聖書のみことば
2024年2月
  2月4日 2月11日 2月18日 2月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

1月7日主日礼拝音声

 赦しを得させる系図
2024年2月第1主日礼拝 2月4日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第3章23〜38節

<23節>イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、<24節>マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、<25節>マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、<26節>マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、<27節>ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、<28節>メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、<29節>ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、<30節>シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、<31節>メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、<32節>エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、<33節>アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、<34節>ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、<35節>セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、<36節>カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、<37節>メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、<38節>エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。

 ただ今、ルカによる福音書3章23節から38節までを、ご一緒にお聞きしました。
 この箇所が読み上げられている間、どういう気分になったでしょうか。大変興味深い、何とも関心を惹かれると思われた方は少なくないのではないでしょうか。ここに記されているのは沢山の人名です。数えてみると主イエスからアダムまで、77の人名が連ねられています。
 この77人の中には、主イエスの他、主イエスの父ヨセフやダビデ、アブラハム、イサク、ヤコブやノア、アダムといった、馴染みのある名前も出てきますが、ほとんどの人名は私たちのよく知らない名前です。聖書を読んでいて、こういう箇所にさしかかると、素早く読んでとにかく先に進むか、あるいはすっかり読み飛ばしてしまうという方もおられるでしょう。無理もないと思います。系図の記事は確かに、とてもとっつきが悪いからです。
 系図と言えば、もう一つ別の箇所を思い出すかも知れません。それは新約聖書の最初のところです。マタイによる福音書1章1節から17節に、やはり主イエスの系図が載せられていて、あの箇所も読むのに苦労する方が多い箇所です。
 もともと聖書の言葉は、どの箇所を読んでも簡単に意味が分かるような箇所はそう多くなく、どこを読んでも説明されないと意味を受け取りにくいところがあります。ですから、礼拝の中で御言の説き明かしである説教が語られるのですが、今日のような系図の箇所は一体どう説き明かすことができるのだろうかと、逆に、その説き明かし方に興味を持つ方もいらっしゃるかも知れません。注意して聞きますと、こういう箇所から聞こえてくることも確かにあるのです。

 それはたとえば、この箇所の入り口のところに語られている言葉です。23節の最初に「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた」とあります。主イエスが神の事柄を人々に宣べ伝えられ十字架にお掛かりになったのは、大体30歳ぐらいの時だったと広く知られていますが、その根拠になるのが、この言葉です。主イエスの宣教開始がおよそ30歳の時だったと言われているのです。
 主イエスは独りっ子ではありません。福音書の中には、主イエスの弟たちの名前が記されているところがあります。おそらく一番有名な主イエスの弟は主イエスのすぐ次に生まれた弟のヤコブで、このヤコブは、ルカによる福音書の第2巻である使徒言行録を読むと、エルサレムにできた最初の教会で中心的な役割を果たした人物として名前が出てきます。その他にも、ヨセ、ユダ、シモンという名前の弟たちや、名前ははっきりしませんが妹も複数いたらしいことが、マルコによる福音書6章3節の記事から聞こえてきます。
 すると、主イエスがおよそ30歳になって神の事柄を伝える生活に入ったということは、それまで主イエスにその思いが無かったということではなくて、弟や妹たちの成長を待つ必要があったという消息を語っているのかも知れません。伝説によれば、主イエスの父ヨセフは、まだ主イエスが若い時に亡くなったと言われています。早く亡くなったといっても、主イエスが12歳の時には家族で一緒にエルサレム神殿の礼拝に参加していますから、それよりは後です。おそらく主イエスが13歳になって、ユダヤの社会では成人と見做されるようになってから間もなくして、ヨセフは亡くなったものと思われます。残されたマリアの家族は、いわゆる母子家庭になった訳ですが、主イエスは成人に達した一番上の兄、長男として、まだ幼い弟や妹たちのために働いて家計を支え、幼い人々の成長を待っていたものと思われます。下の子どもたちまで無事に成長して13歳となり成人したので、主イエスはようやく家計を支える役割から解放されました。以前に聞いた2章の終わりのところで、本当に慎ましやかに、「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」と述べられていました。
 既に12歳の時に、エルサレム神殿で、自分の父はアブラハムではなく神であるということを宣言しておられた主イエスですが、天の父に仕えるために、地上の両親や弟たちを支える務めをないがしろになさった訳ではなかったのです。12歳の時に、自分には天の父がおられるとはっきりおっしゃった主イエスは、それから18年間父母と家族に仕えてお過ごしになり、30歳になって、いよいよ家族を養い育てる手を離すことができる時が来て御自身の働きにお入りになったことを、ここの言葉は鮮やかに証言しています。

 従って、今日の箇所から聞こえてくる最初の事柄は、私たちが神にお仕えして生きるようになるのに遅すぎるということはないということではないでしょうか。もし、神の御業にお仕えして生きる者になりたいという志を与えられているが、その時には何かの事情があって、志の通りに生きることができなかったとしても、それは志そのものが取り去られたということではありません。何かの理由で志が果たせなかったとしても、それは時がまだ訪れていなかっただけのことで、神が良い時に志に向かう道を開いてくださることがあり得ることを忘れてはならないと思います。
 その良い例は、旧約聖書に出てくるモーセです。モーセは40歳の時にエジプト人に虐げられている同胞のユダヤ人を助けようとしてエジプト人に打ち掛かり、相手を倒してしまいました。そのようにエジプト人を倒すという仕方で自分は同胞を助けられると考えたモーセですが、その時には道は開かれず、却って、エジプトのファラオを恐れて逃げ出さなくてはなりませんでした。ところが、そんなモーセが80歳になった時、神は燃える芝の中でモーセに現れ、エジプトのファラオの前に行って民を救い出すように道を開かれたのでした。使徒言行録7章30節以下や出エジプト記7章7節を見ると、そのことが記されています。神は、御自身の計画に従って、人間を用いられるのです。
 人間にはどう思えるにせよ、神がお用いになるところでは御業が行われてゆきます。私たちにとっては、今日という日が今与えられている銘々の人生の最も若い日であることは間違いありません。主イエスが30歳で宣教を始められた時、神が与えてくださった務めに率直に応え、従われたことを憶えたいと思います。そして私たちも、神が何かの御業に用いてくださると、もしおっしゃるならば、そのことにお応えできるようにと、それぞれに祈る者たちとされたいのです。

 主イエスは30歳の時に宣教の生活にお入りなったのですが、それは父なる神の呼びかけに対し、まっすぐに応えられた結果でした。この直前の箇所で、主イエスは洗礼を受けて私たち人間と等しい列に連なり神に祈っておられた時に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の呼びかけを聞かれました。この呼びかけは、先週と今日の箇所だけを聞いていると、この時が初めての語りかけだと思うかも知れませんが、そうではありません。既に12歳の時に、主イエスは神殿で「自分の父は神である」とおっしゃっておられます。
 12歳から30歳まで、主イエスがずっと、神が父だと思い続けて歩んでおられたかどうかは、はっきりとは分かりません。主イエスは神の独り子ですから、私たち人間には思いもよらないような仕方で、自分は神の子なのだと思い続けておられたかも知れません。けれども、私たちも自分のことを思い返してみると、確かに自分に父がいることを知ってはいても、四六時中、その父のことを考えて、自分はあの父の子だと思って過ごしている訳ではありません。何かの機会にふと思い出して、自分は両親の子だと深く思うようなことがあるかも知れません。ですから主イエスの場合も、30歳までは家族の生活を支えることに一生懸命で、自分が父なる神の独り子であると分かってはいても、そのことが第一の事柄とは思っておられなかったかも知れないのです。ところが、洗礼を受け祈られた時に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という声がはっきりと聞こえて、そこから宣教の生活にお入りになったと考えることもできるのではないでしょうか。
 もちろん、主イエスは神の独り子であることを止めておられたのではないのですが、ヨセフの子として懸命に家族や周りの人々を支えておられた、その事の方に重きがあったと言えるかも知れません。主イエスは実際、神の独り子でしたけれども、そのことよりもむしろ、共に生活する隣人のために心を砕いておられたのです。
 ここから、2番目に聞こえてくる事柄があります。それは、この世にあって、神の子どもたちはその事実を人々の前に大きく宣伝するよりも、むしろ、世にあって隣人たちに心を向け、共に生きるための隠れた業に思いを向けるようなあり方をするということです。主イエスは私たちに「あなたが右の手で行っていることを、左の手には隠すように」とおっしゃったことがあります。それはもちろん、隠したい恥ずかしい行いだから隠すのではなくて、善を吹聴しないようにという意味なのです。
 主イエスは神の独り子でしたけれども、そのことを明らかにするよりも、当座はヨセフの子として周りの人々を支えて共に生きることに思いを向けられました。そんな主イエスの姿を見事に言い当てている聖書の言葉があります。フィリピの信徒への手紙2章6節から8節に、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。主イエスが神の子であることを盛んに吹聴する代わりに、身を低くして人間と同じ者となり歩んで下さったことを、この言葉は伝えています。
 主イエスがそのようにしてくださったからこそ、主イエスの周りの人々は、主イエスのことを、神の独り子ではなくヨセフの子と考えていたのです。私たちもキリスト者として、神の子の一人ひとりなのですが、周りの人々と交わり、仕えるあり方をする時にこそ、主イエスの姿を示す者とされることを憶えたいのです。

 今日の系図から聞こえてくる第3のことは、ここに沢山連ねられている系図の流れそのものの中にあります。最初に申し上げましたが、この系図に出てくる人々の名前の中には、ところどころその人がどんな働きをしたかが伝えられて知られている人もいますけれども、そういう人は全体の中ではむしろ例外であって、ほとんどの人々は、ここに名前だけが知られているに過ぎません。
 しかし、このような系図から知らされることがあります。それは、こういう系図の中では、人間一人ひとりが大事でそこにスポットライトが当てられているのではなくて、一つのつながりの中に一人ひとりが置かれ、憶えられているという、そのことがとても大事なのだということです。系図のように多くの人間の名前が出てくる表に出会いますと、私たちはつい、そこに名前の出てくる一人に思いを向けてしまいがちです。よく知っている名前が出てくると、その人がどんなに偉大な人だったかというようなことを、つい喋りたくなってしまうのです。けれども、人間の働きというものはどんなに大きく感じられても、神の前には決して誇れる程のものではありません。それは、神が機会と力を与えてくださって働かせてくださった結果にすぎないからです。むしろ神御自身は、人間にとって自立たないような働きであっても、必要な働きとして心に留めてくださるのです。
 ここに登場する77人の名前は、そのいずれの人も神が必要としてくださり、神の民の中に連ならせてくださった人々の名前です。神は御自身の真実な慈しみを、ここに伝えられている人たち一人ひとりに注いでくださり、支え持ち運んでくださったのです。ですから、人間の業ではなく、神が行われたことを表す系図であることを憶えたいのです。

 よく知られていることですが、ルカによる福音書が伝える系図に名前の出てくる順序は、マタイによる福音書の系図とは逆の方向に向かっています。マタイでは、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と前置きがされて、先にアブラハムの名前が記され、最後が主イエスの名前になっています。あの系図は、神が最初にアブラハムに約束してくださった祝福が、どんな人々を通って持ち運ばれたかを表す系図です。ですから人によっては、マタイの手が、神の祝福という金色のバケツを次から次へとリレーして主イエスのもとに持ち運んでいるみたいだ、というような感想を述べたりします。
 一方、ルカの系図は逆の方向に進みます。即ち、主イエスのお名前が最初に記されて、そこからヨセフ、エリ、マタトと、逆に先祖の方に向かってゆきます。そしてダビデやアブラハムで終わることなく、更に系図は遡り続け、最初の人アダムまで行き、そして神のところで終えられています。
 この系図では、アブラハムに約束された祝福が原点にあるのではなくて、主イエス・キリストの十字架と復活の御業こそが原点なのです。どうしてこの系図はダビデやアブラハムで終わるのではなく、アダムのところまで伸びているのでしょうか。それは、主イエスこそが、アダムの犯した罪を御自身の側に引き取って十字架に掛かってくださった方だからなのです。この系図では、主イエスこそアダムの失敗を引き受けてその罪を清算してくださった方であって、この主が最後のアダムなのだということを表しているのです。
 主イエスがアダムの罪を御自身の身に引き受けて清算し、滅ぼしてくださいました。そういう主イエスの決定的な御業が行われたことを、この系図は表しているのです。主イエスがその働きの大事さを憶えて、罪の赦しを伝える宣教を始められ、またその教えられたとおり、十字架に向かって歩き始められたのが30歳の時だったことを、この系図は語っています。
 もちろん、30歳になるまで、主イエスが心を砕いて周囲の人々を助けた手の業も尊いのです。その働きも必要です。ですが主イエスは、他の人には決して行うことのできない、人類の罪を清算し、人々を罪が赦された者たちとして生かすという働きに向かって歩んでくださいました。

 そして今日、私たちも、この主の赦しのもとに置かれていることを知るように招かれているのです。罪が赦され、清らかな者として生きてよいと語りかけられていることに感謝して、その喜びを伝える僕として、周囲の人々と共に生きる者とされたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ