聖書のみことば
2014年3月
  3月2日 3月9日 3月16日 3月23日 3月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 闇から光が輝き出よ
2014年3月第5主日礼拝 2014年3月30日 
 
田邉良三牧師 
聖書/コリントの信徒への手紙二 第4章1〜6節

4章<1節>こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。<2節>かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。<3節>わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。<4節>この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。<5節>わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。<6節>「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 今朝与えられた御言葉は「闇から光が輝き出よ」という題が与えられています。これは6節にある御言葉を説教題としてそのまま与えられたものです。これは創世記の1章3節の言葉を引用したものと考えられます。だいぶ形は違いますが、そのことはまず間違いないでしょう。

 ここで、パウロはまず神の創造の御言葉へと目を向けています。わたしたちは神によって造られました。それは混沌という無秩序な神を知らない世界の中に、神を指し示す、神へと導き至る光を与えられることから始められました。そのようなはじめの創造の出来事から、ここでパウロはキリストの福音の出来事、十字架と復活の出来事による新しい創造の出来事へと目を向けていきます。
 ここで、わたしたち、つまりパウロやコリントの信徒をはじめとしたキリストを信じる者たちに「神が光を与えてくださった」といわれます。それは「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」だといわれます。神が与えてくださった光は、直接に父なる神とわたしたちの結びつきを与えるものではありません。どこまでもそれは「イエス・キリスト」を間に持ち、神とわたしたちとの間が、キリストによって贖われなければならない、そうしたことをはっきりと教える光なのです。
 そもそも「闇から光が」といわれたのです。そのことが、わたしたちの心の内にも新しく引き起こされたというのです。わたしたちの中に、それこそ全く神から離れた混沌とした闇があるということをパウロは見ています。それは一般的な概念としてそうなのだと頭の中で彼が理解していたということではありません。おそらくこうしたことを語るとき、彼は自分と主イエス・キリストとの出会いを思い起こさずにはいられなかったでしょう。有名なダマスコ途上のパウロの回心の出来事と、ここで彼が語っている「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」という言葉の間には、非常に良く重なりあう雰囲気があるといえるのです。

 パウロは自他共に認める熱心なファリサイ派のユダヤ人でした。どこまでも純粋に神を信じ従っていると思っていた。イエスという人、そして、その弟子たちこそ神を冒涜し背信を勧める悪しき者だと信じて疑わなかったのです。それで間違いはないと思っていたのです。しかし、ダマスコへと向かう途上で、主イエスがこの人と出会います。それによって彼は、自分が己の信念のゆえに見ようとしなかった真実へと目を開かれていくのです。彼は本当に熱心にまっすぐに神を求め、その御言葉に従い歩もうとしていたのです。それは疑いようのない事実でしょう。「ファリサイ派の中のファリサイ派」と自分でいえるほどのものでした。知識においても行いにおいても、彼は誰が見ても非の打ち所がないほどであったのでしょう。
 そうしたパウロも、いや、まさに彼がそのような人物であったからこそ、彼はキリストを受け入れることができなくなっていたのです。罪の恐ろしいところは、まさにこの様なところにあらわれているのでしょう。彼がそもそも神に不従順であったというのなら、自分勝手な思い込みによって立っていたというのなら、話は簡単なのです。しかし、彼はそれこそ、その当時の敬虔な人々の間で認められるほどに、神に従う者と考えられていましたし、伝統的なしっかりとしたユダヤ教の教育を受けていたのです。そのような中に、実にイエス・キリストを受け入れることのできない暗闇が形づくられてしまっていたのです。そして、それはそのまま彼が信じていたはずの神に背くことに他ならなかったのです。自分自身ではどうにも抜け出ることのできない罪の力に支配された現実があります。
 そのことを彼は、キリストとの出会いを通して、キリストへと目を開かれ、罪にがんじがらめになっていた自分に目を開かれることによって知らされるのです。だからこそ、今パウロは「わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」という神の与えてくださった恵みの出来事に感謝せずにはいられないのです。そして、そのようなパウロだからこそ、コリントの教会の中に入ってきて彼らを混乱させている人々に対して、そこにある罪の姿を見逃すわけにはいかないのです。

 おそらくここでパウロが指摘している問題は、コリントにやってきた巡回伝道者のような人々によって引き起こされたもののようです。その人々は、もちろんキリスト教徒でありましたが、旧約聖書つまりは律法を守るということを強く主張している人々であったようです。もちろんパウロも律法を軽んじているわけではありませんが、洗礼を受けていても、律法を守ること、たとえば割礼を受けなければ救いはないというような考え方を受け入れることはできないのです。それは主の洗礼が不完全なものであるということを意味しますし、キリストの福音の出来事を受け入れることによって「信仰によって義とされる」ということよりも、自分が律法を行うということによって自分の救いを確保することが出来るということを意味してしまうのです。そうであってはならない。「キリストを抜きに成り立つ救いなどはないのだ」ということをパウロたちは示すのですが、そのようなパウロの主張が律法を無視するものとして攻撃されたのでしょう。パウロたちは神の言葉を曲げている。また、神を証しするのでなく自分自身を推薦するものだという中傷があったのかもしれません。そのような主張を展開する者たちによって、パウロたちの働きは傷を負ったのです。いやコリントの教会が傷を負ったのです。
  しかし、パウロは「落胆しない」とはっきりと言います。まさに「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて」いただくほどに、神の憐れみをいただき、新しい者として歩み出した彼らです。その歩みを神御自身が、主イエス・キリストが守ってくださることに信頼を置き、歩むのです。そして、その歩みは神の前にまっすぐなものです。彼らに対する中傷とは正反対といえる歩みがそこに示されています。どこまでも神に福音を委ねられた者として、教会の中でさえ暗闇の力が、罪の力が渦巻いている現実を前にしても、彼は自らをキリストのために、あなた方に仕える僕であるということを捨てようとはしないのです。いや、その務めを捨てることは、キリストによって召し出され、キリストのものとされた者としてできないのです。

 彼は、自分を敵とする者たちが力をふるい始めたコリントの教会を前にして、なおそこに、この世の神、闇の力を認めています。しかし、その闇の力は決して神に匹敵するものではないのです。もちろん、人間の力でそれに打ち勝つということのできないことをパウロは知っています。だからそれを過小評価はしませんが、決して神に並び立つような力を持っていないことを、彼は知っているのです。なぜなら、先にも指摘したように、彼は巧妙に張り巡らされた罪の縄目の中から、「キリストによって」救い出されたからです。今暗闇の中にいる者も、キリストのもとに来るとき、まさに新しい者として神に創造されるのです。そうして、父なる神がキリストを通して与えてくださった十字架と復活の出来事に目を開かれ、歩み出すのです。

 神は、暗闇の中にいるわたしたちを良く知っていてくださいます。暗闇の中にいるわたしたちは、その恐ろしさを理解することの少ない者ですが、神はわたしたちが罪のゆえに滅びに瀕していることをはっきりと知ってくださっています。
 そして、わたしたち以上にそのことを真剣にとらえ、問題としてくださっているのです。だからこそ、神は御子をわたしたちのもとにくださいました。そして、御子を信じる者を立ててくださり、その人々の言葉や歩みを通し、ますます多くの者たちのために福音を告げ知らせてくださるのです。その恵みの中にパウロは歩んでいます。だからこそ、自分を救い出し、使徒として立ててくださった神に信頼し、困難な中にも落胆することなく歩み続けるのです。

 わたしたちの歩みにおいても、暗闇はなおどこまでも深いように思います。しかし、それは神の前に、キリストによって打ち破られるのです。それは確かなことです。その恵みを、今日も御言葉によって受けたのです。だから今、わたしたちも、パウロと共に、キリストの者として、まさに暗闇を破るイエス・キリストの光に照らされ歩んでいくのです。

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