聖書のみことば
2021年2月
  2月7日 2月14日 2月21日 2月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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2月14日主日礼拝音声

 霊から生まれる
2021年2月第2主日礼拝 2月14日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第3章1〜16節

3章<1節>さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。<2節>ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」<3節>イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」<4節>ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」<5節>イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。<6節>肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。<7節>『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。<8節>風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」<9節>するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。<10節>イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。<11節>はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。<12節>わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。<13節>天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。<14節>そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。<15節>それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。<16節>神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 ただいま、ヨハネによる福音書3章1節から16節までをご一緒にお聞きしました。1節に「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった」とあります。ニコデモという人物が登場しています。ファリサイ派に属し、ユダヤ人たちの議員ですから指導者であったでしょう。4節でニコデモ自身が語っている言葉から推測しますと、ある程度年齢を重ねていたらしいことも分かります。
 ファリサイ派に属していたということは、旧約聖書の律法を厳格に守って、先祖からの言い伝えを守って生活していたということですが、しかしニコデモは、他のファリサイ派の人たちとは少し違っていました。それは、「主イエスに心を寄せていた」ことです。2節に「ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです』」とあります。
 ニコデモは律法を厳格に守る指導者として人々から尊敬され、豊かで教養も人生経験もありましたが、明らかに年若い主イエスに向かって「ラビ」と呼びかけています。こういうところからもニコデモの人となりが窺えますし、人格者だったのだろうと思います。しかし、いかに優れた人格者であろうと財産や教養があったとしても、神の前ではそれらは何ほどのものでもないことが、主イエスとニコデモの対話から聞こえて来ます。人間の知性や理性、あるいは豊かさ、人格は、人間同士の間では重んじられることですが、神の前では十分な事柄ではありません。

 今日の主イエスとニコデモの問答では、3つのことが話し合われています。そしてこの3つの話題は、根っこのところで繋がっていることです。
 最初の話題は、1節から5節で「神の国に入る。神の国を見る」ということです。2つ目の話題は、最初の話題と重なり合うように出て来ますが、3節から8節「新たに生まれる」という話題です。ニコデモはこの2つの話題について、主イエスがおっしゃろうとしていることをどうしても理解できませんでした。9節では「どうして、そんなことがありえましょうか」と弱音を吐いています。すると主イエスが10節から16節で、3番目の話題として「永遠の命を得る」ということを教えてくださるのです。
 「神の国を見る」「新たに生まれる」「永遠の命を得る」、どれも教会の中では、よく耳にする言葉だろうと思います。けれども、それでいてニコデモがそうであったように、私たちもそれらが大事なことだとは分かっていても、本当には分かっていない、そんなところがあるのではないでしょうか。ニコデモが一生懸命ファリサイ派の生活をしながらも、主イエスのもとを訪ねたのは、ニコデモ自身の信仰の中に何か得体の知れない気持ち悪さがあることに気付いていたからだろうと思います。

 「神の国を見る」ということは、当時の大多数のファリサイ派の人にとっては「旧約聖書に教えられている律法を守って生活すること」と考えられていました。十戒にあるように、ただ造り主なる神だけを信じ、偶像の神々に心を寄せず、礼拝を厳守し、父母を敬い、殺したり姦淫したり盗んだり偽証したり、他人のものを欲したりしない、そういう生活を丹念に守りながら生きていくことが「神の国を見る、神の国の中で生活すること」と考えられていたのです。ニコデモも長年そのように生活して、人々からは立派な人物だと認められ指導者にも選ばれていました。ところが、そういうニコデモ自身には何かまだ足りないものがあると感じられてならないのでした。それで主イエスを訪ねました。
 ニコデモが主イエスを訪ねると、ニコデモが何も問いを発しないうちから主イエスは、ニコデモが心の内に抱いていた問いにお答えになりました。3節「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』」。主イエスはニコデモが問いたかったことに真正面からお答えになりましたが、どうして、問われる前からニコデモの思いがお分かりになったのでしょうか。2章の終わりの25節に「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」とあります。
 主イエスは人の心のうちにあることをご覧になって、知ることがおできになるのです。ニコデモの心の内をご存知であったように、私たち一人一人の心の内も、主イエスはよくご存知です。神を信じ、信頼して生きる信仰生活の中心のとても大切な事柄に、どうもよく分からない気持ち悪さや、そのため信仰生活があやふやになってしまう、私たちのそういうところも主イエスはよくご存知です。自分としては「主イエスに従って生活していきたい。身も心も全てをお献げして『主イエスの弟子である』という生活を思う存分味わってみたい」、そういう信仰に憧れますが、しかしどういうわけか自分の中には自分でもままならないものがあって、気がつくといつも主イエスを忘れ、神抜きの生活になってしまっている、そういう私たちの辛さも主イエスはよくご存知です。
 ニコデモが主イエスにぶつけようとした問い、それは「どうしたら神の国を見ることができるだろう。神さまのご支配の中に入れられて、神の国の民として生きるためにはどうしたら良いのだろう」という問いでした。そしてこの問いは、私たちが日頃それぞれに思っている問いでもあるように思います。「主イエスに従う者として生活したいのに、気がつけばそこから外れている。どうして離れてしまうのだろうか。どうしたら主イエスから離れずに、神の国の民の一員として生活していけるだろうと」と、このような問いを、私たちもニコデモと共に抱くことがあるのではないかと思います。

 この問いに対して主イエスは、真っ直ぐにお答えになりました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモにとっては予想もしないような答えだったと思います。ニコデモは、「こうした方が良い。あそこが悪い点だ。考え方や気の持ち方を変えなさい」というような答えを予想していたと思います。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とは、驚くべき答えです。「新たに生まれることなどできるはずはない」と思い、ニコデモは答えました。4節「ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか』」。確かにこの通りです。もう一度母親の胎内に入って生まれることなどできません。私たちの人生は一度きりのものです。
 けれども、主イエスがおっしゃったことは、果たしてニコデモが思ったようなことなのでしょうか。主イエスの言われる「新しく生まれる」とは、そういうことではありません。仮に人がもう一度母親の胎内から人生をやり直すことができたとしても、それは私たちが赤ん坊からやり直すというだけで、それによっては、「神のご支配のうちを生きるようになる」ことにはならないと思います。結局自分中心に生きて主イエスや神を抜きにして歩んでしまう、自分の思いが第一で揺れ動きながら暴君のように生きてしまう、今現在の生活を繰り返すだけです。ニコデモが思ったような「生まれ直す」ということでは、たとえ何百回人生をやり直すことができたとしても、「神の国の民として生きていく」ことにはならないのです。

 「新たに生まれる」と訳されている言葉は、原文で別に訳すと「上から生まれる」とも訳せます。神の国の民として生きていくためには、「上から生まれる」、つまり「神によって『この者は神のものである』と印を付けられて、もう一度生まれなければならない」と、主イエスはおっしゃるのです。
 ですから、「神のものとして生きていく」ために大切なことは、私たちが自分で正しく生きて神さまのものとなろうとする、そういう生き方を止めることです。私たちは自分の力で自分を新しくすることはできない、この決定的なことを、まず私たちは知らなければなりません。
 ではどうすれば、自分から正しくなることを止めて、「上から生まれる」ことができるのでしょうか。5節で主イエスはニコデモに言われました。「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない』」。「新たに生まれる」とは、母親の胎内からやり直すということではなく、「水と霊とによって生まれることだ」と、主イエスは言われました。けれども、この答えもニコデモにとっては予想外だったと思います。「水と霊とによって生まれる」とはどういうことか、ニコデモはすっかり戸惑ったに違いありません。そしてまた、私たちも主イエスの言葉の意味が分かるでしょうか。
 「水と霊とによって生まれる」とはどういうことか。それは「主イエスを救い主として自分の中に受け入れる」ことです。教会では、神さまを信じ主イエスを救い主として受け入れた人に対して、そのしるしとして洗礼を授けます。その時には水を用い、「父と子と聖霊の名によって」洗礼が授けられます。水と霊とによって「この人は神のものとされた」と厳かに宣言されるのです。

 しかしどうして、水と霊とによって新しく生まれなければならないのでしょうか。「神を信じ主イエスを救い主と受け入れる」と、私たちが思うだけでは不十分なのでしょうか。
 「水」は、ヨハネによる福音書では「悔い改め」を表しています。洗礼者ヨハネがヨルダン川に現れて悔い改めを求めたからです。けれども洗礼者ヨハネが施した洗礼には、ある決定的な欠点がありました。それは、ヨハネがどんなに口うるさく悔い改めの必要を説いても、それを受け入れた人は、一時的には悔い改め神に向くことができますが、しかしその思いは長続きしません。風が吹き寄せ吹き抜けていくように、人の悔い改めの思いもくるくると変わり一瞬しか続かないのです。
ですから、人が生涯にわたって神のものとされ、神の国の一員として生きていくためには、水によって表される悔い改めと共に、聖霊によってもたらされる信仰というものがどうしても必要なのです。新たに生まれ神の民の一員として生き続けていくためには、そこに聖霊が働いて私たちに信仰を与え、そしてまたその信仰を励まし続けていただくということが必要なのです。

 主イエスは、聖霊が働いてくださることの大切さを教えるために、6節のような言い方をなさいました。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。「肉」というのは、私たち人間のことです。そして肉はどんなに頑張ったとしても霊に発展するようなことはないのだと、主イエスは言っておられます。肉で生まれるものは肉でしかない。私たちに命を与える霊は、神から来るのです。私たちの信仰生活には、「常に聖霊が働いて信仰を支えられる」ということがどうしても欠かせないことです。神が絶えず聖霊を送ってくださり、信仰を励まし続けてくださるので、私たちはどうやらこうやら信仰を失わずにこの地上の生活を生きていくことができます。
 ですから、私たち人間の信仰生活には常に、「神からの贈り物として信仰生活が成り立っている」という側面があるのです。

 私たちが自分の信仰生活を振り返って考える時に、「神の国」「新しく生まれる」「永遠の命」ということについて大事だと知っているけれど、あまりよく分かっていない、あやふやに感じていると、最初に申し上げました。あやふやさを感じる理由は、それが皆、聖霊によって私たちに贈られるものだからです。主イエスは「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」と言われました。
 聖霊、神の霊が働くことで、私たちには、「神の国、神のご支配の中を生きる生活」が贈り物として与えられています。信仰生活は、神の霊を贈り物としていただくことによって成り立っていきます。そして、神が贈ってくださる霊を受け取ることも、また信仰によって受け取っていくものです。「神さまがきっと、わたしに、神の民として生きる生活を贈り物として与えてくださる」と信じることで、実際に、「神の国に生きる」という生活が成り立っていきます。
 また、「神さまが聖霊を送って、わたしを新しい生活に送り出してくださる。きっと神さまはそうしてくださる」と信じることで、「新しく生まれる」ということも起こるのです。

 このように「神さまが私たちに聖霊を送ってくださる」ということは、約束として聞かされていることです。そして、その約束を語ってくださるのは、主イエス・キリストです。この福音書の14章16節17節に「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」とあります。
 「真理の霊」それが聖霊です。主イエスが聖霊を送ってくださる。「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と約束してくださっています。この約束の通り、主イエスが十字架に架かりご復活なさった後に、確かに聖霊が弟子たちの上に注がれました。それがペンテコステの出来事です。私たちは、聖霊に助けられ支えられて、「復活された主イエスがいつも共にいてくださる」という信仰のうちに留まっていることができるようにされているのです。「主イエスが甦って、わたしと共にいてくださる」ということは、キリスト者でなければ、ただの思い込みのようなものでしょう。けれども、キリスト者にとっては思い込みなどではありません。自分の思い込みであれば、私たちは始終揺れ動くのです。
 ところが、「いつも主イエスが共にいてくださる」ことを思い続けていられないような私たちに、神が聖霊を送ってくださり、「やっぱり主イエスは共にいてくださる」という思いへと、私たちを引き戻してくださるのです。

 「聖霊によって新しく生まれる」私たちの様子を、主イエスは7節8節で「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と言われました。
 神が聖霊を送って私たちに働いてくださり、神のご支配のもとを生きるように導いてくださる時、私たちはその聖霊の働きによって、「わたしは神さまに持ち運ばれ、地上にあって神さまの御業に用いられている」ということを確かに感じることができます。けれども、その働きは風のようなところがありますから、いつも同じような調子で、同じ方向に向けて動かされるのではないのです。そういう意味で、神は扇風機のようなお方ではありません。私たちをいつも同じ力、同じ方向に一本調子に持ち運ばれるのではないのです。神は御心のままに私たち一人一人を覚えて、その人の個性に合うように聖霊を注ぎ、御業に用いてくださいます。

 私たちは、全員が同じように感じたり、同じ調子で御業に用いられるわけではないのです。同じ神の言葉を聞いても、ある人は喜んで主の働きに用いて頂こうとするかもしれませんが、ある人は戸惑うかもしれません。素直に聞けずに反発するということも起こり得ることです。けれども、地上の教会の姿とは、それで良いのではないかと思います。
 今日の箇所で、主イエスから話を聞かされているニコデモにしても、主イエスに聞かされたことをすぐには、すんなり消化できなかったようです。「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と言って、ニコデモは途方に暮れてしまいました。私たちも、もしかすると、そういう時があるかもしれません。私たちも、「神の国に生きること」「新しく生まれること」「永遠の命を得ること」について聞いて、とてもよく理解でき、「神さまのものとして生きよう」と思える時もあれば、どうしても分からないと思う時もあると思います。けれども、それで良いと思います。

 ニコデモの話には後日談があります。ニコデモは、この後、7章と19章に出てきます。どちらもそれほど詳しい記事ではありませんが、19章では、主イエスが十字架から取り下ろされ、その亡骸を葬るという場面に現れ、亡骸を葬るために没薬とアロエを持参して主イエスのお体に塗って差し上げたと語られています。そういう仕方で、主イエスの葬りの場面で、ニコデモは、まさに彼が「主イエスの弟子である」ということを公に表しています。ニコデモが「新たに生まれさせていただいた者」として実際に歩んだことが、そこに表されています。

 今日の箇所では3つのことが語られていますが、最後の「永遠の命を得る」ということについて、今日は語ることができませんでした。次回、お話ししようと思います。
 私たちもニコデモと同じように、主イエスによって一人一人が覚えられ、呼びかけられ「あなたに聖霊を与えよう」という約束のもとに持ち運ばれ、今を生きています。
 聖霊が私たちにも働いて、神のご計画の中に持ち運ばれ、私たちが神の道具として用いられることを祈り願いつつ、新しい一巡りの時へと押し出されていきたいと願います。

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