聖書のみことば
2013年8月
  8月4日 8月11日 8月18日 8月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 見返りを求めない愛
8月第3主日礼拝 2013年8月18日 
 
山田詩郎神学生 
聖書/ルカによる福音書 第6章27~36節

6章<27節> 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。<28節>悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。<29節>あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。<30節>求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。<31節>人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。<32節>自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。<33節>また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。<34節>返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。<35節>しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。<36節>あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

 人は誰でも、愛されたいという思いを持っているのではないでしょうか?どんなときにも受け入れられたいと思っているのではないでしょうか?抱きしめられたいと思っているのではないのでしょうか?そして、私たちは、相手にどんな酷いことをしてしまったとしても、あるいはこちらが愛されるに見合った何かをその相手に提供できていない、けれども、なお自分と共にいてもらえたとき、そのことを赦し、受け止めてもらえたというときに、本当に自分は愛されているのだと知るのではないでしょうか。
 しかし、逆であったならどうでしょう?相手は自分に対して何も良いことをしてくれない。相手は、むしろ負となるようなことしかしてこない。自分を傷つけてくる。しかも一度ではなく、繰り返し。それでもなお相手を許すことができるだろうか。抱きしめてあげることができるだろうか。こう考えると、難しいという思いにならないでしょうか。どうして、そのような人と一緒にいなければならないのだ!仕返しをするか、関係を断つかどちらかだ!となるのがわたしたちの姿ではないでしょうか?もっと居心地の良い人、自分に益をもたらしてくれる人と、そういう人たちとのみお付き合いしていこうと思うのが私たちの内心ではないでしょうか。
 自分はどんな時であっても、どんなことをしてしまったとしても愛されたいと思っている、しかし、自分が愛するのは、条件に見合った人だけ、というのはどこかに矛盾が潜んでいるように思われます。そして、そんな矛盾を抱える私たちに、今日の御言葉は語りかけます。
 主イエスは弟子たちに向かって「敵を愛しなさい」と語っておられます。やはりこれは普通ではない言葉です。「自分の味方を大切にしなさい」「仲間との関係を良好にしましょう」。そういっているのではありません。「仲間と仲良くしましょう」こういう言葉であれば、誰だっていうことのできる言葉でしょう。しかし、主は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とおっしゃいました。 敵を愛するとは具体的にどんな事なのでしょうか?「28節からに記されています。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪い取る者から取り返そうとしてはならない」敵に憎まれ、侮辱され、打たれ、奪われている。これはとても厳しい状況のことを言っています。自分の状況が順調の時にだけ敵を愛するというのではない、厳しい状況、その中で、「敵を愛しなさい」と言っておられるのです。
 「悪口と侮辱」まず、言葉によって迫害を受けたときについて書かれています。悪口を言われたとき、同じように悪口をいって返せばいいのでしょうか?侮辱されたときに、同じように侮辱をし返せばいいのでしょうか?…目には目、歯に歯という言葉に従えば、同じように相手の悪口を言い、侮辱する言葉で応じればいいのです。しかし、それは全くの無益に終わるか、状況を悪くするだけでしょう。このようなとき、どうしたらよいのか、主イエスは弟子たちに語ります。「祝福を祈りなさい」「敵のために祈りなさい」言葉をもって迫害を受けたら、言葉を持って仕返しをするのではなく、言葉をもって祝福を祈るのです。敵を愛する一つ目の具体的な方法として祝福を祈ることが示されています。
 そして、次に、悪口や侮辱など言葉の攻撃の段階から、今度は行いによって攻撃をうけるようになったときのことが語られます。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪い取る者から取り返そうとしてはならない」主は、なおも悪をもって悪に報いてはならない、と教えられます。しかも、ここまで「あなたがた」と語っておられたのに、「あなた」と一人に向けて語っておられます。「あなたの頬を打つ者には、あなたのもう一方の頬をも向けなさい、あなたの上着を奪う者には、あるいは、あなたの持ち物を奪う者には、あなたはどこまでも与えなさい」と。行為となって攻撃を受けるとき、暴力を受けるときに、言葉よりももっと腹立たしいものです。しかし、それが私たちにとってそれがどんなに苦痛であり、仕返しをしたいという思いに駆られるかをイエス様はご存知で、「あなたは与えなさい」と語っておられるのです。これと同じような言葉がローマの信徒への手紙12章17節〜(新約聖書292頁)にも「誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」このように言われています。燃える炭火を彼の頭に積むというのは、金属から不純物を取り除く際に炉の中で炭火を用いたことから言われている言葉です。敵が悪を行き着くところまで行わせることによって、こちらはその相手に善行をもって関わり、愛を示すことによって、彼は自分の貪欲の心を反省し、良心の痛みを覚えることができる。そして、結果的に不純物である人を傷つけるということがその人のうちから取り除かれるのだ、ということを言っているのです。31節では「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」という言葉があります。これはよく知られた言葉ですが、この言葉は敵を愛するという文脈の中で語られているのです。人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい。これは敵である人、自分に迫害を加える人も含めて、人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい、なのです。
 敵を愛する、それは言葉を持って迫害を受けたときには、言葉を持ってその人のために祝福を祈る。行動をともなって迫害を受けたときには、相手が行き着くところまでするようにさせ、奪う者にはどこまでも与える、そして、人にしてもらいたいと思うことを人にする。悪をもって悪を返さず、善行をもって悪に打ち勝つと言うことを、イエス様は語っておられるのです。それはある意味で、立派な生き方です。争いではなく、悪で悪を返すことではなく、愛を貫く。愛を貫くことによって悪の連鎖というものが断ち切られるのだ。そして愛が愛の連鎖を生み出す。ここに真理があるのだということです。これはとても魅力的な生き方です。
 しかし、わたしたちは「じゃあ今日からがんばって敵を愛しましょう!努力しましょう!」ということでいいのでしょうか。今日の聖書の箇所はそれで終わりなのでしょうか。そうではないように思います。なぜそう思うかと言うと、もしそのようなことであれば、「本当に私にそれができるのか」という問いが解決されていないからです。冒頭で申し上げたように、割に合わない人を愛することなど困難だ。だから私たちの毎日は大変なのではないかと思う自分がいるからです。敵を愛する。「わたしにそれがなし得るだろうか?」敵を愛することができますか?と聴かれて、胸を張ってできますという人はいないのではないでしょうか。そして、愛を貫くことができない現実の中で、ここで語られていることは理想ではあっても現実ではないといって、開き直ってしまうのではないでしょうか。自分にはこんな高い要求、敵を愛するということを求められても、無理だという思いがどうしてももたげてきてしまいます。自分には敵を愛することができるだろうか?といって考え、敵を愛そうとする努力をすること。これは大切なことです。しかし、自分にできるかできないかということだけを問題にするところでは、あるいは敵を愛する根拠が自分の力に頼っているところでは、本当に敵を愛するということはできないのではないでしょうか。敵を愛することはそれほどに困難なことに思われます。
 では、主イエスが、「敵を愛しなさい」とおっしゃったこと。それは、私たちにそういう善を行う力があり、敵を愛する力が十分に備わっている私たちであるということが前提とされて、主は語られたのでしょうか?それは違うでしょう。
 「敵を愛しなさい」という言葉は、「敵を愛し続けなさい」と訳することもできる言葉なのです。その場の感情や、一時的な思いで愛するということとは異なることが言われています。愛し・続けるのです。そうであるならば、ますます私たちには愛することは難しいし、やはり私たちの中には愛する根拠があるということが前提になっている話しではないことがわかります。
 それでは、愛する根拠はどこにあるのでしょうか?それは27節の言葉です。わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。とあります。「私の言葉を聞いているあなたがただから」「そうしなさい」といわれているのです。「わたしのことばを聴いているあなたがた」と目の前にいる人たちにいうことは当たり前のことであります。わたしがここで話していますが、皆さんに向かって、「わたしのことばをきいているあなたがた」とわざわざ言う必要ありません。聴いているのはある意味見れば分かることですから。みなさん、と呼びかければいいのです。しかし、主は、「私の言葉をきいてるあなたがた」と呼びかけられました。「わたしのことばを聴いている」というのは大きな意味が込められています。この「聴いている」という言葉も「聴き続けている」という意味があるのです。それは「常に主の言葉に聴きしたがっている者」のことを言うのです。礼拝で御言葉に聴き続けている者たちのことです。ですから、敵を愛することの根拠となること、前提となっていることは何かと申しますと、「主の言葉に聴き続け、したがっている」ということです。ですから、「敵を愛せよ」という命令も、「あなたは、主の言葉に聞き従う者として、敵を愛するという私の命ずる言葉に聞き従いなさい」という「服従」が求められているのです。それが信仰の姿です。
 私たちは何か良いこと、善をするために、服従という形をとらないで、何らかの見返りを求めてしまうことがあります。そして「私はこんなに尽くしているのに、どうしてあの人はお礼の一言も言ってくれないの?」という気持ちになることはないでしょうか?しかし32節以下はそのような私たちに語ります。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも愛してくれる人を愛している。また、自分に良くしてくれる人によいことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じ事をしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである」とあります。私たちが良いことを行うための動機には、どうしてもエゴが潜んでいます。ですから、敵であったり、見返りを与える能力のない者に愛をもって接するというのは割の合わない話しなのです。もし、敵を愛することができたとしても、その深いところでは、「自分は何の見返りも期待できない人に施しをして、何と立派なのだろう」と自分を誇るのです。わたしたちは何処まで行っても、自己中心の罪の思いを持ち続けてしまうのです。しかし、それは信仰の姿とは違うのです。
 私の普段通っている教会のご夫人からこんな話しを聴きました。 この一年間で教会に新しく来られた方で、その後礼拝に出席しておられない方々を、みんなで分担して訪問しましょう。ということが30年くらい前にあったのだそうです。それで、そのご夫人は自分の家の近所の方で、特別伝道礼拝にいらっしゃった方を訪ねたのだそうです。そしたら、「あのときは講師のお話を聞きたかっただけです、礼拝には行きたくありません」とぴしゃりと断られて、帰り道あまりのショックに涙が出てきたということがあったのだそうです。家族以外の人から、「嫌です!」とはっきり言われることはあまりないことで驚いたと。そのことを当時の牧師に相談したら、当時の牧師にこう言われたそうです。「自分がいいことをしていると思っているから、否定されたときに悲しいのでしょう。自分の思いでやったから涙が出るのでしょう。でも私たちは僕だ。お使い人だ。使い人は、主人に言われたことをやって、報告すればいい。その結果がその時にどのようであっても、僕のやるべき事は行って、帰ってくること。あとは主人が何とかするのだから」といわれたと。自分の伝道、愛の業は自己中心的だったから涙が出てきたのだと、おっしゃっていました。このように教会にお誘いして、主イエス様をご紹介すること、救い主をお伝えすることですから、隣り人を愛する最たることかもしれません。でも、それは僕としてなすということでしかないのです。無理矢理に、自分の手柄にすることではありません。そうであれば、すぐにあちら側も心を閉ざしてしまいます。託されたこととしてなせば、とても気持ちが楽になり、神様への信頼も深いものになります。
 主イエスがおっしゃっていることは、わたしがそれをやっている、やっていないということではないのです。そしてできたことを誇るためでもないのです。まず神様からの愛しなさいという命令の御言葉があるということに中心があるのです。私たちは普通、まず自分があって、そして敵を愛することができるだろうか?と問う。そして、愛さなければならないと自らに強いて、できたら、できたことを自分で誇るということをしてしまいがちです。しかし順番の最初は自分ではないのです。まず神の言葉があって、その言葉に従うかどうかということのみが問われているのです。そして結果として敵を愛すると言うことが付いてくるのです。
 35節に「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人によいことをし、何もあてにしないで貸しなさい」とあり、そのあと「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」とあります。「いと高き方の子」となるということは、その良い行いによって、いと高き方の名前が崇められるようになると言う意味です。自分ができるかどうか、自分の徳が高まったかどうか、それを誇るために、善を行い、敵を愛するのではありません。もし、そうしてしまったならば、そこにあらわされるのは「自分」だけです。そこでは神様は現されないでしょう。そこでは神が後ろに退いてしまって、「わたし」が現されるでしょう。自分がどれだけ苦労したかということではありません。「主がそう命じられたのだから、できるかできないかということではなくて、その言葉の通りに生きる」ということです。そして、自らを越えて働かれる主に信頼するということなのです。これが信仰するということなのです。主がここで求めておられることは、もちろん悪の連鎖ではなく、愛の連鎖を生み出しなさい。そのために無条件に愛しなさいということです。しかし、そのことにまして、まずそこで、自分が後ろに退いて、神に従う者とされることによって、そこに神の支配が明らかにされることを求めておられるのです。「わたし」ではなく「神」があらわされることを望んでおられるのです。
  そして、さらに、私たちが知らなければならない事があります。それは、このような敵を愛し続ける生き方。自分が退いて、神が現されることを第一とした生き方。これは、主イエスのみがなしえた事だということです。主イエス・キリストの生き方は、まさにこのような生き方でした。敵を愛し、自分を裏切る者のために祈られました。また、自分に敵対する者のためにご自分の命を捧げてくださいました。無条件に、自分のすべてを注ぎだして、愛してくださったのです。愛し続けた結果が十字架なのです。ここに記されている命令の言葉は、主ご自身を表す言葉です。悪口を言われても「彼らを赦してください、何をしているのか知らないのです」と祈られました。暴力によって捕らえられそうになったときにも、弟子たちに剣をさやに収めなさい、とおっしゃいました。敵を愛され、十字架の道を歩まれたお方、この方が私たちの主イエス・キリストです。「敵を愛しなさい」という主イエスの言葉に従うということは、この主イエスのご生涯を明らかにする生活をするということではないでしょうか。自分がどんなにできた、自分がどんなにだめだったか、ということを言い表すために善い行いをするのではありません。そうではなくて、私たちが何か善いことをするとすれば、その目的は、ひたすら御言葉の通りに生きてくださった「主イエスご自身」をあらわすことではないでしょうか。そこでは「わたし」が後ろに退き、ただ「主のみ」がそこに働かれると言うことなのです。そして、私たちが愛し続けようとするとき、愛せないと苦しみ祈るとき、ますます近くに主イエスが折られることが分かるのではないでしょうか。主はその苦しみのただ中に共にいて下さるのです。主イエスが歩まれた道だからです。
  35節の後半の方で、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い方である」といわれています。ここで、私と敵にどれだけの差があるかと言うことを考えてみたいと思います。結論として、敵と私の間に違いはないのです。人間のレベルで見たらあるかもしれません。しかし、誰が自分の敵で、自分の味方でと、線を引いている私というものは何なのかということが問われるわけです。神様の目から見れば、私も、隣にいる敵も同じなのです。どうして、今日の私たちがあるのでしょうか。私たちは、私たちを愛して、自分の全てを与えてくださった方によって、罪から贖い出され、救われ、今日、ここに集っている者です。私たちに愛される何らかの理由があったから神に目を留めて頂いたのでしょうか?そうではありません、私たちは、ただただ、主の情けと憐れみによって恵みを受けたのです。主に目を留めていただいたのです。私たちこそ恩を知らず、また悪人であったにも関わらず、主は愛してくださり、今日まで愛し続けてくださっています。このような大きな恵を頂いた私たちは他者からの見返りや誰かから良くしもらうことを第一の望みとする必要はないのです。そうではなくて、神様だけが与えることが出来る大きな報い、いと高き方の子とされる報い、神様の子どもとされる報いを、私たちの求めることの第一とすることが許されたのです。神様が大きくこの世界に現されること、神様の名前が広く崇められることだけを求めていくことができるのです。ここに自由があります。何もあてにしないで貸す、そうするとたくさんの報いがある。これは逆説的ですが、真理を言い表しています。神様からの報いを第一とし、神様の御名が崇められることを第一とするとき、他の一切の事、報いや見返りを求めることから自由にされるのです。神様からの報いだけが私たちを本当に満たすことが出来ます。神様から頂くもの、救いや贖い、神の子とされた洗礼の事実も一時的なものではありません。永遠に続くことがらです。死んだ後天国まで持って行くことのできるものです。主イエスは敵を愛しなさいということを一時的なこととして語っているのではありません。神の国へと続く、あたらしい掟として語っておられるのです。ですから、敵を愛するということも、御国を目指してなされる行為なのです。御国に帰ったときに、良い僕だ、よくやった、と言って頂くことを求めて、その大きな報いをだけを求め、それ以外のことは何も求める必要はないのです。父なる神様は、放蕩息子であっても、父と共にいたその兄であっても自分の子どもとして愛しておられます。兄は、放蕩の限りを尽くした弟をおもしろくないと思うのですが、父は兄も弟も等しく自分の子どもであり、子ども同士もまた自分の許で、共に愛し合ってほしいと思っておられるのです。
  今日の箇所の最後に、主はこのようにおっしゃいます。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」、もういちど念を押すように、父の憐れみ深さにのみ、あなたがたが憐れみ深い者となる根拠があるのだ。とおっしゃっているのです。この憐れみ深いということばは共に苦しむという意味の言葉です。主は神に背く私たちを憐れみ、この地上に来られ、苦しみ抜かれて、私たちの身代わりと成って十字架について下さいました。それと同じように、私たちも、自分たちに対して攻撃しなければならない敵の苦しみを共に苦しむというところから、愛の連鎖の一歩、主のご生涯を現す一歩が始まるように思われます。私たちの愛されたいと言う願い。神様は完全にその願いにお応え下さっています。御言葉に聞き続けるときに、そのことが明らかにされていきます。私たちを愛し、私たちの罪を解決するために、私たちと共に苦しみ、その苦しみを苦しみ抜いて、命まで献げて下さった。私たちは今、この主の愛を受けています。だから「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」神様から惜しみなく頂いている私たちは、敵を愛し、隣り人と共に苦しみ、何もあてにしないで差し出すあゆみへと進まざるを得ません。主がそのようなあゆみへと導き、そのあゆみを祝福してくださるように。お祈りをいたします。

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