聖書のみことば
2014年8月
  8月3日 8月10日 8月17日 8月24日 8月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 主なるメシア
2014年8月第3主日礼拝 2014年8月17日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第12章35〜40節

12章<35節>イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。<36節>ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』<37節>このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。<38節>イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、<39節>会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、<40節>また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 35節、主イエスが神殿の境内で教えておられます。
 「主イエスが教える」とは、どういうことでしょうか。「教える」というと、いろいろと考えさせられます。まず「教える」のは教師でしょう。ユダヤ教でも、ラビと呼ばれる教師が教えます。
 では、主イエスもラビなのでしょうか。この直前の箇所では、一人の律法学者に尋ねられて、主は「第一の戒め、第二の戒め」について、律法の教師として十分に答えておられます。とすれば、主はラビ(教師)であることも確かです。
 けれども、34節には「もはや、あえて質問する者はなかった」とあります。ここまでに主イエスは、試みを含む幾つかの問いに答えておられます。そして「もはや、あえて質問する者はなかった」、その上で、主は「教えておられる」のです。
ですから、主イエスの教えとは、単に律法についてだけの教えではなく、それ以上の教えであったことが分かります。人々は感じ取ったのです。「この人は、地上の権威や教えを超えた、神の権威をもって教えておられる」と感じ取ったのです。ですから、「もはや、あえて質問する者はなかった」のです。
 主イエスの教えは、単なる処世訓や人の在り方を教えるものではありません。人々は、主の言葉に神の権威を感じたのです。御言葉に、神の力を感じているのです。主イエスが語られる、まさにそこに聖霊が働きます。そこに神の支配が表される。だからこそ、人々は黙るのです。

 37節に「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」と記されております。結論を言うことになりますが、主イエスの教えとは、人に知識を与えるものではありません。主の教えは「人に喜びを与えるもの、人々を満たすもの」であったのです。また更に、これから先を読み進めますと、主の弟子たちは何も理解していなくても、主によって満たされるのだということが分かります。マルコによる福音書は、弟子たちの無理解ということを強調しておりますけれども、何も分からなくても、しかし、主の弟子は弟子であり得るのです。
 何かを理解したならば、人は質問するでしょう。理解するということは、更に疑問が増え、問いが増えるということです。けれども、神にある理解というものは、その内容をまったく理解できないけれども、満たされるということです。ですから、敢えて問う必要はないのです。
 もちろん、主イエスの言っておられることが分からない、だから質問できないということもあります。しかし満たされているから問う必要がないのだということと二重の意味です。

 「神の力、神の恵みが満ち溢れること」、それが「主イエスが教える」ということです。そこに聖霊が働くのです。
 日本人にとっての「教える」という感覚は、少し違います。日本人にとって「教える」ことは、逆に言えば学ぶことです。教える人から盗む、真似る、そして習得するのです。元来、日本の教育は、人を見て学び取り自らのものとすることですから、観察力を養ったのです。たくさん盗める人は、たくさん身に付けるのです。しかし今や、そのような時代ではなくなっておりますが。
 それはそれとして、ここでは「主イエスの教えによって人々が満たされる」、それは「主の御言葉に神の力が働く」ということです。それは、主イエスが単なる教師ということではないことを示しております。上なる、神なる出来事としての主イエスの教えなのだということを覚えたいと思います。

 その上で、主イエスは36節・37節「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と言われました。一体何を言っているのでしょうか。
 律法学者たちは、聖書(旧約聖書)に通じています。旧約聖書の記す証言を通して「メシアはダビデの子孫から生まれる」と言っているのです。人々は「ダビデの子孫からメシアが生まれる」ということに希望を持ち、期待しておりました。当時、ユダはローマ帝国の支配下にあり、それを良しとしておりませんでしたから、メシア運動や暴動も起ったのです。時代の空気は、ローマを打ち破り、独立して、ローマ帝国以上の国を興すこと、世界中で神の建てた第一の国としてイスラエル王国を再興することを願い、そのためのメシアを待ち望んでいたのです。
 このことを受けての言葉ですから、律法学者のみならず、ユダヤの人々は皆、メシアを待望しておりました。律法学者はこのことを聖書に基づいて論証していたのです。

 ところが、ここで主イエスは「そうなのか?」と問うておられます。確かに、主イエス・キリストの系図はダビデの子孫です。マタイによる福音書には、神の啓示によって、主イエスがヨセフの子として生まれる、つまりダビデの末裔として生まれることを強調しております。『メシアはダビデの子だ』というのは、間違いではないのです。主イエスはヨセフの子、ダビデの末としてお生まれになるのです。
 しかし、主イエスはここで、メシアとはダビデの家系から生まれ人々の期待する政治的な指導者としての理想の王かというと、それは違うのだということを、「そうなのか?」と問い返すことによって示しておられます。人々はイスラエル再興のための理想の王を待ち望んでおりますが、「そうなのか?」と問うことで、メシアはそういう王ではないことを指し示しておられるのです。ダビデの血筋によらない、ダビデを超えた者としてのメシアを示されるのです。
 そして、メシアは人々の待望するようなイスラエル再興のための理想の王ではないことを示すために、詩編110編の言葉が引用されております。36節「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と』」。
 この言葉は、私どもの聖書と少し言い回しが違います。主イエスが語られたのは、ギリシャ語70人訳からのもので、箇所も109編です。私どもが読んでいるのは、ヘブル語訳からのものです。

 ここで知るべきことは、詩編110編は、1節に「【ダビデの詩。賛歌】わが主に賜った主の御言葉。」とあるように、ダビデの口を通して神が与えられた御言葉だということです。ダビデの口を通して神が示されていることは何でしょうか。「わたしの主」それは「メシア」です。メシアは統治者。ダビデがメシアを「わたしの主」と言っているのであれば、ダビデよりもメシアの方が上であることを言っているのです。メシアを「わたしの主」と、ダビデが言っている以上、「メシアが主である」ということを、37節「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と、主イエスは解説してくださっているのです。メシアが単にダビデの子孫であれば、ダビデがメシアを「わたしの主」とは言わないだろうと、おっしゃっているのです。
 「ダビデの子孫」を考えますと、ダビデの子孫は、神との直接の契約関係にあるわけではありません。神はダビデに対して契約してくださいました。ですから、そのダビデ契約に基づいてダビデの末裔が王になるとするならば、それがどんなに優れた王であったとしても、ダビデの子孫はダビデに優ることはないのです。
 ですから、メシアはダビデ以上の者であることが、ここに示されております。確かにダビデは偉大な王でした。この時代、ダビデとは、理想化された王でもありました。このようにダビデ自身が偉大な王としてのメシアとして理想化されている時代に、「ダビデはメシアの僕(しもべ)に過ぎない」と主イエスが言われたことを、人々は恐らく理解しなかったことでしょう。人々の思う理想のメシアが来るのではないと言われても、考えたこともなく、まったく理解できなかったはずです。
 私どもは、主イエスの十字架と復活を知っておりますから分かります。地上に天の国の支配が起こることを知っているのです。けれども、主の十字架・復活を知らない人たちは、この言葉を理解できないでしょう。

 続く詩編の御言葉は、「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」です。「わたしの右の座に着きなさい」とは、メシアは神の全権を担う者として、その座にお着きになるということです。それによって、まさしく主イエス(メシア)は神の全権を担い、全てを統べ治められ、地上に新しい神の国をもたらされるということです。地上の支配を超えて、神の支配が現れる。主イエスは、全宇宙を治める方としてのメシアであることが示されております。
 このことは、私どもにとって大事なことです。この地上の支配・権力が、私どもの支配者ではないことを示しているからです。「主は全宇宙を統べ治められる方」と信じる、それが私どもの信仰です。主イエスは十字架において罪を終わりとし、復活によって死に勝利してくださいました。主の十字架と復活によって、罪と死の支配が終わりとなったことを、私どもは知っております。

 この世は対立を深めるばかりです。この世の在り方にしか目が行かなければ、私どもには絶望と行き詰まりしかありません。一層の対立を深め、一層争いへと人々は向かっている、それが私どもの現実の地上の力です。私どもは、この現実に望みを見出せません。希望も夢も無い、行き詰まりと絶望の世界、それが私どものこの世の現実です。自らの欲望の果ての現実なのです。未来を描けない、それは、今の現実にのみ目を向けているからです。

 けれども、私どもは幸いです。主イエスの十字架と復活によって、この世の支配は終わっているのです。私どもを神が統べ治められる、だから行き詰まらないのです。たとえ、この世が滅びても、死を超えて、地上を超えて、神にある生を生きることを望み見るのです。
 見えるものが私どもを支配しているのではありません。見えるものは対立であり、行き詰まりの支配です。
 けれども、永遠の支配を知っているとは何と幸いなことでしょう。主イエスの支配が、今ここにあるのです。この世がどんなに対立していても、尚、主の支配があるのです。ゆえに希望があります。それが「主が右の座に着かれる」ことで示されていることです。

 地上の支配はいずれ終わります。この世は移り行くのです。けれども、ただ神の支配のみ永遠です。「屈服させるまで」とは、「終わりの日まで」ということです。神に敵対する者たちが一掃されて、神の支配が完成するという約束なのです。

 この世に「完成」ということはありません。人は自ら完成を見るということはありませんから、そういう意味で、人の最大の評価は「未完成」であり、それを美しいとするのです。人は、未完成な者に過ぎません。けれども、ただ神によってのみ、キリストによってのみ、完成するのです。私どもは、終わりの日に完成を見るのです。それがここに言われていることです。
 人のなすことには矛盾が生まれます。いえ、矛盾でしかない。ですから「神無しでは、死しても完成を見ることはできない」ことを覚えなければなりません。

 私どもは、主の十字架と復活を知っております。主が終わりの日の完成者であることを、私どもなら少しは分かるのです。けれども、ここに記されている人々、弟子たちには分かりません。にも拘らず、人々は「イエスの教えに喜んで耳を傾けた」と記されております。主イエスの言葉が人々を満たしたのです。理解したから喜んだということではありません。どれだけ理解したかは問題ではないのです。

 私どもも同じです。ただ、聖書を読み、主を、神を感じる、だから喜んで満たされるのです。私どもの理解に依らないことを覚えたいと思います。主がそこに、御言葉に臨んでくださっているからこそ、そこで主を感じ、満たされて行くのです。それが「主の教えに喜んで耳を傾けた」ということです。

 一つ覚えたいことがあります。
 私どもは、何も分からなくても良いのです。分からなくても「御言葉が私どもを包んでいる」こと、それが大事なことです。 そして、「忘れる」ことも大事です。忘れることは、私どもの現実です。日々老いていき、いずれは一切を忘れる、覚えていられなくなるのです。
 けれども、忘れても良い。そこで神を感じられるならば良いのです。神を感じる、それが慰めです。分からなくても、忘れても、主が共にいてくださることを感じるならば幸いです。

 そのためには、繰り返し繰り返し聞くことが大事なのです。
 日々に聖書を開き、神の言葉を聞き、祈ることが大事です。何よりも、このようにして週毎の礼拝を守ることが大事なのです。

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