聖書のみことば
2021年4月
  4月4日 4月11日 4月18日 4月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

4月18日主日礼拝音声

 父の聖旨(みむね)
2021年4月第3主日礼拝 4月18日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第5章19〜30節

5章<19節>そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。<20節>父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。<21節>すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。<22節>また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。<23節>すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。<24節>はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。<25節>はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。<26節>父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。<27節>また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。<28節>驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、<29節>善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。<30節>わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

 ただいま、ヨハネによる福音書5章19節から30節までをご一緒にお聞きしました。
 19節に「そこで、イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする』」とあります。「はっきり言っておく」という言い方は、主イエスが大切なことを弟子たちに教えようとなさるときに決まって口になさる、主イエスの言い方の癖です。ここでは3度も、この言葉が出てきます。19節、24節、25節と、主イエスが繰り返し繰り返し「今から大事なこと言う」とおっしゃって話を始めておられます。
 このような言い方をなさる限りは、主イエスはよほど大事なことを伝えようとなさっているのではないでしょうか。主イエスが伝えようとしている大事なこととは、一体何でしょうか。心してそれを聞き取りたいと願います。

 まず19節です。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」とあり、「子」と出て来ます。主イエスがご自身を「子」と言い表しておられるのは、ヨハネによる福音書では、ここが初めてです。主イエスは、一体どういうおつもりでご自身を「子」だと名乗っておられるのでしょうか。ここで「子」と訳されている言葉は、いわゆる大人に対しての子どもという言葉ではありません。元々の言葉のニュアンスも込めて翻訳しますと「息子」です。ですから、主イエスはここで、ご自身が神の真の子、独り子なのだと、その思いにおいても行動においても言葉においても父なる神を現す子として行動なさる、父と完全に一つなのだということを弟子たちに教えようとして、「わたしは子である」と言っておられるのです。
 「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」と言っておられますが、「何事もできない」というのは、能力不足ということではありません。父なる神の御心をすべてご存知なので、「父が望まないことを、子としてはできない」という主イエスのお気持ち、主イエスの御意志を現す言葉です。ですから続けて、「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」と言われます。主イエスは、神がこの世界に対してなさろうと思っておられること、それは何であっても神の思いに従って、ご自身もそれをなさろうという思いでいらっしゃるのです。主イエスがお架かりになった痛ましい十字架の出来事も、父なる神の御心に完全に従おうとして、主イエスがご自身でなさってくださった、御業です。
 主イエスがそのように、どこまでも父なる神に従順に従おうとなさる、父と一体の方として行動しようとしてくださる、だからこそ私たちは、主イエス・キリストというお方を通して、神が私たち人間にどのように相対してくださるのかということを知ることができます。神がどういうお方なのか、私たちは普段、見もせずに神を神と呼んで分かったようなつもりになっていますが、どうして分かるかと言いますと、それは主イエスを通して神がご自身を現してくださっているからです。

 神が主イエス・キリストを愛しておられ、また私たちを愛してくださっている、そのことを分からせてくださるのは、主イエスなのです。20節に言われている通りです。「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる」。父なる神がお示しになるので、主イエスはすべてのことをご存知です。そしてその上で、「これらのことよりも大きな業が行われる」と言われています。
 「これらのこと」というのは、ベトザタの池で病人が癒やされたという出来事です。あの不思議な癒しの業よりも大きな業とは、一体何のことを言っているのでしょうか。ベトザタの池での癒しは本当に不思議なことでした。けれども、あそこで癒やされたのは一人の人でした。それは、まだ主イエスが神の栄光を現す時にはなっていなかったからです。主イエスは、まだ時ではないので、ただ一人の人に対してだけ「あなたは良くなりないのか」と尋ねてくださり、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言葉をかけてくださいました。「起き上がりなさい」と訳されている言葉は、元々の言葉では「起こされる」という受け身の言葉であり、それは主イエスの復活の際にも、同じ言葉で「復活する」と言われる言葉でした。ですから、ベトザタの池で38年間寝たきりだった人が起こされたことというのは、ただ単に不思議な仕方で病気が癒やされたということではなく、主イエスがご自身の復活の出来事に、その人を結んでくださったということになるのです。主イエスが「あなたと一緒に、わたしも復活した者として歩んであげよう。あなたは、わたしに結ばれた者として立ち上がり歩みなさい」と言ってくださいました。甦りの主イエス・キリストが長患いの病人と共にいて、その人を立ち上がらせ歩ませてくださる。それ以上に大きな出来事とは一体何なのでしょうか。

 それは、主イエスが、その一人だけに対してだけではなく、思いのままに、誰に対しても命を与え歩ませてくださるということです。21節に「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」とあります。神は主イエスを十字架の死から復活させてくださいました。それと同じように、子である主イエスご自身も、主イエスが命を与えると思われたならば、その人には命が与えられることになるのだと言われています。ベトザタの池のほとりでは一人の人だけが癒やされ、自分の命と人生をもう一度喜んでそこからスタートするということが始まっていましたが、今やそれは一人きりの話ではなくなっています。主イエスが望んでくださるのであれば、多くの人たちが主イエスによって命を新しくいただいて生きるようになるのだという約束が、ここには述べられています。その約束こそが「大いなること」なのです。
 ベトザタの池での癒しも十分に大いなる不思議な業です。けれども、私たちは「あれは聖書の中だけの話だ」と思っているのではないでしょうか。聖書の中だから不思議な話が語られているけれど、今ここに生きているわたしの日常、人生に、直接に繋がっている話ではない。聖書の中の物語だ」と思っているのではないでしょうか。聖書に記されたベトザタの池の癒しの出来事も、物語として聞く以上のものではないと思っているでしょう。実際に、ベトザタの池で癒やされた人自身も、癒しの出来事は自分のことではないと思って、長い間暮らしていました。池の水が動くときに、多くの人が我れ先にと水に入りますから、実際には何人の人が癒されたのか分からなかったと思います。彼は、自分には池に入れるために助けてくれる人もいないので、自分が癒やされることはないと思って38年間を過ごしていました。癒やされるのは別の人であって自分ではない、自分の人生は病気から解放されることのない人生だと思っていました。ところが、そういう人に対して、「本当にあなたは癒やされたいのか。良くなりたいのか」と主イエスが尋ねてくださり、そしてそこに癒しが起こりました。
 ベトザタの池の出来事が現しているのは、まさに私たちが聖書の話を聞いて「あれは物語だ」と感じてしまうことに、よく似ているのではないでしょうか。ベトザタの池のほとりにいながら、しかし彼は、奇跡が起こるのは自分ではなく他の人だと思っていました。ところが彼は、主イエスに出会わされ、そして奇跡が自分の上に起こりました。私たちも今、聖書の話というのは、自分に関わりのない出来事だと思っているかもしれません。
 ところが、主イエスはまさに、今日のところでお語りになりました。「あなたがたは、ベトザタの池での出来事を『不思議なことだな』と思って聞いているかもしれない。けれども、ただ一人の人に起こったこの出来事よりも、もっと大きな業を、もっと大きなことを、あなたは知るようになる。そして驚く」。それは何かと言うと、「神の御子である主イエス・キリストが、ご自身の思いのままに誰にでも命を与える。そういうことが起こるようになる」ということです。もしここで主イエスがおっしゃっていることが本当だとすれば、ベトザタの池の幸運な一人だけが癒やされたということではなく、もっと多くの人たちが、主イエスが望んでくださった上で新しい命を生きるようになるということです。もしそうであれば、一人の人だけが喜ぶということではなく、どんなに多くの人たちが喜ぶだろうか、大いなる業が行われるのだろうかと思います。

 けれども、その場合に問題になるのは、主イエスが「共に歩んであげよう」と望んでくださって、人生を新しく生き直すことができる人とは、一体どういう人なのかということでしょう。どういう人が主イエスに招かれ、主イエスに伴われ支えられて、新しい人生を生きることになるのでしょうか。主イエスはまさに、そのことも大事なことだと言わんばかりの前置きをして言われました。24節に「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」と言われました。「はっきり言っておく」と前置きして、「これは本当に大事なことなので、聞きなさい。目を覚まして、心を開いて聞きなさい。はっきり言うから」とおっしゃって、「今語っているわたしの言葉を聞いて、わたしが父から遣わされたと信じて聞くならば、その人は永遠の命を得るようになる。そして終わりの裁きの時に、裁かれることなく、死から命へと移される」と言われました。
 この24節の言葉とよく似た言葉を少し前に聞きました。3章17節18節です。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」。「御子を信じる者は裁かれない」と言われています。どうして裁かれないのでしょうか。それは、「神が御子イエス・キリストをこの世に遣わされたのは、裁きのためではなく、御子によって信じる人が救われ、一人一人が神に結ばれた者として新しい命を生きるようになるため」だからです。
 神はどうして主イエスをこの世にお遣わしくださったのでしょうか。それは、私たちが、どのような状況で今を生きているとしても、「もう一度ここから、主イエスが共にいてくださる者として生きて良いのだ」と、主イエスを見上げ、神に信頼して歩むためでした。
 今日の箇所で主イエスは「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は」と言われます。主イエスが神から遣わされて、私たちを救うために来ておられると信じる人は、どうしても、主イエスを遣わしてくださった方がおられると信じる他ないのです。「私たちが救われるために、神のものとしてもう一度ここから生きて良いのだと伝えるために」、主イエスが来てくださったのだと信じる人は、その主イエスを送ってくださった神がおられることを信じているということにもなるでしょう。

 「神について、よく分からない」と思っておられる方は少なくないと思います。牧師であっても、神の御計画の隅々まで全部知っているかというと、そんなことは分かっていません。「神の御心を全て知っている」、それは「神が御心を明らかにしてくださっている子、主イエス」だけです。けれども大切なことは、細かい点で分からないことが色々あるとしても、もしかするとそういうことは、おいおい分からせていただけるかも知れないし、おいおい分かっていくのだろうと思います。主イエスは、「神が人をご自身に結ぼうとするために、救い主として主イエスを送ってくださった、神の独り子を送ってくださった」とおっしゃっています。大事なことは、この主イエスの言葉を信じるということではないでしょうか。

 主イエスは今日の箇所で、声を励ますようにして言われました。またしても「大切なことだ」と前置きしながらです。25節に「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」とあります。「死んだ者が神の子の声を聞く。すると聞いた者は生きる」とは、何とも不思議な言い方です。けれどもそれは、私たちが、「死」を肉体の死だと思っているからだろうと思います。
 主イエスがお語りになる言葉は、教会がずっとそれを2000年の間、語り伝えて来たのですが、そのように語られている言葉の中に、「神の御子の声を聞く」そのような時が来ると、主イエスは言っておられます。教会の中で「聖書の説き明かしとして語られる説教」、また、眼に見え直に触れさせていただける御言葉として、「礼拝の中でパンが割かれぶどう酒が注がれて、私たちが信仰を持ってそれに与る」、そういう時に、神が確かに私たちに語りかけておられる御声が聞こえる、そういう時が来るのだと言われているのです。

 「死んでしまった者がどうしたら甦ることができるのか」、今日の教会学校の説教でも語られていました。話している方がとても困りながら、口籠もりながら話をしておられました。それはそうだろうと思います。どうして死んだ者が生きるのかと言われれば、私たちは困ってしまいます。あるいは、そういうことを起こしてくださる神の存在をどうすれば証明できるのか、そんなふうに物事を難しく考えてしまって、却って、神がおられるということが分からなくなり苦しい思いをする、そういう方がおられるかも知れません。けれどもそれは、間違いとか、いけないことなのではなく、その方なりに一生懸命に神を確かな方として受け止めたいと願っていることから起こっていることですから、そういうことは良いことですし、願わしいことでさえあると思います。
 ただし、そのような人間の理性的な営みや、人間の思弁的な営みとは違って、神の方から確かに「あなたは生きるのだ。あなたは今わたしの前に生かされている。あなたがここで生きるために、わたしは最愛の御子をこの世に遣わした。だからこれに聞け」とおっしゃってくださる御声が、聞こえてくる場合があるのです。理性的には、どうしても主イエスが神から遣わされたことは証明できません。死んでしまった人が生き返ることを、私たちは一度も見たことはないのですから、それを理屈で言おうとしても言えない、そういう思いの方が強くなるでしょう。「どうしても、主イエスが神から遣わされたということを証明できない。だから、自分としては辛く悲しいことだけれど、主イエスのことも神のこともよく分からない」と思って、私たちが救われる側ではなく、神を理解できず滅ぶのだろうと思っている人に、そう思い込んできた人に、今日の箇所で、主イエスが、神の独り子として直に語りかけておられるのです。
 ですから主イエスは、何度も何度も「はっきり言っておく。あなたはよく聞きなさい」とおっしゃっています。「わたしは十字架に架かって死んだけれど、復活して生きている。わたしが生きているのだから、あなたも生きるのだ」と御声をかけてくださる、主イエスが私たちに語りかけてくださる時がきっとあるのです。
 父なる神が、御子を裁き主としてではなく、救い主として送ってくださる、そういう時があるからです。主イエスは、そういう神の御心に従って、私たちを裁くのではなく生かそうとしてくださいます。

 聖書の中から語りかけてくださる、その主イエスの言葉が、本当に神の子としての言葉であって、神の御心を私たちに伝えてくれているのだと聞き取って、そのことによって励まされ、主イエスに伴われ、生きていく生活が、私たちに与えられていることを覚えたいと願います。

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