聖書のみことば
2014年8月
  8月3日 8月10日 8月17日 8月24日 8月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 長い祈りと銅貨
2014年8月第4主日礼拝 2014年8月24日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第12章38〜44節

12章<38節>イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、<39節>会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、<40節>また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」<41節>イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 <42節>ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。<43節>イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。<44節>皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 主イエスが教えておられます。
 主はどこで、誰に対して教えておられるのでしょうか。41節に「イエスは賽銭箱の向かいに座って」とありますから、賽銭箱のある場所、すなわちそこは神殿であることが分かります。主は神殿で教えておられるのです。その中で、38節「律法学者に気をつけなさい」と言っておられます。

 神殿での主の教え、そこで思い出されることがあります。主イエスがエルサレムに入城され、そしてまずなさったことは何だったでしょうか。主は神殿の境内に入り、そこで商売をしている人々を追い出され、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と言われ、そして人々に教えられました。
 この言葉を聞いた祭司長たちや律法学者たちは、主イエスに「何の権威で、このようなことをするのか」と問いました。「何の権威によるのか」と問う、それは主の教えの背景に、力・権威があるからです。主の教えに伴う権威とは何なのか、それは今日の箇所においても問われなければなりません。
 先のところで、律法学者たちの問いに対して、主イエスは「バプテスマのヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか」と尋ね、それに答えたならば、「何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう」と言われました。律法学者たちは論じ合い、そして結論として「分からない」と答えました。「天からのもの」と言えば、「ではなぜヨハネ信じなかったか」と言われる。ヨハネを本当の預言者だと信じている群衆を恐れるゆえに、「人からのもの」とは言えない。その結論が「分からない」という答えでした。
 彼らは矛盾に満ちております。「分からない」という答えによって、彼らには「権威を問う」資格など無いことは明らかです。主は「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と言われました。

 このやりとりによって示されていることは何でしょうか。それは、主イエスが「神の権威に基づいて教えておられる」ということです。主の教えは権威あるものです。ゆえに、主の権威を問うた律法学者たちは、主の力・権威の前に、まったく無力な者であることが明らかになったのです。
 主イエスの教えとは、この世の様々な教えとは違うものです。主の教えは「天に通ずる教え」なのです。律法学者たちが教えたのは、聖書(旧約聖書)でした。彼らは聖書を教える力を頂いているのです。けれども、その教えは天上に通ずる教えではありませんでした。彼らの教えが天に通ずる教えであったとすれば、彼らはヨハネの洗礼を天からのものと言えたはずです。

 「天に通ずる教え」とは何でしょうか。それは「救い」です。地上の教えとの決定的な違いは、地上の教えは天に至らないということです。けれども、主イエスの教えは、神の権威に基づく教えとして「天に至る、救いに至る教え」なのです。主イエスの教えは、救いに通じている。しかし、この世の教えは救いに通じるものではないのです。
 地上の、この世の教えはいろいろあります。たとえば、「こうすればもっと儲かる」という教えであれば、お金に価値観を持つ人にとっては大きな魅力です。けれども、お金は地上でしか通用しません。天上では使えないのです。ですから、地上のものに価値を置くならば、それは限定的な価値であることを知らなければなりません。健康第一然り、賢さ第一然り…いずれも地上でしか通用しないのです。天上においては、お金も健康も賢さも、何の意味も持ちません。

 終わりの日に与えられている約束とは何でしょうか。それは、私どもが「霊的に完全な者となる」という約束です。それは、肉体においても同じです。ただ朽ちるということではありません。天上においては、すべての人が「霊に満たされる」のです。ゆえに、人はそこで「完全な知識」を与えられます。人の賢さが完成されるのです。神の力をもって知りうる知識こそが完全な知識です。ですから、人が真実に知恵ある者となるということは、神の力、聖霊の力によるのです。
 自らの力に頼って財力や知恵や健康を得ようとするならば、人は他者との優劣をつけてしまいます。地上の一切の価値というものは、地上でのみ通ずる限定的なものであるのですから、そこで格差を生むのです。完成を見ない、不完全な価値観は格差を生むことを忘れてはなりません。この世の価値観で生きる限り、人は格差を生んでいくのです。
 完全な知識、人の完全さは、神の力・聖霊によって「神を知る」ことにおいてのみ、あります。それは、救いにおける知識です。主イエスの教えとは、天にある教えとして完全な教え、人に格差を生まない教え、人を完成させる教えなのです。
 また、人とは厄介なもので、人が地上に価値を置くときに、人はそれを宗教的なものに転化させてしまうということがあります。人は、この世の教えに囚われる者です。お金、健康、賢さ…これらに囚われることによって、自らを陶酔させ、囚われに徹することで良しとする、そういうことが起こるのです。人はとても自虐的ですが、実はそれが宗教となるのです。空しいと分かっていても、それを美しいという価値観によって宗教化する、かつての日本には、このような「徹することの美学」という宗教がありました。今の時代はまた違ってきておりますが、今は今で、若者は違う価値観を作っているのです。人は元来、宗教的な動物であるがゆえに、人は必ず偶像を作ってしまうのです。

 このような囚われから解き放たれるのは、ただ神によってのみです。この世の囚われに生きる人は、この世から断たれて(死)しまえば、そこで終わるのです。けれども、この世の生が終わっても、天上で囚われから解き放たれて生きる、このことを信じられるならば幸いです。
 信仰とは囚われからの解放を与えられること、恵みの出来事なのであって、何かに偏執するということではありません。

 さて、主イエスが神殿において、天に通ずる教えをなさっていたとするならば、それは大変忌み深く、まさしくその場に相応しい教えであると言わなければなりません。また、誰に対しての教えかということについては、「神殿で」ということですから、そこに集うすべての人にということです。ですが「律法学者に気をつけなさい」という言葉が二人称であることを考えますと、親しい者に対して、すなわち「弟子たちに」語っておられると考えてよいのです。主イエスは弟子たちに、律法学者との違いをはっきりと示し、「気をつけよ」と言っておられます。この言葉は、第一義的には「弟子たちに」ですが、それはつまり「あなたたちに(私どもに)」、そして「この書を読む全ての人に」向けて語られていると考えてよいのです。

 弟子たちが主イエスの教えを聞いております。主イエスの教えには、「主の人格が臨んでいる」ということを知らなければなりません。この世の人の教えは、必ずしもその人の人格を表すものではありません。祭司長や律法学者たちは教える者でしたが、彼らが主の問いに対して「分からない」と答えたということは、彼らが自らの真実をもって教えていないことを示しております。彼らは、真実を持っていないのです。ですから、便宜的に、時に応じて「分からない」と言うのです。自己保身のための教えです。自分にとって都合が悪ければ「分からない」と言うのです。

 けれども、主イエスの教えは真実です。
 主イエスの教えに、なぜ真実があるのか。それは、主イエスそのものが主の教えに現れているからです。では、主イエスとはどういうお方でしょうか。主イエスは、十字架での死によって人の罪を贖い、復活によって永遠の命をお与えくださったお方です。ですから、主の教えは、「罪の贖いと永遠の命を与える教え」なのです。それこそが、主イエスの人格そのものということです。その主の教えに導かれることによって、私どもは罪赦され、永遠の命に与るのです。
 主は「律法学者に気をつけなさい」と言われました。彼らの教えに真実はなく、人の救い関わる教えではありません。しかし、主イエスの教えには「十字架と復活」という真実があることを覚えたいと思います。「天に通ずる教えを聞きなさい」と、主は弟子たちに示しておられるのです。

 38〜39節「彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み」とあります。「長い衣をまとう」とは、足もとまで覆う衣で、それは宗教行事の際にまとうものですが、ここでは時を限定しておりませんので、「自分が学者であることをひけらかすために、いつも長い衣をまとっている」ことを示し ております。
この世にあって、人は、自分がどういう者であるかを明らかにする必要があります。けれども、そのことによって人からの尊敬を得ようとする、それは間違いであると、主は言っておられるのです。元々、長い衣(ガウン)をまとうのは、黒子に徹し、自分は一番下にある者であることを表す姿でした。それなのに、いつしかガウンに権威付けをするようになったのです。ガウンによって自らのステータスを表すとすれば、それは自らを大きくする出来事になってしまいます。
 信仰とは、神を大きくすること、神を示すことであって、自分を示すことではありません。律法学者がなすべきことは、自らを大きく見せることではなく、人々に神への畏敬の念を思い起こさせることです。それが、教える者としての律法学者の本来のあり方なのです。

 人にとって、自分が自分であるということは大事なことです。かつて、「ありのままの自分で良い」という言葉が流行りました。けれども、考えなければなりません。人がありのままであるということは、罪人であるということです。ありのままの自分は、様々な欲望を持つ罪人であって、ありのままが良いはずはないのです。人は罪人であるがゆえに、罪贖われることによってこそ、良しとされる存在です。主が在すから、良いのです。主イエス・キリストの十字架の救いがなければ、ありのままの自分が良いわけはありません。

 ただ、神の恵みの出来事としての「ありのままの自分」であることを忘れてはなりません。律法学者のように自らの力で立っていると思うならば、それは罪でしかありません。私どもが「ありのままの自分で良い」のは、ただ、主の十字架の贖いを頂いてこそなのです。ただ、主の憐れみによってのみ、恵みとしての救いなのです。

「律法学者に気をつけなさい」と、主イエスは言われました。自分の力によって立つならば、40節「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と言われております。このことについては次週といたします。

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