聖書のみことば
2013年8月
  8月4日 8月11日 8月18日 8月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら 音声でお聞きになりたい方は
こちらまでご連絡ください
 

 パンを忘れた弟子たち
8月第1主日礼拝 2013年8月4日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第8章14~21節

8章<14節>弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。<15節>そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。<16節>弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。<17節>イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。<18節>目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。<19節>わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。<20節>「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、<21節>イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

 14節「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」と、状況の説明がなされております。これだけを読みますと、いろいろと思うところです。
 「一つのパンしか持ち合わせていなかった」と言えば、「本来ならば弟子たちはパンを用意しておいてしかるべきだった」と取られるニュアンスです。

 ユダヤでは、パンを夕方に焼きます。しかも、次の日の朝の分まで焼くのです。聖書にはパンについての主イエスの譬え話もあり、それは次の日の朝の分までパンを備えておくべきことが前提として語られております。夜中に友人が来て戸を叩くが、出すパンが無いので、備えのありそうな人に貸して欲しいと頼む、という話です。これは、貧しくて次の日の分の備えのない人でも、訪ねて来た友にはパンを出したい切実な思いがあることを言っております。このように、ユダヤでは、次の日のパンまで用意するということは、常識的なことでした。
 ですからここで、旅先でもあり、弟子たちがパンを用意しておくことは本来必要なことだったのでしょう。「一つのパンしか持ち合わせていなかった」という記述から、では弟子たちを非難しているのかどうか。後を読みますと、弟子たちは主に非難されていると思ったようです。
 ですが 、このマルコによる福音書は、主イエスが弟子たちを非難したということを記しているのではありません。あくまでもこれは、状況説明なのです。この後の主と弟子たちとの問答を見ますと、5つのパンは12籠のパン屑に、7つのパンは7籠のパン屑になったという、弟子たちの経験が語られております。普通であれば、人は経験から学びますから、弟子たちはこの経験から、いつでもパンを用意しておくべきと学ぶか、あるいは、何も用意しておかなくても主イエスがいてくだされば大丈夫と学ぶ、ということもあるでしょう。
 けれどもここで、この弟子たちは、どうやら何も学んでいないという様子です。何も考えていない。つまり、主イエスの弟子たちは、パンに対して無頓着だったということが窺えるのです。

 これは、現代に皮肉なメッセージと言えるでしょう。豊かさの中で、現代は食に対しての拘りを持っております。「食」を「命」と考えて、食の安全が叫ばれ、無農薬とか有機農業とかに拘ります。このように拘ることは、とても大変なことです。
 しかし、この弟子たちはパンに対してまったく無頓着であり、食の豊かさや安全性などという拘りから縁遠い人たちです。そして、最後には「まだ悟らないのか」と主に叱られるほどに、悟り無く、無理解な人たちであることが記されております。経験があっても、この弟子たちには反省もなく、だから進歩もありません。それ程に無頓着で何も理解していない人たちなのです。

 けれども、ここで言われていることは「それでも主イエスの弟子である」ということです。この箇所を読みながら一つ言えることは、「それでも弟子たちは主イエスのもとに居る」ということなのです。
 彼らには主イエスを理解できません。なのに、主のもとに居るのです。普通であれば、よく理解できない人と一緒に居るのは難しいことではないでしょうか。17節に「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか」と、主イエスにこれほど言われても、まだ主の弟子として居ることは不思議です。
 けれども逆に、もし理解したならば無頓着ではいられないでしょう。主が言われたことは何かと考えたり、どうすべきかをしん酌しても上手くいかなければ、主のそばに居ることは難しかったことでしょう。
 しかし、主のこの弟子たちは、何の理由もなく無頓着なまま主イエスのそばに居られる、それは何と幸いなことでしょうか。何やかやと理由付けを求められる今の社会で生きることを思うと、この主の弟子たちのあり方は、何とも麗しいことです。

 弟子たちは、何の理由もなく、何と言われようとも「主イエスのもとに居たい」のです。それは、それ程に主イエスが弟子たちを魅了しているということです。人が魅力を感じるということ、それは素敵なことです。主イエスと、主を遣わしてくださった神が、弟子たちを魅了しているのです。
 弟子たちは、主イエスの教えに魅了され、存在そのものに魅了されております。言われていることの内容が問題なのではありません。ただ「主イエスと一緒にいる」こと、それは、弟子たちにとって麗しいことなのです。
 そして、それこそが「キリスト者」です。キリスト者は、主イエスに、神に魅了されている者です。神の御子でありながら人としてこの世においでくださり「十字架に付いて私どもの罪の贖いとなってくださった主イエス・キリスト」に、愛する御子を十字架に付けてまで私どもを救ってくださった「慈しみの神」に、魅了されているのです。私どもの理解を超えて「神の慈しみが私どもを掴んで離さない」のです。十字架に付いてまで、そうまでして私どもを救ってくださった恵みを「神の麗しい御業としてこの身に感じること」、それが「魅了されている」ということです。そしてそれは、頭の理解ではないのです。

 そのような感性というものが、今の時代に枯渇しつつあると、私は思っております。何に対しても理由を問うがゆえに、と思います。

 キリスト者は、理解したから信じたというのではありません。神の救いを理解できない、いや、救いは私どもの理解を超えているのです。ですから「理由なく信じられる」ということは、麗しいことです。弟子たちがパンを一つしか持っていなくても無頓着に主のもとに居られたこと、それは、主のもとであるがゆえに他の一切の束縛から解き放たれ、ただ慕わしく、主に魅了されているという出来事なのです。
 信仰は捕われであると人は思いがちですが、そうではありません。「捕われなく生きる」こと、それが「信仰」です。それは、自分自身からも解き放たれるという出来事です。捕われなき人生、それは主イエス・キリストによって私どもに与えられている生き方なのです。

 主イエスは舟の中で、15節「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と、弟子たちに戒めを与え、教えてくださっております。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」とは何でしょうか。「パン種」は「教え」です。「彼らの教えに気をつけなさい」ということです。ルカによる福音書では、「パン種」は「教え」を超えて「行為」として示し、彼らの行為に倣ってはならないと、主は言っておられます。
 「パン種」は、ラビ(律法の教師たち)にとっては「汚れ」です。「悪しき罪の衝動」と捕らえました。パン種は膨らんで臭いも強くなることから、悪が拡大して伝染すると考えて、パン種は良い意味には用いません。ですからこそ、主イエスが「天国はパン種のようである」と言われたことは、彼らには驚きだったのです。

 ファリサイ派の人々とは、律法を守ることで自らを義としていた人々ですから、そういう生き方に警戒せよと、主は言われております。自分で自分を義(正しい)とする生き方、その愚かさを主イエスは言っておられます。神を必要とせず、神を自分の正しさを証明する道具にして自分を義とする、そのような人は主イエスの怒りのもとにあり、それゆえに、主はファリサイ派の人々に厳しいのです。
 また、ヘロデと言われることは何でしょうか。ユダヤはローマの属国でありながら、領主ヘロデはローマから存在を認められておりました。ヘロデ党の者たちとは、ヘロデに組する者たち、つまりこの世の権力(ローマ)に組して自分の利益を求める者たちを指しております。そのようなあり方は、神の栄光を侮ることです。

 このように「神のために」を退け、傲慢に生きることの愚かさを、主イエスは弟子たちに教えてくださっております。自らの利益を求め、神を侮ることの浅ましさを教えてくださっているのです。そして、ただ「神によって義とされて生きよ」と言われます。

 けれども、弟子たちにはよく分かりません。16節に「弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた」と記されております。「論じ合っていた」ということが大事な点です。本当であれば、「それはどういうことでしょうか」と主に聞けばよいのに、「どうしたら良いか」と自分たちだけで論じ合っていたのです。彼らは真実を理解せず、主の言葉を誤解して、自分たちへの主の非難であると思ったのでしょう。主イエスを誤解しているのです。
 そのことに気付いて、主は言ってくださっております。教えられているにも拘らず、「教え」ということに心を向けず、パンの有る無しに関心を向けてしまっている弟子たちに対して、17節「分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか」と言われます。
 それ程までに救い難い者たち、それが主の弟子であることが、ここに示されております。普通であれば「もう、わたしの弟子ではない」と言われても仕方ないことでしょう。けれども、主イエスはどこまでも無理解でかたくなな者を弟子としてくださっております。そして、どこまでも無理解でかたくなな者だからこそ、「主イエスの救いが必要」なのであります。  自分がどれほどに無理解な者であるかを知ること、それは「神なしでは済まされない」ことを知ることです。
 理解できないならば、それ程までに「主イエスを必要としている」ということを知れば良いのです。

 「主イエス・キリストあってこその私どもの救い」であることを、改めて覚えたいと思います。ただ主イエス・キリストの十字架にわが救いを見、主の御言葉に救いを聴くこと、その大切さが示されていることを覚えたいと思います。
 私どもには、さまざまな問題、課題があります。けれども、そのところに「救い主イエス・キリストを見出す」ことの大切さを示されております。

 そしてその上で、この福音書は、「5000人に、4000人にパンが配られた」ことを記しております。この主イエスと弟子たちのやり取りを読みますと、どれほどに弟子たちが無頓着な者、分からない者であるかと思います。この箇所は、弟子たちはどこまでも救い難い者、悟りのない者であると言っているのです。

 そして、そういう者であるがゆえに、主を必要とする者であることを示しております。「主イエスが弟子たちの主であってくださる」こと、それが「救い」なのです。主イエスが弟子たちの、私どもの主であってくださること、それこそが麗しいこと、私どもにとっての幸いなのです。
 悟りなき者であるがゆえに、救いなる主イエスを必要としております。キリストなくしては済まされない、それが私ども、キリスト者なのです。

 私どもの救いのために十字架にまで付いてくださった主であるからこそ、慕わしい方、私どもを魅了して止まないお方として、私どもと共にあってくださることを、感謝をもって覚えたいと思います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ