聖書のみことば
2014年3月
  3月2日 3月9日 3月16日 3月23日 3月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 エレミヤの涙
2014年3月第2主日礼拝 2014年3月9日 
 
小島章弘牧師 
聖書/エレミヤ書 第8章18〜23節、ヨハネによる福音書 第11章35節

エレミヤ書
8章<18節>わたしの嘆きはつのり わたしの心は弱り果てる。<19節>見よ、遠い地から娘なるわが民の 叫ぶ声がする。「主はシオンにおられないのか シオンの王はそこにおられないのか。」なぜ、彼らは偶像によって 異教の空しいものによって わたしを怒らせるのか。<20節>刈り入れの時は過ぎ、夏は終わった。しかし、我々は救われなかった。<21節>娘なるわが民の破滅のゆえに わたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。<22節>ギレアドに乳香がないというのか そこには医者がいないのか。なぜ、娘なるわが民の傷はいえないのか。<23節>わたしの頭が大水の源となり わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう 娘なるわが民の倒れた者のために。

ヨハネによる福音書
11章<35節>イエスは涙を流された。

 今年の教会の暦では、先週の水曜日から受難節に入りました。イースターまで日曜日を除く40日間が始まっています。主の十字架を見上げつつ、苦しみの意味と懺悔の日々を過ごしたいと願います。

 エレミヤは、怒りの預言者といわれたり、涙の預言者とも呼ばれています。この8章には、エレミヤの涙(エレミヤは深い悩みを抱えた預言者です)が記されています。それも尋常なものではありません。特に、8章23節に、『わたしの頭が大水の源となり、わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために』と言われている箇所には、エレミヤの気持ちが最大限に示されています。

 預言書は、殆どが詩文で書かれています。ということは、大変技巧的なものであり、同時に美的だということができましょう。今日の箇所も、読んでいただかなかったのですが、8章1節以下を見ていただくと、それは誠に美しい言葉でつづられています。
 しかし、内容は実に惨憺たるものであり、悲惨そのものです。というのは、イスラエル民族の滅びを語っているからです。一つの民族の滅亡というのは、悲劇そのものであり、言うも涙、語るも涙ということですから、それは文章の美しさとは裏腹に、それはなんとも表現の仕様のないものになっていることは当然といえましょう。

 わたしも, 第2次世界大戦で日本が負けて、滅んだことをこの目でちょっとだけ見ています。子供の足で、爆撃を受け焼け死んだ幾人かの人をまたいで歩いたことがあります。防空壕で、艦砲射撃で、もうこれまでということで、祖母が最後のお祈りをしたことがありました。それは、悲惨そのものでありました。どれほどの涙が流されたことでしょう。大げさに言えば、太平洋の海よりも多くの涙に匹敵するともいえます。また、同盟国ドイツの、ナチスによるユダヤ人大量殺害はヴィクトール・フランクルの「夜と霧」で知らされていますように、約600万ともいわれるユダヤ人の虐殺による涙も、想像するに余りあります。
 国が滅びるということを言い表すことは、言葉になりません。戦争による人間同士の殺し合いは、むごいものです。

 このエレミヤの預言の言葉は、北森嘉蔵氏(「神の痛みの神学」の著者)が、『ことの後の預言』と言っておられるように、実際にエレミヤが経験した事実を神の言葉として記述しているので、非常にリアルになっているのです。将来のことを予言するということではなく、実際にエレミヤが見た現実を語っているからです。それは現代の文学形態では、ノンフィクションというものに近いと考えていただいていいと思います。
 8章の1節以下には、王から民衆に至るまでのすべての墓が掘り出され、骨が撒き散らされる、そして死は生より望ましいものとなるといわれていることは、まさに地獄を意味しているのです。9章22節には別の表現で『人間の屍が野の面を糞土のように覆っている』となっています。死体が放置されているということですから、荒廃し、野ざらしになっていることで国の滅亡を言い表しています。
 このような現実を、私どもは、3.11で見たばかりです。戦争によるものではなく、天災ですが。原発による悲劇を目の当たりにして、その記憶は生々しく残っています。それは目をそむけざるを得ないものでしたが、それが人間の愚かさの象徴でもあり、傲慢に対する神の裁きでもあるのかもしれません。過去の歴史には、それらのことが色濃く残っています。

 国家の滅びは、いかに悲惨なことか。エレミヤは、痛烈な言葉で、繰り返します。『何時まで背いているのか』、『立ち返ることを拒むのか』(5)『わが民は主の定めを知ろうとしない』(7)さらに、平和がないのに『平和、平和』と、むなしい言葉を語るといっています(11)。むなしいことを語る愚かさを指摘しています。あざけられていることにも無頓着、状況が認識できないのです。『平和を望んでも幸いはなく、いやしのときを望んでも,見よ、恐怖のみ』(15)また「わたしの嘆きはつのり、わたしの心は弱りはてる」と、18節にありますが、ここは口語訳では、「わが嘆きはいやしがたく、わが心はうちに悩む」(18)となっています。「癒しがたい」というところに、エレミヤの悩みの深さが表されています。

 「悩む」ことについて言えば、姜尚中氏は、先頃の著書「悩む力」で、悩むことを肯定することを訴えておられます。人が悩むことは、崇高なことだというのです。人は悩むことで、人生の機微をしり、人生の深みを知ることができるというのです。ロマン・ロランの「ジャンクリストフ」での有名な言葉、「悩むこと、それも人生だ」を思い出させます。

 『なぜ、彼らは偶像によって、異教のむなしいものによって、わたしを怒らせるのか』(19)。偶像崇拝は、言うまでもなく十戒でも禁じられていますが、旧約聖書、新約聖書とも偶像については、厳しく禁じられています。何故でしょうか?
言うまでもなく、偶像は、自分好みの神を創ることだからです。自分のちっぽけな世界に、神を閉じ込めてしまうことだからです。だから聖書は、偶像に対して厳しく戒めるのです。 
 姜尚中先生が、『悩む力』の中で、「一人一宗教」「自分が教祖」という表現をしておられますが,まさに、この時代、共同体が崩壊したことによって、個人がばらばらになって、一人一人が自分の中に閉じこもり、自分の神を作り出してご満悦になっているおめでたい人間になってしまっているのです。それが宗教離れの現実になっています。
 ある人が、現代人は非常に信心深いと言いました。携帯電話をみんなが開いて覗いている、それを皮肉っぽく、ご位牌を拝している姿だと言ったのです。本当にそのように見えます。みなが自閉症的になっているといってもいいでしょう。個人情報の尊重ということは、良い言葉ですが、個別的になって、交わりが喪失している現実があります。

 エレミヤは、8章の最後に、「わたしの頭が大水の源  わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために」と言います。エレミヤは、「娘なるわが民」とイスラエルのことを言い、その人々が、先に申し上げたいくつかのことにおぼれていく姿を嘆き、頭が涙で充満していること、目が涙の貯水池であれば、涙を流す、昼も夜もと、エレミヤの涙が極まっていることを詠っていることがわかります。

 イエスさまは、親しくしていたラザロの死を前にして、「涙を流された」と、ヨハネによる福音書が記しておりますが、そのギリシャ語はダクリューオーという言葉で、これは聖書の中でただ1回、ここだけに使われています。イエスさまは、ラザロの死に対して、こんなことがあっていいのかとの怒りをもって対面しておられるです。 人間のさまざまな不条理にイエスさまは、立ちはだかって下さっているのです。
 そして、
「ラザロ、出てきなさい」と、救いの宣言をなしてくださっているのです。

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