聖書のみことば
2021年4月
  4月4日 4月11日 4月18日 4月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

4月11日主日礼拝音声

 命の主
2021年4月第2主日礼拝 4月11日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第5章1〜18節

5章<1節>その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。<2節>エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。<3節>この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。<3b-04節>
<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。†
<5節>さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。<6節>イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。<7節>病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」<8節>イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」<9節>すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。<10節>そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」<11節>しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。<12節>彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。<13節>しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。<14節>その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」<15節>この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。<16節>そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。<17節>イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」<18節>このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

 ただいま、ヨハネによる福音書5章1節から18節までをご一緒にお聞きしました。
 前半の9節までは、先週の礼拝でお聴きしました。エルサレムで盛んに祭が祝われて、多くの人が晴れやかな思いで過ごしていた時に、都の一角にあるベトザタの池のほとりでは、すべての希望と救いから見放されているような有様で生活している一群の人々がいました。主イエスがそのうちの一人に近づき、「良くなりたいか」と言葉をかけられました。この問い掛けが、この人物の急所を突くような問い掛けだったことを先週聴きましたが、主イエスに声をかけられたこの人は、38年もの間、池のほとりで寝起きしてきたと言われていました。形の上では、水が動く時に起こる奇跡を信じて癒やされるのを待っていたのですが、しかしあまりにも長い間待ち続けていたこと、また池の水が動いても、そのとき彼に手を貸して水の中へ連れて行ってくれる協力者が誰もいないために、この人は「もう、治ることはないだろう」と、半ば諦めの気持ちを宿して過ごしていました。主イエスは、そういう思いを宿している人に「良くなりたいか」と尋ねられましたが、この人は咄嗟に答えることができず、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」と、言い訳とも恨み言とも見分けのつかないような返事をしました。すると、そんなこの人に主イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。そして大変不思議なことですが、この人は床を担いで歩けるようになりました。
 主イエスはこの人に、自分が立ち上がれないこと、歩けないことを周りの人々のせいにして恨み言を言いながら過ごしていくのではなく、真剣に神に癒やされたいと願うかどうか、それが大変重要な問題だということを伝えようとなさいました。人間にはできないことでも、神にはお出来になるからです。
 そしてまた「起き上がりなさい」という言葉は、厳密に原文から翻訳するなら「起こしてもらいなさい」という言葉で、主イエスのご復活を表す時にも同じ言葉が使われているのでした。つまり主イエスはこの時、ご自身の復活の現実にこの人を結んでくださり、復活の主イエスに結ばれて「立ち上がり、歩む者となりなさい」と招いてくださいました。
 これは2000年昔の、ベトザタの池のほとりにだけ起こった昔話ではありません。私たち自身の信仰生活にも似たようなことが実際に起こっている、そう言えるのではないでしょうか。つまり、この人と全く同じということではありませんが、人生の深い嘆きや悲しみの出来事に直面したり、或いはなかなか過ぎ去ってくれない苦しみや悩みの中に置かれてしまう、そして助けの手がどこから差し伸べられるのか少しも見当のつかないまま孤独になってすっかり行き詰まってしまう、そういう経験を私たちもさせられる場合があるのです。悩みのために何日も眠れなかったり、体重が急激に落ちてしまったり、何日も重苦しい日々が続いているように感じられる、そういう経験です。
 主イエスは、そんな私たちに尋ね、語りかけてくださいます。「あなたは良くなりたいか。本当に癒されたいのか。それならばわたしが一緒に歩んであげよう。わたしと一緒に歩き出しなさい」。その語りかけを信じて、どうやらもう一度歩き出すことができた、という経験を持っている方もいらっしゃると思います。主イエスは、ベトザタの池の病人だけではなく、今私たちにも「良くなりたいか。床を担いて歩きなさい。わたしがあなたと一緒に歩いてあげよう」と御言葉をかけ、励ましてくださるのです。

 さて、2000年前にベトザタの池で主イエスによって立ち上がり歩き出すことができたこの人は、それでハッピーエンドになったかというと、そうではありませんでした。この人が床を取り上げ歩いていますと、そのことを咎める人々が現れました。9節の後半から10節にかけて「その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない』」とあります。主イエスに癒されたこの人を咎め立てしている人たちは、別にこの人に意地悪で、こう言っているのではありません。ユダヤ人ですが、自分こそはユダヤ人なのだと強く思っている人たちです。
 この人たちは大変真面目な気持ちで咎めています。彼らの、神さまに対する真剣な思いの故です。すなわち、十戒に「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と命じられていることを彼らなりに真剣に受け止めて、「安息日」は、神が天地創造の仕事を終え、仕事を休まれ、世界中の造られた者たちと命を共に喜ばれた日、礼拝の日なのだから、自分たちも仕事をしてはならないと考えて、「床を担ぐ」というのも仕事の一部なので、そうしてはいけないと、この人を咎めました。ですから、癒された人を咎めているユダヤ人たちは、本人たちとすれば「神を敬おう」という気持ちです。
 ところが、神に向かおうとする真剣な思いが、実際に自分の目の前で、38年もの間、孤独な状況で不自由な生活を送って来た人が癒やされているという現実を見誤らせているのです。そしてまた、ユダヤ人たちは、救いのしるしを地上にもたらすために神のもとからお出でになった方についても見誤り、最後にはこの方を退けてしまうのです。

 このようなユダヤ人たちの姿を聖書から示されながら、私たち人間は、時に、独りよがりな神信心や自分中心の敬虔さというものを振り回してしまう場合があり得るのだということを聞き取り、弁えるようでありたいと思います。このユダヤ人たちは本当に真剣に神に向かっています。自分としては敬虔なあり方だと思って行動しています。この世にあって、他の人より一段高い意識を持って目覚めさせられている、目覚めている者だという自覚をもって行動して、そして周りの人たちを咎め立てするのです。他の人たちも、目覚めている自分と同じように考え行動するべきだと思い、そうなっていない人たちには、本人にとっては親切心から「目覚めるように」と働きかけました。
 けれども、まさにそのところに深い落とし穴があるのではないでしょうか。このように周りの人たちを咎め立てする人たちの姿は、本当に目覚めている人間の姿なのでしょうか。私たちが眠りに落ちる時のことを考えてみましょう。「さあ、今寝た」と思って寝た人はいないでしょう。私たちが眠ってしまう時というのは、自分でも気づかないうちのことです。ゲツセマネの園での主イエスの弟子たちがそうでした。主イエスが「目を覚まして祈っていなさい」とおっしゃった時に、弟子たちは別に主イエスの言葉に反して「寝てやろう」と思っていたわけではありませんでした。自分たちとしては、なんとしても起きていなければいけないと思っていました。けれども、誰一人として目覚めていることはできなかったと、聖書は伝えています。主イエスに最も近く接することを許され、主イエスが本当に苦しみながら祈っている姿を目の当たりにして、何とかして自分たちも目覚めていなければならないと思っていた弟子たちであっても眠り込んでしまうのだとすれば、私たちはどうなのでしょうか。「目覚めている」ということは、本当にできることなのでしょうか。
 主イエスが「目覚めていなさい」とおっしゃる時には、社会の見張り役として目覚めていなさいということよりも、まずは、私たち自身の内面が眠り込まないようにと命じておられるのではないでしょうか。
 私たちは、毎週この場に集って礼拝を捧げています。けれども、この礼拝の営みが、「週の初めの日に神の御前に一つの群れとして集められ整列して、皆で共同して神を讃美し、御言葉をいただく」という営みからいつの間にか外れて行ってしまって、礼拝の中で何か自分の楽しみが満たされるとか、自己満足を得られるとか、傲慢になって「神の前に認められたい」、或いは「自分はこれで良いのだ」という補償を求めるような営みにすり替わってしまうようなことはないかということを、私たちは絶えず注意していなければならないのではないでしょうか。自分自身の内面が、神の御前にあって平であるかどうかということを考えずに、ただ自分の敬虔な気持ちだけを押し通そうとする場合には、もしかすると、この礼拝の中で神が働いておられること、私たちの生活の中でも神が働いておられ、主イエスが働いて御業を行なっておられるということを認められなくなってしまうということがあるかもしれないと思います。
 ユダヤ人たちは神に思いを向けるのではなく、自分たちの敬虔さに絶対の自信を持っていて、自分たちと同じように行動することを求めました。自分たちと違うあり方で神を讃美している人に対して、「あなたのあり方は良くない」と咎めていたのです。ユダヤ人たちからは、そのようなことを示されます。

 さて、次に癒やされた人についても思いを向けたいと思います。実はこの人も、自分が癒やされたということに有頂天になって、自分が癒やされたことにどんな意味があるのか、自分は一体なぜ癒やされたのか、また自分を癒してくださった方がどなただったのかということにはほとんど思いを向けずに、ただ床を担いで喜びを爆発させていたという様子が、次第にこの箇所では明らかになっていきます。
 「安息日に床を担ぐのは良くない」と咎められ、さらに「あなたにそれを指示したのは誰か」と尋ねられた時、この人はすぐに答えられませんでした。この人は「床を担いで歩きなさい」と言われて、その通りにしたところ、本当に歩くことができたので大喜びしました。けれども、自分の身に起こったことが、「主イエスの甦りに結ばれ、主の御力によって歩かされている」ということには気づきませんでした。彼はまるで、自分が魔法の力で歩んでいるというような思いでいました。
 ですから主イエスは、再び神殿の境内でこの人に出会ってくださり、忠告してくださいました。14節に「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。『あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない』」。主イエスはこの人に忠告してくださったのですが、しかしこの忠告の言葉は、私たちにとっては謎の言葉のように感じられるかもしれないと思います。
 「あなたは良くなったのだ」というのは分かりますが、その後に続く言葉は、よく分かりません。「もう、罪を犯してはいけない」とはどういう意味でしょうか。あるいは、「さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」という、「もっと悪いこと」とは一体どんなことなのでしょうか。戸惑います。「もっと悪いこと」がこの人に起こるというのであれば、今までのこの人の境遇は、まだマシだったということなのでしょうか。
 人間的に言うならば、ここで癒やされたこの人は、聖書の他の箇所に出てくる不運な身の上の人たちと比べても、誰よりも十分すぎるくらい不運な経験をしてきたと言えるように思います。例えば聖書には、12年もの間、出血性の病気に苦しめられた女性が、主イエスの衣の房に触れて癒やされた話が出てきます。この女性の苦しみも大変なものでしたが、しかし、ベトザタの池の病人は、時間で言えばこの女性の3倍以上の38年間も池のほとりに横たえられて暮らして来たのです。あるいは、生まれつき目の見えない人も登場します。その人にはしかし、まだ両親がいたと言われています。ベトザタの池の病人には、両親も親戚も、手助けしてくれる身内の人が一人もいませんでした。あるいはカファルナウムには、ベトザタの池のこの人と同じように中風で動けなくなった人がいましたが、その人には、屋根を壊し、そこから戸板を吊り下げてその人を主イエスの前に吊り下ろしてくれる4人の友人がいました。
 そう考えますと、ベトザタの池のこの人がこれまでしてきた苦労は、誰よりも辛く、重く、長かったと言えそうです。もちろん、苦労というのは人それぞれですので、比べようがないと言われるかもしれません。けれども、この人がしてきた苦労、悲しみや痛みは、誰と比べても遜色のないくらい大変なものだったと言えるでしょう。そうだとしますと、この人がこれまでして来た苦労や絶望よりなお悪いものとは、一体何のことなのでしょうか。

 確かに人間的な言い方をすれば、この人の人生は、誰と比べても負けないくらいの苦労の多いものだったと思います。ただし、主イエスがここで気にしておられる事柄というのは、そういう人間的な苦しみや辛さではないのです。主イエスがこの人について、本当に心配し、気にかけて、神殿の境内で再度出会って忠告してくださった事柄は、この人が昔も今も、相変わらず罪の中に置かれているという点です。ですから、「もう、罪を犯してはいけない」と主イエスは言われました。
 主イエスはこの人に出会ってくださいました。ベトザタの池の辺りで、ずっと病を抱えていたこの人は、肉体的には癒やされ、立ち上がって歩けるほどに良くなっています。その点を捉えて、主イエスは「あなたは良くなった」と言われました。けれども、主イエスはこれでこの人の問題が完全に解決した、完全に良くなり癒やされたとは思っておられないのです。38年間の病気は、確かにこの人にとって辛く、苦しく、悪ことでした。けれども、この人の38年間の悪いことというのは、ただ肉体が動かず不自由だったということだけではなく、もっと別のこともありました。この人をがんじがらめに捕らえていること、それこそ罪と呼ぶのがピッタリするようなことが、この人にはありました。すなわち、この人は、長い間誰からも相手にされず孤独でした。そしてそういう中で、自分をベトザタの池のほとりに置き去りにして、後は関わりを持たなくなってしまった家族や知人を思い出しては、恨みに思い、憎しみの思いを募らせ、不平不満の呟きを幾度となく繰り返して来たに違いありません。「孤独で誰からも見放されている。一人ぼっちである」、そういう不満はやがて、「どうして母親は自分をこの世界に産み落としたのか。生まれて来なかった方がよかったのに」というやり場の非難にまで高まっていたに違いありません。
 この人の「人からも見放され、神からも見捨てられている」という思いが癒やされないならば、肉体が良くなったとしても、この人の人生は決して幸せな嬉しいものにはならないに違いありません。この人は、肉体は癒されましたが、内面は孤独なままでした。この人は孤独の中に暮らしていて、それが当たり前だと思っていました。ですから、肉体が良くなった時に、この人は、「誰が自分を癒してくれたのか、その人に感謝しよう」という気持ちにはなりませんでした。
 ユダヤ人たちから咎められて、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねられたときに、この人は答えられませんでした。それは、この癒しの出来事に驚いてベトザタの池の周りに群衆が大勢集まってくる間に、主イエスが立ち去られたということもあるのですが、しかしそれだけではなく、そもそもこの人は、誰が癒してくれたのかということに関心を持たなかったということの現れでもあるのです。
 歩けるようになりましたが、この人は、気持ちの面では孤独なままでした。ひとりぼっちの状態、人からも神からも切り離された「罪」の状態にありました。主イエスは、そういうこの人の前にもう一度現れて、「もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と忠告してくださいました。「もっと悪くなる」というのは、また肉体が悪くなるとか、突然の出来事に見舞われるとかいうことではなく、肉体は良くなっても相変わらず、周りの人を憎んだり恨んだりする一生を過ごして、それがあっという間に過ぎていってしまう、それが「もっと悪いこと」です。
 この人には、そうではなく生きる道も生まれているのですが、今までと同じように「人生なんてつまらないものだ」と思いながら、あっという間に人生が過ぎていってしまう、そのことを主イエスは心配してくださっているのです。
 主イエスの癒しは、しるしです。それは、「どんな人も神の愛と慈しみの中を生きるように、神が望んでいてくださる。神のものとして生かそうとしてくださっている。神に信頼して平安の中に生活することができるのだ」ということを現してくださる、そういうしるしです。神がそのように、私たち人間の上に臨んでくださるので、主イエスもまた、そのしるしの御業を行っていかれるのです。「父が働いておられる、だからわたしも働くのだ」と、主イエスは言われました。

 けれども、本当に残念なことですが、ベトザタの池で癒やされた人は、主イエスを通して働きかけてくださる神の慈しみに、応えようとはしませんでした。却って、再び出会ってくださり、忠告の言葉をくださった主イエスを疎ましく思って、ユダヤ人たちに向かって、自分を歩けるように仕向けたのはイエスという人だと、ユダヤ人たちに通報して、主イエスを迫害させるように仕向けたのです。せっかく主イエスを通して命のしるしが行われ、「神さまはあなたを本当に愛してくださっている」というしるしの出来事が起こっても、上辺の癒しや都合の良いところだけを受け取って本当には感謝して歩き出そうとしないということが、私たち人間にはあり得るのだということを、この癒やされた病人の姿は物語っています。
 そして実は、このことは、聖書のこの箇所を聞くすべての人への問いかけにもなっているのです。
 ここにいる私たちにも、全員、今日のそれぞれの生活が与えられています。それは神が私たちに、恵みとして与えてくださっている生活です。私たちは、今日を生きることを通して、本当にこの命を感謝し、神が私たちを慈しみ愛してくださっているのだということを知り、そのことにお仕えして生きようとする、そういう新しい生き方を始めることができます。
 しかし、それが当たり前のことだと思い、自分の思いが実現するために命はあるのだと思って、実現しないことばかりを数え、自分は何とつまらない人生を生かされているのかと思い不機嫌に一生を終えてしまうということも、私たちにはあり得ることなのです。

 私たちに与えられている今日の命、今日の生活の中で、私たちは一体、何を第一に考えるのでしょうか。差し当たっての健康が支えられ、また生活が守られていることを第一の喜びとするのでしょうか。
 神が私たちに及ぼしてくださっている御業のうちで、何が最も幸いであるかということを、いつも覚えるようにしたいと思うのです。

 十字架と復活の主イエスが、いつも私たちに伴ってくださり、「あなたは、ここで生きて良いのだ。わたしがあなたと一緒に生きてあげよう」と呼びかけてくださる、その約束に慰められ勇気づけられる、そういうあり方をもって、ここからの一巡りの時へと押し出されていきたいと願います。
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