聖書のみことば
2021年2月
  2月7日 2月14日 2月21日 2月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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2月21日主日礼拝音声

 神の訪れ
2021年2月第3主日礼拝 2月21日 
 
宍戸 達教師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第7章11〜17節

7章<11節>それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。<12節>イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。<13節>主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。<14節>そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。<15節>すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。<16節>人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。<17節>イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

 11節から12節に「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった」とあります。 主イエスが弟子たちとナインという町に近づいた時、その町の門から一組の葬列が出てきます。棺の中に納められているのは、一人息子であったと記されます。そしてその傍に付き添う人々は、やもめである母親とその母を支えて歩む町の人たちです。自分もやもめであるこの母は、この度重ねて、大変愛していた一人息子を失うことになって、どんなにか悲しみ泣き明かしたことでしょう。

 この葬儀の列は、大勢の町の人々に囲まれて、今静かに町の門を出て行きます。死が支配しているこの集団は、なんと哀れで、またなんと淋しい姿であったでしょう。しかし言うまでもなく、どんな人も死から逃れることはできません。私たちは死ぬべき者です。私たちがこの世に生まれてきたということは、必ず死ぬということです。
 また、私たちが今日まで生きながらえてきたということは、同時にそれだけ死に近づいてきたということでもあります。この世には確かでないことが多いのですが、その中にあって死という現実だけは確実です。今この記事の中に出てくる母親は、いかにも寂しく、それでいて何とも打ち消すことのできないこの現実に直面させられています。この葬儀の列は、やがて墓地に行き着きます。そして、息子の亡骸は暗い穴の中に納められ、その入口は大きな石で塞がれます。そうすると、ここに一人の人間の歴史というものは、全く過去のものに変わってしまいます。かつては貪るように母の乳房を吸っていた唇も、あるいは少年の日の夢を優しくたたえていた瞳も、また成長して近づきがたいまでに逞しくなった若い肉体も、今は永久に彼女の前から失われます。あれほどまでに確かであったものが、今はまるで目の前から飛び去るように無くなってしまうものです。この命の断絶ということは、一体何なのでしょうか。
 その上、死というものは、私たちの愛情の絆をも断ち切ってしまいます。私たちは肉体を持って生きている限りにおいて、互いに愛情を確かめ合うことができます。しかし、ひとたび死が私たちを訪れ、愛によって結ばれていたものの間に帳(とばり)を下ろすと、愛情は追憶に変わっていきます。そして時の経過と共に段々薄れゆき、焼き尽くすような愛の太陽は再び昇ることはありません。
  やもめであるこの母親にとって一人息子は、その愛情をもって彼女を生かしてくれた心の支えでした。彼女にとってはいわば生活の張りのようなものでした。今、その柱が彼女から取り去られます。彼女にとって明日からの生活は、一体どういう意味があるのでしょうか。おそらくこの母親は、断崖から深い淵を覗き込んだような孤独な思いに襲われたに違いありません。ありとあらゆるものから突き放されてしまったような孤独感、今この母親はそれを感じているに違いありません。しかし実は、それが、私たちが死というものに直面して感じる、まさにそのことに他ならないのです。

 このようなことを考えると、死というものは、私たちにとって巨大な審判者のような立場にあると思います。私たちは、自分の生活は自分の足で支えるものだと思っていますが、あるいは、自分の周りにいる多くの者たちの愛情やさまざまな物質によって支えられるものだと思っていますが、それが、死が訪れることによって、そうではなかったということが明らかになります。死はそのことを、何とも打ち消し難い形で私たちの前にありありと示します。私たちの命の源は私たちの命をこのところに造り出された神の御手のうちにあるのですが、日頃私たちは、そのようなことにはちっとも思いをいたしません。むしろ自分にとって確かに思えるのは、神などではなく、もっと別のもっと手触りの良い代物であるように思い、それに頼り切るのです。
 しかし、死というものが訪れてくると、私たちのそういう思いは妄想に過ぎなかったということがはっきりしてきます。死というものに出会うことによって、私たちがこれまで頼りにしてきたものがどんなに儚いものであり、どんなに無力なものであるかがはっきり現れてきます。そしてそのことを思い知らされた時、自分の生活の底が抜けてしまったような不安に捕らわれます。ナインの町から出てきた弔いの列は、このような生の不安に怯え、また母親は絶望感に打ちひしがれています。そしてその列は、尚も静かに進んでいきます。

 そこに、主イエス・キリストが出会われます。13節から15節に「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」とあります。主イエスは、絶望感に打ちひしがれている母親を見て深い同情を覚えられます。そして「もう泣かなくともよい」と言葉をかけられます。死というものの支配のもとにある人間の悲しみを、主イエスは身をもって経験しておられます。従って、まことの同情を寄せられます。
 そしてまことの同情は、直ちに行動を伴います。主イエスは「若者よ、起きなさい」と言葉をかけ、そして起き上がった息子を母親の手に渡しておやりになります。この時の母親の驚き、人々の恐れがどれほどのものであったか、私たちには容易に想像がつきます。16節から17節にそのことが記されます。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」。これがナインという町の門で起こった一つの出来事です。

 ところで、この記事は、一体私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。この聖書の記事が伝えているのは、単に興味本位の奇跡が起こったというものではありません。そうではなくて、ここでは「死者の甦り」というものが、主イエス・キリストを通して起こったということが語られているのです。もっと丁寧に言いますと、主イエス・キリストの上に生じ、そしてまた主に結ばれた者の上に生じる出来事が、その先触れとしてここにこういう形で起こっているということなのです。それがどういう意味のことなのか、少し考えてみたいのです。
 伝道者パウロは、ローマの教会の人々に宛てた手紙の中で、「死は罪によってこの世に入ってきた」というようなことを語ります。罪によって死が入り込んだ。死が罪によって入り込んだということは、死というものが単にそれだけの事件ではないのだということです。死というのは、その背後で罪という問題と背中合わせになっている、絡み合っている、そういう性質のものだというのです。
 このように言われる時の罪というのは、私たちが隣人に対して何らかの不正行為を働いたという時の罪というよりは、むし、私たちが自分の命の造り主であられる方を、まさにそのような方として認めないということを意味しているのです。私たちが自分の命の創造者である方を認めないということ、それが罪という言葉で言い表されているのです。
 私たちの命は、神がこれをお造りになり、そして与えてくださっています。ところがその神を少しも顧みない、そのような方として認めることをしないというのなら、それならば私たちにとって命というものが、まさに永久に生きる命というものが失われるのは当然のことではないでしょうか。そこに死というものが訪れてくるのは当然のことではないでしょうか。

 しかし事情はそこで終わりません。私たちがそのような在り方を重ねている中に、ある一人の方が訪れて来られます。主イエス・キリストの訪れです。そして、主イエス・キリストは、逆立ちしてしまったような私たちの生活を正すため、繰り返し繰り返し語りかけてくださいます。そして主は、私たちが神に対して、すなわち私たちの命の源である神に対して背を向けている、その時にも、ご自身だけは神の御前にあって従順に、慎みをもって生き抜いてゆかれます。そして最後には、私たちがいつまでたっても悔い改めることをしない、そういう不埒この上もない、あるべからざる在り方を続けている、そのことの代償として、ご自身の清らかな完全な生活を神の御手にお渡しになります。「十字架の死」と呼ばれる出来事です。
 そして神は、主イエス・キリストのそのようななさりようを通して、私たち罪ある者に対する態度を全て変えてくださいます。主イエス・キリストに免じて私たちを赦し、ご自身との交わりへと迎え入れてくださいます。それだけではなく、神は御前にあってまことに従順に歩まれた主イエス・キリストを、いつまでも死の中に放って置かれず、死から甦らされます。それは、命の源である神に結ばれた者が永遠の命を継ぐ証しです。
 そしてさらに、それと共に、もし私たちが今、主イエス・キリストによって覆われた生活を心がける、そのような者として生きようとするのなら、あのイエス・キリストの上に起こされた甦りに私たちをも合わせてくださる。あの甦りの出来事が私たちの上にも及ぶようにしてくださる。そのことを約束してくださっています。死の限りを超えて、永遠の命が、主イエス・キリストを通して私たちにももたらされます。そしてそれによって、ひとたびの地上の死ということがありましょうとも、しかし私たちは死を恐れなくてもよい者とされます。私たちもまた、今聖書に現れる人々と共に「大預言者が現れた」と言って、神を誉め称えるべきではないでしょうか。

 ところで、このナインの若者は、まさに主イエス・キリストによって生かされる者の先触れ役を担わされる者としてここに登場します。彼は、主イエス・キリストによって新しい生活を生きる者のモデルです。このような経験をさせられた若者の将来は、この先どうなって行くのでしょうか。ここにはもはや、そのことについては何も触れられていません。
 しかし、そのことを暗示する短い言葉があることに注目したいのです。15節の後半です。「イエスは息子をその母親にお返しになった」。この若者は一人息子です。そして彼の母はやもめです。従って、当時の事情からすると、彼女は彼にのみ望みを繋がなくてはなりません。彼の存在は、そのまま彼の母親にとっての生き甲斐です。
 そういうことを考えますと、主イエス・キリストによって新しい人生を加えられた彼のこれからの生涯は、彼自身のためというよりは、その母のためのものです。甦らされ、新しく生きる者とせられた若者の人生は、もはや自分のためのものではなく、まさに母のためのもの、他者のための人生として生きられなくてはなりません。
 このことは、私たちにとっても、今この世においてどのように人生を過ごしたら良いのか、その在り方について示唆を与えてくれるのではないでしょうか。主イエス・キリストによって神との永遠の交わりに入れられ、そして甦りの希望を与えられている私たちは、この世にあって平安です。たとえ、この世における死の出来事がありましょうとも、その死を超えて平安を得ています。
 そしてそのように、この世を超えて甦りの希望を与えられ、永遠の命を生きる者とされている私たちは、そのような形で与えられている人生を、この世にあっては、これを他者のために生きていくべきなのです。
 祈りつつ、そのように生きて参りたいと願うのです。

祈ります。
聖なる御神、御憐れみのもと、新しい日曜日を与えてくださいました。心より感謝いたします。
今、聖書を通し聴かされたように、私たちは、地上にあって主の贖いの御業のおかげで定められた生涯を過ごさせていただいております。どうぞ、主イエスの上に起こされた復活の御力を、私たちにも及ぼしてください。そして、ナインの若者がそうであり、また私たちに先立って信仰の生活を励まれた兄弟姉妹方がそうでありましたように、私たちもまた、周りにいる他者のために生きる者とならせてください。
この願いと感謝、私たちの救い主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン

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