聖書のみことば
2024年3月
  3月3日 3月10日 3月17日 3月24日 3月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

3月24日主日礼拝音声

 罪と戦う主
2024年3月第4主日礼拝 3月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第18章15〜27節

<15節>シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、<16節>ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。<17節>門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。<18節>僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。<19節>大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。<20節>イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。<21節>なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」<22節>イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。<23節>イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」<24節>アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。<25節>シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。<26節>大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」<27節>ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

 ただ今、ヨハネによる福音書18章15節から27節までをご一緒にお聞きしました。ここには2つの出来事が組み合わされるようにして語られています。
 一つは、弟子のペトロが3度にわたって主イエスの弟子であることを打ち消した出来事が、そして、そのペトロの否認と言われる出来事のまん中に挟まれるようにして、主イエスが先の大祭司であったアンナスの屋敷に連行され、アンナスによる取り調べを受け、平手打ちを受けた出来事が述べられています。
 まん中に置かれている記事の始まり、19節に「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた」とあります。「大祭司は」と始まっていますが、こう呼ばれているのは、正確には先代の大祭司であるアンナスです。24節を見ますと、この時、この時期の本当の大祭司はカイアファという人物だったことが分かります。カイアファはアンナスの娘婿に当たる人物であり、逆にカイアファからアンナスを見れば姑ということになります。大祭司の職務は本来、終身のものでしたから、アンナスが勝手に大祭司の立場を退いて娘婿のカイアファに大祭司の務めを継がせていたのは、公私を混同した行いです。イスラエルの大祭司は、王がいない時代には王のような権限を持っていましたから、アンナスはその絶大な権限を決して手放すことがないように、その地位を娘婿に譲って世襲とした結果がこのようになっています。そして、立場としてはもはや大祭司の席を降りたのに、実際には隠然とした権力者であり続けていた結果、19節で「大祭司は」と呼ばれているのです。本来の大祭司であるカイアファをも凌ぐような力を持っていたために、こういう書き方になっています。
 即ちこの場面は、当時のエルサレムで実質的な最高権力を握っていた人物と主イエスが対面し、対決しているような場面なのです。

 19節には、権力者アンナスが主イエスに向かって、「弟子について、教えについて問い質した」と述べられていますが、主イエスはそのようなことについては、既にアンナスがすべて知っていて、その上で、このような形だけの問いを発していることを見抜いておられます。主イエスは、アンナスのこの取り調べが、ただ形式を合法的に見せるための上辺のものにすぎないことを御存知でした。主イエスに対する処置は、実は、裁きの座を設ける前から決まっていました。従ってアンナスの質問には誠実さのないことを、主イエスは見て取っておられます。
 そのため、20節以下のようにお答えになったのでした。「イエスは答えられた。『わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている』」。このように答えた結果、主イエスは大祭司の下役の一人から手ひどい平手打ちを食わされることになりました。その理由は、主イエスがこの晩の取り調べの場で、普通の被告のような態度を取らなかったからです。このような場面では、大抵の囚人は、自分の生殺与奪の権限を握っている裁き人の前で、こびへつらい、何とかして寛大な処置を引き出そうと行動します。うなだれてしおらしく見せ、憐れみを乞うような様子を見せるのが普通です。
 ところが、この晩アンナスの前に引き出された囚人ナザレのイエスは、決してそのような態度を取りませんでした。それどころか、御自身が訴えられて裁きを受ける立場に置かれていることも感じていないかのような態度をお取りになります。まるで自由な者であり、アンナスの法廷で主イエスの方が裁判官の席に就いているかのような、超然とした態度をお取りになります。主イエスはそういう仕方で、この裁きの場で、人間の偽りの悪に立ち向かい、罪と戦われます。
 主イエスの十字架の御受難は、しばしば誤解して受け取られがちですが、決して主イエスが暴力に屈した出来事ではありません。即ち、主イエスは正しくあろうとしたけれども、力及ばず捕らえられ、暴力に屈して磔にされたということではないのです。主イエスはあくまでも、主御自身のなさり方で人間の罪を明らかにし、これと戦われ、打ち破ってゆかれます。 十字架の出来事は、主が心ならずも捕らえられ死を被ったような出来事ではありません。むしろ、主イエスが御自身のお考えと御計画の中で、十字架の御業を通して罪と滅びの勢力と戦われ、これを最終的に打ち破ってゆかれた出来事なのです。
 主イエスはかつて、弟子たちに教えてくださったことがあります。ルカによる福音書12章4節5節に「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。今日のところで主イエスは、アンナスの前で、まさにこの通りに行動されます。アンナスは主イエスの肉体について、実際上、生殺与奪の拠限を握っています。しかし主イエスはひるみません。主イエスはアンナスの心の内に隠されている暗い思いを見抜いておられます。取り調べの結果に関わりなく、最初から主イエスを亡き者にしてしまおうとする暗い思いを知っておられます。それはアンナスの自己保身の欲求であり、また人々に支持される主イエスに対する妬みの思いでもあります。自分中心に物事が進まないと我慢がならないという人間の罪と、主イエスは戦っておられるのです。そして、アンナスが企てる悪い行いを逆手にとって、まさに十字架刑というアンナスたちの企てを用いて、主イエスは御自身の御業を果たしてゆかれるのです。
 主イエスは、最終的な形としては、ローマ総督ピラトの口から出た判決の言葉によって十字架に磔にされました。しかし実質的には、今日聞いているこの時点で、主イエスはもう既に御自身の十字架を予期しておられます。アンナスの罪も見抜き、またこの後聞きますが、情けない姿で歩む弟子たちの罪も分かっておられ、そのすべてを御自身の側に引き受け、十字架に向かって歩んでゆかれるのです。

 今日の記事では、その中心に、当時の権力者であったアンナスの醜い罪の姿が明らかに照らし出されています。けれども、その前後を挟むようにして、もう一つの罪の姿が照らし出されています。この場面を一幅の絵画に例えるなら、中央のところにアンナスの頑なな罪の様子、主イエスを救い主として決して受け容れず、亡き者にしてしまおうと考え行動している様子が描かれているのですが、同時に画面の周縁部分には、ペトロたち弟子の弱さによって犯されている罪の姿が、ちょうど背景のように、あるいは遠景のように描き込まれています。ペトロが主イエスの弟子であることを打ち消そうとした否認の出来事は、4つの福音書のすべてに記されています。それだけ重大だということを表しているのですが、ヨハネによる福音書では、この出来事が前後2つの場面に切り分けられて、アンナスが主を拒絶している出来事の遠景として描かれるのです。
 このように、主イエスとのつながりを打ち消そうとする弟子たちの姿が描き込まれるのは、決して偶然ではありません。福音書記者のヨハネは、よく考え抜いた上で、ここでのペトロの姿を、アンナスと主イエスとの対決の背景にしています。アンナスの殺意は、言ってみれば、主イエスを知らない人、あるいは主を受け入れようとしない人が犯す罪の姿を表しています。しかし罪は、主を知らない人だけが犯すのではありません。主を知っている人、自分では信じているつもりの人も罪を犯します。ペトロに代表される弟子たちの姿は、主イエスを知っている、あるいは信じている人々が陥る罪の姿を表しているのです。
 こういう聖書の箇所に出会いますと、私はどうしても前任の北牧師のことを思い出します。とても鮮やかに、このような聖書の真理を説き明かしてくださったからです。先生は「キリスト者でない人は知らずに罪の中にあるけれども、キリスト者もまた罪を犯す。信仰のない人だけが罪を犯すのではなくて、信仰者もまた、その信仰において罪を犯すのだ」と教えてくださいました。この箇所に描かれるペトロの姿は、まさしく主イエスの弟子である者が、その弟子であるために犯してしまう罪の姿なのです。

 ここでペトロは、3度、主イエスとの関わりを否認しています。一回目は17節で「門番の女中はペトロに言った。『あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。』ペトロは、『違う』と言った」。2度目は25節、そして3度目の否認は27節で行われています。他の福音書と同じように、ヨハネによる福音書の記事の中でも、ペトロは3回、主と関わりのある弟子であることを打ち消しています。その点は他の福音書と変わりません。
 しかし注目したいのは、18節の言葉です。「僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた」とあります。ペトロが「立って火に当たっていた」様子は、25節でも繰り返して描き出されています。どうしてペトロは、弟子の一人ではないかと疑われたのに、呑気に立って火にあたっていたのでしょうか。一つには、この晩が寒かったからでしょうが、それだけではなくて、ペトロは主イエスを一人残してその場から立ち去るということが忍びなくてできなかったということもあるのではないでしょうか。ペトロには、主イエスを愛し、また従おうとする思いが確かにあったのです。それがペトロを立ち去らせませんでした。しかし、そういうペトロでしたが、いざ「あなたはあの男、ナザレのイエスの弟子の一人ではないか」と尋ねられると、それを打ち消してしまう弱さを併せ持っているのです。
 こういうペトロの何とも情けない姿は、しかし、私たちのために記されているのではないでしょうか。ヨハネはよくよく考えた末に、こういうペトロの姿を記録したのではないでしょうか。というのは、ことによると、聖書を読むすべてのキリスト者、私たち自身の信仰もまた、このペトロと似たような弱さを宿していることに思い当たるからです。
 この聖書の箇所は、おそらく主イエスとアンナスとのやりとりの記事だけでなく、その前後のペトロの否認の記事までを含めて、その全体が一続きの記事なのでしょう。ヨハネはそのつもりで、ペトロの否認のことを前後に割り振ったように思います。ここでは、主イエスに対して暗い思いを心の内に抱いているアンナスと、また主イエスの許に留りたいと自分では思っているつもりでいながら、しかし主を否んでしまうペトロと、その中央のところで、「主イエスが黙ってはおられない方だ」ということが最も大きなことではないでしょうか。
 主イエスはここで、信じない者の罪はもちろん、また信仰者の罪とも戦って、それら一切の罪を御自身の十字架の上で滅ぼそうとしておられます。主イエスは、主イエスを否んだ人たちのためだけに十字架に掛かるのではありません。自分では従いたいと願っているのに、実際には否んでしまう、そういう弱い弟子たち姿も主イエスは御覧になっていて、そして、この時点で主イエスは既に、十字架へと歩みを始めておられるのです。

 その主イエスがここから歩んで行かれる道は、決して平垣で歩き易い道ではありません。主イエスが大変厳しい中で、その歩みを通してすべての罪を引き受けて十字架上で清算しようとしてくださる時には、この主イエスに従っていく者たちの歩みもまた、平坦なものであるとは限りません。時に予想もしなかったようなことや思いを越えるような出来事が振りかかってきて、途方に暮れたり、それこそ心が潰されるような思いになることもあります。そしてそのような時には、主イエスは黙ったままではいらっしゃいません。この場面の主イエスのように、大祭司の罪と過ちを指摘し、たとえ口をつぐむように平手打ちされるようなことになっても事情をはっきりさせ、「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と言って、御自身の働きによって罪を清め、新たな道へと一人ひとりを導いてくださいます。
 主イエスはそのようにして、たとえ両手を縛られ、足枷がはめられ、また生計の道を断たれ、口を封じられるという扱いを受けることになっても、そういう事情の中で、まことに自由であり、また明朗に、十字架への道を進んで行かれます。今日の箇所の中心に描かれているのは、まさにそういう主イエス・キリストのお姿なのです。そしてこの主イエスの光が、アンナスの不明朗なあり方やペトロたちの不束な歩みを明るく照らし出し、この罪との戦いのため十字架に赴かれる主イエスの姿を表しているのです。

 主イエス・キリストの教会は、そういう主イエスに招かれ、従っていく群れです。「いつの日も罪と戦い、これを滅ぼすために人々を招き、その罪を明らかにしながら、罪を御自身の側に引き受けてくださって、『あなたはここで生きて良いのだ』とおっしゃってくださる方」が頭である群れ、それが主イエス・キリストの教会です。このことは、どんなに強調しても強調しすぎることはありません。

 主イエスが今日のところで、死の脅かしの下にあっても自由でいられたのは、どうしてでしょうか。それは根底のところで、父なる神のなさりように従順であるためです。主イエスは決して、痩せ我慢をしてアンナスの前に立っておられるのではありません。むしろ、神の御前にあって、神に喜ばれる者として従順であるからこそ、主イエスはアンナスの前でも、まことに自由な方として振る舞うことがおできになります。そして、そのような主イエスに伴われ、強められて自由にされる人が、本当に自由な者として生きることができるのです。
 ですからそう考えますと、人間一般が自由であるとは言えないのではないでしょうか。普通は皆、自分は自由だと言いますが、形の上ではそうであっても、人間の存在や在り方において私たちは決して自由ではありません。それは、実際の生活の中でさまざまな制約を受け、支配され、影響されながら生きていることを考えれば、よく分かります。
 本当に自由な人とは、どういう人でしょうか。主イエス・キリストによって強められ、自由にされる人だけが何事からも自由な者となって生きることができるのです。そういう人は、たとえ外側の事情が困難の中に置かれ、圧迫と抑圧のゆえに不自由そうに、固く束縛されているように見えるとしても、そこで自由なのです。たとえ明日がすべて背を向けて立ち去ってしまったように思えるときにも、そういう人はなお主に伴われて、今日を生き、そして主イエスが共に歩んで下さる将来へと持ち運ばれてゆきます。

 そのような、「捕われ人でありながら、しかし本当に自由である」という人間の姿を、今日の記事は私たちに伝えてくれています。24節で、アンナスは主イエスを縛ったまま大祭司カイアファのもとに送ったと記されています。主イエスは縛られていますが、しかしまさにその姿で、主イエスは御業をまた一歩先へ進めて行かれます。人間の罪を滅ぼすために、そして私たちに本当に独立した、神の前に生きる自由を勝ち取って下さるために歩まれます。
 私たちに自由を与えてくれるのは、お金でも社会的な地位でもありません。主イエスが共に歩んでくださる日、そこではこの主のゆえに私たちに自由が与えられ、そして将来が生まれてくるようになります。それは、主イエスが十字架に掛かる方でありながら、なおその先に備えられているものを確かに捉えておられ、その先の命を私たちに贈り物として与えてくださっているからです。
 主が約束し、今私たちに「生きるように」と手渡してくださっている永遠の命の中へと、今日ここからまた歩み出す者たちとされたいのです。お祈りを捧げましょう。

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