとに教会に集められ、主イエスの十字架と甦りを繰り返し繰り返し聞かされるので、「本当にわたしは神の愛に抱かれているのだな」と思いつつ生活することができるのです。主イエスを抜きにしてしまうなら、私たちがどれほど神の愛を考え、神の慈しみについて語ったとしても、それは空々しいことになってしまうに違いありません。
 私たちは平素、この地上に本当の愛や本当の平和は成り立ちにくいものだと思いながら暮らしていると思います。皆、頭の中では分かっています。私たちが幸せに生きるためには平和が大切、私たちの生活が冷たいギスギスしたものにならないためには、私たちが愛を行って周りの人たちと生きていかなければならないということは、頭では分かるのです。
 しかし、「ではわたしが本当にそれをやってみよう」ということになると、どうでしょうか。私たちが自分の心の中で、憎しみやいさかいや争いの元栓を閉めてしまって、自分のところからそういう悪いものを出さないようにしよう、そしてその代わりに自分の心からは愛の息吹とか愛の香りだけを世の中に発信するようにしよう、そう思って生きようとすれば、私たちはすぐに破綻してしまいます。それは何故でしょうか。
 私たちは、本当に毎日毎日、隣の人の事が気にくわないのです。一緒に生きていても、自分と違うものを受け入れられないのです。何故この人は自分と同じように考えないのだろうか。愚かなことだ。愚かなのは自分かもしれないのですが、自分が愚かだとは思わないのです。自分の考えこそが正しいと、皆思っているのです。口にこそ出しませんが、心の中で思っているのです。私たちは、自分は愛を行うとか、自分はいさかいを起こさないとか、自分でそうしようとすれば、たちまち行き詰まってしまうのです。
 そういう私たちが、主イエスを抜きにしたところで神の愛を考え、神の愛を語り、行うことは、果たしてできるのでしょうか。それはやってみる前から分かっていることですが、必ず失敗するのです。神の愛や慈しみを口先だけで言ってみても、実際には、お互いへの反発とか嘲り、憤りとか憎しみとか、そういうどす黒い感情で生活が塗りつぶされてしまうに違いないのです。

 そうだからこそ、パウロは今日の所で、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と言っています。この最後の言葉、「キリスト・イエスに捕らえられているからです」、このことこそ、パウロが何よりも大事していることです。パウロが神について考える中で、自分なりの救いを思いついているということではありません。「本当に、このわたしがキリスト・イエスによって捕らえられたのだ」という言葉を語ることが、パウロの偽らざる心情だと思います。
 しかしこれは、パウロだけではないかもしれません。私たちも同じではないでしょうか。教会に何十年も通い続けている人でも、自分からキリストを調達したなどという人はいないはずです。私たちが何故教会に繋がることが出来たのか、その一番初めはどこにあったのか。それは例外なく、誰かが私たちのために、主イエス・キリストを紹介してくれたからです。ではその紹介してくれた人は、どうやって主イエスを知ったのか。その人も誰かから教えてもらったに違いないのです。自分の家族だったかも知れない、学校や職場だったかも知れません。あるいは、本を読んでキリスト教を知った人もいるかも知れません。本に書いて知らせてくれた人がいるから、私たちはキリストに出会うことができるのです。
 しかし、その発端のところには誰がいるのか。そこには主イエス・キリストがおられるのです。主イエス・キリストが2000年も前から、この地上に教会を立ててくださって、そして、「わたしのもとに来なさい」と招いてくださっているのです。その招きの中に、パウロは招き入れられました。ですからパウロは、「わたしはキリストに捕らえられたのだ」と言うのです。自分から救い主を見出そうとして相応しい人物を探していたら、あのイエスという人が良さそうだからそうした、ということではありません。「主イエスの方から、このわたしに出会ってくださって、わたしを招いてくださった」、それはパウロだけではなく、ここにいる私たちは皆同じなのです。

 パウロは13節14節に「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と言っています。「主イエスが出会ってくださり、捕らえてくださった。主の御業を信じる者としてくださった。自分では、その主イエスを捕らえたとは思っていないけれど、しかし、完全に捕らえきっていないからこそ、完全に分かりきっていないからこそ、少しずつでも何とか主イエスの御業を理解し、その御業に与る者として相応しい生活を送りたい」、そういう願いがパウロの中に生まれているのです。何とかして、今自分に与えられようとしている新しい生活を過ごしていきたい、そういう願いがパウロの全身を支配して突き動かしているのです。私たちもパウロと同じような志を与えられたいと願うことでしょう。
 パウロは、主イエスを信じて、主を追い求め、従っていこうとする生活を、スポーツ選手の生活と重なるものとしてイメージしています。「(神が)お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」と14節にあり、競争選手がイメージされているとよく言われます。長距離選手であれ短距離選手であれ、競争する選手というのは、競技会の時だけ走るということではないと思います。競技会での成績を少しでも上げるために、日頃から節制し鍛錬するのではないでしょうか。自分が少しでも身軽に走れるように、例えば、体重調整のために食事に気をつけながら、自分を鍛錬します。
 では、キリスト者の場合は、どうやって自分を鍛錬するのでしょうか。皆で何か修行をして、それをすれば神のことが分かるようになるのでしょうか。そうではないと思います。私たちは、自分の知恵とか行いとか知識によって高まっていくのではなくて、「貧しい者でしかないこのわたしのところに、主イエスが確かに来てくださっているのだ」ということを、聖書を通して、いよいよ新たに知らされていくのです。そして、そのことによって「わたしは確かに、今のわたしの生活のままで、主イエスに捕らえられているのだ」という確信を深めていくのだろうと思います。
 私たちが主イエスと共にあることの確信を得るのは、瞑想とか書物によるのではなく、まさに、主イエスに繋がりたいという思いを持って、憧れを持って、教会で礼拝を捧げ、共に御言葉を聞いていく生活の中から与えられていくのです。

 教会の頭である主イエス・キリストが、今この時にも、私たちの群と共にいてくださいます。この礼拝の中で語られている言葉、それは、人間の言葉で語られているだけと思うかもしれませんが、この日本の地において、日本語の聖書、日本語の説教を通して、神が私たちに語りかけてくださっている言葉です。その言葉を聞き取ろうとして、私たちは毎週礼拝に集まっているのです。
 自分自身は決して、天使のような生活を歩めていないかもしれません。むしろ、破れや痛みの多い、そういう生活を送っているかもしれません。しかし、そんなわたしのところにも、主イエスが確かに訪れてくださって共に歩んでくださっているのだと、聖書の御言葉から示され、確認させられながら、私たちは段々と、主が共にいてくださることの確信を深めていくのです。
 そういう仕方で、主イエスは私たちに伴ってくださるのです。

 私たちは、既にキリストを得ているというわけではないし、既に完全な信仰を持っているわけではありません。しかし、「主イエス・キリストが私たちを捕らえてくださっている」、このことは既に聞かされています。
 そして、私たちは今、主が捕らえてくださっているのだから、その主と共に生きる者として、自分はどうあったら良いのか、何がわたしに求められているのかということを、聖書の御言葉から更に教えられながら、精一杯前を向いて進んでいく者とされたいと願うのです。

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