聖書のみことば
2021年2月
  2月7日 2月14日 2月21日 2月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

2月7日主日礼拝音声

 まことの神殿
2021年2月第1主日礼拝 2月7日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第3章13〜25節

<13節>ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。<14節>そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。<15節>イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、<16節>鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」<17節>弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。<18節>ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。<19節>イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」<20節>それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。<21節>イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。<22節>イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。<23節>イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。<24節>しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、<25節>人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

 ただいま、ヨハネによる福音書2章13節から25節までをご一緒にお聞きしました。14節から16節に「そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない』」とあります。まことに印象に残る主イエスの姿が述べられています。神殿の境内で荒ぶっている姿です。
 これは「宮清め」の出来事であると、しばしば言われます。神殿の境内で、宗教の名のもとに金儲けをしている商人たちや、さらにその背後で儲けの上前を撥ねている人々を、主イエスが叱りつけられ、「このような神殿はやがて崩壊する」と予告なさったのだと説明されます。確かに起こっている出来事はその通りです。主イエスが境内から動物を追い出し、両替人のお金を撒き散らしながら「神殿を商売の家としてはならない」とおっしゃっていますし、やがて神殿が崩壊するともおっしゃっています。
 ただ、気になることがあります。23節には「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とあります。主イエスは過越祭の間エルサレムにおられ、そこでしるしをなさったと言われています。もしかしますと、神殿の境内で癒しをなさったのかもしれませんが、これほどの大立ち回りをなさったのですから、このことが人々の印象に残らないはずはありません。エルサレムで主イエスがなさったしるしの中には、当然この「宮清め」の出来事が入っているはずです。
 ヨハネによる福音書では、「しるし」とは主イエスのなさる奇跡のことですが、この「宮清め」がしるし、奇跡であると気づいて改めて読んでみますと、確かに、ここでは普通では決して起こらないようなことが起こっていることに気づきます。

 まず気づくことは、主イエスは一体どのように宮清めをなさったのかということです。神殿の境内で、まるで縁日の露天商のように店を出して広がっている動物の売り買いや両替商の店を、この記事から見ますと、主イエスはどうやら、たった一人だけで追い出してしまわれたようです。けれども、この境内は実際にはとても広いところです。ものの本によりますと8万平方メートルあったとあります。200メートル×400メートルです。この記事を読みますと、主イエスお一人で広い境内に広がったお店を追い出されたように聞こえます。しかも主イエスが持っておられたのは縄で作った鞭だけです。棒も杖もなく家畜を追い出せたのでしょうか。鳩を売る商人たちには、敢えて鞭をふるうこともしておられません。「このような物はここから運び出せ」とおっしゃっているだけです。その言葉に商人たちは大人しく従ったのでしょうか。あるいは、神殿の前庭でこのような騒ぎが起こっているのに、神殿の守衛を務めるレビ人たちや駐屯していたローマ軍の兵士たちは動かなかったのでしょうか。
 この場面は実際にはどのようなものだったのかと改めて考えてみますと、このようなことが起こるのは難しいことだと感じざるを得ません。普通では起こり得ないことが起こっています。ですから、これは不思議な出来事、しるしの出来事だと言われていることも頷けます。

 では、この「宮清め」が何かを表すしるしの出来事だとすれば、それは一体何を表すのでしょうか。しるしの指し示す内容に意味があってこそ、しるしはしるしとしての意味があるのです。主イエスが商売に毒された神殿の様子にお怒りになって一掃なさったということだけではないはずです。主イエスは「宮清め」と呼ばれる出来事を通して、何かをお示しになりました。このしるしの出来事が何を伝えようとしているのか、考えてみたいのです。

  まずは、宮清めが行われた時について考えたいと思います。それは「過越祭」の時でした。「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた」とありますが、ユダヤ人にとって過越祭は、他のどんな祭りにもまして特別な意味を持つお祭りです。何と言っても、この祭りは、ユダヤ人たちにとって自分たちのルーツを思い出させてくれる、そういう出来事です。
 過越祭は、出エジプトの出来事と深い関わりを持つ祭りです。その昔、ユダヤ人の祖先であるイスラエルの人たちは、エジプトで奴隷暮らしをしていました。神がイスラエルの人たちの苦しみの叫びを聞いてくださり、モーセを遣わし、エジプトの奴隷暮らしから解放してくださったのが出エジプトの出来事です。もちろん、イスラエルの人たちがエジプトから脱出して自由になることを、エジプトのファラオが認めるはずがありませんから、何度も邪魔をしようとしました。そのファラオに対して最後に神がなさった裁きが、ご自身がエジプトの中を歩いていかれ、エジプト中に住んでいる家の長男を人であれ家畜であれすべて死なせるという、恐るべき御業でした。その際に、神を信じるイスラエルの人たちには、前もって家の鴨居に小羊の血を塗るようにと伝えられていました。鴨居に塗られたその小羊の血を目印にして、神がイスラエル人たちの家を過ぎ越していかれたので、イスラエルの家だけは無事でした。夜が明けると、ファラオは、国中の初子が皆死んでしまっているのを見て、こんな民は追い出さなければならないと考え、イスラエルの民がエジプトから出ていくことに同意しました。イスラエルの人たちは晴れて自由の身となり、奴隷の身分から救い出されたのですが、そのことを覚えるお祭りが過越祭です。
 ですから過越祭は、ユダヤの人たちが自分たちがどうやって自由な一つの民族として歩めるようになったかというルーツを思い起こして神に感謝の献げ物をして、「神に従って生きよう」という思いを新たにする、そういうお祭りです。羊や牛や鳩は、その際に神に献げる献げ物として、神殿の境内で売り買いされていました。

 ですから、「献げ物を献げて礼拝する」という、エルサレム神殿での礼拝は盛んに行われていました。けれども、そこにやって来る人間の思いというものは、少しずつ変化していきました。本来の過越は、神がイスラエルの人々の裁きを過ぎ越してくださったということに感謝をして、畏れつつ神にのみ信頼を寄せ、喜んで神に従う生活を始める、そういう時でした。ところがユダヤの人たちは、根本にあるべき神への畏れ、神への信頼、喜んで従うということをいつの間にか忘れてしまいました。そして、十戒をはじめとする律法の戒律を守りさえすれば、それによって自分たちは神の前に正しく生活できていると思い込むようになっていました。律法を守るということについては、人によって厳格だったり大まかだったりしたようですが、しかし、ほとんどのユダヤ人は、自分が理解する尺度に則って律法を守り、それによって「自分は正しい」と思っていました。神殿への献げ物も、そういう人間の正しさを表すようなものになっていたのでした。

 ところが主イエスは、そのように上辺はいかにも正しそうに、規定を守って献げられている献げ物が、実際にはどんな人間の思いによって献げられているかをよくご存じでした。25節の最後に「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」とあります。
 主イエスは、過越祭のために神殿に来られ、そこに行き来する人々の様子をご覧になりました。そして人々の心のうちに、「自分はちゃんと律法の決まりを守って生活している。だから正しい」という思いが溢れている様子を目になさいました。人々の心の中に、神抜きでも自分は自分の行いによって正しい者となっているという思いがあることをご覧になって、神の救いに心から感謝し神によって新しくされて生きるという思いが失われていることに気づかれました。
 改めて考えますと、この状況というのは大変恐ろしいことです。上辺は全て順調に、きちんと事を行っているように見えます。神殿では毎年、盛大に過越祭が行われ、多数の動物の生贄や神殿への献金が献げられます。人々は、目立った問題も起こらないので、自分たちは正しいと思い込んで生活しています。けれどもいつの間にか、「神さまによって救われている」という感謝の思いが薄らいでいき、「自分のあり方が正しい」という高慢な思いが頭をもたげてきます。
 元々ユダヤの人たちは、神に過ぎ越して頂かなければ生きることができなかったはずの人たちでした。そうであるのに、自分たちが「過ぎ越していただかなければ生きられない罪人である」ことも、あるいは「神が弱く欠け多い者を憐んで、それでも生きるようにと執り成してくださって、新しく生きていくようにと招いてくださっている」ということも分からなくなり、そうするうちに、神に礼拝を捧げる生活は、だんだんと虚になってしまいました。
 私たちは毎週、礼拝するためにここに集まっていますが、私たちがここで聞かされることは、「あなたは破れを持っているにもかかわらず、神さまから愛されている。神さまは『それでもあなたは生きて良い』とおっしゃってくださっている。主イエスの十字架がそのことを現しているのだ」ということです。けれども、次第にそのことに慣れっこになってしまい、「教会ではそう聞かされるけれど、自分は自分で生きているので、これで良い」という思いが、もしかすると私たちの中にも忍び込んでくるかもしれません。

 主イエスはこの日、一見盛んそうに見えている神殿礼拝と、そこに集っている人たちに、「神に生かされている、神によって赦され新しく生かされている」、そのところに空虚さがあることを見抜かれました。それで、この神殿礼拝は滅びに向かっているとおっしゃいました。19節に「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』」とあります。
 実は、主イエスがこうおっしゃった言葉は、後に、少し捻じ曲げられた形でユダヤの人たちに伝えられました。マタイやマルコの福音書には、捻じ曲げられた言葉が伝えられています。マタイによる福音書26章61節には「『この男は、「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」と言いました』と告げた」とあります。これはユダヤ人たちが、「イエスがこう言っているのを聞いた」と言っているのですが、ユダヤ人たちは主イエスの言葉をちゃんと聞いていません。意図的にか、それとも理解できなかったのか、それは定かではありません。けれども、主イエスは今日のところで、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われました。神殿を壊すのは主イエスではなく、ユダヤ人たち、人間です。自分たちは正しい、正しい生活をしていると思い込んでいるために、本当は救いが必要で惨めさを抱えているのにそのことを忘れてしまっている、そういう生活が、やがて「礼拝が滅んでいく」ことに繋がっていくと主イエスはおっしゃっています。「神によって新しく命を与えられているのだから、感謝して生きていこう」という思いが失われるところでは、たとえ今は大層盛んに見えるとしても、やがてその礼拝は廃れていきます。「神の御力により頼み、神の保護に感謝して歩む」そういう礼拝ではなく、いつの間にか、人が大勢集まっているとか、わたしはこんなに正しいと人間を誇示することに変わってしまっていると、その礼拝はもはや力を失っていくのです。人間の力や栄誉は、たとえ一時は盛んに見えても、永遠ではないからです。時間の流れの中で全て押し流され、衰えて滅んでいくのです。主イエスはエルサレム神殿に詣でている人たちをご覧になって、そうおっしゃったのです。人々の心の中をご存知の主イエスは、「今この神殿は、あなたたちの虚さによって滅びに向かっている。この神殿を壊してみるがいい。わたしは三日で建て直してみせる」とおっしゃったのでした。

 ところが、「この神殿を壊してみよ」という主イエスの言葉は人々に理解されませんでした。これは、ヨハネによる福音書の冒頭に言われていることですが、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」のでした。まさにこの通り、主イエスがここでおっしゃった言葉は、この時神殿にいたユダヤ人たちに理解されませんでした。
  けれども主イエスは、この日、こういう仕方で、当時盛んそうに見えていたエルサレム神殿での礼拝がやがて滅んでいくこと、そしてそれに代わる「まことの礼拝」が捧げられるようになるのだということを教えられました。21節に「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」とあります。
 今の神殿は滅ぶものだと主イエスがはっきりおっしゃった時、ユダヤ人たちはその言葉の意味が分からず、今自分たちの前にそびえ立っている美しい神殿は、ここまでになるのに46年もかかったのだと言っています。相変わらず、自分たち人間の功績を語り続けます。まさか自分たちのそういう誇り、奢り昂りが神殿の滅びに繋がっているとは考えずに、自分たちの努力の大きさや自分たちの献げ物の大きさなどを語っているのです。

 ところが主イエスは、そういう人間の浅はかさ、愚かさによって、「神殿礼拝は既に虚になっている。このままであれば、崩れ去ってしまう日がやって来る」とおっしゃいました。けれども、「それは三日で建て直される」ともおっしゃいました。これは何を指しているのでしょうか。三日は主イエスが十字架にお架かりになって、それから復活の朝をお迎えになる三日を指しているには違いありません。つまり、目の前の石造りの神殿ではすっかり衰え形ばかりのものになっている「神さまに感謝して真っ直ぐに仕えて歩もうとする礼拝」は、やがて「主イエスの十字架と復活の土台の上に回復されるのだ」ということが、ここに語られています。

 けれども、それだけかというと、それだけではないように思います。この神殿とは主イエスの体のことだったと言われています。主イエスの体においてこそ、「まことの礼拝、真実に神さまに向かい、神さまと結ばれた礼拝」が捧げられるようになるのです。
 そして、主の体というのは、主イエスが十字架に掛けられ亡くなっていくその肉体の話をしているだけではなく、教会のことを言っています。私たち自身の捧げている礼拝を振り返ってみると、まさにその通りではないでしょうか。
 私たちは毎週、教会に、自分自身を献げ物として集まって来ています。ここに来るだけで、私たちは、日曜日の午前中の時間を神にお献げしているのです。今この時もそうです。他の人たちは別のことをして過ごしていることでしょう。ところが私たちは、この時間、神に自分自身をお捧げして集まって来ているのです。そして神を賛美し、神に祈っています。信仰を持たない人たちから見れば、教会は熱心な信者の集まりにしか見えないことでしょう。
 けれども私たちは、自分たちが好きで来ているというだけではありません。どうしてここに集まるのでしょうか。主イエスから招かれて、もう一度、「わたしは主イエス・キリストの十字架と復活の土台の上に置かれている」ということを確認させられ、甦りの主イエスの光に照らされて、「ここから歩んで良いのだ」と聞かされる、そのために私たちはここに集うのです。十字架と復活の主イエスというお方がおられ、私たちはその御体の中に抱かれています。そのことによって、神の暖かな光がここから歩んでいく私たちの生活の上に注がれ、「わたしは生きて良いのだ」と改めて聞かされます。主イエス・キリストの御体の中にあって、私たちは神の光に照らされ、ほっとさせられ、生きる力を与えられる、だからこそ私たちは毎週ここに集まって来るのです。
 単純に、熱心だから来るということではありません。まさに礼拝の場に神の慈しみが注がれている。主イエス・キリストを通して、私たちの上に神の天使が下ってきてくださって、御言葉を伝え、そしてまた私たちの賛美や嘆きや呟きすらも天へと持ち上げ、持ち運んでくださって、神に伝えてくださる。天と地が結ばれる不思議なことが、教会の頭である主イエス・キリストを通して、私たちの間に実際に起こっているのです。

 主イエスがエルサレム神殿でなさったことは、見かけでは大層乱暴なことをなさったように思えるかもしれません。しかしこの出来事は、神の怒りを示すしるしではないのです。人間の高慢さによって、せっかく与えられた礼拝が虚しいものになって崩れ去る時に、なおそこに、決して揺らぐことのないキリストの体が建てられているということが、このしるしの中心です。
 主イエスが「わたしの体を通して、三日でこの神殿を建て直す」とおっしゃったことは、神の限りない憐れみと慈しみを現しています。18節でユダヤ人たちが「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と問うた時、主イエスは、ご自身の体がやがて十字架と復活の後にこの地上に建てられることになるとお答えになりました。私たちはまさに、主イエスの御体である教会の交わりを実際に生きる者とされています。
 私たちが礼拝に招かれ、礼拝で神を讃える時に、本当にこの場は、神の天と地上とが一つに結ばれて近しくされるような、そういう場所にされていくのです。それは私たちの思い込みなのではなく、主イエスの御体がここに置かれているからです。主イエスの御体によって、礼拝が虚しいものではなく、神と結ばれたものにされていきます。主イエスが人間の営みを神と結び付けてくださったことを覚えたいと思います。
 私たちと共に、甦られた主イエスが歩んでくださることを覚えて、主から慰めと勇気と力とをいただいて、ここから歩み出したいと願います。

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